Sunday 30 December 2012

名前がなくなる日


12月20日。茂木ラボのクリスマススペシャルでの出し物。
私はクリスマスなので、なんちゃって牧師となって
(冒涜であったらほんとうにごめんなさい。)
お話をするということをしました。

その原稿を公開します。

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名前がなくなる日

遠野でこんな話を聞きました。
遠野というのは、岩手県にある山間の場所です。海側は釜石、山側は花巻を結ぶ釜石線という電車に乗っていくことができます。釜石からも、花巻からも、ちょうど、同じくらいの距離にある場所で、昔は交通の要所だったそうです。

私が遠野に行こうと、釜石線の駅のホームに立っていると、女の人が二人で座っていました。楽しそうに話しているので、私は少し離れたところに立っていました。小さな単線のホームから見える山が紅葉していて、とても美しく、これからいく遠野はどんなところなのだろうと、私が思いを馳せていると、津波、津波、という単語が、風に乗ってきこえてきて、ああ、ここは、岩手なのだな、となんとなくはっとしてしまいました。

よくよく耳を澄ましてみますと、私は母を亡くしました、と一人の人が一段低い声で言うのがきこえました。もう一人の人は、息をのんで、かわいそうにねえ、と涙ぐんでいいました。その人の反応は、あんまり素直な反応で、やはり同じ境遇の、見知らぬ人同士なのだろうと推測されました。
 
電車に乗っている間、私の心はとても動揺していました。今の状況は、どうしていいかわからないというしかなかったからです。今ここは、ほんとうにどうしていいかわからないような場所だというような気がしてきました。旅行なんかで、のんきにきて、どのように立っているべきか、私は、よくわからなくなってしまいました。

そんな日の夜におばあさんから聞いたのが、
今日お話ししたい話です。
遠野物語として収録された、明治に起こった、大津波に纏わるお話です。

その大津波で、海岸近くに住んでいたある男の人の家では、奥さんと子供一人が亡くなって、その人と子供二人だけになりました。再びその場所に小屋をたててから一年が経った頃、その男が夜トイレにいくため海岸に出ると、二人の男女が見えました。
 なんとなく気になってよくよく見てみると、女の人は亡くなった奥さんにとてもよく似ています。しばらくこっそりついていきましたが、どうしても、どうしても、奥さんに見えるので、男は勇気を出して、声を掛けました。おまえじゃないかい?
 振り向いた女の人は、にこりと笑いました。
どうしてこんなところにいるんだい。なにをしているんだい。子供がさびしがっている、一緒に帰ろう。
 女の人は、いいました。私は、いまはこの人と一緒にいるから帰れない。この人はあなたと一緒になる前に別れさせられた、心の底から愛していた人です。
 男は食い下がって、子供がかわいくないのかというと、女はさっと表情を変えたけれども、泣きながら、足早に別の男の人と去っていってしまいました。 
 男は追いかけていきましたが、はっとあの二人は死んだのだと気付いて、夜明けまで道にずっと立ちつくし、その後長い間患うことになりました。

これを聞いて、 私は、
どれくらいの時間が経って、これは物語になったのだろう、と思いました。
そのことがずっと、
私の頭を占めています。

「今」に直面した日に、私はこの物語を聞きました。
物語になるなんて、とても想像できないことでした。
だから、 今は分からないけど、
私は一つだけ確信したことがありました。
それは、どんなに深い悲しみでも、いつか、物語になる、ということです。

いつか自分の母親を亡くすことも、
現実にならなかった夢も、
自分の顔が人から誉められるようなことのない顔に生まれてしまったことも、
性格が悪いことも、
ありとあらゆる人の、とるにたりない、小さな哀しみでも、いつか物語になる。

物語とは、繰り返すことである。
小さなものを、繰り返し、繰り返し、人に対して、あるいは、頭の中で、語るうちに、
どんなものでも物語になる。
物語とは普遍である。
個人の、名前の落ちた、普遍である。

どうかみなさんの哀しみが、物語となって、消えていきますように。


Tuesday 27 November 2012

原っぱのこと


数日前、震災で行方不明になっている方の、
身元を明らかにしようとする警察官の人達のドキュメンタリーがNHKでやっていた。

亡くなった人の顔から、生きているときの似顔絵を描くプロの人がいて、
そうやって似顔絵を描いて情報を求めると、身元が判明することがかなりあるということだった。
そんな中、ほとんど情報が集まらない一人の人がいた。
ようやく、ある場所で一人で暮らしていた、人付き合いをあまりしない、高齢の男の人に間違いないのではないかという人が現れて、調べてみると、
その人は30年前に離婚をしていて、妻も子供もどこにいるかわからない状態にあった。

しかし、なんとか子供さんに辿り着いて、東京に暮らしていることがわかって、
DNA鑑定をさせて欲しいというと、
それは良いけれども、30年間会っていないから、もし父親だと分かっても遺骨は引き取りたくない、ということだった。
その子供さんは、もう40才くらいになっていて、結婚して子供もいるそうだった。

DNA鑑定をしたら、やっぱり父親であることが判明した。
それで、その東北の警察署まで来てもらって、今回の結果の説明をし、
これが、お父さんの手がかりとなったのです、と似顔絵を見せた。
面影はありますか?ときくと、
息子さんは、
10歳くらいの時に離れてから一度も会っていないということだったが、
ありますね、とはっきりいった。
警察官の人が、ご遺体は、顔にほとんど傷がなくて、綺麗なお顔だったので、その写真も一応持ってきているのですが、というと、
息子さんは、しばらく考えて、見なくていいです、といった。

遺骨と対面した後、
息子さんは、少し迷われたのか、お父さんの暮らしていた場所を見たい、といった。
「住所としては此処なんですけど・・」といわれた場所は
見事に何にもなくて、草がふさふさと膝丈くらいまで茂って、原っぱみたいになっていた。

息子さんは、ちょっと歩きたいといって、その原っぱに入っていった。
その家があった場所を、草の中を、
ふさふさふさふさ歩いては、止まって、
それで、泣いた。

その歩き方は、なんだか、本当に感動してしまった。
まるで、
もちろん線などないのだけれども、
ここが台所、ここが茶の間、ここが窓と確かめるように歩かれていて、
ここで30年間会っていないお父さんが、どうやってくらしていたかを、
年を経てどんな姿になっていたかを、感じ取るようで、
その方は、本当に会話をするように、時間を埋めるように、
声を立てずに誰にも頼らず、泣いていた。
結局一時間以上、その何にもない原っぱで過ごされたということだった。

その人は出てくると、「会いたかったんですねえ」といった。
「遺骨、持ってかえります」


真実って、その原っぱみたいな気がする。
そこには確かに、お父さんの家があった。お父さんが住んでいた。
ものすごくふさふさと綺麗な草が茂る何の線もない原っぱになっても、
お父さんの家があったのと、なかったのとは、全然違うのだと思った。

諦めなければならなかったこととかも、
原っぱみたいになっちゃったとしても、
それがあったのとなかったのとでは、全然違うと思った。

白洲信哉さんが、東京都知事選に出るというお話を聞いたとき、
私は夢を見た。まっすぐに夢って見ていいんだ、ってことを知った。
状況が変わって、断念されるということになったと聞いたけれども、
私にとっては全然違う。

私はそういう原っぱを、とっても大切だと思った。

Saturday 10 November 2012

遠野(1の裏のような話として)


私は、一人では車が運転できないので、歩きか自転車で移動するしかない。
地図を眺めていて、デンデラ野という名前に引かれて、調べてみると、
姥捨て山というか、
60才になったらその場所に連れて行かれることになっていた場所とのことで、
今回は、ここだけは絶対に行きたい気がした。
遠野駅から、大体12キロくらいのようだった。
自転車でなら行けるはず。
ここが目的地になった。

遠野に着いたのは大体夕方の4時くらいだった。
もう暗くなりかけていた。
駅で早速自転車を借りて、
近場くらいはまわってみようかなと思いつつ、まず宿に向かった。

こんにちは〜と、福山荘と書かれたガラスの引き戸を開けると、
石油ストーブがあって、その前に猫ちゃんが丸くなっている。
おかみさんが出てきて下さった。

まあまあ、今日はどちらから?

神奈川です。

まあ、神奈川からお一人で。

はい、ずっと、遠野に来たい来たいと思っていて、ようやく来ることができました。

まあ、最近は、女の方がそうやって一人で見えることが多いんですよ。この前もねえ、民話の研究をしているとかいう方がいらっしゃいましたよ。

そうなんですか。

色々まわってみられるといいですよ、自転車ですか?
みなさん、伝承園やカッパ淵なんかによくいかれますねえ、
でもデンデラ野とよばれる辺りなんかまではちょっと遠すぎて、
男の方でもつらいつらいといってらっしゃいましたよ。
地図で見るとすぐのようですけれどもねえ。意外につらいらしいです。
それからねえ、五百羅漢と続石とこのデンデラ野というところは、
熊がちょくちょく出ているので、気をつけないといけません。

ええっ?私は、あの、実は、デンデラ野にいちばん行ってみたいと思っていたのです。

まあ、そうなんですか、
デンデラ野はねえ、姥捨て山というんで、
みなさん楢山節考なんかをイメージされているんですが、
実際の所は、途中に小屋があって、
60才以上のおばあさんたちがみんな一緒にそこで暮らして、
時々その山から下りて農作業なんか手伝ったりしながら、
亡くなるまでそこで暮らしたというような場所なんですねえ。
本当にただの野原のような場所ですねえ。
ただ、今ねえ、今年だけで遠野全体で熊が32頭捕獲されているんですよ。
ええ、しかもいまは、冬眠前で、一番危ない時期ですから、
たくさん人がいればいいですけど、ちょっとここは獣道という感じなんですよねえ、
自転車で一人というと、やっぱり・・・
5月くらいから8月くらいまでだとまだいいんですけれどもねえ・・
それから、草が刈られてればまだいいんですけど、
時期によってはねえ、草がぼうぼうになっていることがあるんですよ。
そうするとねえ、ちょっと怖いですよねえ。

・・・そうなんですか・・・どうしましょう。

そうですねえ、熊の鈴なんかつけてても、ねえ、一番危ない時期だから、やっぱり・・・
普通の民家にも出てるくらいなので、ちょっと心配ですねえ。
この間も、夜、黒い塊が牛小屋の前にあるから何かと思ったら熊だったとか私の友達も言っていたのですよ。うん、心配です。やめたほうがいいとおもいます。

わぁ、そうですか、タクシーなんかではどうでしょう。

そうですねえ、ただ、遠いですから、
途中に伝承園という観光客の方がみんな行かれるような場所がありますから、
そこにタクシーがいるとおもうので、そこから拾うような感じにして、
そしていざとなったら、タクシーの中から、サファリパークのような感じで見られれば、絶対大丈夫ですねえ。


本当に素敵な女将さんだった。とてもとても親切で、寄り添ってお話しして下さる。
情報を話すと言うことではなくて、私に話をして下さっている、という感じがする。
その上、一緒に考えて下さっている。私はこの方のおっしゃることは守ろうと思った。

ところでこの辺りも熊が出るんですか?

卯子酉さまですか。ここは大丈夫ですねえ。車の通りのすぐ横でたくさん車が通りますから。

ここは今から行くのでは遠いですか?

自転車では10分くらいでつくとおもいますよ、大丈夫です。でも今何時でしたっけ、あっ四時ですか、うん、もう日が暮れますから、明日にされた方が良いと思います。

わかりました。

そうして私は、夜の時間をどう過ごそうかと考えて、
近くのホテルで聞けるという、語り部さんのお話を聞きに行ったのだった。

戻ってきて夕食を頂くと、
周りはみんな、働いている男の人達、という感じで、
なんとなく恥ずかしくなって私は、
気を紛らわそうと一人で熱燗なんか頼んで飲んでいた。
もっと遅くなってから、共同の洗面所で会った一人の方と少しお話が出来た。
建設業者の方で一年間この旅館に泊まっていたそうである。

次の日の朝、6時半に起きて、カーテンを開けると雨だった。
青空は出ているのに、かなりの雨が降っていた。
テレビで天気予報を付けると、私がいられる時間帯はずっと雨だった。
雷が鳴るかもとか言っている。
ただ、土地の名前が「遠野」というよりもっと細かい名前が使われていて、
岩手のどこのことなのか全然分からない。
自転車、もしかして絶望的かも・・・
私の一日はどうなっちゃうんだろう・・・
とりあえず、朝ご飯を食べようと思った。

食べ終わって玄関に向かうと、女将さんがいらっしゃった。
雨ですねえ。ちょっと今日自転車、心配ですねえ。

はい。そうですねえ。どうしたらいいでしょう・・

ちょっとねえ、でも、
バスがねえ、二時間に一本とかですが、あるんですよ。
だから、この足洗川という停留所で降りるとねえ、伝承園やカッパ淵まではすぐです。

そうですか。やっぱりそうですねえ、自転車が大丈夫な雨じゃないですね。わかりました、やめます。八時四十六分のバスで伝承園に行くことにします。

それまでは、少し時間があったし、昨日話に出た「卯子酉さま」に向かってみた。

「卯子酉さま」と女将さんが呼ぶことが、なんだか
女将さんの素敵さを表している気がして、
わたしにとっては、女将さんが語り部さんのような気がしてきた。

「卯子酉さま」には、「卯子酉さま」から、流れ出てきたような木の根があった。
男女を結ぶ神様のようで、
お願いが書かれた赤い布がいっぱい結びつけられていた。

卯子酉さまのすぐ横にあった愛宕神社にもお参りしようと思って、
ものすごく急な階段を上がっていくと、
なんだか山の中にずんずん入っていく感じがして、
途中で恐怖で足が完全に止まってしまった。

頭の中で熊が大きな大きな存在になっていた。

くるっと向きを変え、焦って、駆け足で降りてしまって、
雨で滑って、何段か落ち、
肘を思い切り石に打ちつけてしまったけれども、
そのまま振り返らずに帰ってきた。

びしょぬれというわけではないけれども、
かなり濡れてとても体が冷えてしまった。

デンデラ野がますます遠ざかる。
ここでこれでは、デンデラ野は、どうなっちゃうんだろう。

出会い方として、自転車で長々景色の中を走って、
徐々に一人で向かっていくのがいいような気がしていたけれども、
熊もいる、雨も冷たい、
絶対に無理だなあ、と思った。
でも雨が降ってくれたおかげで、
もう、絶対タクシーで行く、と心に後悔なく決めることが出来た。

バスに乗ると、一人だった。
伝承園についても、
観光客は誰もいなくて、私一人だった。
タクシーもいなかったのだが、
伝承園自体が、とてもよくて、
また、ここのみなさんもとても優しくて、
タクシーを呼んで下さり、ここがいちばんあったかいですよー、ここで待ったらいいですよーとか、様々な食べ物をお勧めしてもらったりして、なんだかとても心地がよいのだった。

いよいよ、タクシーに乗った。
寒さで、窓が曇るのを、きゅっきゅと何度も手で拭いて、外を見ていた。
紅葉した山々、稲の刈り取られた畑がずっとつづいた。
なんて美しいところなんだろうな、
それしか頭に浮かばなかった。

ここですよ。ここを上がったところだからね、と急にタクシーが止まる。
あ、はい、と緊張してカメラの入った鞄を持ち上げると、
鞄に付けていた熊鈴がりんりんなった。
おじさんが初めて笑って、ああ、持ってきたんだねえ、という。

熊、いますかねえ・・

うーん、いないとおもうけどねえ・・・

ごめんなさい、少し待っていて頂いても宜しいですか

ゆっくりしておいで

なんだか涙が出そうになったけれども、タクシーを降りた。

なるべくなるべく鈴が鳴るように、大袈裟に鞄をゆらしながら、上り坂を行く。
その金属音がいっそう心細い。
気が付くと、草が刈り取られて、なあんにもなくなった野原が広がっていた。
もしかして、ここ?
草刈ってあったよ女将さん、ありがたい、
でも、だからより一層なにもないって感じかも。
そこに立つと、びゅーびゅー風が吹いた。
目の前の山が美しかった。
なあんにもない、本当に本当に美しい場所だった。

デンデラ野は、亡くなる前にみんなが行くところ。
熊のよく出る場所。
来るのが難しい場所。
雨が降るとこんなに寒い場所。
本当に本当に美しい場所。

遠野はなんだか、この世のものとは思えないほどに美しい。
















(福山荘、朝)


















(サムトの婆から撮影。一瞬こんなに晴れたりするのだ。)


遠野(1)

遠野へ向かう

新幹線を新花巻駅で降りて、釜石線に乗り換える。
時刻表を見ると、電車がくるのは、一時間十分後だった。

釜石線のホームは、とても小さい。
そこに立っていると、景色の中にそのまま立っているような感じがする。
小さな待合室があって、おばあさんとおばさんが二人座って楽しそうに話していた。
なんとなく入りづらくて
私は、ホームに一人で立っていた。

電車がもうすぐくるという時間になって、二人は出てきた。
遠くに離れて立っていると、
津波が 津波が
という単語が聞こえてくる。

ああそうか、この電車は、釜石まで行く電車なのだ。

私ははっとさせられて、何となく身構えた。

実は私の母も亡くなったんです。

そんな声が聞こえた。

まあ、かわいそうに・・そうよねえ、と
おばあさんは声をつまらせた。

名前はなんというの?
母のですか?
いいえ、あなたの。

二人は見知らぬ人同士なのだった。



私は、物語の生まれる場所や時のことを考えていた。

新幹線の中でインターネットを見ていたら、
遠野物語には、津波の話があると知って、読んでいた。
それはこんな話だった。

明治の津波である人の奥さんが亡くなった。
それからしばらく経った、ある日の晩、
その旦那さんが、トイレに行くため海岸に出ると、
その奥さんが、別の男の人と歩いていた。
驚いてよくよく見てみたが、
やっぱり妻だと思って、話しかけると、
その女の人は、
私は、あなたと結婚する前に、別れさせられた、
本当に愛した人と今は一緒にいるのだ、と言った。
戻ってこいというと、
行けないといって、二人で消えて行ってしまった、
という話。

昔話だけじゃなく、結末の分からない物語が
いまここにあった。

私が聞いた会話の断片は、
私の中に大切にしまわれた。

私はなんだか釜石線にゆられている間
色々と動揺していた。
いつのまにか、コートのベルトがなくなっていた。

夜、語り部さんのお話を聞きにいった。
内田芳子さんという。
内田さんは、遠野にはどうしてそんなにたくさんの物語があるのかというと、
遠野は、七七十里といって、例えば、海側は、大槌、釜石、大船渡、内陸側は花巻など、
七つの土地からちょうど七十里、いまでいうところの、40キロくらいの距離にある場所で、
昔は一日で移動できるのが、ちょうどそのくらいだったから、
それらの場所からやって来たいろいろな人達が一晩泊まり、
夜、言葉を交わしていったからなのだ、とおっしゃった。

そして、
遠野の語り部達は、今、大槌に物語を語りに行っているのだけれども、
遠野物語にも津波の話があるから、まずその話をしましょうね、
と、上に書いた物語を語って下さった。

他には、おしらさま、柿売りとなんとか売りの話、迷い家、座敷童の話をして下さった。

内田さんは、語り部たちは、個人個人、自分の言葉で話すようにしているのだが、
自分は、自分のおばあちゃんなんかが夜寝る時に話してくれたのと同じに、
語っているつもりだとおっしゃった。

寝る前におばあちゃんが話してくれる話というのは、
いったいどういう種類のものなんだろう。
内田さんは好きな話とかがやっぱりあって
そういうのは繰り返し繰り返し聞きたがったとおっしゃった。
それは、私にしてみれば、おじいちゃんの戦争の話だ。
やっぱり肌で感じている話だから、
おばあちゃんが孫に繰り返し語るのだろうと思った。

外に出たら真っ暗だった。
旅館に戻って、夕ご飯を頂きに食堂に行くと、
男の人達がもくもくとご飯を食べていた。
どうやら観光客は私一人のようだった。
後で聞けば、建設会社の人達で、一年間ここに滞在して、仮設住宅や宿舎を作っているのだという。

次の日の朝、
曲がり屋と呼ばれる、昔の農家のおうち(菊池家)をそのまま移築した、
伝承園という場所に向かった。
私にとって、その場所は衝撃だった。
馬小屋が家の中にあった。
トイレは外なのに、馬小屋は、家の中にあった。
しかも、馬小屋と行っても、土間の端に、ただ柵が作られているだけという感じで、
台所と私の部屋と馬の部屋、といわんばかりで、
この馬と人との距離をみたら、
おしらさまは、やっぱり本当の話なのだとつくづく感じられた。

しかもその家の奧の奧には、御蚕神堂というものがあって
1000体ものおしらさま人形が納められていた。


昨夜、内田さんのはなしてくださったおしらさまは以下のような話だった。

ある家に白い馬がいた。
その家の娘さんはその馬が大好きで、いつも馬小屋に潜り込んで一緒に眠っているほどだった。
大きくなって、お父さんが、そろそろお嫁に行きなさい、というと、
私はこの馬がいるから行かない、この馬と一緒にいるから良いのだと言った。
娘があんまり聞かないので、お父さんは怒って、
馬をひきずりだし、桑の木にくくりつけて、その皮を剥いでいった。
娘さんは泣きさけんだが、お父さんはやめなかった。
半分くらい剥ぐと馬は死んで、後はするりと剥けた。
すると、その皮はひらりと娘さんを包んだ。
娘さんも死んでいた。
お父さんはもちろん悔やんだが、取り返しが付かなかった。
ある日の晩、娘が夢に現れた。
親孝行もしないで死んでご免なさい。
お詫びといってはなんだけど、3月何日にどこどこの土を掘って下さい。
白い虫がわんさかでるから、それに桑の葉を食べさせて、育てて、
何何すると糸がとれるから、それで織物をおって売って下さい、と言った。
隣で眠っていたお母さんも同じ夢を見ていた。
これはと思って、3月何日が来るのを待って、土を掘ると
言われたとおりに白い虫がわんさかでた。
言われたとおりにしてみると、宝の糸がとれた。

それで、お父さんとお母さんは、桑の木の枝で、
馬の頭を掘ったものと、娘の頭を掘ったものを作って
毎年一月に、おしら遊ばせといって、
その二つを遊ばせることになったのだ、という話。

その、おしらさま人形には、布に人という形の切れ目を入れて、かぶせるのだと内田さんはいっていた。

今と昔がちかちかした。今も物語がうごめいている感じがした。
今はなんだか、とっても、とっても、わからなかった。

(つづく。)

Monday 29 October 2012

お誕生日おめでとう


9月の十五夜さんは、台風の日で絶望的だったけど、
夜中に奇跡的に見ることが出来たのだった。
神様のお姿とでも言うべき美しいお月さんであった。
私はなんだかお正月が来たような気がした。

9月の十五夜さんを見て、10月の十三夜さんをやらないのは、
片月さんといって良くない。

10月29日は、月に異常な執着を持つ友人の誕生日。
10月27日は、十三夜。すなわち、29日は十五夜さん。
すなわち、27日は、誕生日にも、満月にも、十三夜。
これだ、となぜか思った。

鎌倉の海でお月見しよう。
彼女のバースデーを祝おう。
ということで、おにぎりと、ゆで卵、おろ抜き大根の塩漬け、を作った。
(本当のところを言うと塩漬けはおばあちゃんがやってくれたもの)
それから、ビールと月見団子を買って。

釣りで夜の真っ暗な海の中を一人でずんずん進んでいく人を見て、
自殺者と間違え必死で止める。
爆笑の誕生日(の前の前の日)だった。


















(photo by Kanade)


池田塾でのある発表

小林秀雄の『美を求める心』のある章について
池田塾で発表した。
その原稿を公開いたします。

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こんにちは、恩蔵絢子と申します。
今、私が最も興味を持っているのは、言葉、です。
ここでこんなことを言うのはとても怖いのですが、
言葉を使った仕事がしたい、と思っています。

『美を求める心』を読んで、私がお話ししたいと思ったのは、
この章にでてくる、「置き換える」という言葉や、「姿」という言葉についての
私自身の体験でした。

その前に、この章の第一段落では、
「煙草を下さい」といって煙草をとってもらったら、それで用がなくなってしまう言葉、
ということが書かれていて、
また、別の章には、ダンヒルのライターの話の所で、
ダンヒルのライターが機能と置き換わってしまうこと、
つまり、それ自体を美しいといって見てくれる人は誰もいなかった、
火を付けるという機能を果たしたら、それ以上見てもらえなかった、
ということが書かれていたと思います。
私は、こういう文章を読むと、自分の身を重ねてしまって、
もし、私が、一つの機能としてしか見てもらうことができなくて、
何かの機能を果たしたら、それで終わり、ということになってしまったとしたら、
どれだけ怖いだろう、ということを思うのと同時に、
私自身が日常で使う言葉を考えてみると、やっぱり、
そのように使っていることがとても多いことに気付いて、
だからこそ、せめて、作品を作る時だけは、
その物、その人に、徹底的に寄り添った形で作りたいと思っているのです。

それで、「置き換える」ということについての、私自身の経験、ということですが、
私は、「置き換える」ということには、今お話ししたような理不尽さ、も含めて、
何か私達の存在に関わる、とても重要なことがあるような気がしています。

私は、恐山に行ったのですが、
恐山というのは、死者が集まる場所、そこに行ったら死者に会える場所、と言われているところです。
恐山に着くと、お堂がありました。
お堂を開けると、なくなった方の遺族の方々が持ってきたものがぎっしりと詰め込まれていたのです。
どんなものがあるかというと、
なくなった人の着ていた、ハンガーに掛かったままのスーツ、とか、シャツ、とか、
靴、とか、湯飲み、とかがぎっしりと詰め込まれていて、
私はそれを見た時、ほとんどパニックを起こしかけていました。
どうしてかというと、
その物々が、あまりにも、そのまま、だからで、
例えば、スーツには、その人の着ていた肩の跡がはっきりとついているのです。
だから、私は、
自分の父親が、朝、それをハンガーから外して、身につけて、行ってきますと言って、
出て行くのが見えたような気がしてしまったのです。
そのものがあって、その人がいない、
物と人とが置き換わってしまったような体験でした。

それ以来、私は、母親が近所のスーパーで数百円で買ってきた、
見るべき所の何もない湯飲みなんかに目が留まるようになりました。
これは、小林さんの書いている、菫の花の美しさを見る、
というような経験とは違いますが、
私なりに、日常の物に目が留まるようになった経験の一つで、
これは、物に人の魂を見るというような経験だったと思っているんです。

そして、ちょっと話は変わりますが、
私はずっと顔の研究をしてきました。顔と自己との関係の研究です。
どうして、そんな研究をしてきたかと言えば、
私には、自分の顔を自分が一番知らないという恐怖心があったからだと思っているのです。
自分の顔は自分で直接見ることはできません。
だけれども、他者は直接それを見ています。
そんな中で他者と関わって行かなくてはならない。
それで私には、うまくしゃべれなくなったり、たくさんの問題が起きました。
私は、鏡を見ても、鏡を見た瞬間に少し力が入って自分を作っているような気がして、
自分の姿を得た、と感じられたことが一度もないのです。

けれども徐々にこのような感覚からは解放されつつあって、
その一つが、池田先生がお話しして下さった、
小林秀雄さんがなぜ文芸批評を止めて、美の世界へ移っていったのかというお話でした。
「自分を託すに足るもの」がなかったから、美の世界へ言ったのだ、とおっしゃったと記憶しています。
私は、「自分を託すに足るもの」という言葉を聞いた瞬間にとても衝撃を受け、
この言葉がひどく心に残っているのです。

ちょうどこの言葉を聞いたとき、
私は、ロラン・バルトの『明るい部屋』という本を読んでいました。
これは、バルトの書いた写真論なんですが、
彼の母親が亡くなってすぐに書かれた本で、
母の本と言っても良いような物なのです。
そこに、母の膨大な写真を整理する場面が出てきます。
バルトはどの写真を見ても、母の写真だということはわかるけれども、
自分の愛したあの母親の姿はどこにも写ってない、
やっぱり彼女は永遠に失われてしまった、といって嘆くのです。
これは、私が鏡を見ても自分の姿を得た感じがしないという感覚ととても似ているなと思いました。
でもバルトは、最後に一枚母親が小さな頃の、
彼女のお兄さんと手を繋いで写っている写真を見つけるのです。
そして、その、自分が知っている母の姿から最も遠い、まだ子供の頃の母を見て、
「ああ自分が愛した母がここにいる」といい、更には、
「自分は母親という存在を愛していたのではなくて、
彼女がこういう人だったから、僕は彼女を愛したのだ」と気付くのです。

私はこれを読んで、自分の姿を得たことがないというのは、当たり前だったのだと思いました。
もし、私が自分の姿を得ることがあるとするならば、
それは何か別物になることではないか、と思いました。

私がいままでに最も感動した経験は、
ある場所と出会ったとき、
自分が殺されたような気がして、あまりの理不尽さにその場でわんわん泣き出す、
ということが起こりました。
私は、感動したときだけは、心が実際に動いたと感じて、
自分が確かにいる、と感じることができるのですが、
最も感動した経験は、自分が殺されたような気がした経験だったのです。
だからもしかすると、
自分の姿をはっきりと得るということは、
自分が消えるときなのではないかという直感を持っているのです。

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以下、その担当した章。小林秀雄全集21『美を求める心』より
 
 さて、前に、諸君が日常生活で、どんな風に、眼を働かせているかについて述べたが、
此処でも、では、どんな風に言葉を使っているかを反省してみて下さい。
例えば、「煙草を下さい」と誰かに言って、煙草が手に入ったら、
「煙草を下さい」という言葉は、もう用はない。
その言葉は捨てられて了います。いや、「煙草を下さい」という言葉が、
相手に通じたら、もう、その言葉に用はないでしょう。
相手も言われた言葉が理解できたら、もうその言葉に用はないでしょう。
日常生活では、言葉は用事が足りたら、みな消えてなくなる。
そういう風に使われていることに、諸君は気が附かれるでしょう。
言葉は、人間の行動と理解との為の道具なのです。

 ところで、歌や詩は、諸君に、何かをしろと命じますか。
私の気持ちが理解できたかと言っていますか。
諸君は、歌に接して、何をするのでもない。何を理解するのでもない。
その美しさを感ずるだけです。
何の為に感ずるのか。
何の為でもない。ただ美しいと感ずるのです。
では、歌や詩は、わからぬものなのか。そうです。わからぬものなのです。
この事をよく考えてみて下さい。
ある言葉が、かくかくの意味であるとわかるには、
Aという言葉をBという言葉に直して、
Aという言葉の代わりにBという言葉を置き換えてみてもよい。
置き換えてみれば合点がゆくという事でしょう。
赤人の歌を、他の言葉に直して、歌に置き換えてみる事が出来ますか。
それは駄目です。ですから、そういう意味では、
歌はまさにわからぬものなのです。
歌は、意味のわかる言葉ではない。感じられる言葉の姿、形なのです。
言葉には、意味もあるが、姿、形というものもある、
ということをよく心に留めて下さい。

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「置き換える」について補足:

とっても、素敵な瞬間は、もう戻ってこないし、
私の頭の中の幸福に変わってしまった。
自分の出会うものごとを、
ごまかしなく消化して、
自分の血肉に「置き換える」ことでしか、
その瞬間を残す術はない。
そういう形で、生命のコピーができたらいい。

Saturday 20 October 2012

自分の分を受け取って帰りなさい

新約聖書でずっと頭に残っている話。

「ぶどう園の労働者」のたとえ(新共同訳から。)

「天の国は次のようにたとえられる。
ある家の主人が、ぶどう園で働く労働者を雇うために、
夜明けに出かけていった。
主人は、一日につき一デナリオンの約束で、
労働者をぶどう園に送った。
また、九時ごろ行ってみると、
何もしないで広場に立っている人々がいたので、
『あなたたちもぶどう園に行きなさい。ふさわしい賃金を払ってやろう』と言った。
それで、その人たちは出かけて行った。
主人は、十二時ごろと三時ごろにまた出て行き、同じようにした。
五時ごろにも行ってみると、
ほかの人々が立っていたので、
『なぜ、何もしないで一日中ここに立っているのか』と尋ねると、
彼らは、『誰も雇ってくれないのです』と言った。
主人は彼らに、『あなたたちもぶどう園に行きなさい』と言った。
夕方になって、ぶどう園の主人は監督に、
『労働者たちを呼んで、最後に来た者から始めて、最初に来た者まで
順に賃金を払ってやりなさい』と言った。
そこで、五時ごろに雇われた人たちが来て、
一デナリオンずつ受け取った。
最初に雇われた人達が来て、
もっと多くもらえるだろうと思っていた。
しかし、彼らも一デナリオンずつであった。
それで、受け取ると、主人に不平を言った。
『最後に来たこの連中は、一時間しか働きませんでした。
まる一日、暑い中を辛抱して働いたわたしたちと、
この連中とを同じ扱いにするとは。』
主人はその一人に答えた。
『友よ、あなたに不当なことはしていない。
あなたはわたしと一デナリオンの約束をしたではないか。
自分の分を受け取って帰りなさい。
わたしはこの最後の者にも、あなたと同じように支払ってやりたいのだ。
自分のものを自分のしたいようにしては、いけないか。
それとも、わたしの気前のよさをねたむのか。』
このように、後にいる者が先になり、先にいる者が後になる。」


御伽草子

サントリー美術館で『御伽草子』を見た。
短い短い物語。

例えば。

ある人が、鬼に、女の人を紹介してもらう。
100日間その女の人に手出ししなかったら、彼のものになるという。
でも、彼は80日間で我慢できなくて手を出してしまう。
女の人は、水になって流れていってしまった。














(『長谷雄草子』写真はwikipediaより拝借)

また、例えば。

鼠が人間の女の人と結婚して幸せに暮らしているが、
ある時、鼠だということがばれてしまう。
女の人は出て行って、
鼠の夫は、彼女が残していった一つひとつの物を見て、さめざめと泣く。
















(『鼠草子絵巻』
写真が見つからなかったので、展覧会の図録から。
布団や、鏡や、櫛なんかが一個ずつ描かれてとってもかわいいのだ。)


水になって流れて行ってしまう場面や、
一つひとつの物を目の前に、泣いている場面は、
もう、それだけで良い、というような感じだった。

私は短い物語が好きだ。
人生のとても大切な出来事は、ささやかなほんとに一瞬の出来事であったりするからだ。
長い長い文脈に支えられた一瞬。
一瞬から想像される長い長い文脈というのもあるということだ。

自分の身近な人の。
すぐ側の物語。

繰り返し繰り返し語り継がれて、
ふっと優しく笑ってしまうような、
ふっくらとした姿になった、
短い短い物語。

これを見てから、岩波の御伽草子を買って、手放せない。
「御伽」は「人生のつれづれを慰める話し相手」という意であるらしい。

私は、そういうことをやりたいんだなあ。

Friday 14 September 2012

夏の出来事

(1)Slides and Swings展

五月。
かなでさんから小包が届く。

私は、去年の12月から今年の3月までの間、
『劣等感を持つならまっすぐにプロジェクト』の一環で、
オスカー・ワイルドの『De Profundis』を勝手に訳していた。
かなでさんには読んで欲しい部分があったこともあって、メールで原稿を送っていた。

私がこの本の中で、一番愛している部分は、
知らぬ人はいないというほどに、名声を極めたオスカーが、
同性愛の罪で捕まり、牢屋から裁判所に引き出されるとき、
ある人が、見物人に混じり、一人立っていて、
オスカーが手錠を掛けられた姿で、うつむいてその前を通り過ぎるとき、
その人が、厳かに帽子をとった、ということを書いている部分である。
オスカーは、その人に、自分がその行為に気付いていたかどうかすら
いまだに伝えていないし、
もちろん、その行為で自分がどれだけ救われたかという感謝の気持ちなど、
全く伝えていないといっていて、
これは、感謝の言葉を言えるような出来事じゃないのだ
そのほんの些細な、静かな愛の行為の記憶が
いつでも自分を救ってくれたのだ、
それは自分にはとても返すことができないようなものなのだ、と書いていた。

自分のもっているものでは、とても返すことができないのだという、
ある行為が、何とも交換できないのだというところに、
どうしても感動してしまうのだった。

そんなわけで、色んな所を、かなでさんには読んで欲しくなり、
送りつけていたのだが、
5月、この原稿が、ものすごく綺麗に、製本されて、私の所に届いたのだった。
彼女は私のためだけに、本という身体を与えて、届けてくれた。

そんなとき、植田君から、Slides and Swingsで、展覧会をやりたいんだけど、
なんか出さないかといってもらった。

あんまり、綺麗な身体なので、
また、私のためだけに、こんな身体があるというのは、
あまりにも過剰な出来事だったので、
私は、オスカーワイルド著、恩蔵絢子訳、矢木奏製本として、
これを展覧会に置かせてもらうことにした。

















展覧会には、一日三人くらいの方がいらして下さった。
もう少し見てもらえたら、と、植田君が、路上に立ってビラを配った。
自分の作品を、知らない人に、みて下さい、といって、嫌がられていた。
植田君は、笑いながら配り続けていた。

私には、自分達の作品を見て下さいと自信を持って笑いながら配る植田君がすごく見え、
私も、せめて一枚だけは、ぜったいに受け取ってもらおう、と思って、
なんとか「私達の作品を見て下さい」といって、路上に立った。
やっぱり、次々に断られるのだった。


Sunday 12 August 2012

お盆の話

山の畑の中にうちのお墓はある。

お盆になると、庭の入り口に、ご先祖様が滞在するようの、砂のおうちを作る。
毎日夕方お線香を持って近所のそのおうちをまわることになっている。

母親がお墓に行って、ご先祖様たちを連れてくるのだけれども、
いつも母親は、おんぶするように、腰を曲げて、腕を後ろで組んで、
よっこらしょ、とうちからお墓までの400メートルくらいの坂道を歩いてくる。
私も一緒に行くときは、私も面白がって同じようにするのだけれども、
これって、一回一人ずつ?ときくと、
母は、うふふとわらって、いいの全員背中に乗ってるの、と答える。

ご先祖様達のお帰りは、川だ。
うちからお墓と反対方向に300メートルくらいいったところの川に、
お団子やらなにやらを持っていって、
キュウリや茄子の馬などを流す。

お盆の前になると、お花を買いに行ったり、お墓の掃除に行ったり、
両親が何となく殺気立つ。

お坊さんが来るよ、と友人達にいったら、本格的だねえと驚かれたけれども、
本格的というふうにはいえないかもしれないし、
おじいちゃんが生きているときより、砂のおうちも適当だけど、
母と一緒に、おじいちゃんを迎えに行くその時間は、
とても好きな時間である。
この土地なのか、この母なのか、
なんとなく、幸福な気持ちになってくる。

Monday 23 July 2012

会話

ある日、目の見えない人たちがおしゃべりをしていた。
おまえにとって、月ってどんな?
おれはねえ、ボールだよ、ボール。 
私も混ぜてもらって言った。
一度だけ、オーストラリアの真っ暗な海で月を見た時、 実は、この地球の外側が光に満ちていて、 地球自体は真っ暗な球で、その地球に空いた穴、それが月で、そこから光が差し込んできているんじゃないかって、思ったことがある。
えーーー!

 本当に通じ合うってこういうことっていう気がした。 
私は、その人のボールがどんな感じなのかわからない。
私の、地球の穴が、どんな風にイメージされたのか、あるいは聞こえたのか、わからない。
けれども、 互いに驚いて、 何かを交換した。

Saturday 14 July 2012

霞海城隍廟にて




















三つ目の廟となった、問屋街の真ん中にある小さな霞海城隍廟にて、
はじめてお線香を買って、自分もお参りをさせてもらう。
ここは恋愛の神様だそうで、
アナタ、ダイジョウブー。ゼッタイダイジョウブヨー。ガンバッテー。
と、すごくかわいいかおでいってくれたお母さんのお写真です。

作法を教えてもらったら、
まずは、外で、空に向かって、自分の名前をいって祈るところから、
始まるところがとっても印象的でした。

龍山寺


羽田から、台北に向かった。
フライトマップをみていたら、石垣や与那国のすぐ隣という感じで、
こんなに近いということに驚きながら、
台北についてすぐに、一番行ってみたいと思っていた
龍山寺へ向かった。

気温は36度もあって、かんかん照り。
なのに、
門を一歩はいると、
とにかくたくさんの人がいた。
お経か何かを各々読んでいる人々のまとまり、
おっきなお線香を持って祈っている人達、
なんだかわからない、果物やお菓子のセット、
おっきな紅い蝋燭、
そこで人が各々手を合わせていて、
だけど、反対の方からもこっちをむいて手を合わせている人達がいて、
何が起こっているのかぜんぜんわからなくって、
色んなことが起こりすぎていて、
もう私は驚きすぎて、
ほとんどパニックを起こしかけていた。

何が何だか分からなくて、
段々分かってきたときには、
これはわたし、感動しているのかも、と思った。

色々な神様の像があって、50センチくらいのお線香を持って
あっちを向いたり、こっちを向いたりして、順々に回っていく。
おばあさんも、若い女の子も、若い男の子も、子供も、
派手な格好の人も、地味な格好の人も、
誰でも、
毎日、
各々、という感じで、祈っているのだった。

特別なときに来ているという感じでは全然ないのだった。

カランカランカランという音が時々するのでなにかとおもったら、
二つの紅い木片みたいのを、地面に落として
何か占っているのだった。
たった一人で、何度も何度も落として、
没頭しているのだった。
とにかく、みんな、勝手に、とにかく祈っているのだった。

私は、ただひたすらそこにいさせてもらった。

外に出たとき、建物の細部や、神様などにまったく注意が向けられていなかったことに気が付いた。
とにかく私は人に感動していた。
まったく初めての体験をした。


(下の写真は、「行天宮」という廟でとった写真です。
龍山寺の衝撃で、いくつか廟を回りました。)

Friday 13 July 2012

Sunday 8 July 2012

7月


一冊分

今日、三ヶ月で終わらせると決めた仕事が終わった。
一冊の本の翻訳。
前の本は二年かかった。

終わっても、世界は何にも変わって見えなくて、
ただ、手持ちぶさたになって、
いつものように、なんとなくネットサーフィン始めたら、
友達の日記が更新されてた。

あんまり驚いて、
私はぼろぼろなきました。

(昨日、明日終わるんじゃないかと思うということをメールしたときに伝えていたのです。)



私は英語をうまくしゃべることはできない。引っ込み思案の性格が災いして、あまり人としゃべれないので、留学しても、したらなおさら、恥ずかしくて言葉を発することができなかった。直近のオーストラリアの哲学科の体験は地獄だった。私が学んだのは、素敵な人の佇まいと、三冊分の英語と哲学。自分のやった分だけ。

今回の本もそういう意味で、一冊分。やれたこともやれないことも一冊分。

Wednesday 4 July 2012

夢の大きさ

ロラン・バルトの『明るい部屋』
これは、写真論なのだけれども、バルトのお母さんが亡くなったことで、書かれた本である。
彼は、悲しみの毎日を過ごしていて、
しかし、なんとなく時がやってきて、写真を整理することになった。
色々な写真が出てきた。
しかし、バルトはどれをみても不満だった。
写真の中の母親は、確かに母親だということはもちろんわかるけれども、
自分の知っている母親、大好きな母が、写っていなかった。
どれをみても、確かに母親ではあるが、不足である。
母の本質を捉えた写真がない。
やっぱり、彼女は永遠に失われてしまったと、うちひしがれる。
さらには、母親が若い頃の写真も出てきて、
自分の知らない服を着ている母親をみて、
なんとなく落ち着かない気持ちも味わう。
しかし、最後の最後に、彼女が子供の頃の、
彼女の兄と手を繋いで写っている写真が出てくる。
それを見た時、
バルトは、
これだ、これぞ、母親だ、
この目の、純粋さ、そう、
自分がこんなに悲しいのは、「母親」が死んでしまったからではなくて、
「母親がこんな人」だったからなのだ、
母親が一番小さな頃の、
自分が知っている母親とは最も遠い姿の写真に、
本当の母親が写っている、といって
彼は、涙を流す。

バルトが知っている、母親。
私は感激してしまった。

私は、
鏡の中の自分が自分であるということが気になってきた。
私は、鏡の前に立って自分の顔を見るとその瞬間に飾っている気がする。
カメラだって、向けられた瞬間にポーズを取っている。
人にどう見られているかわからない。
そのことがずっと怖かった。
もちろん、鏡の中の自分は、自分であるとわかる、
写真に写った自分も自分であるとわかる、
けれども、それでは知った気にならなかった。

バルトのこの話を読んで、
ああ、当たり前だったのだ、と思った。
私は、私と等価になるものを探していたのだな、
それは、鏡に映れば良いという問題ではなくて、
そんなの簡単に見つかるわけない、
自分の母親と例えば、何が等しいと言えるだろう、
そんなの簡単に見つかるわけない、
見つかって良いかどうかもわからない、
そう思った。

私がこの本を読んでいたちょうどその頃

池田塾の池田先生が、
小林秀雄さんは、自分を託すに足るものがないから、
文芸批評をやめて、美の世界へ行ったのだ、というお話をされていた。
「自分を託すに足るもの」
その言葉を聞いたこともきっと影響していただろう。

作品というのはきっと、そういうものなんだろう。
植田君の、展示を見て、
ああ、たしかに植田君そのものだなあ、と思った。
私の理解できるところも理解できないところも全部、作品の中にあるなあ、
そして、植田君本物はあっちこっちへいってしまうけど、
作品だったら、ずっと、好きなだけ向き合って良い。

作品を見ることが私は大好きだなあ、と思った。

そして、今日、植田君と話していたら、
「茂木さんの書生」っていって終わるんじゃなくて、
じゃあ、それは一体何なんだ、っていったときに、
そこにあるよ、ってことを示したいと思った、
だからとにかくいまはいっぱい絵を描いているんだ、というようなことをいった。

人間ってとても小さい。一人ってとても小さい。
現在はいつも怪しげ。
だけど生きてる。

民話

『秦野のむかし話』という本を、本屋さんで見つけた。
小学校の頃に、怖がった、タクシーにのっていて、あるトンネルで消えるおねえさんの話が
動物などが出てくる、知らない昔話に混じってのっていた。
このトンネルの話は、うわさ話のような感じで、あそこのトンネルにはでるんだよね〜、
あのトンネルは夜通るのやだね〜、みたいに大人達が話していて、
みんな信じているんだか、信じていないんだかわからないような、
浮ついた気持ちになる話だった。
まさかそれが、民話という物になって、今私の目の前に表れるなんて思っても見なくて、すごく驚いてしまった。
民話という物はそういうものなんだろうけど、
私の周りから、民話がうまれるなんて思ったことがなくて、
なんだかそれは感動ですらあって、
もしかしたら、
おじいちゃんがシベリヤにいって、毎日、小屋の外を狼がうろつくから、
天井の梁に逆上がりをして登って過ごした夜もあった、という
私が子供の頃に、おじいちゃんに何度もせがんで聞いた、大好きだった話、
戦争の話なのに、ただただ面白くって、
英雄の話のように聞いていて、
何か誇張があるのかなんなのか、
それにもう記憶の中で、本当なのか嘘なのかわかんなくなってしまった話
これだって民話になるのかもしれない、
何度も繰り返し繰り返し、頭の中でしゃべったから、
これはもう民話になったのかもしれない、という気がした。

話は変わるが、私は、
私が感じることは、私も人間の一人なのだから、
人間の根っこにつながっていることであって、
どんなに小さくても、自分の感じることなんて、と馬鹿にしてはいけないのだ、と思うことがある。
おじいちゃんが人間の根っこにつながるなら嬉しい。

それから、もう一人の、母方のおじいちゃんはまだ生きていて、
この人はとてもとても心配性で、
何時に行くよ、といって、その時間に付かないと、道端に出て待っている。
文句を言ったり、怒ったりすることはまったくなく、
ただただ、私達の姿が見えるとほっとして笑う。
私が大学生の時も、おじいちゃんの家の近くで夜家庭教師をしていたら、
終わる時間になると必ず、私がその家から出てくるのが見えるところまで、
来てくれていた。
この間、家に帰るとき、ちょっと暗かったけど歩けるので、
たまたま母に、今駅だから歩いて帰るよ、と連絡して帰ったら、
家の庭の、一番遠くが見渡せるところに、ぼんやりと母の影が立っていた。
暗闇の中で、手を振る母の姿を見たら、
ああ、おじいちゃん、ちゃんとママの中に生きてる、って思った。
多分この心配性は、私の中にもしっかり生きてるから、
こっちのおじいちゃんもきっとずっと生き続ける。

Wednesday 23 May 2012

2012年5月21日 金環日食


4時33分が日の出だということで、4時半におきる。
目を覚ますと、なんだか音がする、そんなの嘘だと思いながら、雨戸を開けると、
さーさーと雨が降っている。
雨なんていってなかった、と動揺するけれども、
鳥が楽しそうにたくさん鳴いている、これは晴れると信じ込む、
二階のベランダに出る。(少しだけ屋根がある、風のないまっすぐの雨だったから、ほんの少しの屋根でも、壁にぴったりくっついていれば大丈夫そうだった。)
こんな時間に、こんなに明るいんだなあ、と思った。

雨はふったりやんだり、黒い雲は少しは動いていくけれども、
それより上に分厚い雲がかかっていて、
結局、7時半まで一度も太陽は見えなかった。

Twitterを見てみると、
東京は晴れているらしい。
いいもん、確かに起こっているもん、鳥とか温度とか、経験できることはするんだもん、と自分にいいきかせる。

外にいるのはとても寒くて、トレーナーの上に、カーディガンをきて、ズボンは二枚履きで、座り込んでいた。
部分食が始まる六時十八分を過ぎても
暗さの変化も、雲が厚いだけに、なんだかほんとうにわからない。
だんだん太陽が昇っていって明るさは変化しているはずで、
しかもだんだん欠けていっているはずで、相殺されちゃって、
私には、全然わからない。
鳥にも変化がおこるというけど、朝からずっと楽しそうに鳴きっぱなしで、
静かになることもあるけど、またすぐに鳴き出すし、
(それに鳥の声の区別が付く耳と記憶力が必要)
いったりきたりもたくさんしていて、
右から左が、左から右に飛んでいくようになった?
いや、そんなことはないな、とか、繰り返す。

母が途中で起きてきて、
雨なのに何やってるの、
かわいそうなこだねえ、といって
おにぎりをもってきてくれた。

それで、ちょっと楽しい気持ちになって、
ぼーっとして、
もうすぐ金環日食になる時間(7時31分から36分)という7時半に、
どーおー?と母親がやってきた。
ベランダより、こっちの方がきっとみやすいわよ、と兄の部屋の窓に移動。
その瞬間、はじめて、あ!あれ太陽じゃない、あそこじゃない!?結構高い位置だね、ほんと!?と太陽確認。
これは、見える、と母親は確信し、
大声で一階にいる父を呼ぶ、はやくはやく!
そして、父が階段をかけあがってきて、窓に到着し、見上げて、どこだどこだと探すと、
ぼやぁっと突然、ものすごく繊細な輪が見えた。
時間を確認すると、33分、金環日食がマックスになる時間だった。
三人で、見上げている。
なんだか涙がこみ上げた。

窓から身を乗り出した父の背中がなぜか、頭にこびりつき。
月と太陽だけでなく、なにかが、ぴったり重なった一瞬、というかんじ。
確かに存在した時間。

やっぱり、か、か、か、かめら!と叫んだ一瞬。



Monday 2 April 2012

大切なものは見なくてもいい

もっとも美しいことについては、やはり、書くことができない。
それを言わなくても、それがあることがわかる文章が書けているといいと思う。

なんというんだろう、みなくても、そこにあることがわかる、あの沖縄のウタキのように。
私が、みなくても、そこにあるものは、ある。

そういう風を気取るということとは違うこと。
自分を守って言わないこととは違うこと。

池田塾

池田塾に入塾した。
小林秀雄さんのおうちで、
ここはいつも小林先生がお座りになっていた席だから、とその椅子に見守られながら、
塾生は池田先生を中心にまるくなって座った。

はじまりの日、おうちの玄関の門の前に、
初対面の塾生達は緊張しながら並んでいた。
約束の時間に、茂木さんが坂を上がってきたその時、
梅の花咲く快晴の空に、はらはらと雪が舞った。
花吹雪のようだった。

池田さんが、小林先生に会われるときは、
80%くらいの確率で、雨が降っていたそうで、
小林先生がにやりと笑って「きみ、ふったねえ。」というのが聞こえるようだと、池田さんはおっしゃった。

そうして、池田塾は始まった。

(特に強く衝撃を受け、また、今の私にかけるものだけを、
順々に書いていこうと思います。また、記憶から書いているため不正確な部分があります。)

第一回(2月19日) 「訓詁注釈」

小林秀雄さんがいる、ということで、文壇だけでなく、社会全体が引き締まってたようなところがやっぱりあるのです、
とまず池田さんはおっしゃった。
小林さんの全集は、新潮社が本当に総力を挙げて、本当に一流の職人さんをあつめて作られた。
でもそうしたら当然の如く、一巻、一万いくらになってしまった。それが一巻ではないのである。
それでも、そのように全力を尽くしたものをつくる意味はあって、
どうしても作りたかったから、本当に素晴らしいものが作られた。

でも、そうすると最も頭の柔らかい、最もよんでほしい時期にある学生達には、とても買えないし、届かない。
だから、学生達の買えるハンディーな全集を、でもすごく力を込めて池田さんが作ることになった。

小林さんの文章は本当は全部、旧カナ遣いで書かれている。
しかし、それは、日常で使われる言葉とは異なってきており、
新しい全集では、現代遣いが用いられることになった。
そのようにした理由は、今もう使われていない言葉で書いて、誰に届くだろう、ということだった。
しかし、小林さんのファンというのはすごくて、
先生の言葉を崩すとは何事だ、というものすごい抗議がどっと届くらしい。
しかし小林さん自身は、
「僕は旧カナ遣いでしかかけないからそうしていただけで、
当然現代遣いにするべきだ」とおっしゃっていたそうである。

(*ここに貫かれているのは、「俗」への眼差し。
大切にしている、読むべきひとは、小林秀雄オタクでも、文学専門の人でなく、一般の人達。)

そして全集には、同様の配慮から、注釈もつけることにした。
(注釈なんてけしからんとこれも抗議がたくさん来るらしい。)

「訓詁注釈」という言葉があるけど、訓詁と注釈は全然違う言葉なんだ、と池田さんはおっしゃった。
訓詁は、単語の意味、単語の語彙に関することで
注釈は、文章の意味である。

池田さんは、訓詁ばかりをやってきたのだという。
「自分は、単語の意味を説明することばかりに徹してきた。
単語と単語がつながったときに、文章の意味みたいなものが、単語の方から本当は訴えかけてくるはずではあるが、
自分には、その文章の意味、つまり、注釈をつけることは、難しすぎてできなかった。
ある文章について、こういうことであろうかと、自分が思ったことは、自分のノートだけに書くことにしていた・・・」
(といっても、10回くらいよんでようやく、そういう感想がわくこともあった、という感じだったという。)
そのようにしていたら、ある日ノートが膨大に溜まっていた。

そのノートをもとにやっと60を過ぎて、小林さんにこれから十年かけて向き合うことにした、
やっと、世に向かって、注釈をやるのだとおっしゃった。
訓詁ばかりをやってきたのは、「低いところから始めろ」という教えに従ったとのことだった。

池田さんは、自分の解釈、
自分が思ったことは、人には言わずに、ただ書き留めてきた。
言えるものじゃないから。
そういうところにものすごく感動した。

私は、はっきりと何かを経験するということ、
要するに、
「私の経験」を持つことにすごく幸せを感じるのだけれども、
それと普遍性との関係が気になっている。
そして、それがどれほど、また、どうやったら、他の人に通じるのかということも。
でも、その「経験」について、池田さんが、すなわち、自分のノートだけに書いてきたってこと。
そのことと池田さんの姿とが相まって、ものすごく強い印象を受けたのだった。

終日二十三区

3月11日。奏さんの家に集合して、貸し切りのバスに乗る。
久しぶりにお天気がよい一日だった。
緑色の大きな、普通の路線バスを貸し切り。
奏さんが北九州のアーティスト・イン・レジデンスにいたころの先輩(守さん)の作品らしい。
守さんとも、同乗したほとんどの人とも、私は初対面だった。
守さんのお友達の家にバスを停車し、乗せ、また出発する、ということを繰り返し、
東京二十三区を巡っていく。
私は12時半頃バスに乗った。

私には、それほど馴染みがない、東京。
(私は、生まれてから神奈川県にずっと住んでいる。)
大学時代から東京に通ってはいるものの、
ほとんど、初めての景色が窓の外を流れる。
東京でバスに乗るなど私にはあまりないことで、色々全てが新しかった。
一つの区を通過する度、次々と人が乗ってくる。
みんなは互いに知っているらしく、挨拶が交わされ、
バスの中は和気藹々とした空気が流れている。
しかし、
人が新しく乗る度、守さんは何やらスピーカーにつないだパソコンをいじって、
その区の、夕方の音楽(いわゆる、5時に流れるもうおうちへ帰りましょうの音楽)を流している。

私はみんなの会話を聞きながら、窓の外を眺めている。
すててこをはいて自転車に乗って孫を連れてるおじいさんや、
ひらひらしている窓の洗濯物、
東京の日常を眺めながら、ぼーーっとしていると、
突然5時の音楽。また、5時の音楽。また、5時の音楽。
窓の外は時間が経過しているのに、
バスの中はずっと5時。

守さんがどうして、五時にこだわってるのかはしらなかったけれども、
だんだん、その守さんの、音楽をならそうとパソコンをいじる後ろ姿が
小学校の時に見ていた、おばあちゃんの、台所で漬け物を刻む後ろ姿に見えてきた。

私が乗車してしばらくして、守さんが、私に話しかけてくれた第一声は、
「帰れましたか?」だった。
なんのことかまったくわからず、ぼーっとしていると、
「どこにいたんですか?あのとき」
と言われて、
去年の3月11日のことだとわかった。

守さんは、石巻の人で、あの津波で、今までに作った作品が全部流されてしまったらしい。
それから、
あの音楽は、みんな子供が帰る時間の音楽だと思ってるけど、
実は、防災の音楽で、有事の時に放送できるように、毎日試験として、五時に鳴るようになっているらしい。
守さんは震災の前から、色んな土地のそれをずっと集めていたのだという。

そういうはっきりとしたことは全部、バスの中にいるときは、わからなくて、
ただ、なんとなく、なんの脈略もない「帰れましたか?」という第一声や
その異様な時間の止まった五時の感じ、
夕焼け小焼けとか、鐘の音とかだから、別に緊迫した音楽ではないけれど、
人が乗ってくる度、ああ、また五時か、という感じで、
このバスの時間が止まっていて、でも、バスは走っていて、東京の景色がどんどん移り変わっていって。
小さな女の子が走っていたり、おじさんが自転車にのろうとしてたり、そういうのんびりの日曜の景色。
いつかなくなってしまうもの、いつか時間が止まってしまうもの、
そして私も、バスに乗せられているしかない。

トイレ休憩に、江古田の公園によった。
公園のトイレがいっぱいだったので、コンビニ(サンクス)に移動して、お手洗いを借りた。
そこで、2時46分を迎えることになった。
区長さんの、それこそ「防災放送」がはいって、
黙祷をした。

バスに戻りながら、いつもの会話をした。
バスの中の人達も、その作家の守さんも、その日のお天気のように、本当におだやかだった。
私は、守さんたちのおかげで、そういう一日を過ごした。

Sunday 1 April 2012

異人たちとの夏

大林監督の『異人たちとの夏』を見た。

主人公の両親は、主人公が12歳の時に事故でなくなった。
しかし主人公が40過ぎたある夏の日、
浅草の寄席に行ったら、お父さんにそっくりなひとがいて、
その人に誘われるままおうちに行ってみると、やっぱりお母さんもいた。

死んだはずの親が、
12の時にまさか教えてやれなかったもんねえ、とかいいながら、
花札教えたり、
アイス食べなさい、
ビール飲みなさい、
きゅうりたべなさい、
上着なんか脱ぎなさい、ズボンも脱いじゃいなさい、なに気取ってるの、スイカ食べる?
とか、言ったりして、
主人公はそれがもうなんだかあたたかくってあたたかくって、離れられなくって、ものすごく楽しい時間を過ごす。

やってもらおうなんて思っても見なかったこと。
それが、ものすごく、自然になされていく。

幽霊の親にとっては、「やってあげられなかったこと」。
叶わなかったことに対する目があまりにも温かくて、むねがいっぱいになった。

多分、誰もが、自分には思っても見なかった人生を歩いている。
そんな風に思ったら、
自分が思っても見なかった人生を、他の人は当たり前に生きている、ということもなんだか頭を回って、
それならほんとうにそれぞれに、私が叶えられなかった人生を生きてくれているんだな、という気がした。
逆に言うと、それぞれに生きること、それは誰かの何かを叶えることになっている。
自分の人生に起こらなくても、どこかに起こっていればいいということはあるのではないだろうか。
どれくらい、その代わりはできるだろう?

Saturday 11 February 2012

Max Klinger

ルドン展で、マックス・クリンガーの銅版画、『A Glove(手袋)』シリーズに出会った。

これは、マックス・クリンガーが、美しい女の人が落とした手袋を拾うところから始まるシリーズ。

この中の『Homage (敬意)』では、海に突き出した岩の祭壇に、手袋が海の方を指して落ちていて、そこへ、海からバラの花がそれはもう大量に、どんぶらこっこと流れてきている。

一目で好きになってしまった。
いくら、感謝してもし尽くせないほどの、ばら。
何でそこまで手袋なの、というくらいのシリーズで、
あまりにも過剰で、どこか笑っちゃうと同時に、
ひたすら恐ろしく。
この人を好きになった。

彼女を「表す」手袋があって。
彼女はそこにはいない。
手袋自体が彼女となって。
もしかすると、彼女よりもおっきなものかも知れない。
そして、さわやかにすら感じられる、単純な、たくさんのたくさんの敬意。

私の持つ敬意も、どこか似ていた。
でも、最近は、神格化するよりも、真っ直ぐにみれたらというようなことも思う。

Wednesday 1 February 2012

1月31日のお年賀

The Big Issueという、ホームレスの方々が売っている雑誌がある。
二週に一度発行される雑誌で、一冊300円、そのうち、160円が販売者のお金になる。
貯めたお金で、また雑誌を仕入れ、あまったお金で宿泊施設に泊まるなどして、また、
貯めていくことで、アパートを借りて住所を持つということを目指す、というようなシステムだと聞いていた。
住所がないと、仕事を探す登録すらできないとも聞いていた。

この間、路上でこの雑誌を売っている人がいて、
草間弥生が表紙で、なんとなく、目があって、どきどきしながら、
くださーい、といって一冊買った。
「ここ、良く通るの?」
「はいー、時々通ります。」
「ああ、そう、あのね、まだあるからね、お年賀あげようね。」
「えー?」
「はい、僕は毎年こうしているから。」

5円玉と、5円玉の間に、50円玉がサンドイッチされていて、緑色のひもでむすばれたものと
手書きのお手紙が入っていた。
「お客様へ
平成24年一月吉日。
旧年中はお世話になりました。本年もよろしくお願い致します。」

なんだか、ものすごく感動した。
お年玉をもらった小学生のような気分になった。

どうしていいかわからず、おじさんをみたら、
にこにこしていた。

The poor are wise, more charitable, more kind, more sensitive than we are. In their eyes prison is a tragedy in a man's life, a misfortune, a casuality, something that calls for sympathy in others. They speak of one who is in prison as of one who is 'in trouble' simply. It is the phrase they always use, and the expression has the perfect wisdom of love in it. With people of our own rank it is different.
(中略)
If I got nothing from the house of the rich I would get something at the house of the poor. Those who have much are often greedy; those who have little always share.

from Oscar Wilde 『De profundis』

Wednesday 4 January 2012

あけましておめでとうございます。

新年二日、あまりの混雑に故宮展に挫折し、国立西洋美術館に移動して、ゴヤ展とウィリアム・ブレイク展をみた。
その帰りに友人と会ったとき、彼女が、
「子供の頃は、教科書に載っている人とか、全部今ここにあるものだったよね。
夏目漱石も、山田詠美も、区別無く、全部今ここにあるもの、みたいな感じだったよね。」
と言った。
本当にその通りだと思った。
今も私は、特に、絵画を見ている感じ、芸術を見ている感じというのは、そういう感じなのかもしれなかった。
未分化で、完全で、系統だってない感じ。
プラトンや、ニーチェや、マリーナや、劉生が、私の中で現実の友人のように存在している。
そういえば、誰もかも同様に、教科書に載ってる人は全員死んだ人だと思っていたなあ。
なんだか夢の中にいるような気がした。

それにしても、誰か一人の人の展示をみるというのはすごくいいなあ。
行列に挫折したばかりの私には、すごく、やさしい展示だった。
こんなにそばで、こんなにじっくり、一人の人についてみられるなんて。



説明書きには、
死の谷を人が流れ、闇がそれを眺めている。
闇に近づいていく女の人は、人間の思考の象徴であるとあった。
闇の姿は見えない。
国立西洋美術館『ウィリアム・ブレイク版画展』にて撮影
(エドワード・ヤング 『夜想:嘆きと慰め』のための挿絵, 第54項)