Saturday 21 December 2019

魂をつかんだ生き方

 祖母は足が悪くて車いす生活をしていた。それでもトイレだけは一人で行くのだといって、車いすから手すりをつかんで、一人で立ち上がり、トイレに体を移す、ということを毎日やり続けた。人に助けてもらうよりも、時間が掛かっても、自分で行く方が楽なのだそうだ。
ところがそのトイレの個室の中の移動で、ある日転んで、大腿骨を骨折して、入院、手術した。
それ以来、祖母は食べ物を食べたがらなくなった。内臓はなんでもないのに、水分もとれなくなった。プリンなどを口元に運んでいっても、唇や、舌がまったく動かない。点滴中心の生活になった。
二ヶ月が経った。祖母の手も、足も、点滴の内出血の跡でいっぱいになった。祖母はもう点滴の針が嫌で、自分ではずそうとして、失敗しては、血管を更に傷つけているらしい。それを防ぐために手にミトンもはめられた。
食事を取らなくなって二ヶ月の間に、だんだん起きている時間が短くなって、朝夕の区別がつかなくなった。手術の直後は、傷を修復しようとして体がエネルギーを勝手に消費するのか、お見舞いに行くと5分もせずに疲れて、「気をつけて帰りなさい」と祖母の方から言ってきた。しかし今は、ようやく目を覚ましたと思うと「こんなにはやくにきてどうしたの。おじいちゃんにはあった?もうすぐ来るからあのドアのところをよく見ていて。お店屋さんはもう見てきた?」などと、朝も夕も、今も昔もなく、死んだ祖父と一緒に居るようなことを言ってきたり、祖父だけでなく、死んだ兄弟達の名前をさんざん出して、一緒に旅行しているかのような話をしてきたりする。
 晩年、祖父と祖母は、別々の施設で暮らした。罹った病気が別だったために、同じ施設には入れなかったのだ。
 祖母はずっと気丈で、祖父と離れて暮らしていることも、祖父がついに死んだことも、受け入れてきたけれど、今ここに来て、祖母は毎日祖父と一緒に居るようだ。会うたび、祖母の言葉に表れる、祖父のリアリティは強くなっていく。
もしも祖母が死に近づいているのだとして(そんなことはないと信じ続ける)、近づけば近づくほど、祖父のリアリティが増していくなら、死後の世界というか、魂というものが本当にあるような気持ちになる。
今日は、私一人でお見舞いに行ったのに、「帰りなさい。私は一人じゃないから、大丈夫。」と言われた。
少なくとも、祖母が生きている限り、祖父の魂があることは間違いなく、それはつまり、少なくとも、祖母は、祖父の魂をつかんだ生き方をしてきたということだろう。
手にはめられたミトンを外して、帰れ帰れと言われても、私が手をつないで、一時間くらい一緒に居ると、祖母の顔が祖母の顔に戻ってくる。私の現実のぬくもりによって。私も祖母の魂をつかもうとしている。

Wednesday 18 December 2019

Shutter

茂木ラボのクリスマススペシャル(ふだんとは違う自分になって、作品をひとつしあげて発表し合う会)で、今年出した作品は
身体をつかって自分の声で表現する詩(spoken poetry)で、
入院しているおばあちゃんの詩。


タイトル Shutter

決めつけてはいけない
"食べられない"といっていても
次の日にはバナナジュースを一口飲んでいる
決めつけてはいけない
死んだはずの"夫が迎えにくるからそこをよく見ていて"といっても
次の日には"あの人が死んだことは知っているね"とこちらをさとしてくるのだから。
手にはめられたグローブを外して、預かっていた指輪をはめたら、
安心して眠りにつくのだから。
近づいているのか、遠ざかっているのか。
小さくなっているのか、大きくなっているのか。
決めつけてはいけない。
目を開けるたび、景色は全然違うから。




Friday 11 October 2019

2019年10月11日

 朝、ソファーに座ってコーヒーを飲んでいて気が付いた。
飾っていたおじいちゃんの写真がなくなっている。
ちょうど私の座っている横の席の頭上に、
去年のおじいちゃんの誕生日に、親戚があつまって、おじいちゃんを囲んで家族写真を撮っていて、
それがあるはずだった。

 その席は、いつも母が座るソファーで、母のお父さんなので、そばにおいておくのがいいと思っていた。

 その写真は一度、うらがえっていたことがあった。そのときは、たまたま、落とすなどして、そうなってしまったのかと思っていた。

 今回は、探してみると、たたんで、他の飾り物の陰に隠されていた。

 それで気が付いた。
母は、この写真があるのが、いやなのかもしれない。

 おじいちゃんのいた施設での写真。母も、私も、父も、親戚も、みんな笑顔で立っている。
おじいちゃんはでも、目を閉じてうつむいている。
 もうこのころには、目が見えなかったし、耳は元々悪くって、眠っている時間も長かったから、
私たちが行っても、気づいたかどうか、
施設の人が出してくれたお誕生日ケーキとお茶を、目をとじながら、なんとか口に運んでいくのを最後まで見守って、
たくさん手を握って帰ってきたのだった。
 おじいちゃんは目を閉じてうつむいている、その周りを勝手に囲んで、お誕生日祝いをしている写真だった。

 おじいちゃんの元気な頃の写真は、古いアルバムのセロファンシートのしたにしっかりはいっているから、
それを剥がして出してしまうというよりも、最近の写真を飾っておくことに、
私は大丈夫だけれども、
 母は、もしかしたら、おじいちゃんがなくなってしまった顔を、なくなってしまった事実を、
その写真からいつも感じるのかもしれなかった。

 お風呂に入ろう、というと、母は、そうね、といって、あれこれとわたしの指示にしたがっている。
あそこにいこう、というと、それがいいわね、といって、笑顔になってついてくる。
母は、意志というものを、あまり言葉で出してくることがないけれど、
なんか、今回ばかりは、無言の強い意志を感じた。

Wednesday 9 October 2019

あいちトリエンナーレ


10月9日、あいちトリエンナーレに行ってきた。
愛知芸術文化センターと名古屋市美術館の二会場。




アンナ・ヴィットさん(愛知芸術文化センター)
写真を撮るためにみんな素晴らしい笑顔を作っているのかと思ったら、長い。
あまりにもビシッときまったかっこいい姿なんだけれども、
それを60分間続けて居なくてはならないというのには驚いた。
スーツ姿の人たちが60分間微笑し続けるビデオ。
彼らだって時計をついみてしまう。
そんな素に戻る瞬間を見てしまうことが怖い。人が笑顔に戻る瞬間も。
人生の中の演技と、素というのは、ほんとうにどんなバランスで存在しているだろう。
最高の瞬間にすら、きっと、このゆらぎはあるだろう。





ウーゴ・ロンディノーネさん(愛知芸術文化センター)
たくさんのピエロが存在する部屋。
本当の人かな、いやそんなわけないな、でも足をみたら、生きている、って思った。
でも動かない。
生きているかもしれない、と思いながら、どのピエロと写真をとってもらおうかな、と決めるまで自分の心の動きがなまなましかった。
女の人よりも、男の人の方が安心できる、と感じていることだとか。




タニア・ペレス・コルドヴァさん(名古屋市美術館)

長い髪の毛が自動的に洗浄されているのや、大理石の聖水みたいな台に片目だけコンタクトが浮いているのや、全部で7つの作品があった。
不思議と、人間がばらばらにされているというよりは、会場の中にもう一方の片目のコンタクトをした人がいるかも、という説明書きの影響もあってか、なんだか、ひとりのひとの存在を感じた。


この三つの作品がとっても好きだった。
しかし、それ以外にもタニア・ブルゲラさんの作品(愛知芸術文化センター)で、



番号を入り口で押される。難民となって、涙が出る刺激臭のする部屋に入る、というもので、言葉でわからない人は、実際に涙を出してしまえ、ということで、催涙ガスではなく、ハッカっぽいもちろん安全なものが充満する部屋に入る。そんなの普通に怖い、と思った。
そしてトリエンナーレの会場を出て、新幹線にのる前にお弁当を買うときや、新幹線で隣り合った人などに、このはんこがみられるとき、つい隠さなくちゃと思ったり、
会場を出てなお、というか、会場を出てからが本番で、stigmaというものを意識して、
入る前も、出てからも、ずっと怖い気持ちが続いている。

という風に、本当に美術ってすごい、と思った。
最後は説明に頼れない、自分で感じるしかない、というところ、本当に、本当に、すごい、と思う。


Tuesday 10 September 2019

『久米宏 ラジオなんですけど』

久米宏さんのラジオに呼んで頂きました!
『久米宏 ラジオなんですけど』2019年7月27日(土曜日)の
「今週のスポットライト」のコーナーでした。
https://www.tbsradio.jp/393752
「認知症はその人が大事にしていたことが見える病気」というタイトルで、
本当に力を使ってここにまとめて頂いています。
音声も、このページを最後までスクロールすると、オレンジ色のバーがあり、
その上の三角の再生ボタンを押すと聴けますので、
どうか聴いて下さい!

ラジオに出るなんて人生初でしたし、生放送で、本当に緊張していましたが、
久米さんは、もしかしたらラジオを私の母が家で聴いているかもしれない、
お母様が聴いているのに、お母様の話をしてしまって大丈夫なのか、というふうに、
まず母の気持ちを気遣ってくださいました。
そういうお優しさにほっとして、
最後まで、久米さんと堀井美香さんと対話させていただくことができました。
本当に、幸せな時間でした。。。

呼んで下さったTBSラジオの星迅人さん、本当にありがとうございました!!

お知らせ

河出書房新社から、『脳科学者の母が、認知症になる』を出して頂いて、
あとひと月で一年になる。
この本の編集者の高木れい子さんから、増刷決定(五刷)のお知らせを頂きました。
買って下さった方、読んで下さった方、この一年新しい挑戦をさせて下さった方、
本当に、ありがとうございます。

『脳科学者の母が、認知症になる』は、
アルツハイマー型認知症で、その人がその人でなくなるなんてこと、なかった、
ということに私が気が付くまでの、日常で母を細かく観察した記録、科学的分析、物語です。
2015年に、母はアルツハイマー型認知症と診断されました。

認知症が、物忘れ、徘徊などという言葉で語られると、
もしも認知症になったら、自分が自分でなくなるような気がして怖くなる。
だから、ほんとうにそんなことが起こるのか、起こったとしたら、どんな感じで起こるのか、私にとって、世界で一番よく知っている人物である母について、
私は、もっと細かい言葉で語りたいと思いました。

認知症と診断されたばかりのころ、あるいは、病院に行く前は、
この先どうなってしまうのか、不安で私は毎晩泣いていました。
そういう時期を乗り越える力になる本だと、今、私は思っています。

これからも、どうか多くの方に、読んで頂けますように。

そして私は、生まれてからいままでずっと母と暮らしてきました。
診断から四年。母は「初期」という時期を過ぎているのだろうと思います。
能力で人を見るのではなく、ほんとうに「その人」を見ることはどうしたらできるのだろう、ということを、私は母に教えてつづけられています。
本は、診断から二年半の記録ですが、
最近の出来事はここで少しずつ、また書いていきたいと思っています。


Wednesday 4 September 2019

続・母と娘の物語「たまごをといて」

2019年9月3日の日記。

 夕方仕事から帰宅して、料理をする。
私が料理を始めると、父はお風呂に入る。
 この数年、母と私は一緒に台所に立って、料理をしてきたので、
ここからは、父が一人になれる時間が始まる、そんな合図が、私の帰宅だった。
 ところが、2019年の始め頃から、母は一緒に台所に立つことが難しくなった。
すぐはあはあ言って、疲れてしまう。
 色んな野菜を、違う切り方に、一つ一つ切っていくことは、
覚えておかなければならないことがありすぎてちょっと大変かもしれないから、
例えば、大根だけ切ってもらうとか、
あるいは、私が全部切って、あとは全て混ぜて炒めるだけでいい、という準備をして、母に炒め係になってもらうとか、
徐々に、簡単な方へ移行してはいた。
 しかし、その「炒める」のも、いつしか、
ざっと全体を混ぜ合わせるということをせず、局所を控えめにちょんちょんと触るだけだったり、
折角全て混ぜ合わせるようにしたのに、フライパンの中で、
もやしはもやし、ピーマンはピーマン、お肉はお肉にわざわざ分けてしまったり、
(多分お肉やピーマンが嫌いだから、嫌いな物を避けているのだと思われる)
細かく一つ一つを重ならないように広げたり、
(これは必ずしも悪いことではないのかもしれない)
とにかく細部にこだわって、「全体を見ていない」という印象が強くなった。
どうやって手伝いを頼んだら良いのか、なかなかひらめかず、
私はイライラするようになった。
 母が疲れやすくなったのと、私のイライラとで、一緒に台所に立てなくなってしまった。

 しかし、相変わらず父は、私が台所に立ったタイミングでお風呂に行く。
そうすると母は居間に一人になる。そして横を見ると娘が台所で何かをやっている。
「これはまずい」「自分もなにかやらなければ」「一生懸命やってくれているのだから」と思うのだろう。
(それがなぜわかるかと言えば、ときどき、私が機嫌良く母にすり寄って行ったりすると、
「あーちゃんはいいこね」「いいこ、いいこ」「なんでも一生懸命やってくれているじゃない」という
言葉をくれるからだ。
私はあんなに普段怒ってしまっているのにと、こういうときは泣きたくなるのだ。)
 母は台所に来て、私の様子を確かめ、また居間に戻って、
また不安になって様子を見に来て、
また私が無言だったりして、役に立てそうにないと思うと居間に戻って、をくり返す。
 なにかやりたいと思ってくれているのはあきらかなのだから、「手伝って」と言えば良いのだが、
いざ手伝ってもらえば私はイライラしてしまうことがわかっている。だから私は何も言えないでいる。
 そのうちに母は居間の食卓の上を片付け出す。そこには、母の衣服がどっさりのっているのだ。
いつもいる居間のよく見えるところに洋服がないと、自分で着替えられないからだ。
 そこで母は、何度も、衣服をひらいては、たたみ、どこにしまっていいかわからず、右から左へ、左から右へうつして、また、ひらいては、たたむ。
 そのプロセスで、なにかいいものが見付かると、これまで着ていたものを脱いで、それと取り替える。例えば、靴下を履き替える。あるいは、二重に履く。

 今日も母は、私が台所に立つ間、居間と台所を行き来し続けた。
そして、あれ、こなくなったな、と思うと、衣服を整理していて、
「よいしょ、よいしょ」「よいしょ、よいしょ」という声が聞こえてくる。
 最近は、服をたたむことにも「よいしょ、よいしょ」と繰り返しているし、トイレに行っている間も、扉の向こうからずっと「よいしょ、よいしょ」という声が聞こえ続ける。
 何か一つ一つの作業がとても大変そうなのだ。
 しばらくして母がまた台所に来たとき、私は作業がほぼ完了し、あとは、溶き卵をフライパンにながしこむだけ、というところになっていたので、
ひさしぶりに、「ママ、たまごをといてくれる?」と声を掛けた。
 嬉しそうな顔をして、わたしから三つの卵がぷるんとはいった器と箸を渡されて、母はまた「よいしょ、よいしょ」と数分作業をした。
「これでいいのじゃない?」と渡されたたまごは、三つの黄身がすこしずつ潰れただけのものだった。

 この、全然混ざっていない感じ、全体が苦手な感じ、局所だけの感じ。
母の視野の狭さ、母の恐れ、私はいたたまれなくなって、がしがし混ぜた。
「ちょっとでいいんじゃないの」と母は小さく声を掛けてきた。

 世界が小さく、小さくなってしまうなかで、
「あーちゃん」という言葉がものすごく貴重なものに、今は聞こえる。


Tuesday 16 July 2019

ど忘れをチャンスに変える思い出す力

 茂木健一郎さんの『ど忘れをチャンスに変える思い出す力』(河出書房新社)が発売になりました! 編集協力をさせていただいたので、宣伝を。

 覚えることではなくて、思い出すことが大事。
 暗記ではなくて、自分の生活の中で、自分のやり方で試してみることが大事。
 簡単に言えばそういう本なのですけれど、自分の人生の中で、親や、環境や、
自分の能力不足、タイミングが合わないなど、いろんな事情で、あきらめたこと、
挫折したことを、何一つあきらめなくていいんだ、そういうことこそ思い出して、
状況がまったく変わった今、やってみればいいんだ、とおっしゃいます。

 読んでいると、やりたかったことが頭の中にたくさん蘇って、
これからやりたいことが無限に出てくるような気がします。

 そして自分が今ここにたどり着くことになったきっかけは、
自分の努力や、怠惰もあるけれども、本当に偶然の連続だった、という
記憶の深掘りをしていく喜びがありました。
 自分に意識できていることが全てではなくて、無意識のうちに進行している世界がある。
そちらの方へ注意を向けるレッスンにもなりました。

 アルツハイマー型認知症に話を絞らず、子供からお年寄りまでの「思い出す力」
がまとめられています。編集協力させて頂けて、本当に幸せでした。
 読んで頂けましたらば、幸いです。


















ど忘れをチャンスに変える思い出す力(amazon)

Monday 10 June 2019

生花の記憶


生花の記憶

四月にハワイ島にいったとき
はじめて生花のレイをかけてもらった。

昔の映画をみると、
飛行機のタラップから降りてくると
現地の方がひとりひとりにレイをかけているけれど、
観光客がこんなにも増えた今
そんな習慣は不可能になっている。

しかし今回は、
わたしの習っているフラの先生と一緒だったから、
先生のお知り合いが空港でまっていて、
わたしにまでレイを用意して歓迎してくださったのだ。

人生初のレイはプルメリアで作られていた。
なんていい匂いなんだろう。
生花を首にかけているわけだから
当たり前かもしれないけれど、
夢の中にいるのでは、というほど
ずうっと香っている。
香水のもとが自分の首にあるわけである。
自分の体の熱で花が萎れてしまうのでは、
と手で触るのがこわい。

朝自分で状態のいい花を選んでつんで、糸に連ねていった、
下手だけど、思いはこもっているわよ、とその人はいった。

花は葉っぱでこすれても茶色くなってしまうから、綺麗な花をレイにするほど咲かせるには
いつも手入れが必要だ。
朝咲くもの、夜咲くもの、時期もある。

それをハワイのひとたちは、
毎日髪にさしたり、
友達にプレゼントしたり、
とびっきりのおしゃれにはかかせないものとして楽しんでいる。

メリーモナーク(陽気な王様)という、
野蛮なものとして禁止されて滅びる寸前だったフラを復活させたカラカウア王は、
好奇心いっぱいの、陽気な王様で、
彼を祝福する祭りとして50年以上前に
はじまった年一度のフラの祭典。
フラのオリンピックともいわれるほど、
ハワイの人たちが盛り上がるお祭りで
前夜祭含めて四晩つづく。

わたしはこれをみにいったのだった。
そこに来ている人たちは、
とびっきりのハワイアンドレスをきて、
とびっきりの生花飾りを身につけて、
あの人のあれ素敵ね、とファッションで競い合う。
会場は、だから、スタジアム満員の人の
生花の香りで、夢のようなのだった。

生花飾りひとつ、自分に身につけるということは、
どうやったら美しいか、
植物の選び方、編み方
育て方、
萎れないようにする工夫、
萎れてからの対処、
というように、
自然との付き合いかたを教え、
自然への愛情を深く育むことになるんだなあ、
と感じた。

メリーモナークのあいだ、
日中その街中をパレードが出るのだけれど、
そのパレードには、大地(aina)を大切に、というメッセージをかかげた人がたくさんいた。

今つつじや、たちあおいが本当に綺麗で、
あっとおもって、一輪拝借、
頭にさしてでかけるなんてことは
今の日本でわたしにはできそうもない。
子供だったらかわいいというのはなんで?
欲望に素直になって、それを磨くということしていきたい。

舞台で踊るひとたちは底抜けに
明るく、
この明るさを忘れまい、
と心に決めた旅だった。

Sunday 9 June 2019

2019年6月2日

NPO法人「認知症の人とみんなのサポートセンター」でお話ししてきました。
代表の沖田祐子さんと、副代表の杉原久仁子さん。






















Sunday 21 April 2019

ある日の出来事

4月某日。父からラインで「ママがいなくなった」と連絡があった。
母が合唱が好きなので、自分たちの暮らす駅近くの歌のイベントにいったとき、
トイレで男女に分かれたときに、父が出てきたら、母がどこにもいなかったらしい。

母はGPS付きの靴を履いてくれている。
父と散歩に出る習慣があって、ほぼ毎日履く癖がついているから、
その日もこの靴を履いてくれていて、よかった。

携帯で位置検索をしてみたら、そのイベント場所と家の間くらいに居る。
どうも家に向かって歩いてきているようだ。
5分後また検索してみたら、もっと家に近づいていた。
地図上に、ぴしーーっとピンポイントでマークが出て、本当に頼もしかった。

母は父がいないので、一人で歩いて帰ってきたのだった。
駅から家までの道を母はまだ覚えていた。
どうも女性トイレが混んでいたため、入らないで出てきて、
父がいないので家に向かったようだった。

母の行方がわからなくなったのは、今回がはじめてではない。
昨年秋に、私が名古屋に授業に行っている日に、父から「いなくなってしまった」と連絡が入った。
(このときの出来事がきっかけでGPS付きの靴を購入した。)
デイサービスに通い始めてすぐくらいのときだった。
母が週一で通うことにしたそのデイサービスは、
なんというか、デイサービス感のないところである。
母は、まだ60代であり、体はとても健康で、体力がある。
家の近所のデイサービスはこの場所以外だと平均年齢80代で、
そこになじむことは難しいのではと、ケアマネージャーさんからご紹介いただいた。
スタッフの方々が、まるでディズニーランドのような制服を着ていて、
運動機器があり、料理教室があり、手芸教室があり、やりたいことをその日の気分で選べる。庭を散歩しに出ることもできる。
そこに行って、いままでやったことのないことをやって、新たな趣味ができたら嬉しい、
わたしがダンスを習いに行っているように、習い事にいくような感覚で行けたなら、すごく希望があると思った。

「なにかやりたい」と自分から母が言えるかどうか不安だったけれど
一応迎えのバスに、すんなり乗って、元気な顔で帰ってくる。
「どうだった?」と聞いても、覚えていないから、本当に大丈夫なのか確認することはできない。元気な顔で帰ってくることが、大丈夫な証拠だと思うしかない。
自分が作ったクッキーなり、手芸の作品などを見せてくれ、「どうこれ?」と誇らしげに言われるときもあれば(そういうとき「かわいいね」というと嬉しそうだ)、「これ誰が作ったのかしらね」と言われるときもある。
私が幼稚園のときは、母もこういう気持ちだったのだろうか、と思う。
先生に、ちゃんとやれてるか逐一ききたい、というような。

話は戻る。そこに通い始めたばかりのころ、
母はそのデイサービス施設からいなくなってしまったのだった。
ふと目を離した瞬間に、いなくなっていたらしい。
お庭に出る人と一緒に、出てしまったのかもしれない。
何時間もスタッフの方、ケアマネージャーさん、父が探し回ってくれて、
ようやく夕方見付かったのは、
その施設と家とのちょうど中間地点だった。
施設から家までおそらく7,8キロだろう。

母にどうしていたの? 何があったの? 施設がいやだったの? と聞いても
彷徨ったことすら忘れてけろっとしていた。
「そんなことないわよ」と言われただけだった。

何日か経って、父と母が散歩に出て、あるファミレスに寄ったら、
店員さんに「この間大丈夫でしたか?」と言われたらしい。
あの日、母はいつも父と寄るこの店に入って、
窓際に座って、ずっと外を見ていたらしい。
父が来ないかとずっとまっていたらしい。
お金を持っていなかったし、何もたのまなかったという。
それなのに、母を長く居させてくれたこのお店には、感謝の気持ちで一杯で、
今思いだしても涙が出る。ありがとうございます。

とにかく母は、施設から出て、家に向かって、ファミレスに寄ったり、いろいろしながら、歩いてきたのである。

どうして今日こんなことを書いているかというと、
認知症で徘徊というようなことが言われるけれども、
徘徊と言っても、家に帰ってこようとして迷ってしまうパターンもある、ということを言いたくなったからだ。
家から出て行ってしまうパターンだけじゃない。

家に帰りたいという気持ちをもってくれていて、本当に嬉しい。
そこはママの良いところだから、大事にしないと、と思う。

Sunday 17 March 2019

いくつか文章のお知らせ


文芸評論家小林秀雄さんを学ぶ塾、「池田塾」に通っています。
塾頭は、小林秀雄さんの担当編集者だった池田雅延さん。
塾頭補佐は、茂木健一郎さん。
池田塾の刊行しているweb雑誌「好*信*楽」1・2月号に載せていただいた文章
https://kobayashihideo.jp/2019-01/小林秀雄さんにいただいた向き合う勇気/

「第三文明」三月号のCLOSE-UPでインタビューを掲載していただきましたamzn.to/2t0yIyu

PRESIDENT Online
3月16日 「母が認知症になって脳科学者が考えたこと」https://president.jp/articles/-/27987
3月17日 「“アルツハイマー病で感情が消える”は誤解」https://president.jp/articles/-/27989


祖父の死

最後の投稿から三ヶ月も経っていてびっくり。。。

お正月、祖父が亡くなった。
祖父は、小さい頃、私に本を買ってくれた。
祖父は晩年アルツハイマー病を患った。
目は殆ど見えなかったし、耳も殆ど聞こえなかった。
しかし、私の本が出たとき、施設の方が、
「○○さんが絢ちゃんに本を買ってあげたから、絢ちゃんはこんなに立派になったのですね」と語りかけたら笑ったと、
亡くなった日、施設の方が私を抱きしめて教えてくれた。

亡くなってなお、○○さんお風呂入りましょうね(湯灌である)、○○さん着替えましょうね、と何をするにも声を掛けてくださった。
私も、祖父の髪にはじめてドライヤーを掛けた。
知らせでかけつけたとき、祖父はまだぜんぜんあったかかった。
生と死の切れ目なんかぜんぜんわからないことを教わった。

祖母に祖父の死を伝えたら、「泣くんじゃない。あんたは意気地がないね、90も超えて長生きして、ぜんそく持ちの体で、ほんとうによくがんばった、と私はほめてあげるよ。」と言われた。
骨の前で、「人はみんなこうなるんだよ。よくみておきなさい」と言われた。
祖父はあごの骨がしっかり残って綺麗だった。

「この人は文句一つ言わなかった。旅行に行ってもいつも私の荷物持ち。勝手は私の専門で、ほんとうにやさしい人だった。」

私たちは、お正月にお葬式もできず、年末に用意してしまっていた祝い膳をむしゃむしゃと食べた。

お葬式に友人が贈ってくれた花束をなんとか49日までと思ったら、
菊はそんなのあっさり超えて、つい一週間前まで元気に咲いていた。二ヶ月以上。

そんなこんなな三ヶ月だった。