Sunday 28 September 2008

不可侵の形

人前で話す、
例えば、今お仕事をさせていただいている会社での研究発表など
例えば、何か、意見を求められるというような経験で、
勇気を出して話し始めれば、
あれ、なんだか、遠い。
頭の中を必死で探索して、正解に近いものを、と、出力すると、
あら、遠い。

知識というものが、言葉にしてみると、
なぜだか、で、なんなんでしょうね、という姿に変身してしまう時、
はあ、これは、私の血となり肉となった何かではないのだなあ、と
話しながら証明される。
結局何を話しても、等身大の自分があらわれてしまうものだなあ、と思う。
だったら、はじめから嘘をつかぬが肝要。

こんな小さなエピソード、だけど私にとっては大きな転機。
本当に信じてる方向へ話をするから、
いいですか?
そう思いつつ話すけど、
話した後いつも、
恥ずかしいのはなんで。
だけど、恥ずかしいというときには、その前から覚悟が決まってるに決まってる。

矛盾を抱え込むから、心の中でひずみを解消しようとする動き。
私の心の中の信仰において、
ご神体の形は、さなぎのように、
中で溶けて、新たな姿に変身する。
外からみればまっしろい繭。
絶対不可侵の形。

Sunday 21 September 2008

意識について

強烈な自意識を抱えて、
自分を知ろうとしたり、表現しようとしたり、
でも、
鏡を見た瞬間には、無意識のうちに顔を緊張させ、作り、
言葉を発する瞬間には、様々に飾り、
いつのまにか、影が勝手に踊り回り、増殖し、自意識の存在だけが映し出される。
賢いことや、正しいこと、そのようなことばかりに焦点が当てられ、
そのようなことを主張することが、ただ、自分という存在のアピールに感じられて苦しい。

意識の問題を解くことは自己欺瞞をなくすことなのではないか。

生きるということと、意識の問題を解くことも等しい。
そのような形でのみ、意識の問題は存在する。