Wednesday 16 December 2015

少女が大人になる話

茂木研では、毎年、年の瀬に、クリスマススペシャルといって、
一人一人作品をつくって披露して笑う会をする。

今回は、やっぱり実際に文章を書いて、みんなに披露したくって、
物語を書いてみた。

一つには、最近、なんとなく、この下の絵のことを思い出している。

東京国立博物館で、『大神社展』というのをやっていた時にはじめてみた、
おっきくおっきく描かれた女の神様。
左下の小さな人間に対するこのあまりの縮尺に、のけぞってしまった。

この思い出を手がかりに。


子守明神像(こちらのページより拝借





























『少女が大人になる話』

あるお母さんのもとに、女の子が生まれました。
その子は大変甘やかされて、世間知らずで夢をたくさん抱えた子供に育ちました。
そこそこ聡明だったこともあって、いつしか自信家となり、
そのうち、両親さえもこの子に遠慮をするようになりました。

自分の大きさは、実際に人に向かって試してみないとわからないものです。
この子は、それをやらないで、自分の頭の中だけで大きな人間になってしまったのです。

この子が増長すればするほど、母は縮んでいきました。

はた、とこの子が母の大きさに気がついて愕然としたとき、
ようやく、お母さんは嘆きました。

「あなたには、「そうかもしれないな」というのがない。」

「お母さんにはあなたのような頭がないから、あなたが考えることが正しいと思って、
そうかと聞いてきたけれども、あなたは聞く耳を持たなかった。
だからあなたの前ではお母さんは、どんどん小さくなってしまった。
お母さんの言うことを、そうかもしれない、と聞いてくれたのはお父さんだった。
やっぱりお母さんは、最後にはあなたではなく、お父さんを頼ることになると思う。」

正しい/正しくないよりも、「そうかもしれないな」の方が、人生には大切だったのです。

娘はこの日以来、「そうかもしれないな」と人の話を保留するように努めました。
そうして、どんな言葉も、限られた時間の間だけ存在する肉体から出てくるのだと知りました。

全てを知って発せられた言葉はない。
あるのは、生きて死んでいく肉体の連続。
娘は、自分がどれも背丈に大差の無い稲穂の中で揺れているように思いました。
大差が無いけどこんなに違う。
娘は目を回します。

「正しい/正しくないではなくて、一つひとつをちゃんと味わって、
あなたが、人のために動くようになったなら、あなたも、わたしも、自分にぴったりのサイズの体になれるでしょう。
それを大人というのです。」

お母さんはそう言って、大きな体でにっこり笑いました。

Sunday 13 December 2015

取り替え人形 (400字以内の小説チャレンジ1)



「叶わなかったことを全部やってあげるね」
取り替え人形は言った。

取り替え人形は抜け目がない。
こうであってほしかったけれど、叶わなかったこと、というのをめざとく拾って、やるのだった。
取り替え人形は思っていた。
人間は安心して違っていかなければならない。
選んでしまったことに対して、安心して進めるように、
選べなかったことを自分が引き受けてあげられたら。

取り替え人形は知っていた。
誰かの替わりにはなれない。
人が望む誰かがそうしてくれる必要があったのであって、
自分がしたところで、感謝はされないということを。

だけど取り替え人形は思うのだった。
「ほんとうにそうかな?」

Sunday 6 September 2015

高知、和霊神社

八月。高知。
古くからの友人たち(NとY)と、インドネシアからきた友人(I)とともに、
大繁盛の「ひろめ市場」の片隅で、
日本酒とともにキュウリと鰹のおいしい刺身を食べ、心の中から魑魅魍魎が表れた夜が明けた。
疲れた体に鞭を打ってN君が車を運転してくれて、中心街から15分くらい行く。
本当に個人の家のお庭に止めさせて頂くような形で、「和霊神社駐車場」はあった。
それまではなんだか、高知って都会だなあ、とぼーっとすごしていたのだけれども、
N君が角度の難しいそのお庭でも、全く不安を見せずにぴったり止めることに、
やんややんやいいながらドアを開けたら
急に、なんだか「他のどことも似てない高知」に来た気がした。

和霊神社あっち、みたいな簡潔なボードをたどって、民家の中を行く。
何度か角を曲がると畑がある。自然にコンクリートの道ではなくなって、
ぶどうだったか、キュウイだったか、果物畑かな。
綺麗な水路。山から流れてくるようだ。さらさらさらさら。
なにかいるかとのぞきこみながら、その細道を上る。
集落から畑になって山へ、と自然になっていく感じは、うちと同じだ。
だけど、こんな水路はもうないな、草が茂って、赤とんぼ!なんて気持ちの良いところ、と
顔を上げたら、大きな木の下に着物姿の女の人が立っているとでもいうような感じで、
はっと目を捉えるものがあった。

この土地の人が、この近くに生えていた木を心を込めて削って、「和霊神社」と刻んだのだろうな、という
山に溶け込む、とても線の細い鳥居。
心細いような、心強いような、なんだか異常に美しかった。

人が畑に手をかけるのと同じに、大切にされつづけている神社なのではないのかな。。

ここに最後立ち寄って、坂本龍馬は脱藩していったのだとだけ聞いていた、
そんな大決心、どんなところかと思っていたら、
仰々しくない、
手をかけるという人の姿が見えるような鳥居だった。
なんだかとても感動して、何よりも鳥居をながめてそこを去ったのだった。




Tuesday 11 August 2015

現在ということ

植田君の展覧会『Maria』にお邪魔した。
オープニングの日に、どうしてか今回はお邪魔しようと思っていた。
17時からはレセプションパーティもあるということだったけれども、
なんとなく、17時まで待つより、自分のタイミングで行ってしまいたくなって、
15時には会場についていた。

全ての絵が、女の人が子供を抱いている絵で、
植田君のお母さんが出て行ってしまったこと、
植田君が前に創ったアニメ作品(少年が、自分の胸に刺さった釘を抜いて、
その釘で岩に立ち向かって女の人の像を掘り出す作品)のこと、
植田君が主人公のモデルになった小説『東京藝大物語』(あくまでもフィクション)では、
植田君の奥さんの名前がマリアだということ、
いろいろ思い出しながら、
ついに展覧会の日が来たなあ、と見て回っているうちに、
twitterの告知を観たときに「いいな」と思った絵から離れられなくなった。

この女の子は、子供を抱くには若すぎる。
なんで子供がいなくてはならないのだろう、
なんで、わたしたち、いなくてはならないんだろう、
そんな気持ちもわくにはわいたが、あまりにも二人ともかわいかった。
色が綺麗で、愛しかった。
植田君の絵だからいい、ということではなくて、
植田君の展覧会ということをこの絵の前では忘れた。
誰が描いたとしても、良い、としか言えない。
今回展示された中で、キャンバスに描かれた絵としては、一番小さな絵だ。
このあたりから、わたしの思考は混乱してきたのだった。

いくらなんだろう?と思った。
もしかして、買える値段だろうか。
なんだか、訪れた人が名前を書く台の下にファイルが控えめに置いてあって、
手に取ると価格が書かれていた。
値段を知ってみれば、
「号いくら」という、決まり値では、
失礼に当たると思うくらいに、
キャンバスが化けていた。
訪れた方の名前を観たら、私が二番目の客だった。
これからレセプションで人がたくさんやってくる。
絶対これから売れてしまうだろう。
もしかして、私が買える絵としては、最初で最後なんじゃないだろうか。
今回の展覧会で初めて出た絵の中でダントツに好きな絵が、
たまたま一番小さな絵なわけで、
タイミング的にほとんどの人が観る前で。
名画や、既に価値の定まったものを、私が自分の生涯で買うことが出来るとは思えない。
もう完全にわけのわからない雲に包まれていた。

植田君に、「買いたいとおもってしまって、頭がおかしくなったのかな?」とメールをしたら、全然返事が来なかった。

返事を待ちながらなおその絵を見ていたら、ある方の絵を思い出した。

少し前に、その方の訃報を植田君から聞いた。
藝大の卒業制作展で、何年か前に、その方の絵を、私も一緒に拝見していたそうで、
「ほら、すごく「この絵は良いなあ−。。。」ってみんなが言った絵があったでしょ」
と植田君が言った。
私は思い出すのに時間がかかって、写真を見せてもらって、やっと思い出したのだった。
「僕なんか、本当のことを言って焼き餅を焼いてしまうくらいにいい絵でさあ、、
僕もあのとき観たのが最後で、
親しくつきあっていたわけじゃないんだけど、すごくショックでさあ、、
残念だなあ—、、、」「いやーっ、残念だあーっ」
と植田君は、ショックでそれしか言えないみたいになっていた。

写真で見せてもらった絵と、観た日のことをなるべく鮮明に思い出そうとしてみると、
「これは良い」って、ほんとうにみんなが言っていたのだった。
私はその基準を共有できていなくて、恥ずかしかった。
既に確立された画家の、いい絵はわかっても、そうじゃないとわからないということ。
やっぱり藝大のお友達の、菜穂子ちゃんと話したとき、
菜穂子ちゃんも、「この人の絵をずっと見ていきたいなあー、って気持ちあるじゃない?
楽しみだなあーって。。あの人はほんとそういう人で。だから、本当に、残念」
と言った。

この人の絵はいいなあ、、見続けていきたいなあ、とほんとに楽しみにするようなこと、
そこから出てくる、残念だなあー、、という二人の言葉の響きが、
蘇ってくるのだった。

わたしも、既に価値が決まったすんごく良いものを追うんじゃなくて、
今生きている人の、どうなるかわからない人の、
そういうのを楽しみだなあ、っていいたいな。

いま、私がなんとか買えるお金の、今の私が見続けられる絵が目の前にあって、
もしこれを買ったなら、
これから先色んなものに出会ってもっと色んなことがわかるようになったら、
もっとこの絵の良いところがわかるようになるだろう、
この絵と一緒に育っていける、そんなこともあるんじゃないかな。
そんな気持ちになっていて、
植田君の返事が来る前に、
ギャラリーのオーナーに「これ、買うことができますか?」と言ってしまったのだった。

植田君の寝てる間に、
私は清水の舞台から飛び降りていた。
もう、とりかえしはつかないんで。
植田君はお礼にバームクーヘンを持って自転車で駆けつけてくれた。

展覧会が終わるまで、私のもとには来ない。
写真に撮って観ているが、
私はこの絵を毎日毎日好きになっている。

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*『東京藝大物語』は、私たちが、こうでなければならない、と
知らず知らず身につけてしまった習慣から、
目を覚まさせてくれる小説だと思うのです。
私たちが生きるというのは、こんなにもへんてこで、こんなこともしてよかったって、
茂木さんの本はいつも自由にしてくれます。
私が主人公の植田君から、実際に学んだことは、
目的を達成するということよりも、いかに人が気持ちよく動けるようにするか、
今この場をどんな風に気持ちの良い場所にするか、の方がよほど大事だとでも言う感じ。
誰にも会わず偉大な絵を描くためだけに黙々と作業するというよりも、
植田君はいつも友達に会って、助けてしまう。お茶してしまう。
でも私は、そういうことがなくって、本当にやりたいことができることなんてあるのかな、って思うようになりました。

「下手くそな画学生よ、君たちの芸術には、本当は、世の中を変える力がある。
それほどアートは、人を煽動する、そして洗脳する、そんな力がある。
君たちはアーティストになりたいのか、それとも、作品を通して、世の中を変えたいのか。
お前らはこの世の中をよりよいものに変えるために、どういうポジションを、
目指そうとしているのか。」
(登場人物、福武總一郎さんの演説より抜粋)






Friday 7 August 2015

池田塾でのある発表(2015)

以下は小林秀雄さんの旧ご自宅で、池田雅延さんが月一度開かれている「池田塾」にて
今年私が発表させて頂いた原稿です。

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私の発表は、2013年に発表した部分のくり返しのようなものになります。

小林秀雄『本居宣長(上)』の16章では、
『源氏物語』の准拠説、つまり
この物語を当時の学者たちがどんな風に扱っていたか、ということが書かれています。

この物語のここの部分は、現実にあったこんな出来事がモデルになっている、とか、
ここは、漢籍のこんな教養から出来た話だ、とか、
この人物は、現実にいた誰々だ、とかいうように、
物語の中のことを、現実のことに対応づけることができると、
物語が「説明できた」ことになっていた。
つまりは、現実にベースが見付かること、それが研究するということだった。

そういうことが書かれた上で、小林さんはこんな言葉を発します。
「外部に見附かった物語の准拠を作者の心中に入れてみよ。その性質は一変するだろう。」

物語に対応することが現実に見付かったとして、
それらを全て組み合わせ、結び合わせてみても、もとの物語にはならないじゃないか。
本当に物語を「説明する」というのは、
作者の心に、どんな風にそれらの現実の出来事が映って、どんな意味が見いだされたか、
その心の中でどんな風にその出来事が変質したのか、
ということを追うことだ、
と小林さんは言っているように思います。
この言葉は、私自身にグサリと刺さって、いまのいままで私を驚かせ続ける言葉になりました。

なぜなら、一つには、私自身が学者であり、脳科学をやっているということがあるのです。
現在の脳科学では、意識(心)は脳から生み出される、ということが常識になっています。
けれども、たとえ、意識が脳から生み出されるということが事実だとしても、
意識と現実にある脳とを対応付けるだけでは、准拠説と全く同じで、
意識のことを説明できたことにはならない、と
小林さんにはっきり言われてしまったように思ったのです。
この数十年の間、脳科学は、まさに意識と脳を対応付けることをやってきたのです。
例えば、
我々がこんなことを考えているときには、脳のどこどこが働く、
我々の意識レベルがこれくらいのときには、脳の中にこういう物質が放出されている、
というように、意識と脳とを対応付けてきた。
でも、そうやってばらばらに見付かった物を組み合わせてみたって、確かに脳が出来るだけなのです。
心のことは何にも説明していない。
みんな絶望しているのですが、改めて、
じゃあ私の知りたい心ってなんなのだろう、どうしたらわかるのだろう、
と自分に問いただしてみると、
小林さんの言う「心に入ると、一変する」
その「一変する」ということこそが、私の知りたい心の不思議のように思いました。

このように思ってから、
この問題は随所で顔を出してくるようになりました。
記憶の論文を読んだときもそうでした。
美術館で美術品を見る、そしてしばらくして、どれほど記憶に残っているか、
ということを調べた論文です。
「記憶に残っている」ということをどう判定しているか、というところに
私は非常な違和感を感じたのです。
例えば、仏像だったら、
「その仏像は右手に何を持っていましたか?」という質問に、
正しく「剣」と答えられたら、その仏像が詳細なところまで完全に記憶に残っている、とされていた。
だけど、私が仏像に感動して帰ってきたとき、
友達に、「仏像が右手に剣を持っていてね・・・!」と語ることはまずないと思った。
手でなくても同じです。目がこんな角度で、口がこんな角度で切れ上がっていてね・・・、
そういう現実の像をそのまま写すようなことを言ったって仕方が無いというか、
私は何に感動しているのだろう、
自分の感動にぴったりの言葉ってどんな言葉なんだろう、
どんな言葉で言ったら、仏像のことが本当に説明できたことになるんだろう、
本当にこの仏像のことを言い得た言葉ってどういうものなんだろう、
と思うようになって、
心に映ったかたちを知ること、
そういうかたちで、心を知ることが、私には、言葉で表現する問題になっていきました。

こうなると、もう言葉で実際に表現することでしか、私にとっての「わかる」はないということになってしまいました。
それで今回の発表では、「書く」ということで体験した、はじめの一歩のような話をさせてください。

私は今年、「モギケン一座、新印象派展を観に行く」ということで、
茂木さんと、画家の植田工さんと一緒に、弟子として、お仕事をさせて頂きました。
植田さんは、茂木さんの絵を見ているところなどの絵を描いて、
私は、茂木さんが絵を見て語られることを文章にする、という役割です。
恩蔵絢子という名前をだした上での、聞き書きをさせていただいたのですが、
私自身の考えを書くわけではなくて、あくまでも茂木さんのお考えなので、
主語は「僕」を使うように、と編集の鈴木芳雄さんからご依頼を受けました。
誰かの身になって書く、ということをやらせていただくことができたわけです。

しかし、はじめ、私は、自分がいる意味がわかりませんでした。
茂木さんが直接書かれた方がいいものができるに決まっているからです。
私は、知っていることも、感じられることも、文章力も、茂木さんより小さい。
私が介在してしまうことは、劣化させることだという風に思いました。
実際に、茂木さんがそこでしゃべられた言葉は素晴らしかった。
だから、私は、もう完全に黒子と化して、ただしゃべり言葉にある文法的間違いや、
脱線を、ただ整えることだけに徹したのです。
でも、その原稿は没にされてしまいました。
黒子と化して、自分の心を動かさずに書いたら、人の心を動かす文章にはならなかった。
自分の心を動かさずに書いたら、文章は死んでしまう。
当たり前なのですが、そんなことに初めて気がつきました。

それで、私は、茂木さんがしゃべられたこと全てを書くのではなくて、
茂木さんがしゃべられたことの中で、自分が一番感動したことだけを、
その感動が伝わるように書こう、と思いました。
私が茂木さんの下で学んできた13年間の記憶を総動員して、
あのときこうおっしゃっていた、だから多分この言葉はこんな意味の言葉なんだと思う、
だから私はここまで感動しているんだと思う、
と、この美術館の現場では直接にはおっしゃられなかったことを書かないと、
生きた文章にはならないのかもしれない。
書くのは私なのだから、私を100%働かせて書いた文章じゃないと、人は読んでくれないのだろう、
けれども、茂木さんの実際におっしゃられた言葉の中で、私が感動したことなのだから、
茂木さんと私の「AND」であり、
この書き方だったなら、主語が「僕」でも許されるのだろう、と思いましたし、
誰が主語であれ、文章自体が生きていることが一番大切なことだと感じました。
一つの言葉がちゃんと驚かれ、その驚きが伝わるように努力する、
どこまでできたかはわかりませんが、こういう書き方だったなら、
文章に関わる人全員で、真実を探っていくことになるのだろうと思いました。

些細な発見かもしれませんが、
宣長の、他人の心に映った出来事だけを追うということはどういうことなのか、
文章が文章独自の世界を持つとはどういうことなのか、
について、自問自答したところは、いまのところ以上になります。


(参考)『本居宣長(上)』p179

外部に見附かった物語の准拠を、作者の心中に入れてみよ、その性質は一変するだろう。
作者の創作力のうちに吸収され、言わば創作の動機としての意味合いを帯びるだろう。
宣長が、「源氏」論で採用したのは、作者の「心ばへ」の中で変質し、
今度は間違いなく作品を構成する要素と化した准拠だけである。
彼のこのやり方は徹底的であった。

2013年の池田塾での発表
モギケン一座新印象派を観に行く

Wednesday 8 July 2015

『頭は「本の読み方」で磨かれる』三笠書房

編集協力させて頂いた本、『頭は「本の読み方」で磨かれる』が発売になりました。

この本には、
「一冊の本が全部わからなくてもいい。
わからなくても、読み切ってみれば、雰囲気だけは伝わってくる。
その雰囲気を知っていることと、知らないことは全然違うことなんだ。」
というメッセージがあります。

本はわからないでいいのであって、
わからないから自分は馬鹿なんだと思う必要も無いし、
赤ちゃんが周りの大人たちからわからない言葉のシャワーを浴びるように、
一冊で一つぶんシャワーを浴びられたんだと思えば良い。
難解な問題集や、難しい本を読むのが勉強なわけではなくて、
ありとあらゆる本を読んでいい、そして、本当は、それこそが勉強である。
いろいろ読むからこそ、本当に良い本というのもわかってくる。
本でもなんでも、
素晴らしくなかったら存在価値がないのかというとそんなことはないのであって、
どんなにつまらない本でも、いいところは必ずある、
それを見つけていく方向に私自身人生の舵が切られた感じがしています。
いままで読めないで放り投げていた本の存在感が急に増しました。

良いとか悪いはそんなに簡単に決まるものではないのであって、
私の好き嫌いとまったく関係なく生きる本当の他者が、「わからない」グレーな存在が、
私の中に少しずつ住み着いてくれるようになったと感じています。

手伝わせて頂いたことを感謝している本です。

ご一読頂けると幸いです。



Saturday 4 July 2015

アラスカの夏に思いを馳せて

2013年アラスカの冬、はるなちゃんとわたしは、森に入りたいとおもっていた。
それでアラスカ在住の河内牧栄さんという方についていって、
針葉樹のふかふかに雪の積もった森の中を歩かせてもらった。
スノーシューをはいて。
一歩一歩沈み込んでしまうことに疲れて、ついつい人の歩いたあとを歩いていると、
牧栄さんに「ほらほら!人の後ろじゃなくて、まだ誰も歩いていないところを歩きなよ!!
いつも君は人の後ろをついてくだけの人生なの?」とけしかけられた。

転がったって実際なんにもいたくない。後ろ向きに倒れたって平気。
気温が0度以上になることがないから、
雪は降ってから何日経ったって、一度溶けて固まった「アイスバーン」にはならないで、
ふかふかなままなのだ。
それが冬の分だけつもりつもって、私の足の下に何メートルになるのだろう。

一方、夏になれば、永久凍土の地面がゆるんで、
木々があっちこっちを向いてしまう、
だから葉っぱの茂り方を見て方角を当てるというようなことはできないんだよ、
と牧栄さんが言った。

ゆらゆらの土。ふわふわの雪。
ちいさくて軽いかんじきうさぎが、それでも足跡を残して駆け抜けていく。
私は、大根でも毎回引き抜くように、がしがし歩いて行く。
気付くとはるなちゃんと子供のように競っていた。
黒くて細い針葉樹の先だけが寂しく突き出ていた白い森が、
たったの二時間で人間の足跡でいっぱいになり、
太陽は早くも沈む気配を迎えた。
はーはーはーはー。
一日はこんなにも短い。

牧栄さん撮影


















街では、バスの運転手さんが、
歩いている人はいないか、残っている人はいないかと
ものすごく気を配って運転をしていた。
そういえばこの滞在中ホームレスの人は一人も見かけなかった。
もしもいらっしゃたら、生きていられるはずがないのだ。

朝11時くらい。日の出する街。はるなちゃん撮影


















私たちはなんとかして野生動物に会いたいと思っていた。
こんな厳しいところを生きている動物ってどういう動物なんだろう。
どう過ごしているんだろう。

クリーマーズフィールド(野鳥観察所)にて。
冬だから鳥には出会えなかった。
動物のおしっこをみつけたけど、
もしかすると地元の人の犬の散歩なのかもしれない。
おそらく14時過ぎ。もうすぐ日が暮れる。






















私のあこがれが、肉を帯びて目の前に表れたのは、意外にも博物館でのことだった。
剥製の姿で立っていたoxだった。








(つづく)

Saturday 20 June 2015

暗い冬のお話:フィンランド日記3

つかの間の夏をほんとうに喜んでいる感じがして、
だからこんなに楽しんでいるのかな、
こんなに祝祭的ムードなのかな、と思ってしまうけど、
冬はみんなどうしているんだろう?

12月末に行ったアラスカのことを思い出すと、ちょうど正反対で、
朝の10時50分くらいに日が昇り、午後3時50分くらいには日が暮れたような気がする。
宇宙飛行士のような格好をして、軍隊の冬用のゴム靴を履いて、
外にやっと30分とかまとまった時間、出ていることができる、
というような感じで、
街を歩く人を滅多に見かけなかった。

フィンランドでもやっぱりそうだろうか。
暗い、暗い冬、
どこかでやっぱり楽しそうに過ごしているような気がする。

**
学会が終わった後、どこに行ったかと言えば、森に行ったのだった。
ガイドブックの中、ヘルシンキ近郊で、緑一色に塗りつぶされて何も書いていない島があった。
セウラサーリ島。
森というと、私はどうしても、亜熱帯の森というのを想像してしまうけど、
北の森はやっぱりそういうのとは違うのだった。

ここのところずっと悩んでいることがあって
学会も終わって、そういう考えなければならない問題に森の中で直面したのだけど、
やっぱり、あの研究の言う通り、と思う。
(Folkman, S. & Moskowitz, JT. (2000) Stress, Positive emotion, and Coping. Curr Dir Psychol Sci 9. 115-118)
挫折とか大きな嘆きからの回復力、というのは、
その出来事に対する感情の複雑さに起因する、というやつ。
ある出来事に関して、人間が持つ感情というのは、一個じゃない。
どんなに悲しい出来事でも、その中には良い思い出もあったり、楽しい記憶もあったり、
あるいは自分のユーモアによって、あるいは別のことをやったり、誰かに助けてもらったりして、
問題の真の解決にはならないとしても、どれくらいいろいろな感情を混ぜることが出来るか、ということで、その後の回復の早さが違うらしい。
やっぱり、人生の中には、コントロールできない悲しいことが起きるから、
それと同じくらいに、別のところで、楽しいこと、素敵なことを持てば良い。
自分からも、嫌な変なものがたくさん出てくるから、それと同じくらいに、楽しい部分を持てば良い。
この問題を考えるのが、この森の中でよかったな、、と思った。

森にはきっといろいろな動物がいて、恐ろしい動物もいるし、
冬の闇に包まれたら、きっと怖くて一歩も進めないけれど、
北の優しい光が差し込んで、色んな鳥の声がして、小さな花があちらこちらで揺れる今の時期には、
いつまでも歩き続けることが出来る。

私がオスカー・ワイルドの本を読んで学んだことは、
「困った人は、責めるべきじゃなくて、助けるべきである」ということなのだけど、
それはほんとうに難しいことだな、、
と、鳥の声を聞きながら、気楽に歩いていた。

雑記:フィンランド日記2

ヘルシンキの中央駅、すなわち最も人の行き交う騒がしいエリアに、
突如現れる、巨大なゴミ箱のような、船のような、異様な物。
それがカンピ礼拝堂。























2012年に作られたばかりで、
ここではミサや、結婚式、そういう儀式的なことは一切行われず、
ただ「静寂と、人との出会い」があるだけだと書いてあった。
実際、中に入ってみると、いつまでもいつまでもいたくなるほどに、神聖な気持ちになる。
何があるかと言えば、木の椅子や、クッション。長い蝋燭に、木の小さな十字架。
すべすべのあたたかい木の壁面に、空から卵形に差し込む太陽光。
神聖さというのは、教会の権威とか、儀式とかには寄らないものなのだなあ、と改めて思う。
今生きている人が、一番騒がしい場所でさっと入れて、さっと求めて、出て行ける。
そんな祈りの「デザイン」がされていた。

礼拝堂に対して、街中に置かれた巨大なゴミ箱というのは罰当たりだけれども、
周りの喧噪を吸収してしまうし、
どんな宗教の人でも、私のような観光客でも、誰もが足音を潜めて、腰掛ける、
そんな説得力と、寛容さと、飲み込む力があるのだった。
奇抜というより、reasonableという気持ちがしてくることに、
さすがデザイン大国、と思ってしまった。

















それから、一番心に残っているのは、ある夜に偶然出会わせた、
道路上どこまでもつづく白いテーブルセッティングだ。






















看板によれば、予約した人たちだけが座って良いことになっているのだけれども、
どこまでもどこまでも、いつもの道路に白いテーブルクロスが続いている。

Esplanadiにて。大体午後7時半。























サーブしている人はいないように見えたから、
多分それぞれに持ち寄って、ここでディナーをとるだけなのだ。
青空の下、本当に楽しそうにしていることがものすごく印象的だった。
多分それはとっても気持ちの良いことだから。

気がつけばその日は、6月12日の「ヘルシンキの日」で、
ここは、札幌大通り公園のようないつも賑わっている場所なのだけれども、
(鈴木芳雄さんに札幌大通り公園のようなところがある・・と聞いていたけれどほんとうに、その通りだった。)
いつもより遙かに人がいて、
テーブルを予約していなくても、
芝生で友達同士、シャンパンで夕食を広げているのだった。

この通り沿いのレストランで、
みんなで茂木さんにものすごくおいしいディナーをご馳走になってしまったのだけれども、
その窓越しに、この公園をずっと眺めることができて、
金の糸のような長い髪の女の子二人が、くつろいでワインを飲んでいる様子は、
まるで天使を見るようだった。

お酒をたくさんいただいて、外に出ると、9時半を過ぎていた。
つかの間の夏の、暮れない日のお祝いは、ますます力をつけているように見えた。
騒がしいと言うよりも、妖精の祝祭的に見えるのは、どうしてなんだろう?

田森さんが「この国は、当たり前なことを、当たり前にやっているのがいいよね。
小さな島をみつけたら、その上に家を建てたいし、
(この国では、海や湖に浮かんだ家一軒分のサイズの小さな島に、ちゃんと家一軒が立っているのだった。郵便屋さんはどうするのだろう?)
一部の馬鹿なことをする人のために、全てを禁止するような、
そういうばからしいことをしないのがいい。」
と言っていた。




白夜:フィンランド日記1

『Toward a Science of Consciousness』学会でフィンランドの首都ヘルシンキへ。

北の太陽の光というのは、ものごとをなんとも薄く、白く、してしまうようなところがある。
空港からホテルに直行して、荷物を置いてすぐ、外を歩いてみる。
夕方の4時。夏だというのに、寒い。
日本で言うと、ちょうど、お花見の季節くらいの気温。
ずっと外にいるのにはコートがいる。

フィンランドに来る直前に、藝大美術館でやっている、
フィンランドの作家ヘレン・シャルフベック展を見ていた。
こういう灰色、こういう緑、そうそう、なんともいえないこういう白い光、
本当にこういう色なんだなあ、、
夜はどうなっちゃうのかなあ−、
夏至をひかえた今は、白夜なんだよなぁー。

ヘルシンキ大聖堂。夕方6時15分くらい。


















白夜って、眠れないほど明るくて困るのかと思っていたら、
ぜんぜんそんなことはなく、毎晩九時にはしっかり眠くなって眠っていた。
カーテンもあけっぱなしで、たくさんの夢を見た。
ほんとうは白夜というものをしっかり体験したくって一晩中起きていたいくらいの気持ちだったのに、
眠気に勝てずあっさり眠って、ときどき目を覚ましては、近眼の寝ぼけ眼で、
窓の色を見るのが精一杯だった。

白夜といっても、太陽が一晩中沈まないというわけではなくて、
大体22時50分が日没で、3時50分が日の出だったから、
もちろん夜22時過ぎまで昼間のように明るいということには、
毎日レストランを出る度驚くほどだったのだけど、
実際に22時30頃には夕焼けというのも見ることが出来たし、海に沈む太陽も見たのだった。
けれども、沈んだ後すぐに真っ暗になってしまうのではなく、残光というものがあって、
その残光が完全に消えるひまなく、日の出を迎えるので、日本に比べたらずっと明るいというわけだ。
白夜という言葉の通り、闇に一様に下から光が混ざる感じで、闇が白く、
綺麗な透き通った紺にも、紫にも感じたし、
あまりの眠気で起き上がれない私は、
地上の物を、私たちのベッドのずうっと下からやさしく照らしている感じを白夜というのだと思った。

今回の学会を企画してくれた人には本当に感謝する。
6月9日から13日という、こんな白夜の時期だったし、
しかも、6月12日はヘルシンキの日とガイドブックに書いてあって、
何か起こるのではないかとなんとなく楽しみにおもっていたのだ。

(つづく)

Saturday 18 April 2015

文章のこと

最近、聞き書きというお仕事をさせていただいている。

「聞き書き」というのは、どういう存在なのかしばらく悩んできた。
話をしてくださるご本人が書かれるのが一番面白いし、誤解も無いし、人にも読みやすい。
ご本人もわざわざ私を通すのは、迂回でしかないだろう。
私を通すのは、どうしてもダウングレードになってしまう。


だけど最近見えたのだ。
もちろんこれは、池田雅延
さんが、小林秀雄の文章は肖像画なのだとおっしゃったり、
自分の心の中にあるものと、文章とが、ぴったりと割り符になるように描けとおっしゃったりしてきたことなどが
積み重なったからなのだけど。


語られた言葉の中で、一番私の心が動いたこと、一番私によく聞こえたところ、
そこだけを、一枚の絵として完成させれば良い。
私の心を動かしたように、人の心を動かせるかどうか、そこを気にして描けば良い。
その言葉のよさが伝わるように、その言葉が最も際立つように、描けば良い。
その言葉の絵を描くのだけれど、キャンバスのはじからはじまで手を入れるのは私。


お話になった言葉を、書き起こしただけだとどうしても言葉は死んでしまう。
語り言葉は文法的にめちゃくちゃなことも多いし、それがために勢いで伝わっているところがある。
それを文章では整えなくてはならないし、てにおはなどのこまかい選択でも、どんどん勢いが落ちてしまう。
語ったことを文章にするだけでは、どうしても血は冷めてしまうのだ。
人は、血の通った言葉でなければ、絶対に読んでくれない。
それが一番大事なことなのではないだろうか。


お話になった言葉の勢いを、復活させるために、わたしは自分の驚きを描かなくてはならない。
自分の意見に変えてしまうこととは違う。
自分の意見を述べれば血は通うのだけれど、私はそれほど面白い意見は持っていない。
それに、仕事として求められているのは、あくまでも「聞き書き」なのである。
お話になった人の言葉でなければならない。
だから、お話になった人と、私のANDをとることが必要で、
私に一番聞こえたところを、一つの文章として完成させる、

私とおんなじように人の心が動くように努力する、というのが一番良いのである。
耳に時間的に入ってきたことの中の一つを、空間的に描く、その努力をすれば良いのだ。


それから、誤解を恐れずに、その人の言ったことはこういうことだと思う、というところを言い切らねばならない。
あくまでも私の心の動きを描かなければ、血は通わないのだから。
私が受け取った物だけを、ちゃんと描く。
それがきっと文章という物なのだろう。


この方法だったなら、主語が「僕」であることも抵抗はないし、
文章に関わる人全員で、真実を目指していくということにもなるのだろう。

Monday 30 March 2015

祖母の桜

頭の中に、こうなったらいいな、という理想がある。

例えば、去年のちょうどいまごろ、祖母の体調が悪くなって、
医者にもご家族を集めてください、といわれるような状況で、
「ああ、桜が見られなくて残念だ」
と祖母がほろりと言ったこと。

もうろうとするほど体調の悪いとき、
そんな言葉が出てくることに、私は驚いてしまった。
桜は文化的な風流人だけの物でなく、
私のおばあちゃんの物なのだった。
ぬか漬けがおいしくて、お庭の手入れが好きで、
祖父よりも一日でも遅く死にたいと言っていたおばあちゃんの物なのだった。

祖母は奇跡的にその状況から回復し、
それで一年が経った。
元気になってくれてから、
「おばあちゃん、来年は桜を見に行こうね」と
何か不自由が出る度に言ってきた。

買い物に行くのも大変、お料理をするのも大変になった祖母は、
お弁当を食べることが多くなっていて、
ああ、絶対、お花見のときには、私がちらし寿司を作って、
我が家の目の前に一本立って咲いている桜を見に来てもらうんだ。
あれが一番落ち着いて見てもらえると思うんだ。
桜を見ながら庭で食べるのは無理かなあ、
暖かい日に机といすを出して、外で食べたら最高だと思うけど。
できたら、兄夫婦にもその日はうちに帰って来てもらいたい。
だけど、桜がいつ咲くか、天気がいついいか、暖かいかどうか、
あらかじめ決められないことがいっぱいで、
桜が咲いたと聞いてから、
落ち着かない日々を過ごしていた。

昨日も、自宅から喫茶店まで6キロ範囲の桜を歩いて見て回って、
どこがどのくらい咲いているかとチェックして、うんうん、まだまだ、二分くらい、
きっと4月に入った頃で、お天気のいい日を選べば大丈夫、
いまは仕事の締め切りもあるし、4月に入ってからでちょうど大丈夫・・・
と考えて眠ったら、
今朝、母が興奮しながら「あーちゃん、満開よ!!」と私の部屋に突入してきたのだった。

完全に私は寝ぼけていて、そんなことがあるはずがない、私は昨日見たんですから、それに私今日はやらなきゃいけないことがあるんですから、と思いながら、
もしかして今日とても暖かいなら、一気に咲いてしまったこともありうる?しかも今日は日曜日?少なくとも両親そろっていて、祖母の家まで車を出してもらいやすい・・

「そんなに、満開なの・・・・?」
「満開満開、見てみなさい!」

ああ、じゃあ、今日なのか?ちらし寿司作る準備してない、締め切りは?
締め切りよりおばあちゃんの桜だよ、、
よし、、
と勇気を出してむっくり起きて窓を開け、我が一本の桜を眺めたら、
片腕が見事に見事に咲いていた。

うん、確かに、満開。
でもそれは枝の一つに関してだけであって、
どうしてこんなにも偏っているのか、
これは、三分咲きっていうんじゃないのかな、ママ。
これはね、私が見せたい完璧とは違うんだ。

これはちがうと言おうと思ったら、
母はもう祖母に電話をかけていて、色んな事が進んでいた。

更には父まで午後から雨だから、早く行こう、と言い出す始末で
(私的には、午後から雨なら、そうでない日を選べば良いのでは、と思うのに、話はどんどん進むのだった。)
ちらし寿司も作らずに、とにかく祖母の家に行くことになった。

ついてみると、
なんだか祖母はぼーっとしていた。
どうもあまり体調が良くないみたいだった。
瞬時にこれは、うちに来てもらうのは無理だ、と思った。

でも、祖母の方から、体調が良くないながら、今日は桜をどうしてもみたいんだ、
桜は油断しているとすぐに散ってしまうから、
車の中からでいいから見たいから、連れて行ってくれるかい?
と言うのだった。

桜並木を走る車の中で祖母は、
花が咲いているというよりも、枝だがなんだか赤っぽい、という
二分か、三分の桜を見て、
「見頃だよ」
というのだった。
「きれいだよ、ああ、よかったよ」
というのだった。
「お天気が悪いのか、憎らしいねえー」
というのだった。
「いつ散っちゃうかわからないから、見ておかないと。ああ、きれいだよう」
「あそこは変な時期に枝を切ったみたいだね、馬鹿だねえー」
と絶好調で話すのだった。

そしてはっと思い出したように、
あやちゃんにおいしいものをごちそうしてあげたいから
お寿司屋さんに行こう、といった。

耳が悪いから、本当は私がちらし寿司を作りたくてね、ということをわかってもらうのは大変なのでだまっていた。
みんなでお寿司を食べられるのは嬉しい、と思い直して、
祖母が名前を挙げたお寿司屋さんに向かった。

ついてみたらば、日曜日であり、お昼時であり、お花見シーズン。
ものすごく混んでいた。
でも祖母の出してくれたアイディアだし、ちょっと待つくらいいいのではないか、と思って待っていたら、
その待っている間に、祖母は具合が悪くなってしまったみたいだった。

喜んで、ほがらかにお店で食べる、という状況ではなくなってしまって、
食べたくないけど食べないと、、という感じの中、
祖母は、母の頼んだかき揚げの、
その椎茸みたいなのはおいしいそうだ、といって、
それをもらうと、おいしそうに食べてくれるのだった。
それは、タマネギの焦げたのだった。

「あやちゃん、いっぱいたべなさい。おいしいやつをたべなさい。
あやちゃんにごちそうしてあげないといけない。」
祖母はそればっかりいうのだった。

もっと桜も、天気も、体調も、良い日を選べたかもしれないこと、完璧に用意すること、
それを内心悔やんでこだわる私の目の前に、
三分咲きの桜は見頃であり、
タマネギは椎茸に化ける祖母がいた。

私の完璧を実現したところで、祖母が喜ぶかはわからない。
私はぐったりしている祖母の前で、なるべくにっこりお寿司を口に運んだ。

夢見る理想、こうなったらいいと思うこと、
実際にやれること、できないこと、
こう思ってしまうこと、こうだと思ってもらえること。

白いかわいい花の付く前の、赤い枝の桜道。
これだけは、わたしも、確かに、一緒にきれいだね、と言ったのだった。

(以上2015年3月29日の夜の日記です。)






Monday 16 March 2015

First Northern Lights

**以下は2013年12月26日から4泊6日でアラスカに行ったことを書いた日記です。
大分前に書いていたのですが、少し加筆して、どうしてかいまpublishしようと思いました。

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オーロラの出始めは、空をまたぐ大きな虹のように、半円状にかかる白いもや。
テレビや写真で見たような、空全体に禍々しく広がる緑や赤のカーテンとは全く違った、
普通の、雲と見まごう白いもや。
それが濃く、大きく、高く、なっていけば、
まさしく私たちの知っている「オーロラ」の姿となる。

私がはじめてみたオーロラは、
そういう「オーロラ」ではなかった。

2013年12月26日、アラスカについて一日目、夜の6時くらいから山小屋に向かい、
科学技術の駆使された防寒用のタイツ、スパッツ、
その上にもこもこのズボンに、靴下を二枚はき込んで
さらにスキー用のつなぎのズボンをはいて、
着ぶくれて誰が誰かもわからない姿で、外に立つ。
靴は軍用の、スキー靴よりいかめしいものを借りていた。

空一面に星の輝く夜だった。
オーロラはまだ、出ていないみたいだった。

口をしっかり覆っていないと、
のどにぺたぺた氷が張り付いて、すぐに息苦しくなる。
自分の体液の氷で粘膜が焼け付くなんて事あるのかな。

山小屋の裏の、一面雪の積もった牧場で、
北の空にでるんだよ、といわれて指された方を向けば、
北斗七星があんまり大きくて、手で触れるんじゃないかと思うくらいに近い。
オリオン座は、北斗七星を向いて、右手の山の端に掛かっている。
北斗七星が、反時計回りに高度を高めていくから、
オリオン座は、時間が経てば当然上に移動するんだろうとおもっていたら、
いつまでも上がらないから驚いた。ほぼ同じ高さでうろうろと移っていった。

いくら気合いを入れたって、この寒さでは、いつまでも外にはいられない。
暖を取りにひっきりなしに、山小屋へ入っては出る、
だんだんに、オーロラをみにこの山小屋へやってくる人たちも増えてくる。
そうして午前の一時になった。

今晩は駄目なのかな。
こんなに星の輝く夜でも、でないものなんだ。

でないのも、アラスカの一日。
外に出て1分でひたひたと粘膜にうすい氷がはっていく感触、
マフラーにネックウォーマーにマスクをしていても、
なんだか喉が渇いて息苦しくて、なんどもお湯をもらいに行った。
この、寒さ、この、雪のふかふかさ(雪は0度以下ではとけないから、ずっとふかふかなんだそうだ。つまり、溶けて凍るということがないのだ。)、
この、静けさ、この、星の動き、
ここで出してくれた夕食のサーモンの味、
この、入れ替わり立ち替わりオーロラを見に来る人々と暮らす、山小屋の人達。

山小屋の中は、赤々と燃える大きな暖炉。
オーロラが出ているかどうか、部屋の中からも気がつきやすくするために、
電気はほとんど消えている。
だんだんに、外にわざわざ出て行こうとする人もすくなくなって、
暖炉に向かって、みんな無言で座りこんでいる。
壁に掛かるトナカイの剥製もゆらゆら。
誰かが入ってきたとき、木の床を歩く重そうなスキー靴の足音、
ひそひそ声に、火のぱちんぱちん。
わたしも、なんだか、日本を発って、シアトルで6時間待ちで乗り継いで、フェアバンクスに到着して、
あたり一面真っ白で、ぱちくりしながらバンに乗って、ホテルへ行って、
それから山小屋の人に迎えに来てもらって1時間車に揺られて、、、
と長い長い一日が、火の前でぐるんぐるんまわった。


そういえば、バンの運転手さんのデボーとこんな会話をしたのだった。
(デボーに限らず、アラスカの人達は、オーロラのことを、ノーザン・ライツ、と呼んだ。)

「ずっと聞いてみたかったことを聞いても良いか?
なんで日本人は、そんなにノーザン・ライツが見たいんだ?
この時期に来るのは日本人ばかりだ。こんな寒くて何もないところ。
ヨーロッパ人は来ない。アメリカ人も来ない。」
「ヨーロッパ人はヨーロッパで見られるからかなあ。アメリカ人も来ないの?」
「来ない。でも、こんなにノーザン・ライツに興味を持つのは日本人だけだよ。
まあアメリカ人は、他の何にも興味を持ったりしないのかな。ははは。」
「どうだろう。確かにノーザン・ライツ自体に、日本人は憧れがあるかもしれない。
逆に、興味がないのは何でなの?
デボーにとっては、いつも当たり前にあるからなの?」
「うん。別になんとも思わない。
日本人にとっては、祈る、みたいなことがあるの?宗教?」
「うーん、宗教ではないよ。宗教的感覚ではあるかもしれないけれども、宗教ではない。」
「要するに、spiritualってこと?」
「うーん、なんかそれとも違う気持ちがするんだけど。
例えばね、私たちには、月を拝む習慣がある。
月っていつもそこにあるものでしょう?
でも、私たちの中には、外に出て月に一晩中付き合って、お酒を呑む人もいる。
ただ綺麗だなあ、って思う。
これをやっぱり「文化」っていうんだと思う。何を綺麗と思うかって。
なんでかっていうことを説明することができたらいいんだけど。
何千年も昔から、何億人っていう人が眺めてきたの。
宗教でも、スピリチュアルでもなくって、文化。
そういう習慣がね、ノーザン・ライツのことも見させるんだと思うの。
なんでかっていうことを言えないんだけど。」
「ふう・・・ん。」
「でもさ、それはそれとして、ここは、単純に想像を超えているから。
ノーザン・ライツ、日本では絶対に見られないから、どんな感じか知りたかった。
この-40度っていうのも。ここにいる動物も。森も。
アラスカって、まったく想像できなかったの、私たちにとって。」
デボーはなんだかちょっと納得したような顔をして、一回間をあけてから言った。
「僕もね、一回だけだけど、ノーザン・ライツに驚いたことがあるよ。
子どもの時、家のドアを開けたら、ノーザン・ライツがそこまで降りてきていたんだ。
僕は、ノーザン・ライツの中にいた。
普段はそんな下まで降りてくることは絶対にないんだ。
僕の人生で一回だよ。音がするんだ。ノーザン・ライツのカーテンの音だよ。」
「ええええ?」「それはどういう音・・?」
「なんだろう。うーーん、アルミの板ってわかる?
あれをさ、こう手の中でくしゃって、やった時の音、、、っていうかさ、なんだろう。
なんていったらいいだろう。なんかさ、パチパチって弾けるようなさ・・・」
「アルミ・・・。ノーザン・ライツって、まさに金属のカーテンがしなるっていう感じなのかなあ。
そこにあるものっていうか、触れるものっていうか・・そんな感じなの?
すごいな、私もいつか聞いてみたい。」


なんでかわからないけれど、私の目的は、オーロラを見ること、ではないような気がした。
それはもちろん、見たいし、
こんな着ぶくれた格好をして、はるなちゃんとふたり必死で、もう一度外に出てみるわけだけれども。

そんな風に少し、今日に満足し始めたときだった。
ねばってずうっと外に立っていた、上等のカメラを仕込んでいたおじさんが
「あ!あれ、オーロラだよ!」と声を上げたのだった。

いわれたところに必死で目をこらすと、
山の稜線の一番へこんでいるところに、白いもやがたまっているような感じではあった。
でも、雲なのか、山の向こうにある街の灯りなのか、という感じで、
確かにうっすらあるけどさ・・・と思っていると、
おじさんが、
「あれだよ、あれだよ!ほら、動いているじゃないか!」
というのだった。

そして、そのおじさんの友人達も、
「本当だ、本当だ!」
と騒ぐのだった。

何度見ても、白いもやで、とても動いてはいなかった。

「お父さん、どんだけ目が良いの。。」と奥さんらしき人が言うのでちょっとほっとしたのもつかの間、
その人も
「ああ、ほんとうだ、ほんとうだ、動いているね、あれはオーロラね、見えた見えた!」
と騒ぐのだった。

頭を抱え込みたくなるほど見えなくて、
なんかのまやかしじゃないかと思って、
振り向いて、はるなちゃんの方を見ると、
はるなちゃんも怪訝そうな顔をしていた。
「だよね、みえないよね」といいあわせて、ほっとして、
もう一度空の方に向き直ったら、
急に、もにょもにょと動いて見えたのだった。

一度見えてしまえば、それは、
山の端をくすぐる、神様の白く輝く手のようだった。
もにょもにょもにょと動いていて、その白い手の爪に当たる部分がきらきらと輝いて見えた。
「うわあ」

はるなちゃんにとって、わたしもおじさん達の仲間入りをしてしまった。


はるなちゃんは、怪訝な顔をしつつ、カメラできっちり、その場をおさえてくれた。
(私はー40度でカメラを使うのは不可能だと最初からあきらめてカメラをもっていなかった。)

アラスカにいた4日間、のちのち、
目がちかちかするほどの緑色の絵の具を空に流し込んだようにぐにゃぐにゃと動く、
ダイナミックで美しいオーロラに出会っていく中で、
あれは本当にオーロラだったのかな、という気持ちが、
よぎらないわけではなかったけれども、
一番最初のこの日、見えた!とおもったその時の感動と、
そのもにょもにょと動く指先が、
いまでもはっきりと残っている。
私のはじめてのオーロラ体験は、これである。
あれがなんであったにせよ。

そして、私は人生の中で、確かにそんなアラスカの一日を過ごしたのだった。

****

日本に帰ってきて二週間くらいたったある日、
東京で、夕方4時くらいにぼーーっとタクシーの中から、
ビルの向こうに真っ赤な顔を出し、沈んでいく太陽を眺めていたら、
あれ、ずいぶんと、まだ、高い位置にあるな、という気がした。
12月末のアラスカでは、一番高く昇っても、あそこまで行かなかった、
こんなに赤くまぶしく輝いていなかった、
所狭しと並ぶ東京のビルも、すれ違う車も、太陽を受けて金色に輝いて、
私も、顔を背けたいくらいに、ひりひりとまぶしい。
急に道行く人がやけにのんびり動くように見えた。

****

何かの目的で旅に出る、ということよりも、
毎日の何かが、いつの日かピースとして繋がって、
自分の世界の見え方を変えることがあるんだよなあ、と漠然と思う。

私たちの過ごしたアラスカ4日間も、
今はまだ、何にもならない、たくさんの質感として、私の中で何かを待っている。


シャンダラー牧場にて。4日目。2013年12月29日の深夜。はるなちゃん撮影。


Tuesday 24 February 2015

印象派は『はつ恋』の味

東京都美術館で開催中の『新印象派展』(3月29日まで)のサイトで、
『モギケン一座、新印象派展を見る』として、
茂木健一郎さん、植田工さんと共に登場させていただいて、
私は文章を担当しています。

Vol.1 なんで点描なんかになったの?
Vol.2 色をパレットで、混ぜないで脳で混ぜる!
に引き続き、
Vol.3(最終回) 印象派は『はつ恋』の味
が本日公開されました。

☆ 最終回のみどころ

今回だけでも、文章を、どうか読んでいただけますように!!

また、新印象派の代表=スーラの点描画ということで、
アニメーターの植田工さんが、毎回点描でモギケン一座を素敵に変身させてくださっています。
(今回は、まさか、まさかのシャーロックになりました!ありがとう、植田君。)





この展覧会で、私が一番感動したのが、
今回のサイトのトップに載っている、モリゾの《プージヴァルの庭》でした。
長く眺めてまったく飽きず、
このまま風にまかれて、どこかへ連れて行かれていいような、恋の狂気を覚えます。

楽しみに、東京都美術館へ足を運んでいただけたら、嬉しいです。




Saturday 24 January 2015

仏像の右手問題

一昨年の年末くらいからずっと考えていたことを、ここに書いておこうと思う。

私が一昨年くらいから気になっていたのは物語、とか、記憶、というもので、
こんな論文があった。

美術館に行って被験者に作品を見せる。
作品をただ見て帰ってきた人たちと、
作品を同じ時間だけ見て写真に撮って帰ってきた人たち、
後々どちらの人たちの方が作品のことをよく覚えているか。
(Henkel LA. "Point-and-Shoot Memories. The Influence of Taking Photos on Memory for a Museum Tour." Psychological Science, 2013)

その論文の結果としては、
「ただ見て帰ってきた人たちのほうが記憶に残っている。」

それは、例えば、写真にとってしまうと、
頭の中に残しておかなくてよくなって、
いわば写真が脳の外部装置として使える、というような
extended mindの議論とかと整合的で、
色々想像が膨らむ実験だったのだけれども、

私が一番興味を持ったのは、
その「記憶に残る」ということをどうやって調べているか、ということだった。

そこでは、例えば、仏像の右手に何を持っていたか、
盾か、槍か、刀か、何も持っていなかったか、みたいな感じの質問に
正しく答えられたら記憶に残っているとする、
みたいなやり方が使われていたのだけれども、
これは、私の記憶とは全然違う気がするな、と思った。

私が仏像を見て、感動して帰ってくる。
その時、良いもの見たよ、と持ち帰ってきて、人に伝えるとき、
「あの仏像はね、右手に何を持っていてね・・・」
ということではないような気がした。
そうしたら、
自分がその外にある仏像の何を写し取ってきたのか、
心に映る、ということは、もともとの像とはまったく変わってしまうことをいうのではないか、
もしも、本当に違うものに変質してしまっているとするなら、
自分が見たもののことをどうしたら、他者が納得する形で伝えられるのだろう。
その作品のことを、勘違いとしてでなく、本当に見たと言えるのはどんな表現のことなのだろう。

仏像の右手に何を持っていたか、ということを無視して良いわけじゃ無いと思う。
そこに意味が無かったはずは無いし、
作者のことを思えば、もっと細かく全部正確にすみからすみまで覚えておきたいけれど、
たとえ、そうできたとしても、きっと心に映るということは変質するということだと思っている。

いっこうに進まない自分の考えがもどかしい。