滋賀県立近代美術館の白洲正子さんの展覧会『神と仏、自然への祈り』で
ものすごく印象に残ったものがあった。
(1)夫須美大神坐像
これは東京国立博物館の『伊勢神宮と神々の美術』で一度お目にかかったことがあって、
そのときは、本当に、こんなものはじめてみた、と思った。
本来の日本の形はこういう形なんですか・・・という感じで、
私のギスギスした、「こうでなければならない」というような、「信じる」の在り方が馬鹿みたいに思えるような、
おおらかで、でも、ずーんとくるような、なんだかわからないどっしりとした感じ、それはずっとずっと心に残っていて、
今回これは、私の宿題かも知れないな、と思ったのだった。
(2)円空 観音像群像
森の中の木々一本一本の精霊が現れたのを見るようだった。
(3)十一面観音立像押出仏
円空の観音像群像と同じように、紙に観音様が自然に現れたのを見たような感じで、本当に驚いた。(しかもこれは紙じゃなく、銅板のようなものなのだ。)
(4)ずずい子
これはものすごく恐ろしかった。息の止まるような、心臓まで貫かれるような。
私はこの恐ろしさを味わったことがある、と思った。
青森に行ったときだろうか、チベットのこの絵だろうか、それとも、自分自身に起こった出来事だろうか、
はっきりとしない、けれど、確かに私にとってとても大切で恐ろしい経験と似ていた。
正直に言うと、白洲正子さんのことは、全然知らない。
私とは全然違う人だな、と思う。
でも、今のわたしにない、それ、というような感じが確かにあって、
それが夫須美大神坐像に現れているようなものだという感じがするのだった。
本当に行って良かった。
Sunday 31 October 2010
Saturday 23 October 2010
Friday 1 October 2010
恐山
恐山には、湖が広がっていた。
車を降りると、強烈な硫黄の匂いがした。
その湖には、いかにも硫黄の溶けた、緑や黄色の混じる白濁した河が流れ込み、
沖縄の珊瑚の海のごとくの色をしていた。
濁りはどこへ消えるのか、近づいてみるとなんだかどこまでも透明で、
その透け方は、綺麗というような言葉で言えるようなものではなかった。
後から思えば、心にまで通じるというような透け方なのだった。
山門を入ると、その空間の感じは、灰色感というか、がらっとしていて、
山に囲まれた、不毛の土地、というか、硫黄の匂いと、岩のごつごつとした感じ、
もちろん、立派な本殿、門がたっているのだけれども、
なんだか、印象としては、「がらっとしている」、
そんなところに、木で作られた小さな小屋がいくつか立っていて、
色々なところから煙がたっていて、
よくみると、その小屋には「男湯」「女湯」と張り紙があって、
境内の中だけど、誰もが自由に入れる湯治場なのだった。
昔の小学校のような風情の、木で作られた本堂を覗くと、
端の方に、いくつもの遺影があり、
衣類がたくさん掛けてあったりするのだった。
誰かがいつも着ていたスーツ、そのまま、奥さんが、
朝タンスの中からハンガーに掛かっているそれを「はい」といって出すのが見えるような、
無言で着て出かけるのが見えるような、
なんていうか、どうしても、私は、自分の父の、
いつもかかっている洋服を思い出してしまうくらいに、
そのままあるのだった。
それが、何重にも重なっていっぱい、いっぱい掛けられているのだった。
靴もあった。玄関に脱ぎ捨てられた靴のように、ころ、とあるのだった。
でも、それらには、黒いマジックで名前の書かれた白い布が縫い付けられていた。
また上の方には、ケースに入った花嫁人形がたくさんあった。
男の人の写真が入っている物もあった。
花嫁人形というのは、結婚する前に亡くなってしまった人のためのものらしく、
お嫁さんの姿をした人形で、
亡くなった女の人にお嫁さんの格好をさせてあげ、
結ばれるはずだった相手の写真を入れていると言うことなのか、
はたまた、亡くなったのはその写真の男性で、
お嫁さんの代わりに人形があるということなのかは、
私にはわからなかったのだけれども、
とにかく、そういう風に、たくさんたくさんあるのだった。
賽の河原の方へ歩いて行った。
風車がくるくるまわって、ときどきキュキュキュと音を立てていた。
ところどころ硫黄の濃度が濃すぎて、近寄れない場所もあり、
とにかく石がつまれているのだった。
いままで、「賽の河原」という場所に二つほど行ったことがあったけれど、そこはそのどちらとも違っていた。
その荒野にも、ススキのような茶色い草が、時々生えているのだけれど、
よくみると、結ばれていたりするのだった。
それは、あまりにも微かなもので、気付かないくらいのものだった。
私は、賽の河原は、亡くなった子供を思って、みんなが石を積むところ、そういうことは知っていた。
お話としても、子供が、先立ったことをあやまりながら、親や兄弟やみんなのために石を積んでいると、
鬼が壊しに来て、子供が泣きながら必死で逃げる、だから、親はここにきて、子供のために、草を結んで、
鬼の足に引っかかるようにするんだということは聞いていた。
でも、先に見た衣類も、花嫁人形も、積まれた石も、この、結ばれた草も、あまりにも、自然なのだった。
自然というのは、「私が」という気持ちが消えているというか、
誰かがただただ誰かを思ってやっていったその跡を見ている、という感じなのだった。
そしてそれはすなわち、誰かが本当に生きていた跡を見ているということなのだった。
思いだけがあるのだった。本当にその人が生きていた跡が、ここにはあまりにも自然にあった。
もちろん、生きている私たちの側が石を積み、
死んだ子供が積んだものをみているわけではないのだけれど、
洋服や靴や、とにかく、大量に、色々な物がほんとうに「そのまま」にあるから、
それを着けていただろう人のことが、どうしてもリアルに感じられ、
私の中では色々なことが逆転してしまったのかもしれない。
結局、この賽の河原は、あの湖に通じているのだった。
ここで見る方が、白濁感は強く、寄せてくる波はなんだか、早いのだった。
翌朝は雨が降っていた。もう一度この賽の河原を散歩した。
ここにも小さなお堂があって、その中でしばらく過ごしていた。
やっぱり、スーツやシャツや靴や、写真や、色んな物がかかってた。
このお堂を出て、湖の方へ歩いて行った。
雨のせいか、湖の向こうに見えるはずの山は、
ひたすらガスに覆われて、消えてしまっていた。
この湖自体もなんだかとろっとしたように思われ、
一層白く感じられた。
その時、ああ、魂がとけているようだな、と思った。
ここで、おじいちゃんを呼べば、本当に会えるかも知れない、と自然にそう思った。
おじいちゃんは私が小学校三年生の時に亡くなっていて、
今でも私は何かあるとおじいちゃん!と心の中で呼ぶ癖がついているのだけれども、
特におじいちゃんを思うつもりで来たわけでもなかった。
自分の中では、整理が完全に付いていることで、
特別、何か思うこともなかった。普段、生きている人のことの方が心配だった。
恐山にはいたこさんがいると聞いていて、
もし会えても、口寄せして欲しい人、とくにわからないなんて思ってた。
それなのに、そんなことを思った。
そしたら、突然、スーツや、靴や、色んな物がいっぱい私に押し寄せてきて、
彼らはここにいる、と私は、逆転してしまったんだ、ということを理解して、
それで、なんだか、一気に悲しみが溢れて、思いっきり泣いてしまった。
(2)朝のお勤めのおじさんのこと
私は一人で宿坊に泊まったのだった。
6時半からの、朝のお勤めのとき、
お世話して下さったおじさんがなんだかとても素敵だった。
素直になる、ということを学んだ気がした。
私は、こういうことに疑問を感じている、こういうことでどうしてもひっかかる、
そういうことを考える度に、わかっている、私も自己欺瞞があるんだってことだ、
というふうに、すぐに内省するのをよしとしていたけど、
本当は違って、そういう風にすぐさま、頭が回る振りをして、
ずっと目をそらしているということで、
それだったら、頭が回らない方がましだな、と思ったのだった。
自分に嫌な感情があるということを、すぐになかったことにしてしまうんだけど、
もっと素直になってみよう、と思ったのだった。
地蔵殿へ朝のお勤めにいって、遠慮して後ろの方にたっていたら、
おじさんに「そっちになんかおもしろいものでもあった?」と言われた。
遠慮するのがいいことではない、内省できるのが良いことではない、
色々はがれていく気がした。
恐山を開いた円仁さんの像をみていたら、
「これは円仁さんだけどね、円仁さんといってもわかんないよね、
生きてる人のことだってわからないのに、死んだ人のことなんか言われてもね。」
イントネーションの違いで、わたしにはこう聞こえた気がしたんだけど、
今でもわたしが良いように聞き間違えてしまったんじゃないかと思う。
そのあと、本堂へ移動して、亡くなった方の供養のお勤めがあって、
お焼香があったのだけれども、
その日来ていたお客さんはみな、私よりもずっと年上だったために、
私が若く見えたのか、私の順番になると、おじさんは横へ座って、
「わかる?」といって、手取り足取り教えてくださった上に、見本も見せて下さった。
そのおじさんのすがたは、なんだか本当に力が抜けていて、
それでいて、心が強くて、がしっとした手をしていて、温かかった。
円空仏が3体あったのだけれども、そのことも、
「ああ、これ、週刊誌、なんだっけ、なんとかっていう。
なんとかってのがとりにきてたこともあったよ、これ有名なんだ、一応」
といっていた。
ずっとここで働いている方である。
その言い方があまりにも味があって、ミーハーな感じは一切無い。
それに、どんな人にでも、どんな変な人にでも、
この人は、優しく接することができるだろうな、という感じがするのだった。
偉大なお坊さんに違いない、と思った。
地蔵殿というのは、ご本尊のお地蔵様がいるところだけれど、
そのお地蔵様は袈裟を着ている姿をしていて、大変珍しいものだという。
鬼から逃げ惑う子供を見つけたら、すぐにでも手を広げて隠してあげるためだという。
朝のお勤めはこのお地蔵様とご縁をつなげるためのもので、
お地蔵様はなんでも聞いて下さるから、打ち明けなさい、
とお坊さん(そのおじさんとは別の方。)に言われ、
頭の中で、「私は神奈川県から来た、恩蔵絢子といいます。・・・・」とはじめて、
疑問に感じていることを全て出してみようと心の中で言い始めた。
ところが、すいすいはでてこない。
どこまで、私は抑制をかけているのだろう。
自分の頭の中だけで言うだけなのにそれも言えない。
言葉を選ばず、とにかく言ってみようと思った。
それでも、すぐに、ストップがかかるのがわかった。
それに気がつけただけでも良かったと思った。
きっとそのおじさんのおかげだと思う。
車を降りると、強烈な硫黄の匂いがした。
その湖には、いかにも硫黄の溶けた、緑や黄色の混じる白濁した河が流れ込み、
沖縄の珊瑚の海のごとくの色をしていた。
濁りはどこへ消えるのか、近づいてみるとなんだかどこまでも透明で、
その透け方は、綺麗というような言葉で言えるようなものではなかった。
後から思えば、心にまで通じるというような透け方なのだった。
山門を入ると、その空間の感じは、灰色感というか、がらっとしていて、
山に囲まれた、不毛の土地、というか、硫黄の匂いと、岩のごつごつとした感じ、
もちろん、立派な本殿、門がたっているのだけれども、
なんだか、印象としては、「がらっとしている」、
そんなところに、木で作られた小さな小屋がいくつか立っていて、
色々なところから煙がたっていて、
よくみると、その小屋には「男湯」「女湯」と張り紙があって、
境内の中だけど、誰もが自由に入れる湯治場なのだった。
昔の小学校のような風情の、木で作られた本堂を覗くと、
端の方に、いくつもの遺影があり、
衣類がたくさん掛けてあったりするのだった。
誰かがいつも着ていたスーツ、そのまま、奥さんが、
朝タンスの中からハンガーに掛かっているそれを「はい」といって出すのが見えるような、
無言で着て出かけるのが見えるような、
なんていうか、どうしても、私は、自分の父の、
いつもかかっている洋服を思い出してしまうくらいに、
そのままあるのだった。
それが、何重にも重なっていっぱい、いっぱい掛けられているのだった。
靴もあった。玄関に脱ぎ捨てられた靴のように、ころ、とあるのだった。
でも、それらには、黒いマジックで名前の書かれた白い布が縫い付けられていた。
また上の方には、ケースに入った花嫁人形がたくさんあった。
男の人の写真が入っている物もあった。
花嫁人形というのは、結婚する前に亡くなってしまった人のためのものらしく、
お嫁さんの姿をした人形で、
亡くなった女の人にお嫁さんの格好をさせてあげ、
結ばれるはずだった相手の写真を入れていると言うことなのか、
はたまた、亡くなったのはその写真の男性で、
お嫁さんの代わりに人形があるということなのかは、
私にはわからなかったのだけれども、
とにかく、そういう風に、たくさんたくさんあるのだった。
賽の河原の方へ歩いて行った。
風車がくるくるまわって、ときどきキュキュキュと音を立てていた。
ところどころ硫黄の濃度が濃すぎて、近寄れない場所もあり、
とにかく石がつまれているのだった。
いままで、「賽の河原」という場所に二つほど行ったことがあったけれど、そこはそのどちらとも違っていた。
その荒野にも、ススキのような茶色い草が、時々生えているのだけれど、
よくみると、結ばれていたりするのだった。
それは、あまりにも微かなもので、気付かないくらいのものだった。
私は、賽の河原は、亡くなった子供を思って、みんなが石を積むところ、そういうことは知っていた。
お話としても、子供が、先立ったことをあやまりながら、親や兄弟やみんなのために石を積んでいると、
鬼が壊しに来て、子供が泣きながら必死で逃げる、だから、親はここにきて、子供のために、草を結んで、
鬼の足に引っかかるようにするんだということは聞いていた。
でも、先に見た衣類も、花嫁人形も、積まれた石も、この、結ばれた草も、あまりにも、自然なのだった。
自然というのは、「私が」という気持ちが消えているというか、
誰かがただただ誰かを思ってやっていったその跡を見ている、という感じなのだった。
そしてそれはすなわち、誰かが本当に生きていた跡を見ているということなのだった。
思いだけがあるのだった。本当にその人が生きていた跡が、ここにはあまりにも自然にあった。
もちろん、生きている私たちの側が石を積み、
死んだ子供が積んだものをみているわけではないのだけれど、
洋服や靴や、とにかく、大量に、色々な物がほんとうに「そのまま」にあるから、
それを着けていただろう人のことが、どうしてもリアルに感じられ、
私の中では色々なことが逆転してしまったのかもしれない。
結局、この賽の河原は、あの湖に通じているのだった。
ここで見る方が、白濁感は強く、寄せてくる波はなんだか、早いのだった。
翌朝は雨が降っていた。もう一度この賽の河原を散歩した。
ここにも小さなお堂があって、その中でしばらく過ごしていた。
やっぱり、スーツやシャツや靴や、写真や、色んな物がかかってた。
このお堂を出て、湖の方へ歩いて行った。
雨のせいか、湖の向こうに見えるはずの山は、
ひたすらガスに覆われて、消えてしまっていた。
この湖自体もなんだかとろっとしたように思われ、
一層白く感じられた。
その時、ああ、魂がとけているようだな、と思った。
ここで、おじいちゃんを呼べば、本当に会えるかも知れない、と自然にそう思った。
おじいちゃんは私が小学校三年生の時に亡くなっていて、
今でも私は何かあるとおじいちゃん!と心の中で呼ぶ癖がついているのだけれども、
特におじいちゃんを思うつもりで来たわけでもなかった。
自分の中では、整理が完全に付いていることで、
特別、何か思うこともなかった。普段、生きている人のことの方が心配だった。
恐山にはいたこさんがいると聞いていて、
もし会えても、口寄せして欲しい人、とくにわからないなんて思ってた。
それなのに、そんなことを思った。
そしたら、突然、スーツや、靴や、色んな物がいっぱい私に押し寄せてきて、
彼らはここにいる、と私は、逆転してしまったんだ、ということを理解して、
それで、なんだか、一気に悲しみが溢れて、思いっきり泣いてしまった。
(2)朝のお勤めのおじさんのこと
私は一人で宿坊に泊まったのだった。
6時半からの、朝のお勤めのとき、
お世話して下さったおじさんがなんだかとても素敵だった。
素直になる、ということを学んだ気がした。
私は、こういうことに疑問を感じている、こういうことでどうしてもひっかかる、
そういうことを考える度に、わかっている、私も自己欺瞞があるんだってことだ、
というふうに、すぐに内省するのをよしとしていたけど、
本当は違って、そういう風にすぐさま、頭が回る振りをして、
ずっと目をそらしているということで、
それだったら、頭が回らない方がましだな、と思ったのだった。
自分に嫌な感情があるということを、すぐになかったことにしてしまうんだけど、
もっと素直になってみよう、と思ったのだった。
地蔵殿へ朝のお勤めにいって、遠慮して後ろの方にたっていたら、
おじさんに「そっちになんかおもしろいものでもあった?」と言われた。
遠慮するのがいいことではない、内省できるのが良いことではない、
色々はがれていく気がした。
恐山を開いた円仁さんの像をみていたら、
「これは円仁さんだけどね、円仁さんといってもわかんないよね、
生きてる人のことだってわからないのに、死んだ人のことなんか言われてもね。」
イントネーションの違いで、わたしにはこう聞こえた気がしたんだけど、
今でもわたしが良いように聞き間違えてしまったんじゃないかと思う。
そのあと、本堂へ移動して、亡くなった方の供養のお勤めがあって、
お焼香があったのだけれども、
その日来ていたお客さんはみな、私よりもずっと年上だったために、
私が若く見えたのか、私の順番になると、おじさんは横へ座って、
「わかる?」といって、手取り足取り教えてくださった上に、見本も見せて下さった。
そのおじさんのすがたは、なんだか本当に力が抜けていて、
それでいて、心が強くて、がしっとした手をしていて、温かかった。
円空仏が3体あったのだけれども、そのことも、
「ああ、これ、週刊誌、なんだっけ、なんとかっていう。
なんとかってのがとりにきてたこともあったよ、これ有名なんだ、一応」
といっていた。
ずっとここで働いている方である。
その言い方があまりにも味があって、ミーハーな感じは一切無い。
それに、どんな人にでも、どんな変な人にでも、
この人は、優しく接することができるだろうな、という感じがするのだった。
偉大なお坊さんに違いない、と思った。
地蔵殿というのは、ご本尊のお地蔵様がいるところだけれど、
そのお地蔵様は袈裟を着ている姿をしていて、大変珍しいものだという。
鬼から逃げ惑う子供を見つけたら、すぐにでも手を広げて隠してあげるためだという。
朝のお勤めはこのお地蔵様とご縁をつなげるためのもので、
お地蔵様はなんでも聞いて下さるから、打ち明けなさい、
とお坊さん(そのおじさんとは別の方。)に言われ、
頭の中で、「私は神奈川県から来た、恩蔵絢子といいます。・・・・」とはじめて、
疑問に感じていることを全て出してみようと心の中で言い始めた。
ところが、すいすいはでてこない。
どこまで、私は抑制をかけているのだろう。
自分の頭の中だけで言うだけなのにそれも言えない。
言葉を選ばず、とにかく言ってみようと思った。
それでも、すぐに、ストップがかかるのがわかった。
それに気がつけただけでも良かったと思った。
きっとそのおじさんのおかげだと思う。
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