岸田劉生の静物画をみた。
美術館の中で遠くから、その一枚を見たとき、以前に一度見たことのあった、
岸田劉生の『麗子』の顔が頭の中に重なって、
岸田さんに間違いない、と思った。
湯飲みが二つ。
その両脇にみかんがいくつか。
その奧の壁はなんだか半分外に通じている。
湯飲みの口のその円形はなんだか斜めにちょっとずれていて
全体的にどこか、なにかが歪んでいて、
それなのに、
みればみるほど
「そこにある」感じがする。
その、「そこにある」感じというのは、
私の中では、恐山のお堂のなかにあった、誰かのスーツ、と全く同じ質感だった。
恐山のその、誰かのスーツ、というのは、
亡くなってしまったその人が、いつも着ていたものを、家族の人がそのままにそこに持ってきた、という感じのもので、
お堂の中には、そういった、誰かがいつも使っていた、そのままの、それ、が、たくさんたくさんおさめられている。
そういうものは、私に、「その人がそこにいるはずなのに、その人は死んでいる」、ということを感じさせて、
そんな簡単なことを理解するのが難しいほどだった。
そのスーツの存在感というのは、とてつもなくおおきくて、
「その人がそこにいるはず」ということを、疑いなく思わされてしまうのだった。
きっと、そのスーツを着る人は、この外にいる、
きっと、その湯飲みを使う人はこの絵の外にいる、
それほど湯飲みは「そこに在る」
でも、
その「外」というのが、
めのくらむようなかんじがするのだった。
ただ出かけているだけではないだろう、
今一瞬にいないだけではないだろう、
そういう感じがするのだった。
在る、ということとちゃんと描くと恐山になるのだと思った。
私が見たのはこれなわけではないのだけれども。このページより拝借。
Saturday 18 December 2010
Friday 3 December 2010
夏のような冬の日
Tuesday 16 November 2010
Sunday 7 November 2010
On Love
Joan BaezのI will never marryから。
There's many a change in the winter wind
And a change in the clouds design
There's many a change in a young man's heart
Never a change in mine
機能で人を見たりせず、
全部引き受けるような愛し方。
その人同士で惚れ込んで、誰がなんと言おうと愛する。
仕事も、友人も、恋人も。
コミットし合って。
賭けたら最後、どうなっても、決して後悔はしない。
二人の間にあることは全部一人で持って行く。
どっぷり自分を預けることとは違うんだ。
私はそういう風に生きるんだ。
さあ、これからどうしていくか、考えよう。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
全文:ここより抜粋
Some say that love is a gentle thing
But it's only brought me pain
And the only boy I ever lost
Has gone on the morning train.
I never will marry
I'll be no man's wife
I expect to live single
All the days of my life.
The train pulled out and the whistle blew
With a long and a lonesome mourn
He's gone, he's gone like the morning dew
And left me all alone
I never will marry
I'll be no man's wife
I expect to live single
All the days of my life
There's many a change in the winter wind
And a change in the clouds design
There's many a change in a young man's heart
Never a change in mine
I never will marry
I'll be no man's wife
I expect to live single
All the days of my life.
There's many a change in the winter wind
And a change in the clouds design
There's many a change in a young man's heart
Never a change in mine
機能で人を見たりせず、
全部引き受けるような愛し方。
その人同士で惚れ込んで、誰がなんと言おうと愛する。
仕事も、友人も、恋人も。
コミットし合って。
賭けたら最後、どうなっても、決して後悔はしない。
二人の間にあることは全部一人で持って行く。
どっぷり自分を預けることとは違うんだ。
私はそういう風に生きるんだ。
さあ、これからどうしていくか、考えよう。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
全文:ここより抜粋
Some say that love is a gentle thing
But it's only brought me pain
And the only boy I ever lost
Has gone on the morning train.
I never will marry
I'll be no man's wife
I expect to live single
All the days of my life.
The train pulled out and the whistle blew
With a long and a lonesome mourn
He's gone, he's gone like the morning dew
And left me all alone
I never will marry
I'll be no man's wife
I expect to live single
All the days of my life
There's many a change in the winter wind
And a change in the clouds design
There's many a change in a young man's heart
Never a change in mine
I never will marry
I'll be no man's wife
I expect to live single
All the days of my life.
Sunday 31 October 2010
滋賀にて
滋賀県立近代美術館の白洲正子さんの展覧会『神と仏、自然への祈り』で
ものすごく印象に残ったものがあった。
(1)夫須美大神坐像
これは東京国立博物館の『伊勢神宮と神々の美術』で一度お目にかかったことがあって、
そのときは、本当に、こんなものはじめてみた、と思った。
本来の日本の形はこういう形なんですか・・・という感じで、
私のギスギスした、「こうでなければならない」というような、「信じる」の在り方が馬鹿みたいに思えるような、
おおらかで、でも、ずーんとくるような、なんだかわからないどっしりとした感じ、それはずっとずっと心に残っていて、
今回これは、私の宿題かも知れないな、と思ったのだった。
(2)円空 観音像群像
森の中の木々一本一本の精霊が現れたのを見るようだった。
(3)十一面観音立像押出仏
円空の観音像群像と同じように、紙に観音様が自然に現れたのを見たような感じで、本当に驚いた。(しかもこれは紙じゃなく、銅板のようなものなのだ。)
(4)ずずい子
これはものすごく恐ろしかった。息の止まるような、心臓まで貫かれるような。
私はこの恐ろしさを味わったことがある、と思った。
青森に行ったときだろうか、チベットのこの絵だろうか、それとも、自分自身に起こった出来事だろうか、
はっきりとしない、けれど、確かに私にとってとても大切で恐ろしい経験と似ていた。
正直に言うと、白洲正子さんのことは、全然知らない。
私とは全然違う人だな、と思う。
でも、今のわたしにない、それ、というような感じが確かにあって、
それが夫須美大神坐像に現れているようなものだという感じがするのだった。
本当に行って良かった。
ものすごく印象に残ったものがあった。
(1)夫須美大神坐像
これは東京国立博物館の『伊勢神宮と神々の美術』で一度お目にかかったことがあって、
そのときは、本当に、こんなものはじめてみた、と思った。
本来の日本の形はこういう形なんですか・・・という感じで、
私のギスギスした、「こうでなければならない」というような、「信じる」の在り方が馬鹿みたいに思えるような、
おおらかで、でも、ずーんとくるような、なんだかわからないどっしりとした感じ、それはずっとずっと心に残っていて、
今回これは、私の宿題かも知れないな、と思ったのだった。
(2)円空 観音像群像
森の中の木々一本一本の精霊が現れたのを見るようだった。
(3)十一面観音立像押出仏
円空の観音像群像と同じように、紙に観音様が自然に現れたのを見たような感じで、本当に驚いた。(しかもこれは紙じゃなく、銅板のようなものなのだ。)
(4)ずずい子
これはものすごく恐ろしかった。息の止まるような、心臓まで貫かれるような。
私はこの恐ろしさを味わったことがある、と思った。
青森に行ったときだろうか、チベットのこの絵だろうか、それとも、自分自身に起こった出来事だろうか、
はっきりとしない、けれど、確かに私にとってとても大切で恐ろしい経験と似ていた。
正直に言うと、白洲正子さんのことは、全然知らない。
私とは全然違う人だな、と思う。
でも、今のわたしにない、それ、というような感じが確かにあって、
それが夫須美大神坐像に現れているようなものだという感じがするのだった。
本当に行って良かった。
Saturday 23 October 2010
Friday 1 October 2010
恐山
恐山には、湖が広がっていた。
車を降りると、強烈な硫黄の匂いがした。
その湖には、いかにも硫黄の溶けた、緑や黄色の混じる白濁した河が流れ込み、
沖縄の珊瑚の海のごとくの色をしていた。
濁りはどこへ消えるのか、近づいてみるとなんだかどこまでも透明で、
その透け方は、綺麗というような言葉で言えるようなものではなかった。
後から思えば、心にまで通じるというような透け方なのだった。
山門を入ると、その空間の感じは、灰色感というか、がらっとしていて、
山に囲まれた、不毛の土地、というか、硫黄の匂いと、岩のごつごつとした感じ、
もちろん、立派な本殿、門がたっているのだけれども、
なんだか、印象としては、「がらっとしている」、
そんなところに、木で作られた小さな小屋がいくつか立っていて、
色々なところから煙がたっていて、
よくみると、その小屋には「男湯」「女湯」と張り紙があって、
境内の中だけど、誰もが自由に入れる湯治場なのだった。
昔の小学校のような風情の、木で作られた本堂を覗くと、
端の方に、いくつもの遺影があり、
衣類がたくさん掛けてあったりするのだった。
誰かがいつも着ていたスーツ、そのまま、奥さんが、
朝タンスの中からハンガーに掛かっているそれを「はい」といって出すのが見えるような、
無言で着て出かけるのが見えるような、
なんていうか、どうしても、私は、自分の父の、
いつもかかっている洋服を思い出してしまうくらいに、
そのままあるのだった。
それが、何重にも重なっていっぱい、いっぱい掛けられているのだった。
靴もあった。玄関に脱ぎ捨てられた靴のように、ころ、とあるのだった。
でも、それらには、黒いマジックで名前の書かれた白い布が縫い付けられていた。
また上の方には、ケースに入った花嫁人形がたくさんあった。
男の人の写真が入っている物もあった。
花嫁人形というのは、結婚する前に亡くなってしまった人のためのものらしく、
お嫁さんの姿をした人形で、
亡くなった女の人にお嫁さんの格好をさせてあげ、
結ばれるはずだった相手の写真を入れていると言うことなのか、
はたまた、亡くなったのはその写真の男性で、
お嫁さんの代わりに人形があるということなのかは、
私にはわからなかったのだけれども、
とにかく、そういう風に、たくさんたくさんあるのだった。
賽の河原の方へ歩いて行った。
風車がくるくるまわって、ときどきキュキュキュと音を立てていた。
ところどころ硫黄の濃度が濃すぎて、近寄れない場所もあり、
とにかく石がつまれているのだった。
いままで、「賽の河原」という場所に二つほど行ったことがあったけれど、そこはそのどちらとも違っていた。
その荒野にも、ススキのような茶色い草が、時々生えているのだけれど、
よくみると、結ばれていたりするのだった。
それは、あまりにも微かなもので、気付かないくらいのものだった。
私は、賽の河原は、亡くなった子供を思って、みんなが石を積むところ、そういうことは知っていた。
お話としても、子供が、先立ったことをあやまりながら、親や兄弟やみんなのために石を積んでいると、
鬼が壊しに来て、子供が泣きながら必死で逃げる、だから、親はここにきて、子供のために、草を結んで、
鬼の足に引っかかるようにするんだということは聞いていた。
でも、先に見た衣類も、花嫁人形も、積まれた石も、この、結ばれた草も、あまりにも、自然なのだった。
自然というのは、「私が」という気持ちが消えているというか、
誰かがただただ誰かを思ってやっていったその跡を見ている、という感じなのだった。
そしてそれはすなわち、誰かが本当に生きていた跡を見ているということなのだった。
思いだけがあるのだった。本当にその人が生きていた跡が、ここにはあまりにも自然にあった。
もちろん、生きている私たちの側が石を積み、
死んだ子供が積んだものをみているわけではないのだけれど、
洋服や靴や、とにかく、大量に、色々な物がほんとうに「そのまま」にあるから、
それを着けていただろう人のことが、どうしてもリアルに感じられ、
私の中では色々なことが逆転してしまったのかもしれない。
結局、この賽の河原は、あの湖に通じているのだった。
ここで見る方が、白濁感は強く、寄せてくる波はなんだか、早いのだった。
翌朝は雨が降っていた。もう一度この賽の河原を散歩した。
ここにも小さなお堂があって、その中でしばらく過ごしていた。
やっぱり、スーツやシャツや靴や、写真や、色んな物がかかってた。
このお堂を出て、湖の方へ歩いて行った。
雨のせいか、湖の向こうに見えるはずの山は、
ひたすらガスに覆われて、消えてしまっていた。
この湖自体もなんだかとろっとしたように思われ、
一層白く感じられた。
その時、ああ、魂がとけているようだな、と思った。
ここで、おじいちゃんを呼べば、本当に会えるかも知れない、と自然にそう思った。
おじいちゃんは私が小学校三年生の時に亡くなっていて、
今でも私は何かあるとおじいちゃん!と心の中で呼ぶ癖がついているのだけれども、
特におじいちゃんを思うつもりで来たわけでもなかった。
自分の中では、整理が完全に付いていることで、
特別、何か思うこともなかった。普段、生きている人のことの方が心配だった。
恐山にはいたこさんがいると聞いていて、
もし会えても、口寄せして欲しい人、とくにわからないなんて思ってた。
それなのに、そんなことを思った。
そしたら、突然、スーツや、靴や、色んな物がいっぱい私に押し寄せてきて、
彼らはここにいる、と私は、逆転してしまったんだ、ということを理解して、
それで、なんだか、一気に悲しみが溢れて、思いっきり泣いてしまった。
(2)朝のお勤めのおじさんのこと
私は一人で宿坊に泊まったのだった。
6時半からの、朝のお勤めのとき、
お世話して下さったおじさんがなんだかとても素敵だった。
素直になる、ということを学んだ気がした。
私は、こういうことに疑問を感じている、こういうことでどうしてもひっかかる、
そういうことを考える度に、わかっている、私も自己欺瞞があるんだってことだ、
というふうに、すぐに内省するのをよしとしていたけど、
本当は違って、そういう風にすぐさま、頭が回る振りをして、
ずっと目をそらしているということで、
それだったら、頭が回らない方がましだな、と思ったのだった。
自分に嫌な感情があるということを、すぐになかったことにしてしまうんだけど、
もっと素直になってみよう、と思ったのだった。
地蔵殿へ朝のお勤めにいって、遠慮して後ろの方にたっていたら、
おじさんに「そっちになんかおもしろいものでもあった?」と言われた。
遠慮するのがいいことではない、内省できるのが良いことではない、
色々はがれていく気がした。
恐山を開いた円仁さんの像をみていたら、
「これは円仁さんだけどね、円仁さんといってもわかんないよね、
生きてる人のことだってわからないのに、死んだ人のことなんか言われてもね。」
イントネーションの違いで、わたしにはこう聞こえた気がしたんだけど、
今でもわたしが良いように聞き間違えてしまったんじゃないかと思う。
そのあと、本堂へ移動して、亡くなった方の供養のお勤めがあって、
お焼香があったのだけれども、
その日来ていたお客さんはみな、私よりもずっと年上だったために、
私が若く見えたのか、私の順番になると、おじさんは横へ座って、
「わかる?」といって、手取り足取り教えてくださった上に、見本も見せて下さった。
そのおじさんのすがたは、なんだか本当に力が抜けていて、
それでいて、心が強くて、がしっとした手をしていて、温かかった。
円空仏が3体あったのだけれども、そのことも、
「ああ、これ、週刊誌、なんだっけ、なんとかっていう。
なんとかってのがとりにきてたこともあったよ、これ有名なんだ、一応」
といっていた。
ずっとここで働いている方である。
その言い方があまりにも味があって、ミーハーな感じは一切無い。
それに、どんな人にでも、どんな変な人にでも、
この人は、優しく接することができるだろうな、という感じがするのだった。
偉大なお坊さんに違いない、と思った。
地蔵殿というのは、ご本尊のお地蔵様がいるところだけれど、
そのお地蔵様は袈裟を着ている姿をしていて、大変珍しいものだという。
鬼から逃げ惑う子供を見つけたら、すぐにでも手を広げて隠してあげるためだという。
朝のお勤めはこのお地蔵様とご縁をつなげるためのもので、
お地蔵様はなんでも聞いて下さるから、打ち明けなさい、
とお坊さん(そのおじさんとは別の方。)に言われ、
頭の中で、「私は神奈川県から来た、恩蔵絢子といいます。・・・・」とはじめて、
疑問に感じていることを全て出してみようと心の中で言い始めた。
ところが、すいすいはでてこない。
どこまで、私は抑制をかけているのだろう。
自分の頭の中だけで言うだけなのにそれも言えない。
言葉を選ばず、とにかく言ってみようと思った。
それでも、すぐに、ストップがかかるのがわかった。
それに気がつけただけでも良かったと思った。
きっとそのおじさんのおかげだと思う。
車を降りると、強烈な硫黄の匂いがした。
その湖には、いかにも硫黄の溶けた、緑や黄色の混じる白濁した河が流れ込み、
沖縄の珊瑚の海のごとくの色をしていた。
濁りはどこへ消えるのか、近づいてみるとなんだかどこまでも透明で、
その透け方は、綺麗というような言葉で言えるようなものではなかった。
後から思えば、心にまで通じるというような透け方なのだった。
山門を入ると、その空間の感じは、灰色感というか、がらっとしていて、
山に囲まれた、不毛の土地、というか、硫黄の匂いと、岩のごつごつとした感じ、
もちろん、立派な本殿、門がたっているのだけれども、
なんだか、印象としては、「がらっとしている」、
そんなところに、木で作られた小さな小屋がいくつか立っていて、
色々なところから煙がたっていて、
よくみると、その小屋には「男湯」「女湯」と張り紙があって、
境内の中だけど、誰もが自由に入れる湯治場なのだった。
昔の小学校のような風情の、木で作られた本堂を覗くと、
端の方に、いくつもの遺影があり、
衣類がたくさん掛けてあったりするのだった。
誰かがいつも着ていたスーツ、そのまま、奥さんが、
朝タンスの中からハンガーに掛かっているそれを「はい」といって出すのが見えるような、
無言で着て出かけるのが見えるような、
なんていうか、どうしても、私は、自分の父の、
いつもかかっている洋服を思い出してしまうくらいに、
そのままあるのだった。
それが、何重にも重なっていっぱい、いっぱい掛けられているのだった。
靴もあった。玄関に脱ぎ捨てられた靴のように、ころ、とあるのだった。
でも、それらには、黒いマジックで名前の書かれた白い布が縫い付けられていた。
また上の方には、ケースに入った花嫁人形がたくさんあった。
男の人の写真が入っている物もあった。
花嫁人形というのは、結婚する前に亡くなってしまった人のためのものらしく、
お嫁さんの姿をした人形で、
亡くなった女の人にお嫁さんの格好をさせてあげ、
結ばれるはずだった相手の写真を入れていると言うことなのか、
はたまた、亡くなったのはその写真の男性で、
お嫁さんの代わりに人形があるということなのかは、
私にはわからなかったのだけれども、
とにかく、そういう風に、たくさんたくさんあるのだった。
賽の河原の方へ歩いて行った。
風車がくるくるまわって、ときどきキュキュキュと音を立てていた。
ところどころ硫黄の濃度が濃すぎて、近寄れない場所もあり、
とにかく石がつまれているのだった。
いままで、「賽の河原」という場所に二つほど行ったことがあったけれど、そこはそのどちらとも違っていた。
その荒野にも、ススキのような茶色い草が、時々生えているのだけれど、
よくみると、結ばれていたりするのだった。
それは、あまりにも微かなもので、気付かないくらいのものだった。
私は、賽の河原は、亡くなった子供を思って、みんなが石を積むところ、そういうことは知っていた。
お話としても、子供が、先立ったことをあやまりながら、親や兄弟やみんなのために石を積んでいると、
鬼が壊しに来て、子供が泣きながら必死で逃げる、だから、親はここにきて、子供のために、草を結んで、
鬼の足に引っかかるようにするんだということは聞いていた。
でも、先に見た衣類も、花嫁人形も、積まれた石も、この、結ばれた草も、あまりにも、自然なのだった。
自然というのは、「私が」という気持ちが消えているというか、
誰かがただただ誰かを思ってやっていったその跡を見ている、という感じなのだった。
そしてそれはすなわち、誰かが本当に生きていた跡を見ているということなのだった。
思いだけがあるのだった。本当にその人が生きていた跡が、ここにはあまりにも自然にあった。
もちろん、生きている私たちの側が石を積み、
死んだ子供が積んだものをみているわけではないのだけれど、
洋服や靴や、とにかく、大量に、色々な物がほんとうに「そのまま」にあるから、
それを着けていただろう人のことが、どうしてもリアルに感じられ、
私の中では色々なことが逆転してしまったのかもしれない。
結局、この賽の河原は、あの湖に通じているのだった。
ここで見る方が、白濁感は強く、寄せてくる波はなんだか、早いのだった。
翌朝は雨が降っていた。もう一度この賽の河原を散歩した。
ここにも小さなお堂があって、その中でしばらく過ごしていた。
やっぱり、スーツやシャツや靴や、写真や、色んな物がかかってた。
このお堂を出て、湖の方へ歩いて行った。
雨のせいか、湖の向こうに見えるはずの山は、
ひたすらガスに覆われて、消えてしまっていた。
この湖自体もなんだかとろっとしたように思われ、
一層白く感じられた。
その時、ああ、魂がとけているようだな、と思った。
ここで、おじいちゃんを呼べば、本当に会えるかも知れない、と自然にそう思った。
おじいちゃんは私が小学校三年生の時に亡くなっていて、
今でも私は何かあるとおじいちゃん!と心の中で呼ぶ癖がついているのだけれども、
特におじいちゃんを思うつもりで来たわけでもなかった。
自分の中では、整理が完全に付いていることで、
特別、何か思うこともなかった。普段、生きている人のことの方が心配だった。
恐山にはいたこさんがいると聞いていて、
もし会えても、口寄せして欲しい人、とくにわからないなんて思ってた。
それなのに、そんなことを思った。
そしたら、突然、スーツや、靴や、色んな物がいっぱい私に押し寄せてきて、
彼らはここにいる、と私は、逆転してしまったんだ、ということを理解して、
それで、なんだか、一気に悲しみが溢れて、思いっきり泣いてしまった。
(2)朝のお勤めのおじさんのこと
私は一人で宿坊に泊まったのだった。
6時半からの、朝のお勤めのとき、
お世話して下さったおじさんがなんだかとても素敵だった。
素直になる、ということを学んだ気がした。
私は、こういうことに疑問を感じている、こういうことでどうしてもひっかかる、
そういうことを考える度に、わかっている、私も自己欺瞞があるんだってことだ、
というふうに、すぐに内省するのをよしとしていたけど、
本当は違って、そういう風にすぐさま、頭が回る振りをして、
ずっと目をそらしているということで、
それだったら、頭が回らない方がましだな、と思ったのだった。
自分に嫌な感情があるということを、すぐになかったことにしてしまうんだけど、
もっと素直になってみよう、と思ったのだった。
地蔵殿へ朝のお勤めにいって、遠慮して後ろの方にたっていたら、
おじさんに「そっちになんかおもしろいものでもあった?」と言われた。
遠慮するのがいいことではない、内省できるのが良いことではない、
色々はがれていく気がした。
恐山を開いた円仁さんの像をみていたら、
「これは円仁さんだけどね、円仁さんといってもわかんないよね、
生きてる人のことだってわからないのに、死んだ人のことなんか言われてもね。」
イントネーションの違いで、わたしにはこう聞こえた気がしたんだけど、
今でもわたしが良いように聞き間違えてしまったんじゃないかと思う。
そのあと、本堂へ移動して、亡くなった方の供養のお勤めがあって、
お焼香があったのだけれども、
その日来ていたお客さんはみな、私よりもずっと年上だったために、
私が若く見えたのか、私の順番になると、おじさんは横へ座って、
「わかる?」といって、手取り足取り教えてくださった上に、見本も見せて下さった。
そのおじさんのすがたは、なんだか本当に力が抜けていて、
それでいて、心が強くて、がしっとした手をしていて、温かかった。
円空仏が3体あったのだけれども、そのことも、
「ああ、これ、週刊誌、なんだっけ、なんとかっていう。
なんとかってのがとりにきてたこともあったよ、これ有名なんだ、一応」
といっていた。
ずっとここで働いている方である。
その言い方があまりにも味があって、ミーハーな感じは一切無い。
それに、どんな人にでも、どんな変な人にでも、
この人は、優しく接することができるだろうな、という感じがするのだった。
偉大なお坊さんに違いない、と思った。
地蔵殿というのは、ご本尊のお地蔵様がいるところだけれど、
そのお地蔵様は袈裟を着ている姿をしていて、大変珍しいものだという。
鬼から逃げ惑う子供を見つけたら、すぐにでも手を広げて隠してあげるためだという。
朝のお勤めはこのお地蔵様とご縁をつなげるためのもので、
お地蔵様はなんでも聞いて下さるから、打ち明けなさい、
とお坊さん(そのおじさんとは別の方。)に言われ、
頭の中で、「私は神奈川県から来た、恩蔵絢子といいます。・・・・」とはじめて、
疑問に感じていることを全て出してみようと心の中で言い始めた。
ところが、すいすいはでてこない。
どこまで、私は抑制をかけているのだろう。
自分の頭の中だけで言うだけなのにそれも言えない。
言葉を選ばず、とにかく言ってみようと思った。
それでも、すぐに、ストップがかかるのがわかった。
それに気がつけただけでも良かったと思った。
きっとそのおじさんのおかげだと思う。
Sunday 12 September 2010
Friday 3 September 2010
Winogrand
(Untitled by Winogrand from http://www.masters-of-photography.com/W/winogrand/winogrand_flip.html)
最初、この人は落ちていて、最後に笑っているその瞬間だと思った。
周りの人は、わらってて、それもまた、変だけど、
死刑執行人かもしれない。
なんかわらっちゃうしかなかったかもしれない。
風船とかあるから、
やっぱり楽しい大道芸かもしれないけど、
よくみると、やっぱり落ちてる人、舌みたいの出てるように見える。
とても好きな写真。
楽しい大道芸の中の死ぬ瞬間。
Monday 30 August 2010
あたたかな日のこと
Friday 20 August 2010
Tuesday 17 August 2010
Marina Abramovicの作品の中にかいてあったこと。
Art vital
no fixed living-place
permanent movement
direct contact
local relations
self-selection
passing limitations
taking risks
mobile energy
no rehearsals
no predicted end
no repetition
extended vulnerability
exposure to chance
primary reactions
やはりあまりにも、すごいと思う。
Marinaのすごさは、この通りに彼女が生きていることだ。
no fixed living-place
permanent movement
direct contact
local relations
self-selection
passing limitations
taking risks
mobile energy
no rehearsals
no predicted end
no repetition
extended vulnerability
exposure to chance
primary reactions
やはりあまりにも、すごいと思う。
Marinaのすごさは、この通りに彼女が生きていることだ。
Friday 6 August 2010
七月のこと
気が付いたら、あっという間の一ヶ月。
毎日、喫茶店に行って、やることをやって、
自分の感情からはできるだけ焦点を外して、
大切なもののことを考える練習をする
という、繰り返しの日々だった。
でも、そんな間に起こった大切な事、いくつか。
山下残という人のパフォーマンスを見に行こう、と友人に誘ってもらった。
事前に、「チケット料金の代わりとして、パフォーマンスと交換しても良いと思う品を持ってきてください」
というような趣旨のことが言われていて、
作品と交換できるものっていったら・・・命をかけるくらいに大切なものでなくてはならないんじゃないか、と思って、
どうしようかと考えたり、
でも自分が作品を作ることがこの先もしあったら、観客に対して強いることはあるだろうか、と考えたりした。
結局、ウィトゲンシュタインの「哲学宗教日記」を買って、その中に一枚、写真を挟んで持って行った。
それまでその人のことも作品のことも、全く知らなかった人に対して、今の私ができる最大限のことだった。
大切なものの交換ってどんなことだろう、とどきどきしながら見に行った。
その帰り道、友人と、議論になった。
作品の見方について。
そのときのせいいっぱいということについて。
その数日後、その友人は私を巣鴨の盆踊りに誘ってくれた。
その盆踊りでは、サラリーマンのおじさんが、安定した腰で、ミニタオルを首の後ろに挟みながら、
何十年と身体に染みついた動作で、軽々と、だけど、今しかない、というように踊っていて、
また、
一人の白い浴衣を着て、赤い帯を締めた少女が、これまた、自分の喜びをかみしめながら、
でも呼びかければすぐにでも、はい、といって笑顔を見せるような感じで、ほんとうにしなやかに踊っていたのが、
なんだか本当に今でも心に残る七月だった。
毎日、喫茶店に行って、やることをやって、
自分の感情からはできるだけ焦点を外して、
大切なもののことを考える練習をする
という、繰り返しの日々だった。
でも、そんな間に起こった大切な事、いくつか。
山下残という人のパフォーマンスを見に行こう、と友人に誘ってもらった。
事前に、「チケット料金の代わりとして、パフォーマンスと交換しても良いと思う品を持ってきてください」
というような趣旨のことが言われていて、
作品と交換できるものっていったら・・・命をかけるくらいに大切なものでなくてはならないんじゃないか、と思って、
どうしようかと考えたり、
でも自分が作品を作ることがこの先もしあったら、観客に対して強いることはあるだろうか、と考えたりした。
結局、ウィトゲンシュタインの「哲学宗教日記」を買って、その中に一枚、写真を挟んで持って行った。
それまでその人のことも作品のことも、全く知らなかった人に対して、今の私ができる最大限のことだった。
大切なものの交換ってどんなことだろう、とどきどきしながら見に行った。
その帰り道、友人と、議論になった。
作品の見方について。
そのときのせいいっぱいということについて。
その数日後、その友人は私を巣鴨の盆踊りに誘ってくれた。
その盆踊りでは、サラリーマンのおじさんが、安定した腰で、ミニタオルを首の後ろに挟みながら、
何十年と身体に染みついた動作で、軽々と、だけど、今しかない、というように踊っていて、
また、
一人の白い浴衣を着て、赤い帯を締めた少女が、これまた、自分の喜びをかみしめながら、
でも呼びかければすぐにでも、はい、といって笑顔を見せるような感じで、ほんとうにしなやかに踊っていたのが、
なんだか本当に今でも心に残る七月だった。
Wednesday 14 July 2010
Friday 25 June 2010
シルヴァプラーナ湖のほとりにて
ニーチェがシルス・マリアに夏の間暮らし、シルヴァプラーナ湖の畔を散歩していて
永劫回帰のインスピレーションを得たと言われている岩がある、と聞いていた。
その岩を探して、歩いた。
親に一時間くらいでみつかるはずだからと説得して連れてきてしまったのに、
歩いても歩いてもそれらしきものがなく、
さらには、雪の残る湖の風が本当に冷たくて、凍えそうだった。
焦った私は、たまたま通りかかった人に
「ニーチェの岩を知っていますか?」と聞くと、
「????岩?どんな・・」
「わたしも、よくわからないのですが、ニーチェの・・・」
「????ごめんなさいね、私もここの人じゃないの。石?そこらへんにいっぱいあるけれど・・・」
確かにどれってわかるんだろうか・・と思ったけれど、
その人に、
「どっちにしろ、ここまでいったら、引き返すより、隣村までいった方が早いわよ。」
「隣村にいって、サンモリッツまで帰るバスはあるでしょうか・・・」
「大丈夫!バスはね、あそこに見えるお城の横に橋が架かっているから、その横から出てるから!
よくわかんないけど、この先に滝があるから、その辺りなら石はもっといっぱいあるわよ!
みつかるといいね、よくわからないけど(笑)!」
と教えてもらうと、みんなの顔に希望のあかりが灯って、また歩いて行くことができた。
(隣村まであるけば丁度湖を半周したことになるのだけれども、
こっちの半周のどこかにあるはずだと情報を仕入れていたし、
両親も、同じ道をまた引き返していくのが憂鬱だったようで、ほっとしていた。
でも結局2時間も歩かせることになってしまったのだった。)
それで、ああ、これは間違いない、と思った岩がこれである。
ここを境に、風景が一変した。
厳しく(冬だから余計に)寂しい針葉樹の一本道が、がらりと開けて、
まるでハイジにでも出てきそうな草原へと変わる。
ニーチェと同じ場所で、私が全く同じインスピレーションを得られるということはないのだけれども、
この一変ぷりというのはなんだか見事で、
私も覚悟を決めてがんばろう、と思ったのだった。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
チューリッヒ、サンモリッツ、ツェルマット、ジュネーヴ、パリ、と移動した9泊11日の旅だった。
親にとってスイスは憧れだったらしく、なんとか企画して、これが親との初海外旅行になったのだけれども、
随分体育会系の旅になり、
親にしてみれば、何で岩?とかそういう感じのことも多かったかも知れず、
更には初めてスリにもあったりして、
本当に反省しているけれど、
ジュネーヴでは大学時代の友達が、卒業以来会っていなかったにもかかわらず、
なんとtwitterで私を見つけてくれたことをきっかけに、私の両親を含めて案内してくれたり、
最後のフランスでは、突然兄が登場し、特別な旅になったのだった。
もう、とっくに日本に帰ってきているのだけれども。。。
Saturday 5 June 2010
ニーチェの家
Thursday 3 June 2010
Wednesday 2 June 2010
サンモリッツ
両親と今スイスに来ている。
今日、チューリッヒからサンモリッツに移動した。
サンモリッツは素晴らしい。
市の中心からすこし離れた場所のホテルにいるからだろうか、
ほんのちょっと観光シーズンに早いからだろうか、
ほとんど人がいない。閑散としている。
雪をかぶった鋭角の岩山に囲まれ、雪の風の吹き込む、小さな土地で、
空は灰色の雲が覆っている。
一周4キロほどの静かな湖を中心に広がっている街。
湖の畔の、たんぽぽと見たことのない種類のクローバーの生えた草原に佇まいの良い教会がたっている。
山の雪が混じっているのか、ミスト状の冷たい空気。
まだ、厚めのコートが必要なくらいに寒い。
孤独に為るための場所、そんな気さえする。
ここでしばらく暮らせたらどんなにいいだろう。
今日、チューリッヒからサンモリッツに移動した。
サンモリッツは素晴らしい。
市の中心からすこし離れた場所のホテルにいるからだろうか、
ほんのちょっと観光シーズンに早いからだろうか、
ほとんど人がいない。閑散としている。
雪をかぶった鋭角の岩山に囲まれ、雪の風の吹き込む、小さな土地で、
空は灰色の雲が覆っている。
一周4キロほどの静かな湖を中心に広がっている街。
湖の畔の、たんぽぽと見たことのない種類のクローバーの生えた草原に佇まいの良い教会がたっている。
山の雪が混じっているのか、ミスト状の冷たい空気。
まだ、厚めのコートが必要なくらいに寒い。
孤独に為るための場所、そんな気さえする。
ここでしばらく暮らせたらどんなにいいだろう。
Sunday 16 May 2010
二つの本より、仮面の下の「首」
岡本太郎「美の呪力」(新潮文庫より抜粋)
面との出会い。
幼かった頃の思い出である。[中略]
一日中、障子をしめきりのうす暗い座敷で、黙々と机に向かってものを書いていた母。
若く、ひどい苦悩に動揺していた時代だった。やせた真っ青な顔。大きな眼で
狂ったように前方を見すえ、黒髪をバサッと背に垂らして、異様な気配だった。
ほとんど動かない背中。振り向きもしない。
あやされたり、にっこりとほほ笑みかけてくれたという記憶はない。
親なし子のように、私は一日、外で遊んだ。
真昼の陽の中で孤独な幼児の心に、ふと閉ざされた部屋の、
透明な母の影が、傷口のようにズレて浮かんでくる。
あの黒髪をとおした母の横顔。・・・それは蒼白い面であった。
ところで夕方、遊び疲れるころ、忽然と恐怖的な事態が身に押し寄せてくる。
うす暗くなった横丁から真赤な鼻をテラテラさせた天狗がとび出してきて、私に襲いかかる。
その後ろから何人かの子が揃って大声をあげ、私を追っかけてくるのだ。
それは通り二つほど隔てた向うの、私より五つ六つ大きい子供たちだ。まったく不思議だった。
同じ町の中でも道筋がちがい、まして年齢がそのくらい離れると一緒に遊ぶことはないし、
ふだんは全然つきあわない子供たちなのだ。それが夕刻になると、真赤な天狗の面をかぶって
私に迫ってくるのだ。不思議な執拗さで。他の子もいるのに、いつも私だけをねらって襲ってくる。
天狗なんて決して信じていなかったし、それに、面自体、幼い私の眼にも型どおりの、
俗悪な天狗だった。そしてかぶっているのがどこの子であるかも、ちゃんと分かっている。
ただ真っ赤に飛び出した鼻が、毎夕、遮二無二襲ってくるとき、
何か、人間集団の意地悪さ、酷薄さ。
地層が崩れてくるような圧迫感で、じわじわっと身に迫る。
どろんと淀んだ夕闇のなかの、ゆがんだ世界の重み。
それに私はおびえたのだ。
[中略]
真っ赤な面に襲われた私は家の中に駆け込む。恐怖で身体じゅうが引きつっている。
しかしその恐怖感、事件を、母に、「蒼白の面」に話して何になるのだ。
幼な心にそう直感した。私は訴えなかった。
だから母は私が夕刻、震えながら家に駆け込んでくる意味がわからなかった。
あの残酷な体験を私はただ一人で耐えなければならなかった。
太宰治 「人間失格」(青空文庫より抜粋)
自分の人間恐怖は、それは以前にまさるとも劣らぬくらい烈しく胸の底で蠕動(ぜんどう)していましたが、
しかし、演技は実にのびのびとして来て、教室にあっては、いつもクラスの者たちを笑わせ、
教師も、このクラスは大庭さえいないと、とてもいいクラスなんだが、と言葉では嘆じながら、
手で口を覆って笑っていました。自分は、あの雷の如き蛮声を張り上げる配属将校をさえ、
実に容易に噴き出させる事が出来たのです。
もはや、自分の正体を完全に隠蔽(いんぺい)し得たのではあるまいか、
とほっとしかけた矢先に、自分は実に意外にも背後から突き刺されました。
それは、背後から突き刺す男のごたぶんにもれず、
クラスで最も貧弱な肉体をして、顔も青ぶくれで、
そうしてたしかに父兄のお古と思われる袖が聖徳太子の袖みたいに長すぎる上衣(うわぎ)を着て、
学課は少しも出来ず、教練や体操はいつも見学という白痴に似た生徒でした。
自分もさすがに、その生徒にさえ警戒する必要は認めていなかったのでした。
その日、体操の時間に、その生徒(姓はいま記憶していませんが、名は竹一といったかと覚えています)その竹一は、
れいに依って見学、自分たちは鉄棒の練習をさせられていました。
自分は、わざと出来るだけ厳粛な顔をして、鉄棒めがけて、えいっと叫んで飛び、
そのまま幅飛びのように前方へ飛んでしまって、砂地にドスンと尻餅をつきました。
すべて、計画的な失敗でした。
果して皆の大笑いになり、自分も苦笑しながら起き上ってズボンの砂を払っていると、
いつそこへ来ていたのか、竹一が自分の背中をつつき、低い声でこう囁(ささや)きました。
「ワザ。ワザ」
自分は震撼(しんかん)しました。ワザと失敗したという事を、
人もあろうに、竹一に見破られるとは全く思いも掛けない事でした。
自分は、世界が一瞬にして地獄の業火に包まれて燃え上るのを眼前に見るような心地がして、
わあっ! と叫んで発狂しそうな気配を必死の力で抑えました。
面との出会い。
幼かった頃の思い出である。[中略]
一日中、障子をしめきりのうす暗い座敷で、黙々と机に向かってものを書いていた母。
若く、ひどい苦悩に動揺していた時代だった。やせた真っ青な顔。大きな眼で
狂ったように前方を見すえ、黒髪をバサッと背に垂らして、異様な気配だった。
ほとんど動かない背中。振り向きもしない。
あやされたり、にっこりとほほ笑みかけてくれたという記憶はない。
親なし子のように、私は一日、外で遊んだ。
真昼の陽の中で孤独な幼児の心に、ふと閉ざされた部屋の、
透明な母の影が、傷口のようにズレて浮かんでくる。
あの黒髪をとおした母の横顔。・・・それは蒼白い面であった。
ところで夕方、遊び疲れるころ、忽然と恐怖的な事態が身に押し寄せてくる。
うす暗くなった横丁から真赤な鼻をテラテラさせた天狗がとび出してきて、私に襲いかかる。
その後ろから何人かの子が揃って大声をあげ、私を追っかけてくるのだ。
それは通り二つほど隔てた向うの、私より五つ六つ大きい子供たちだ。まったく不思議だった。
同じ町の中でも道筋がちがい、まして年齢がそのくらい離れると一緒に遊ぶことはないし、
ふだんは全然つきあわない子供たちなのだ。それが夕刻になると、真赤な天狗の面をかぶって
私に迫ってくるのだ。不思議な執拗さで。他の子もいるのに、いつも私だけをねらって襲ってくる。
天狗なんて決して信じていなかったし、それに、面自体、幼い私の眼にも型どおりの、
俗悪な天狗だった。そしてかぶっているのがどこの子であるかも、ちゃんと分かっている。
ただ真っ赤に飛び出した鼻が、毎夕、遮二無二襲ってくるとき、
何か、人間集団の意地悪さ、酷薄さ。
地層が崩れてくるような圧迫感で、じわじわっと身に迫る。
どろんと淀んだ夕闇のなかの、ゆがんだ世界の重み。
それに私はおびえたのだ。
[中略]
真っ赤な面に襲われた私は家の中に駆け込む。恐怖で身体じゅうが引きつっている。
しかしその恐怖感、事件を、母に、「蒼白の面」に話して何になるのだ。
幼な心にそう直感した。私は訴えなかった。
だから母は私が夕刻、震えながら家に駆け込んでくる意味がわからなかった。
あの残酷な体験を私はただ一人で耐えなければならなかった。
太宰治 「人間失格」(青空文庫より抜粋)
自分の人間恐怖は、それは以前にまさるとも劣らぬくらい烈しく胸の底で蠕動(ぜんどう)していましたが、
しかし、演技は実にのびのびとして来て、教室にあっては、いつもクラスの者たちを笑わせ、
教師も、このクラスは大庭さえいないと、とてもいいクラスなんだが、と言葉では嘆じながら、
手で口を覆って笑っていました。自分は、あの雷の如き蛮声を張り上げる配属将校をさえ、
実に容易に噴き出させる事が出来たのです。
もはや、自分の正体を完全に隠蔽(いんぺい)し得たのではあるまいか、
とほっとしかけた矢先に、自分は実に意外にも背後から突き刺されました。
それは、背後から突き刺す男のごたぶんにもれず、
クラスで最も貧弱な肉体をして、顔も青ぶくれで、
そうしてたしかに父兄のお古と思われる袖が聖徳太子の袖みたいに長すぎる上衣(うわぎ)を着て、
学課は少しも出来ず、教練や体操はいつも見学という白痴に似た生徒でした。
自分もさすがに、その生徒にさえ警戒する必要は認めていなかったのでした。
その日、体操の時間に、その生徒(姓はいま記憶していませんが、名は竹一といったかと覚えています)その竹一は、
れいに依って見学、自分たちは鉄棒の練習をさせられていました。
自分は、わざと出来るだけ厳粛な顔をして、鉄棒めがけて、えいっと叫んで飛び、
そのまま幅飛びのように前方へ飛んでしまって、砂地にドスンと尻餅をつきました。
すべて、計画的な失敗でした。
果して皆の大笑いになり、自分も苦笑しながら起き上ってズボンの砂を払っていると、
いつそこへ来ていたのか、竹一が自分の背中をつつき、低い声でこう囁(ささや)きました。
「ワザ。ワザ」
自分は震撼(しんかん)しました。ワザと失敗したという事を、
人もあろうに、竹一に見破られるとは全く思いも掛けない事でした。
自分は、世界が一瞬にして地獄の業火に包まれて燃え上るのを眼前に見るような心地がして、
わあっ! と叫んで発狂しそうな気配を必死の力で抑えました。
Saturday 15 May 2010
Friday 14 May 2010
やたらと旅づいて思うこと
わたしのような慎重派の人間は理由のわからないままにやってみなければならない
これは言って/やって意味があるとわかってするのは、リスクをとったことにならない。
表現することの唯一の意義は、それがリスクをとることだから、ということのように思った。
なぜそんなことを言う/やるのかという理由は、後になって様々なつながりがみえてくることもあるだろう。
+人は素通りすることも含めて、私とはirrelevantな意味を見いだすに違いない。
ただし言った責任は全て負うべきである。
これは言って/やって意味があるとわかってするのは、リスクをとったことにならない。
表現することの唯一の意義は、それがリスクをとることだから、ということのように思った。
なぜそんなことを言う/やるのかという理由は、後になって様々なつながりがみえてくることもあるだろう。
+人は素通りすることも含めて、私とはirrelevantな意味を見いだすに違いない。
ただし言った責任は全て負うべきである。
Thursday 13 May 2010
旅写真:御柱
今年は7年に一度の大祭、御柱祭りの年である。
どうしてもいきたかったけれど、なかなか、上手くいかなかった。
もう、諏訪大社の上社、下社は終わってしまったけれど、
どうしても、見てみたくて、その姿を見に行った。
ここは、諏訪大社上社前宮。
そのすっくとした立ち姿。まったく異質の姿だった。
命をかけられている、という感じが本当にした。戦いを思わせるほど勇壮で、気高い。
祭りを見たことないのに、命をかけた熱狂がこだまするような、
一目ですぐそれと分かる姿。どうしたらこんな肌になるのだろう。皮をむかれたそのなめらかな、生々しい質感。でも、
その背面の、山からずっと、人によって引かれてきた、その痕にドキリとする。
「御小屋の山の樅の木は里に下りて神となる」
お祭りの時に、木を山から運びながら歌われる、木遣り唄には、そう伝えられるらしい。
この唄を、いつか本当に聞いてみたい。
一つの神社に4本の柱が建てられる。
写真は、前宮一之御柱。
4本はそれぞれ、本当に違った人が立っているような、異なる質感を持っていた。
前宮三之御柱
前宮はなんだか本当に気持ちの良い場所に立っていた。
小さいけど勢いの良い清流が流れている。
昔、沖縄本島のある御嶽でみた看板に、「昔豊かな森だったこの辺りを村人が通る度に、霊気に打たれるので、これはただ事ではないと時の王府に願い出て拝所にしてもらった」というようなことが書かれていた。
人がここは、と思った場所が神の場所になるのであって、
神の場所だから拝むというのではないのであるということを、なんだか思い出した。
どんなところを、ここは、と思うかという所に、土地の精神というのがあるのだろう。
諏訪の土地では、本当に爽やかな、清流の流れる、気持ちの良いところが選ばれていた。
歩いて、上社の前宮、本宮を回ったのだけれども、
このあたりはなんだか本当にすさまじい。
小さなほこらにまで、ちいさな御柱がたてられ、
本当にそこら中にあるのだった。
今年その全ての御柱が、建てかえられるのだろうか。
茅野の駅から前宮までの間にも、小さなものから大きなものまでほんとうにたくさんの柱を見た。
前宮の建てかえられた柱を見て思えば、
それらはまだ建てかえられる前の柱だったのだろう。
それらの姿は本当に静かで(もちろん特別な姿なのだけれども)、
だからこそ、建てかえられたばかりの前宮の一之御柱が目に入ったときに、
本当に、はっとしたのかもしれない。
生々しく、神々しい、本当に人が立っているかのような、命吹きこまれた柱だった。
町中の御柱祭りのポスターの祭りの人々の顔が忘れられない。
本当にいつか行けますように。
Sunday 9 May 2010
旅日記:沖縄
久高島へ渡った。この島は神の島とよばれる。
私は、なんだか緊張してしまって、行くと決めた日から二日間あんまり眠ることが出来なかった。
民宿へ着くと、85歳のおばあさんが迎えてくださった。
足が悪くて、杖をついていた。
急にお願いして申し訳ありませんでした、と私が言うと、
来てくれてありがとうございます、と言ってくださった。
「黒糖そこに入っているから食べなさい。上等なはず。」
お部屋で少しお話をする。
「お姉ちゃん、いくつ?30?」
「その通りです!」
「落ち着いているからね。30代の人はいいよー」
ものすごく静かに、くしゃっと笑う。
「ここはなんだか、島中良い匂いがしますね、葉っぱの匂いかな。お花の匂いかな・・でもとにかく良い匂い」
「良い匂い?んー?するかねー?」
黒糖を頂いて、自転車を借りて、島を回った。
天気が良くて、本当に気持ちがよい。
ゴールデンウィークだったこともあって、人が多かった。
そのせいだろうか、
もしかしたら一歩も動けなくなっちゃうかも、というほどの緊張はどこかへいって、
ふらふら、のびのび、島を回って、夜、外でご飯を食べて戻ってきた。
お風呂をお借りして、出てくるとおばあが待ってくれていた。
「髪乾かしなさい。外にいればすぐ乾くよ−。おばあはいつも、暑いから外に座っているよ。
ああ、こわいか?おばけなんかいないから大丈夫」
おばあに言われると、色々ほんとうに大丈夫な気がしてくる。
(30っていうのも嫌だったんだけど、当てられて落ち着いてるって言われたらなんだか嬉しくなったのだった。)
そとにテーブルと椅子がある。空を見上げるとたくさんの星が輝いて
気持ちの良い風が吹いていた。
月はまだ出ていないようで、暗い夜になるなとふと思った。
前回来たときは本当に本当に怖かったのに、と思った。
家の中に戻って、私は緊張していたことを話した。
「緊張するかねー?ここにくるのがー?」
「色々なことを、聞いていたりしたので・・でも、もともと、緊張する性格だということもあるかもしれません。」
「そうかもしれないねー。お姉ちゃんおとなしいよー。」
「そうかな?おばあはさ、昔、この島の習慣で、夜に森の中とかに入って行かなくちゃ行けなかったんでしょう?怖くなかった?」
「怖くないよ−。みんなが一緒だから。」
「私はねー、まだ、両親と一緒に住んでいて・・・」
と色々な話をした。
そんなとき、
ドアの所にぬっと懐中電灯を持ったおじいが現れ
「きょーもお客さん居るのね−?」
と私を見て笑った。
ほんのちょっと、おばあと、私には分からない言葉で何か話すとすぐに消えてしまった。
「毎日この時間に島をまわっているよー。」とおばあがいった。
私も行きたくなって、追いかけた。
家を飛び出すと暗くてどこにいるかわからなかった。
「おじい〜」と勇気を出して叫ぶと、懐中電灯をぴかーっと付けてくれた。
「一緒に回っても良い?」
「毎日回っているさ〜」
「どうして?パトロール?」
「ウォーキング。一周15分。できたら3周するさー」
「へぇぇぇー」
おじいはしっかりとした足取りで、こっくりこっくり上下しながら、リズミカルに歩いた。
おじいはときどき、ピカーっと懐中電灯をつけた。
「あの家がおじいの家だよ。自分で建てたんだ。」
「えーー?自分で?」
「そーだよ。若いときは建設のおっきな会社で働いていたこともあったよ。この島にはいくつかおじいのつくった家がまだ残っているよ。
その後は自分で船を組み立てて、本島へ渡ったんだよ。今ではフェリーがあるけれども、昔はなかったからね。おじいが船の会社を作ったんだよー」
「えーーーー?」
おじいの懐中電灯と、
空の星が、
代わりばんこに輝いた。
1周しておばあのところへ帰ると、おじいが水を入れてきなさい、という。
生の三線を聞いたことがないなら、と
玄関に腰掛けたまま、歌ってくれた。
おじいは、民謡の楽しいリズムと対照的な、奥底に沈んだ顔をした。
2曲聴かせてくれた後、おばあとまた久高の言葉で会話をして、さーこれをおばあにもっていきなさい、と三線を手渡して、
「さーもう一周していくよ」と帰って行った。
おばあいわく、おじいの家の人が心配するから9時には帰らないと行けないと言うことだった。
もう15分も過ぎていた。
今度はおばあが歌ってくれた。
おばあは民謡は歌えないし、三線もうまくないさー、といって、
ゆっくりゆっくりひきながら、おばあが古典とよぶ歌を聴かせてくれた。
あー・・・と延ばす音が、喉の中で震えて、
いつまでも聞いていたい声だった。
「この島には、すごく不思議な声でなく鳥が居るよね?金鳩っていうんでしょう?」
「あー前は良く鳴いていたよ。誰かもの言うように鳴く鳥ね?今は、前とは違う声で鳴く。」
「え?」
「ものいうようによく鳴いていたけど、今はちょっと違うよー。」
「やっぱり間違ってしまう、私はこの歌気に入っているんだけどね−」と恥ずかしそうに笑って
お姉ちゃんひいてごらんなさい、と渡してくれた。
てんとんてんとん、てんとんてんとん、てんとんてんとん、てんとんてんとん・・・
これで歌えるんだよ−、と一番の基本を教えてくれた。
そうして夜が更けていった。
なんとなく明日、暗いうちに一人で日の出を見に行けるかもしれない、
そんな気がした。
(2)朝の月&日の出
朝、一人でまだ暗い内に外へ出て、浜に日の出を見に行った。
夜にはなかった月が出ていた。下弦の月。
それでも、ちょっとは怖くって、私があるくと横の道で何かががさがさする。
やどかりだったり、やもりだったり、鳥だったり、するんだろう!と言い聞かせて走り抜ける。
この島は神の島とよばれており、ニライカナイ(神のいる場所)の対岸と言われている浜がある。
私は、島の東に位置するこのイシキ浜の、真正面に太陽が昇るのだと思い込んでいた。
だからこそ神聖だと言われるのだと思っていた。
ところが、太陽は真正面ではなく、視界の真左から昇った。
植物や石やそこにある物全てが左から照らされた。
真正面、海の向こう側は、海と空。他には何にもない。
印のないその場所を、神の場所と呼んでいるのだと思うと、
なんだか、ふっと、自由な気持ちになった。
(3)朝ご飯
素泊まりだというのに、おばあは朝、
コーヒーを飲みなさい、パンを食べなさい、サラダも食べなさい、魚のマース煮食べなさい、ご飯も食べなさい。
と言ってくれた。
連休中は、お店が来ない(品物が本島から運ばれてこない)というのに、
自分のご飯を私に食べさせてくれようとする。
結局ご馳走になっていると、
おばあも一緒に食べているその魚の、美味しい部分を自分の器から私の器にうつしてしまう。
「これはアラ。おいしいから食べなさい」
魚の美味しい部分を、自分のお皿から渡してくれるなんて、親以外にやってもらったことがない。
なんだか言葉が全く見つからなくて、
おいしいおいしいとそれしか言えなかった。
この時も色々な話しをした。
「ハトヤマ」
おばあがテレビを見ながら漢字を読んだ。
「どうやったって変わらない。どうやったって無理かねー。
色んな人がこれだけ頑張ったって無理なんだから。ハトヤマさんも他の人も、これだけ頑張っているさ。」
「戦争になったら、沖縄が真っ先にやられるさ−。基地があるんだから」
私は、その時初めて、何かを認識した。
ハトヤマが駄目だとか言う言い方をおばあがしないこと、
渦中にあって、色んな思いをしてきてなお、おばあが静かに語ることを。
私は、なんだか緊張してしまって、行くと決めた日から二日間あんまり眠ることが出来なかった。
民宿へ着くと、85歳のおばあさんが迎えてくださった。
足が悪くて、杖をついていた。
急にお願いして申し訳ありませんでした、と私が言うと、
来てくれてありがとうございます、と言ってくださった。
「黒糖そこに入っているから食べなさい。上等なはず。」
お部屋で少しお話をする。
「お姉ちゃん、いくつ?30?」
「その通りです!」
「落ち着いているからね。30代の人はいいよー」
ものすごく静かに、くしゃっと笑う。
「ここはなんだか、島中良い匂いがしますね、葉っぱの匂いかな。お花の匂いかな・・でもとにかく良い匂い」
「良い匂い?んー?するかねー?」
黒糖を頂いて、自転車を借りて、島を回った。
天気が良くて、本当に気持ちがよい。
ゴールデンウィークだったこともあって、人が多かった。
そのせいだろうか、
もしかしたら一歩も動けなくなっちゃうかも、というほどの緊張はどこかへいって、
ふらふら、のびのび、島を回って、夜、外でご飯を食べて戻ってきた。
お風呂をお借りして、出てくるとおばあが待ってくれていた。
「髪乾かしなさい。外にいればすぐ乾くよ−。おばあはいつも、暑いから外に座っているよ。
ああ、こわいか?おばけなんかいないから大丈夫」
おばあに言われると、色々ほんとうに大丈夫な気がしてくる。
(30っていうのも嫌だったんだけど、当てられて落ち着いてるって言われたらなんだか嬉しくなったのだった。)
そとにテーブルと椅子がある。空を見上げるとたくさんの星が輝いて
気持ちの良い風が吹いていた。
月はまだ出ていないようで、暗い夜になるなとふと思った。
前回来たときは本当に本当に怖かったのに、と思った。
家の中に戻って、私は緊張していたことを話した。
「緊張するかねー?ここにくるのがー?」
「色々なことを、聞いていたりしたので・・でも、もともと、緊張する性格だということもあるかもしれません。」
「そうかもしれないねー。お姉ちゃんおとなしいよー。」
「そうかな?おばあはさ、昔、この島の習慣で、夜に森の中とかに入って行かなくちゃ行けなかったんでしょう?怖くなかった?」
「怖くないよ−。みんなが一緒だから。」
「私はねー、まだ、両親と一緒に住んでいて・・・」
と色々な話をした。
そんなとき、
ドアの所にぬっと懐中電灯を持ったおじいが現れ
「きょーもお客さん居るのね−?」
と私を見て笑った。
ほんのちょっと、おばあと、私には分からない言葉で何か話すとすぐに消えてしまった。
「毎日この時間に島をまわっているよー。」とおばあがいった。
私も行きたくなって、追いかけた。
家を飛び出すと暗くてどこにいるかわからなかった。
「おじい〜」と勇気を出して叫ぶと、懐中電灯をぴかーっと付けてくれた。
「一緒に回っても良い?」
「毎日回っているさ〜」
「どうして?パトロール?」
「ウォーキング。一周15分。できたら3周するさー」
「へぇぇぇー」
おじいはしっかりとした足取りで、こっくりこっくり上下しながら、リズミカルに歩いた。
おじいはときどき、ピカーっと懐中電灯をつけた。
「あの家がおじいの家だよ。自分で建てたんだ。」
「えーー?自分で?」
「そーだよ。若いときは建設のおっきな会社で働いていたこともあったよ。この島にはいくつかおじいのつくった家がまだ残っているよ。
その後は自分で船を組み立てて、本島へ渡ったんだよ。今ではフェリーがあるけれども、昔はなかったからね。おじいが船の会社を作ったんだよー」
「えーーーー?」
おじいの懐中電灯と、
空の星が、
代わりばんこに輝いた。
1周しておばあのところへ帰ると、おじいが水を入れてきなさい、という。
生の三線を聞いたことがないなら、と
玄関に腰掛けたまま、歌ってくれた。
おじいは、民謡の楽しいリズムと対照的な、奥底に沈んだ顔をした。
2曲聴かせてくれた後、おばあとまた久高の言葉で会話をして、さーこれをおばあにもっていきなさい、と三線を手渡して、
「さーもう一周していくよ」と帰って行った。
おばあいわく、おじいの家の人が心配するから9時には帰らないと行けないと言うことだった。
もう15分も過ぎていた。
今度はおばあが歌ってくれた。
おばあは民謡は歌えないし、三線もうまくないさー、といって、
ゆっくりゆっくりひきながら、おばあが古典とよぶ歌を聴かせてくれた。
あー・・・と延ばす音が、喉の中で震えて、
いつまでも聞いていたい声だった。
「この島には、すごく不思議な声でなく鳥が居るよね?金鳩っていうんでしょう?」
「あー前は良く鳴いていたよ。誰かもの言うように鳴く鳥ね?今は、前とは違う声で鳴く。」
「え?」
「ものいうようによく鳴いていたけど、今はちょっと違うよー。」
「やっぱり間違ってしまう、私はこの歌気に入っているんだけどね−」と恥ずかしそうに笑って
お姉ちゃんひいてごらんなさい、と渡してくれた。
てんとんてんとん、てんとんてんとん、てんとんてんとん、てんとんてんとん・・・
これで歌えるんだよ−、と一番の基本を教えてくれた。
そうして夜が更けていった。
なんとなく明日、暗いうちに一人で日の出を見に行けるかもしれない、
そんな気がした。
(2)朝の月&日の出
朝、一人でまだ暗い内に外へ出て、浜に日の出を見に行った。
夜にはなかった月が出ていた。下弦の月。
それでも、ちょっとは怖くって、私があるくと横の道で何かががさがさする。
やどかりだったり、やもりだったり、鳥だったり、するんだろう!と言い聞かせて走り抜ける。
この島は神の島とよばれており、ニライカナイ(神のいる場所)の対岸と言われている浜がある。
私は、島の東に位置するこのイシキ浜の、真正面に太陽が昇るのだと思い込んでいた。
だからこそ神聖だと言われるのだと思っていた。
ところが、太陽は真正面ではなく、視界の真左から昇った。
植物や石やそこにある物全てが左から照らされた。
真正面、海の向こう側は、海と空。他には何にもない。
印のないその場所を、神の場所と呼んでいるのだと思うと、
なんだか、ふっと、自由な気持ちになった。
(3)朝ご飯
素泊まりだというのに、おばあは朝、
コーヒーを飲みなさい、パンを食べなさい、サラダも食べなさい、魚のマース煮食べなさい、ご飯も食べなさい。
と言ってくれた。
連休中は、お店が来ない(品物が本島から運ばれてこない)というのに、
自分のご飯を私に食べさせてくれようとする。
結局ご馳走になっていると、
おばあも一緒に食べているその魚の、美味しい部分を自分の器から私の器にうつしてしまう。
「これはアラ。おいしいから食べなさい」
魚の美味しい部分を、自分のお皿から渡してくれるなんて、親以外にやってもらったことがない。
なんだか言葉が全く見つからなくて、
おいしいおいしいとそれしか言えなかった。
この時も色々な話しをした。
「ハトヤマ」
おばあがテレビを見ながら漢字を読んだ。
「どうやったって変わらない。どうやったって無理かねー。
色んな人がこれだけ頑張ったって無理なんだから。ハトヤマさんも他の人も、これだけ頑張っているさ。」
「戦争になったら、沖縄が真っ先にやられるさ−。基地があるんだから」
私は、その時初めて、何かを認識した。
ハトヤマが駄目だとか言う言い方をおばあがしないこと、
渦中にあって、色んな思いをしてきてなお、おばあが静かに語ることを。
Saturday 8 May 2010
Friday 30 April 2010
経験のこと
マリーナの体は、真っ赤で神々しく、微動だにしなかったけれど、
マリーナの目は、湖面のようで、さざ波が立っているようで、
でも、もしそこに石を投げれば、ゆっくりとどこまでもどこまでも永遠に落ちていくのが見えるような、
そんな静けさを見た。
私の好きなものは、年を追う毎に増えていって、
わけもわからず、ただその時にこれだ、と心震えて、好きになったものが、
また、新たに好きになった物の中に姿を現すような、そんな感じがする。
今回マリーナを見たときも、
永平寺を思い出し、斎場御嶽を思い出し、そして、今お風呂に入って、マリーナの目のことを考えていたら、
ああ、水面のようだ、そうだ、あの目の緑色、あれはどこかに似ている、と辿っていって行き着いたのは、
下地島の通り池だった。
今年旅行に行ったときに出会った、池で、
そこで、知らない観光客が、石を投げ込んだ。
そうしたら、その池は海につながっており、
どこまでもどこまでもどこまでも石の姿が見えたまま、落ちていった。
斎場御嶽に初めていったとき、
もう怖くて怖くて、一歩一歩が怖くって、
そうして最後に辿り着いた場所が、あの、石をくぐった先の、
静かな場所だった。
小さな植物が岩から生えていて、
静かに静かに植物の呼吸をしている。
最後に辿り着く場所はこういう場所なのかと思った途端に涙が出た。
私の「一番奥」とか、「静か」という言葉は、こういう経験から成っていて、
私は心の一番最後の場所には、物言わない物達が静かに呼吸しているという、
もしくは、小さな白い石ころが、ころり、と転がっている、
そういうことを信じてしまったと思う。
こういう経験が、どれほど普遍的で、
どれほど、人に伝わるのかわからない。
好きなことを繰り返し繰り返し、聞かされるのは、
人は苦痛だろうか。
「通り池」下地島
マリーナの目は、湖面のようで、さざ波が立っているようで、
でも、もしそこに石を投げれば、ゆっくりとどこまでもどこまでも永遠に落ちていくのが見えるような、
そんな静けさを見た。
私の好きなものは、年を追う毎に増えていって、
わけもわからず、ただその時にこれだ、と心震えて、好きになったものが、
また、新たに好きになった物の中に姿を現すような、そんな感じがする。
今回マリーナを見たときも、
永平寺を思い出し、斎場御嶽を思い出し、そして、今お風呂に入って、マリーナの目のことを考えていたら、
ああ、水面のようだ、そうだ、あの目の緑色、あれはどこかに似ている、と辿っていって行き着いたのは、
下地島の通り池だった。
今年旅行に行ったときに出会った、池で、
そこで、知らない観光客が、石を投げ込んだ。
そうしたら、その池は海につながっており、
どこまでもどこまでもどこまでも石の姿が見えたまま、落ちていった。
斎場御嶽に初めていったとき、
もう怖くて怖くて、一歩一歩が怖くって、
そうして最後に辿り着いた場所が、あの、石をくぐった先の、
静かな場所だった。
小さな植物が岩から生えていて、
静かに静かに植物の呼吸をしている。
最後に辿り着く場所はこういう場所なのかと思った途端に涙が出た。
私の「一番奥」とか、「静か」という言葉は、こういう経験から成っていて、
私は心の一番最後の場所には、物言わない物達が静かに呼吸しているという、
もしくは、小さな白い石ころが、ころり、と転がっている、
そういうことを信じてしまったと思う。
こういう経験が、どれほど普遍的で、
どれほど、人に伝わるのかわからない。
好きなことを繰り返し繰り返し、聞かされるのは、
人は苦痛だろうか。
「通り池」下地島
Friday 23 April 2010
英語の記事のこと。
マリーナのことを英語で書いたブログを上げました。
私にとってとても大切な経験なので、
何度も色んな形で書きたいと思ったことと、
私も自分のチャレンジをしたいという気持ちが強くなって、
英語圏の人に向かって自分の考えていることを言おう、と思ったからです。
マリーナのことを知る人とは、誰とでも、このことを話したいと思ったからです。
先日、ある外国の方に、
私たちが発言しないことから、
日本人はriskをとらない、passionがない、と言われてとても悔しい思いをしました。
静かなpassionというものも存在するのだと、私は思っています。
しかし、私自身が、現時点でriskをとる生き方をしているとは思えないことも又事実でした。
日本語と重複する部分もありますが、異なる部分もあります。
英語的に変なところはあると思いますが、自分の気持ちには誠実に書こうといたしました。
いずれ、英語のブログを立ち上げようと思います。
皆さんよろしくお願いいたします。
私にとってとても大切な経験なので、
何度も色んな形で書きたいと思ったことと、
私も自分のチャレンジをしたいという気持ちが強くなって、
英語圏の人に向かって自分の考えていることを言おう、と思ったからです。
マリーナのことを知る人とは、誰とでも、このことを話したいと思ったからです。
先日、ある外国の方に、
私たちが発言しないことから、
日本人はriskをとらない、passionがない、と言われてとても悔しい思いをしました。
静かなpassionというものも存在するのだと、私は思っています。
しかし、私自身が、現時点でriskをとる生き方をしているとは思えないことも又事実でした。
日本語と重複する部分もありますが、異なる部分もあります。
英語的に変なところはあると思いますが、自分の気持ちには誠実に書こうといたしました。
いずれ、英語のブログを立ち上げようと思います。
皆さんよろしくお願いいたします。
The "ARTIST" is present.
Marina Abramovic is one of the persons who I respect very much. My first encountering of her work was a house called “Yumeno-ie”. It made a great impact on my life. Although I had never seen her performances, which are almost synonymous with her, I thought I would love her whatever she made and will make in the future. The experience let me find that the person is much more important than his/her works and defined a part of my attitude.
A wall in the "Yumeno-ie"
A part of the "Yumeno-ie"
I went to see her live performance at MoMA in NYC last week, finally. She was in a space squared off by white tapes on the floor and enlightened by white lights on each corner. The surface of the floor was smooth and shining like marbles.
On the first day of my stay (which was only for three days), I went out in the morning wearing my favorite shirt to cheer up myself and arrived at the museum one hour before the opening. But there was a line for tickets already. “There’s nothing worse than not being able to see Marina today”, I thought. I decided to line up. “Where is Marina Abramovic?” I asked many times. I was really impatient. On the opening, I slipped through the crowd and made a beeline for her on the second floor.
Vivid red under white light jumped into my eyes. Marina! I realized her with the redness before realizing that she was in a beautiful red dress. There was a table with two chairs facing each other on the center of the space. Marina was on one side. An elderly lady was on the other side.
I thought we visitors must be allowed to sit in front of her! There was a line for that outside the white lines. I looked at her front face from the line. She was breathtakingly beautiful. She looked totally different from any other people being there. It had never occurred to me that such a simple word as “beautiful” occupied me when I saw a person. My soul was quaking.
Marina and the lady seemed not talking nor laughing. I was confident that there was no rule about how long and how we see her.
Once I had a similar (but of course, totally different) experience in a very small southern island in Japan. On a night with full moon (which was only a lucky coincident), I tried to sit on the rough road face to face with persons who I respect very much (one at a time), within a distance in which we could barely see each other’s face in the darkness of the midnight, where any artificial lights did not exist. The distance between us was, at the longest, about 30 cm. I tried to show them my true self, if any. I decided to make a smile when I could do that and not to run away however they reacted to me. I was a kind of persons who get extremely nervous in front of people, especially in front of persons who I like. It was a trial for me. As a result, those people run away from me within 3 sec and the trial was over.
Marina never left the table, and never had meals or drinks, until the museum closed. What I could see was subtle changes of her facial muscles. Very quiet time had passed. When the person across the table showed a move to leave, Marina closed her eyes. Until the next person came from the outside of the white line, she kept bending down her face. When both persons became ready, she raised her face and then opened her eyes as if she exposed herself to a new world….
On the outside of the white line, a variety of people were making noise. Some were waiting their own turns like me, and others were passing through. Some made a phone call, and others took photos with a flare of flashlight. Some made a look of dubiousness, and others a very serious look. However, it was very silent inside the line, as if Marina’s purified spirit was extended over the space. It reminded me of a temple named “Eihei-ji” in Japan where the totally different appearance of the monks when mingled with noisy tourists like me was very impressive. I found a lot of lines drawn on the wall behind Marina.
Marina has been sitting since March 14, until May 31.
On the center of the space inside,
I saw a person sitting with some intentions.
A person sitting provocatively.
A person sitting like confronting God.
Some people stayed on the chair over an hour.
I came to be uncertain.
Am I only to adore her?
What did I like to do?
What am I?
I didn’t come here to possess her.
This is her trial. That should be why she looks so beautiful.
….
(But it was very nice to see a person who was on a security role there sitting in his plain clothes on the other day. He must have been off on the day, I thought. He came back with bright red cheeks.)
Finally my turn has come. It was almost after 5 hours from the opening.
I started to walk.
I had the seat.
Marina raised her face.
Her eyes were opened.
She had wondering eyes, I thought.
In some way she looked vacant, and also very silent as a doll. But something was different from a doll. The color of the eyes captured me. “Beautiful”, my consciousness said. On that moment, I felt tears welling up and struggled to hold them. Marina didn’t alter her facial expressions. She was being there just quietly with the eyes, not showing any signs of sympathy, relief, anger or sadness.
“It is not the time to cry”, I thought. I lowered my eyes to calm down. I saw her eyes again. I found extreme silence in her mind. This time I felt my mind also became silent for a moment. I felt I've had enough and left the table. The duration must be within 5min.
The title of this performance is “ THE ARTIST IS PRESENT”. She was never showing sympathy, but presenting her innermost being. “ARTIST” might be to have a beautiful soul. Beauty must be an acquired state by training oneself, and overcoming it again and again, different from being innocent. I witnessed the soul of a person who has lived not by the motivation of just creating beautiful things or interesting and new things, but by the passion of creating one’s own life. I’ll never forget the silence in the person who keeps changing.
Marina Abramovic is here.
A wall in the "Yumeno-ie"
A part of the "Yumeno-ie"
I went to see her live performance at MoMA in NYC last week, finally. She was in a space squared off by white tapes on the floor and enlightened by white lights on each corner. The surface of the floor was smooth and shining like marbles.
On the first day of my stay (which was only for three days), I went out in the morning wearing my favorite shirt to cheer up myself and arrived at the museum one hour before the opening. But there was a line for tickets already. “There’s nothing worse than not being able to see Marina today”, I thought. I decided to line up. “Where is Marina Abramovic?” I asked many times. I was really impatient. On the opening, I slipped through the crowd and made a beeline for her on the second floor.
Vivid red under white light jumped into my eyes. Marina! I realized her with the redness before realizing that she was in a beautiful red dress. There was a table with two chairs facing each other on the center of the space. Marina was on one side. An elderly lady was on the other side.
I thought we visitors must be allowed to sit in front of her! There was a line for that outside the white lines. I looked at her front face from the line. She was breathtakingly beautiful. She looked totally different from any other people being there. It had never occurred to me that such a simple word as “beautiful” occupied me when I saw a person. My soul was quaking.
Marina and the lady seemed not talking nor laughing. I was confident that there was no rule about how long and how we see her.
Once I had a similar (but of course, totally different) experience in a very small southern island in Japan. On a night with full moon (which was only a lucky coincident), I tried to sit on the rough road face to face with persons who I respect very much (one at a time), within a distance in which we could barely see each other’s face in the darkness of the midnight, where any artificial lights did not exist. The distance between us was, at the longest, about 30 cm. I tried to show them my true self, if any. I decided to make a smile when I could do that and not to run away however they reacted to me. I was a kind of persons who get extremely nervous in front of people, especially in front of persons who I like. It was a trial for me. As a result, those people run away from me within 3 sec and the trial was over.
Marina never left the table, and never had meals or drinks, until the museum closed. What I could see was subtle changes of her facial muscles. Very quiet time had passed. When the person across the table showed a move to leave, Marina closed her eyes. Until the next person came from the outside of the white line, she kept bending down her face. When both persons became ready, she raised her face and then opened her eyes as if she exposed herself to a new world….
On the outside of the white line, a variety of people were making noise. Some were waiting their own turns like me, and others were passing through. Some made a phone call, and others took photos with a flare of flashlight. Some made a look of dubiousness, and others a very serious look. However, it was very silent inside the line, as if Marina’s purified spirit was extended over the space. It reminded me of a temple named “Eihei-ji” in Japan where the totally different appearance of the monks when mingled with noisy tourists like me was very impressive. I found a lot of lines drawn on the wall behind Marina.
Marina has been sitting since March 14, until May 31.
On the center of the space inside,
I saw a person sitting with some intentions.
A person sitting provocatively.
A person sitting like confronting God.
Some people stayed on the chair over an hour.
I came to be uncertain.
Am I only to adore her?
What did I like to do?
What am I?
I didn’t come here to possess her.
This is her trial. That should be why she looks so beautiful.
….
(But it was very nice to see a person who was on a security role there sitting in his plain clothes on the other day. He must have been off on the day, I thought. He came back with bright red cheeks.)
Finally my turn has come. It was almost after 5 hours from the opening.
I started to walk.
I had the seat.
Marina raised her face.
Her eyes were opened.
She had wondering eyes, I thought.
In some way she looked vacant, and also very silent as a doll. But something was different from a doll. The color of the eyes captured me. “Beautiful”, my consciousness said. On that moment, I felt tears welling up and struggled to hold them. Marina didn’t alter her facial expressions. She was being there just quietly with the eyes, not showing any signs of sympathy, relief, anger or sadness.
“It is not the time to cry”, I thought. I lowered my eyes to calm down. I saw her eyes again. I found extreme silence in her mind. This time I felt my mind also became silent for a moment. I felt I've had enough and left the table. The duration must be within 5min.
The title of this performance is “ THE ARTIST IS PRESENT”. She was never showing sympathy, but presenting her innermost being. “ARTIST” might be to have a beautiful soul. Beauty must be an acquired state by training oneself, and overcoming it again and again, different from being innocent. I witnessed the soul of a person who has lived not by the motivation of just creating beautiful things or interesting and new things, but by the passion of creating one’s own life. I’ll never forget the silence in the person who keeps changing.
Marina Abramovic is here.
Tuesday 20 April 2010
ニューヨークの写真
人々編
その、推定アーティスト、ということがなぜわかったかといえば、
その人がマリーナと向き合って座っている間、
それがあんまり長いと感じた人が
マリーナと彼女の向き合っている正にその真ん中に向かって、
「そんなに長く座ってたら俺等の番までこねえだろ、ちったあ考えろよ!」
と怒鳴ったからだった。
マリーナと彼女はそのまま続けていた。
しばらくして、彼女は戻ってきた。
そこへ例の人がやってきて、また文句を言った。
そうしたら彼女は、
「みんな何時間でも待ってるのよ。私は7時間だって待ったって大丈夫!私のpieceの邪魔をしないでくれるかしら!どうも!」
と大きな声で言って会話を打ち切った。
その時、私はもう順番が迫ってきており、色んな意味で動揺した。
そうして、前の方にいる私たちに後ろの方の人たちが話しかけてきた。
「長すぎるよね?一人どれくらいとか決まってないの?」
私は何にも答えたくなかった。私は助けを求めて隣の人を見てしまった。
そうすると仕方なさそうに私の隣の人が答えた。
「決まってないわ・・。」
「でも人があんなに待っているんだよ?」
「ええ。でも、最初から並んでる人はもう5時間も待っているのよ。私はこれで、ここに来たのは三回目。
今日までは、自分の順番が回ってこなかったから、今日こそはって、開館と同時に来たの。
多分、さっき叫んだ彼は、ちょっと前に来て、状況が分からずに言ってしまったんでしょう・・・」
その、妨害にあった彼女は、その次の日も、そのまた次の日も、カツラを変えて並んでいた。
だから私はそういう風に推定したのである。
その人がマリーナと向き合って座っている間、
それがあんまり長いと感じた人が
マリーナと彼女の向き合っている正にその真ん中に向かって、
「そんなに長く座ってたら俺等の番までこねえだろ、ちったあ考えろよ!」
と怒鳴ったからだった。
マリーナと彼女はそのまま続けていた。
しばらくして、彼女は戻ってきた。
そこへ例の人がやってきて、また文句を言った。
そうしたら彼女は、
「みんな何時間でも待ってるのよ。私は7時間だって待ったって大丈夫!私のpieceの邪魔をしないでくれるかしら!どうも!」
と大きな声で言って会話を打ち切った。
その時、私はもう順番が迫ってきており、色んな意味で動揺した。
そうして、前の方にいる私たちに後ろの方の人たちが話しかけてきた。
「長すぎるよね?一人どれくらいとか決まってないの?」
私は何にも答えたくなかった。私は助けを求めて隣の人を見てしまった。
そうすると仕方なさそうに私の隣の人が答えた。
「決まってないわ・・。」
「でも人があんなに待っているんだよ?」
「ええ。でも、最初から並んでる人はもう5時間も待っているのよ。私はこれで、ここに来たのは三回目。
今日までは、自分の順番が回ってこなかったから、今日こそはって、開館と同時に来たの。
多分、さっき叫んだ彼は、ちょっと前に来て、状況が分からずに言ってしまったんでしょう・・・」
その、妨害にあった彼女は、その次の日も、そのまた次の日も、カツラを変えて並んでいた。
だから私はそういう風に推定したのである。
Monday 19 April 2010
The "ARTIST" is present.
ある吹き抜けの空間の大理石のようなツルっとした床の表面が、
白いテープで四角く区切られていた。
その中心に、机を挟んで向かい合わせになるように椅子が置いてあった。
その片方に、真っ赤なドレスを着たマリーナが座っていた。
もう片方には、年配の女性が座っていた。
ニューヨークで過ごせる三日間、毎日少しでも見に来ようと思っていた。
初日、元気を出すために私の一番お気に入りの服を着て、朝、外に出て、
美術館の開館一時間前についたら、もうチケットを買う列が出来ていた。
何が何でも、マリーナに今日会えないということだけは、避けたかったので、
その列が、マリーナ目当ての人たちなのかどうかもわからないけれど、
並ぶことにした。
続々と人が集まってくる。入り口に続々と人が溜まっていった。
「マリーナは何階にいるの?」と色々な係員さんに何回も何回も聞いた。
「2階と6階よ。」
「マリーナ本人は2階にいるわよ。過去のマリーナの作品の展示も別の階でやっていて、そっちがみたいなら6階よ。」
気持ちが逸って逸って仕方なかった。
開館した瞬間に、人混みをすり抜けて、早足で、まっしぐらにマリーナの元へ向かった。
透明でものすごく清らかな明るさの中に、
真っ赤な色が飛び込んできた。
マリーナだ・・
顔を見た。
キレイ!
マリーナ、本当に美しい。
息をのむほど。
一人、一人、座るんだ・・・マリーナの、前に!
その列は、どこ?きっと、あれだ!
白い線の外側のある一画。
走った。
その場所は丁度、マリーナの顔を正面に眺められる場所だった。
美しい。
そこにいるどんな人とも違って見えた。
誰よりも美しい。
ただただ美しくて、心が震えた。
向き合っている二人は何も喋っていない。笑いもしない。
きっと、ルールはないんだろう。
無言で見つめ合うということだろう。
いつまででも座っていて良いのだろう。
最初の人が終わったのは、多分、30分くらいたった後のことだったと思う。
私に見えるのは、マリーナの顔のほんの少しの筋肉の変化。
静かな時間がひたすらに流れ、観客が席を立とうとすると同時に、マリーナは目をつぶる。
次の人が白線の外側からまた、入ってきて椅子に座るまで、ずっとずっと目を閉じて顔を伏せている。
そうして、互いに準備が出来ると、すっとそのまま顔を持ち上げて、目を開ける...
みんな、ずっとずっと座っている。
そうして、満足そうに微笑んで帰ってくる。
私の番まで回るかどうかもわからなく思って、どきどきした。
私の隣の人は、誰かと会話していて、
今日で来るのが3回目で、今まで、一度も自分の番が来たことがない、と言っていた。
だから、今日は朝から来たのだ、と。
一時間、二時間座る人もいる。
でも、私たちの場所からはマリーナの顔がハッキリと見える。
マリーナと向き合っている人の方は、後ろ姿しか見えないけれど。
特等席だと思った。いくら、待っていても、まったく苦には思わなかった。
どきどきしてずっと立っていた。
だんだん足が疲れてきた。
でもこのまま自分の番まで立っていようと思った。
マリーナは一度も席を立たない。
美術館の開館前から、閉館後まで、
水も、食事も、何にもとらず、
トイレも行かずに座り続けている。
ひたすらに、前に座っている人の顔だけ見ている。
あるふくよかな年配の女性と向き合っているとき
突然マリーナが涙を流した。
静かな涙だった。
白線の外側では、私のようにあの席に座ろうと並ぶ人の他に、
たくさんの観光客が通り過ぎていく。
携帯電話も鳴り、フラッシュもたかれ(写真は禁止されていたのだけれども。)、がやがやと、団体客が次から次へと通り過ぎ、
笑われ、不審がられ、また、真剣に見られ、座り込まれ、スケッチされ、吹き抜けのその空間にはがやがやがやと、音が鳴り響いていた。
でも白線の内側は、まるで別世界みたいに、
4隅に大きな大きなライトが立っているせいか、
輝かしく、清浄な空気が満ちているかのように、静まりかえっている。
マリーナの魂がそこを満たしているかのようだった。
なんだか永平寺のようだな、と思って周りを見渡しているとき、
マリーナの背中側の壁に、
線がいっぱい引いてあるのに気が付いた。
マリーナは3月14日から、5月31日まで、
毎日毎日、毎日毎日、こうやって座っているのだ。
何時間もたって、足も痛くて、集中が切れ、辺りを見回して、
また、マリーナを見ると、はっとする。
周りの音に気をとられるとか、そういうそぶりは全くなく、ただただ静かに前の人を見つめている。
美しい赤のドレスのドレープが足下で本当にキレイで、その中の足の置き方の見事さにも感動したりしていた。
色んな人がいた。
毎日毎日開館前にやってきて、走って並んで、毎日向き合うことを自分の作品にしようとしているアーティストの人(推定)とか、
わけもわからず座る人、
挑戦的に座る人、
神を拝むように座る人。
自分がどんな気持ちなのか分からなくなった。
私も崇拝しているだけなのか、何がしたいんだっけ、なんなんだったっけ、と。
(でもちょっと話が前後するけれど、
私がNYで遊べる最終日にそこに行って見たのは、その場で警備員をしていたおじさんが、
私服でやってきて、列に並び、マリーナの前に座っていた。
その日は非番だったけれど、自分も向き合ってみたくなったのだろう。
そうして、顔を真っ赤にして、戻ってきた。
それはとても素敵だった。)
私の番が来たのは、開館(10時半)から5時間後のことだった。
ものすごく緊張して、ひたすらに、マリーナに愛していると(無言だけど)伝えること、
それから、押しつけるだけじゃなくて、マリーナのことをしっかりとみること、完全に自分を開くこと、
そういう思いだけが頭の中をぐるぐると回っていた。
白線の外側で、先頭に立つと、そこに小さなボードがあった。
" Visitors are invited to sit silently with the artist for a duration of their choosing. "
それから、"白線の内側に入ったら、ビデオカメラで撮影されることになります。
また、それをどのように使用することにも同意することになります。"
と書いてあった。
はい。
歩き出した。
椅子に座る。
マリーナがゆっくりと顔をあげ、目を開けた。
不思議そうな顔をしている、と思った。
どこかぼーっとしているような、人形のように静かで、
でもやけに目の色が飛び込んできて、深い緑色だと思った。
やっぱりとにかく美しい!
突発的に涙が出た。堪えるのに必死だった。ものすごく悲しい気持ちと似ていた。
マリーナは表情を変えなかった。
ただただ、私の目をのぞき込んでいた。
同情もせず、慰めるような顔もせず、意地悪な顔もせず、怒りもせず、悲しみもせず、
ひたすらに静かに、そこにいた。
こんな時に、泣いている場合ではない、と思って、目を伏せ、
気持ちを落ち着けてから、
もう一度見た。
マリーナの目を見た。目の奧を見た。極めて静かな心の奥。
マリーナも私の目を見た。私も一瞬だけ心が極めて静まった気がした。
ああ、それで十分だと思った。
それで、席を立った。
多分、5分もたっていない。
私が白線の外側に戻ると、並んでいる人たちが、やった!と沸いていた。
この作品のタイトルは「THE ARTIST IS PRESENT」。
アーティストというのは、美しい魂のことを言うのだろう。
美しい、というのは、清らかな、ただ、無垢なものというものではなくて、
ひたすらに鍛え、「美しいものを作る」とか「面白い物、新しい物を作る」と言うこととは全く別の論理で動いてきた、
「人生を作る」という人の、
誰にも到達しえない彼女の、美しさを見たのだ、と思った。
魂がそこにある。
私はそれを見たんだ、と思った。
この奧にマリーナは座っていた。
白いテープで四角く区切られていた。
その中心に、机を挟んで向かい合わせになるように椅子が置いてあった。
その片方に、真っ赤なドレスを着たマリーナが座っていた。
もう片方には、年配の女性が座っていた。
ニューヨークで過ごせる三日間、毎日少しでも見に来ようと思っていた。
初日、元気を出すために私の一番お気に入りの服を着て、朝、外に出て、
美術館の開館一時間前についたら、もうチケットを買う列が出来ていた。
何が何でも、マリーナに今日会えないということだけは、避けたかったので、
その列が、マリーナ目当ての人たちなのかどうかもわからないけれど、
並ぶことにした。
続々と人が集まってくる。入り口に続々と人が溜まっていった。
「マリーナは何階にいるの?」と色々な係員さんに何回も何回も聞いた。
「2階と6階よ。」
「マリーナ本人は2階にいるわよ。過去のマリーナの作品の展示も別の階でやっていて、そっちがみたいなら6階よ。」
気持ちが逸って逸って仕方なかった。
開館した瞬間に、人混みをすり抜けて、早足で、まっしぐらにマリーナの元へ向かった。
透明でものすごく清らかな明るさの中に、
真っ赤な色が飛び込んできた。
マリーナだ・・
顔を見た。
キレイ!
マリーナ、本当に美しい。
息をのむほど。
一人、一人、座るんだ・・・マリーナの、前に!
その列は、どこ?きっと、あれだ!
白い線の外側のある一画。
走った。
その場所は丁度、マリーナの顔を正面に眺められる場所だった。
美しい。
そこにいるどんな人とも違って見えた。
誰よりも美しい。
ただただ美しくて、心が震えた。
向き合っている二人は何も喋っていない。笑いもしない。
きっと、ルールはないんだろう。
無言で見つめ合うということだろう。
いつまででも座っていて良いのだろう。
最初の人が終わったのは、多分、30分くらいたった後のことだったと思う。
私に見えるのは、マリーナの顔のほんの少しの筋肉の変化。
静かな時間がひたすらに流れ、観客が席を立とうとすると同時に、マリーナは目をつぶる。
次の人が白線の外側からまた、入ってきて椅子に座るまで、ずっとずっと目を閉じて顔を伏せている。
そうして、互いに準備が出来ると、すっとそのまま顔を持ち上げて、目を開ける...
みんな、ずっとずっと座っている。
そうして、満足そうに微笑んで帰ってくる。
私の番まで回るかどうかもわからなく思って、どきどきした。
私の隣の人は、誰かと会話していて、
今日で来るのが3回目で、今まで、一度も自分の番が来たことがない、と言っていた。
だから、今日は朝から来たのだ、と。
一時間、二時間座る人もいる。
でも、私たちの場所からはマリーナの顔がハッキリと見える。
マリーナと向き合っている人の方は、後ろ姿しか見えないけれど。
特等席だと思った。いくら、待っていても、まったく苦には思わなかった。
どきどきしてずっと立っていた。
だんだん足が疲れてきた。
でもこのまま自分の番まで立っていようと思った。
マリーナは一度も席を立たない。
美術館の開館前から、閉館後まで、
水も、食事も、何にもとらず、
トイレも行かずに座り続けている。
ひたすらに、前に座っている人の顔だけ見ている。
あるふくよかな年配の女性と向き合っているとき
突然マリーナが涙を流した。
静かな涙だった。
白線の外側では、私のようにあの席に座ろうと並ぶ人の他に、
たくさんの観光客が通り過ぎていく。
携帯電話も鳴り、フラッシュもたかれ(写真は禁止されていたのだけれども。)、がやがやと、団体客が次から次へと通り過ぎ、
笑われ、不審がられ、また、真剣に見られ、座り込まれ、スケッチされ、吹き抜けのその空間にはがやがやがやと、音が鳴り響いていた。
でも白線の内側は、まるで別世界みたいに、
4隅に大きな大きなライトが立っているせいか、
輝かしく、清浄な空気が満ちているかのように、静まりかえっている。
マリーナの魂がそこを満たしているかのようだった。
なんだか永平寺のようだな、と思って周りを見渡しているとき、
マリーナの背中側の壁に、
線がいっぱい引いてあるのに気が付いた。
マリーナは3月14日から、5月31日まで、
毎日毎日、毎日毎日、こうやって座っているのだ。
何時間もたって、足も痛くて、集中が切れ、辺りを見回して、
また、マリーナを見ると、はっとする。
周りの音に気をとられるとか、そういうそぶりは全くなく、ただただ静かに前の人を見つめている。
美しい赤のドレスのドレープが足下で本当にキレイで、その中の足の置き方の見事さにも感動したりしていた。
色んな人がいた。
毎日毎日開館前にやってきて、走って並んで、毎日向き合うことを自分の作品にしようとしているアーティストの人(推定)とか、
わけもわからず座る人、
挑戦的に座る人、
神を拝むように座る人。
自分がどんな気持ちなのか分からなくなった。
私も崇拝しているだけなのか、何がしたいんだっけ、なんなんだったっけ、と。
(でもちょっと話が前後するけれど、
私がNYで遊べる最終日にそこに行って見たのは、その場で警備員をしていたおじさんが、
私服でやってきて、列に並び、マリーナの前に座っていた。
その日は非番だったけれど、自分も向き合ってみたくなったのだろう。
そうして、顔を真っ赤にして、戻ってきた。
それはとても素敵だった。)
私の番が来たのは、開館(10時半)から5時間後のことだった。
ものすごく緊張して、ひたすらに、マリーナに愛していると(無言だけど)伝えること、
それから、押しつけるだけじゃなくて、マリーナのことをしっかりとみること、完全に自分を開くこと、
そういう思いだけが頭の中をぐるぐると回っていた。
白線の外側で、先頭に立つと、そこに小さなボードがあった。
" Visitors are invited to sit silently with the artist for a duration of their choosing. "
それから、"白線の内側に入ったら、ビデオカメラで撮影されることになります。
また、それをどのように使用することにも同意することになります。"
と書いてあった。
はい。
歩き出した。
椅子に座る。
マリーナがゆっくりと顔をあげ、目を開けた。
不思議そうな顔をしている、と思った。
どこかぼーっとしているような、人形のように静かで、
でもやけに目の色が飛び込んできて、深い緑色だと思った。
やっぱりとにかく美しい!
突発的に涙が出た。堪えるのに必死だった。ものすごく悲しい気持ちと似ていた。
マリーナは表情を変えなかった。
ただただ、私の目をのぞき込んでいた。
同情もせず、慰めるような顔もせず、意地悪な顔もせず、怒りもせず、悲しみもせず、
ひたすらに静かに、そこにいた。
こんな時に、泣いている場合ではない、と思って、目を伏せ、
気持ちを落ち着けてから、
もう一度見た。
マリーナの目を見た。目の奧を見た。極めて静かな心の奥。
マリーナも私の目を見た。私も一瞬だけ心が極めて静まった気がした。
ああ、それで十分だと思った。
それで、席を立った。
多分、5分もたっていない。
私が白線の外側に戻ると、並んでいる人たちが、やった!と沸いていた。
この作品のタイトルは「THE ARTIST IS PRESENT」。
アーティストというのは、美しい魂のことを言うのだろう。
美しい、というのは、清らかな、ただ、無垢なものというものではなくて、
ひたすらに鍛え、「美しいものを作る」とか「面白い物、新しい物を作る」と言うこととは全く別の論理で動いてきた、
「人生を作る」という人の、
誰にも到達しえない彼女の、美しさを見たのだ、と思った。
魂がそこにある。
私はそれを見たんだ、と思った。
この奧にマリーナは座っていた。
Tuesday 13 April 2010
The first performance
マリーナの最初のパフォーマンスについてのinterview.
http://www.moma.org/interactives/exhibitions/2010/marinaabramovic/marina_first.html
「小さな頃、鼻が大きすぎ(ると彼女は思っ)て、醜すぎ(ると彼女は思っ)て鏡も見られなかった。
親に整形したいと言っては殴られた。
そんなとき完璧なプランを思いついたの。」
今回のperformanceのliveも多分ここで見られる。
http://www.moma.org/interactives/exhibitions/2010/marinaabramovic/marina_first.html
「小さな頃、鼻が大きすぎ(ると彼女は思っ)て、醜すぎ(ると彼女は思っ)て鏡も見られなかった。
親に整形したいと言っては殴られた。
そんなとき完璧なプランを思いついたの。」
今回のperformanceのliveも多分ここで見られる。
Monday 12 April 2010
明日
大好きなMarina Abramovicがニューヨークでパフォーマンスをやっている。
明日、見に行く。
新潟で夢の家というMarinaの作品に出会って、
私はパフォーマンスをやるようになって、
でも、それよりなにより、私の生き方の根本的な考えというものに、決定的に作用した感じがしている。
夢の家というのは、マリーナの作った実際に宿泊可能な家であり、
そこに行った後、
Tate galleryで行われたマリーナのトークをビデオで見たことで
完全に精神を侵された。
彼女の魂のようなperformance自体を生で一度も見ることなく、
マリーナがどんな作品を作っても愛する、という
「作品よりも、その作者の方が大事」
ということを決定的に経験して、
私のある一つの態度の取り方というものが決定された。
明日、ついに見てしまう。
夢の家:ある壁
夢の家:電話
明日、見に行く。
新潟で夢の家というMarinaの作品に出会って、
私はパフォーマンスをやるようになって、
でも、それよりなにより、私の生き方の根本的な考えというものに、決定的に作用した感じがしている。
夢の家というのは、マリーナの作った実際に宿泊可能な家であり、
そこに行った後、
Tate galleryで行われたマリーナのトークをビデオで見たことで
完全に精神を侵された。
彼女の魂のようなperformance自体を生で一度も見ることなく、
マリーナがどんな作品を作っても愛する、という
「作品よりも、その作者の方が大事」
ということを決定的に経験して、
私のある一つの態度の取り方というものが決定された。
明日、ついに見てしまう。
夢の家:ある壁
夢の家:電話
Friday 2 April 2010
風の運び物
Thursday 18 March 2010
Sunday 14 March 2010
Wednesday 10 March 2010
桃
Tuesday 2 March 2010
等伯展
長谷川等伯展に行ってきた。
若い頃の絵に惹き付けられた。
本当に綺麗な色使いで、緻密に、激しい強さで、たくさん神様の絵を描いた。
描かれる人たちは、例えば、故事に出てくる人たちは、
みんなはっきりとしていて、
故事を描いているんじゃなくて、人がいる、という感じだった。
狂った人の絵がいっぱいあった。
達磨の、変なたった一本の草に乗って、川を渡る絵、
羅漢達、偉人達、
選ばれている瞬間は、みんな、狂っていた。
この人も神様のことばかり考えている人だったんだと思った。
この人の描く涅槃図は、大好きだった。あまりにも美しい沙羅双樹。
仏が死んで、様々な生き物がよってきて、鬼も悲しみ、神も悲しむ。
みんなが描くものだけど、なぜこの人の絵ははっきりとしていると思うんだろう?
なんだろう、どこか、絵に現実感がない。
例えば、故事の人に現実感を感じられたのは、私ははじめてだったのに、
矛盾したことに、どこか現実感がない。
そうか、この故事の人に現実感があるのではないのだな。
等伯の精神がすっごい好きだということなんだと思った。
その人が、俗世と交わった。
そうしたら、すっごい絵が出来た。
橋の絵。変な月がぼっこりあって、謎の柳がすごかった。
なんだそれ!
と思った。まちがいなくすっごいものだった。
橋がどこまでも架かって、水車がぐるぐる回ってた。
政治家も、神の人も、認めるに違いないすっごい絵だった。
その人が、最後に松林図を描く。
(正確には、人生の中で最後なのかどうかは知らない。展示の最後にあっただけ。)
それはすっごいと思った。
このすごさは私にはとてもまだ書けないけれど、
例えば、関わる人が変わっても、
この人はまったくぶれてない。
合わせない、ということじゃない。だって、この人の変化は劇烈だから。
でも、ぶれてない。絵を描くときだけだったとしても、ほんとうにハッキリとしている。
一貫しているのは、線に迷いがないということ。劇烈だということ。
笹がキラキラしていた。
この人は、常にお化けと一体だった。
そういう感じがした。
----------------------------------------------------------------------
長谷川等伯(信春)筆 善女龍王図 (石川県七尾美術館のサイトより。)
この絵はとても好き。若い頃の絵だけれど、これがずっと一貫しているように見えた。
若い頃の絵に惹き付けられた。
本当に綺麗な色使いで、緻密に、激しい強さで、たくさん神様の絵を描いた。
描かれる人たちは、例えば、故事に出てくる人たちは、
みんなはっきりとしていて、
故事を描いているんじゃなくて、人がいる、という感じだった。
狂った人の絵がいっぱいあった。
達磨の、変なたった一本の草に乗って、川を渡る絵、
羅漢達、偉人達、
選ばれている瞬間は、みんな、狂っていた。
この人も神様のことばかり考えている人だったんだと思った。
この人の描く涅槃図は、大好きだった。あまりにも美しい沙羅双樹。
仏が死んで、様々な生き物がよってきて、鬼も悲しみ、神も悲しむ。
みんなが描くものだけど、なぜこの人の絵ははっきりとしていると思うんだろう?
なんだろう、どこか、絵に現実感がない。
例えば、故事の人に現実感を感じられたのは、私ははじめてだったのに、
矛盾したことに、どこか現実感がない。
そうか、この故事の人に現実感があるのではないのだな。
等伯の精神がすっごい好きだということなんだと思った。
その人が、俗世と交わった。
そうしたら、すっごい絵が出来た。
橋の絵。変な月がぼっこりあって、謎の柳がすごかった。
なんだそれ!
と思った。まちがいなくすっごいものだった。
橋がどこまでも架かって、水車がぐるぐる回ってた。
政治家も、神の人も、認めるに違いないすっごい絵だった。
その人が、最後に松林図を描く。
(正確には、人生の中で最後なのかどうかは知らない。展示の最後にあっただけ。)
それはすっごいと思った。
このすごさは私にはとてもまだ書けないけれど、
例えば、関わる人が変わっても、
この人はまったくぶれてない。
合わせない、ということじゃない。だって、この人の変化は劇烈だから。
でも、ぶれてない。絵を描くときだけだったとしても、ほんとうにハッキリとしている。
一貫しているのは、線に迷いがないということ。劇烈だということ。
笹がキラキラしていた。
この人は、常にお化けと一体だった。
そういう感じがした。
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長谷川等伯(信春)筆 善女龍王図 (石川県七尾美術館のサイトより。)
この絵はとても好き。若い頃の絵だけれど、これがずっと一貫しているように見えた。
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