Thursday 21 November 2013

Wednesday 20 November 2013

Paul McCartney Live in Tokyo(1)

11月18日、Paul McCartneyの東京ドームコンサートに行った。
スタンド席に加えて、普段は野球選手の立っているグラウンドのところまで、
ぎっしりと席が用意されて、
popsとかrockとかいわれるもののコンサートにいくのは、
人生で二度目というくらい不慣れな私は、
始まる一時間前に圧倒されてしまっていた。

後で聞いてみたら、五万人。

そんなに大勢の人が、集中するということ。
そんなに大勢の人の気持ちを、一気に動かすということ。

そんなことができるってどういうことだろう。

会場にいて時間とともにどんどん期待感が大きくなるというよりも、
不安というか、恐れというか、そんな気持ちに呑み込まれてしまった。

会場を盛り上げるためだろうか、音楽や映像が流れ始めて、
少しだけリラックスしたけれど、
こういう、録音されたものを流すのと、ポールが出てきて歌うのと、
何が違うんだろうという余計なことまで考えた。

結果、全然違うのだった。違うっていうよりまったく問題にするのが間違っているのだった。

ポールは豆粒くらいの大きさだったけれど、真っ正面から音楽が迫ってきた。
何にも過不足なく、全部が一体になってここに届くのだった。
他には何にも聞こえない。
ステージの左右に置かれたでっかいパネルに映し出される、巨人ポール二人と、
真ん中の豆粒ポール一人、
豆粒ポールのちょっとした肩の動き、足の動きが、巨人ポールに拡大されて、
私は何を見てるのか。


初めて聞く曲もいっぱいあったけれど、
どの曲もどの曲も、音楽がすごいのだった。

言葉が聞き取れればいいのに。
言葉は意味なくそこにおかれているのではないのに。
その言葉や音楽の生まれた背景も何一つ聞き漏らすことなく、ついていきたいのに。
結局、私は、
言葉は意味を失って、背景も意味を失って、
ただここにある音楽として、体を揺らすしかできないのだった。

昔、友達が言ってたっけ。
わかんなくていいんだ、全部あるんだ。
音楽が良いっておもってるときには、全部感じ取っているんだ。
多分、それは、正しいけれど。

音楽は覚えておくことが難しいのかもしれない。
いっぺんで全部、覚えて置かなくちゃいけないのに。
一度しかないのに、覚えておきたいのに、終わった瞬間からぼろぼろと落ち始める。

なるべくなるべく、忘れないように、
頭の中で繰り返し鳴らしてみるけれども、再現すらできない。

この間、アシカの声を聞いたときもそうだった。

San Diegoのdowntownから、La Jollaに向かうタクシーの中、おじさんが道を間違えて、
たまたま海辺の道に出たとき、信じられない数の、イルカなのかシャークなのかホエールなのかの背びれのようなものが見えた。
ホエールだ、とおじさんがいうので、
3分で戻ってくるからちょっとここで降ろしてくれ、といったら、
そこでちょうどタクシーを探していた一行に捕まって、
おまえらの行く美術館はすぐそこだから、ここから歩け、ということになった。
そんなわけで、たまたま降りることになった場所。
タクシーのドアを開いた瞬間に、
ものすごく大きな、聞いたこともないような動物の鳴き声が、あっちからこっちから響いてきた。
正体の分からぬ、大きな大きな無数の声。そして、むおっと全体に薫る動物の匂い。
海への階段を下りる。
目にしたのは、岩に休む何百匹ものアシカの群れ。
背びれだと思っていたものも、おそらくアシカの手のようなものなのだった。
海にも、岩にも、あちこちに、アシカと海鳥がいて、
何層も重なり恐ろしい年月を想像させる岩肌の、湾状の岸壁のせいなのかなんなのか、
互いに呼び合う声が重なり響き渡るのだった。

どんなにスケールの大きな動物園でも見たことのない、
音、匂い、強さ、平和、
それを見せつけられて、
その中にまた、私もいるのだった。

こういう圧倒的な平等、
胸を打たれて、何にも言葉が出なくなった。

この、アシカの声だけはわすれまい、
そう思って、その時も、頭の中で何度も何度も繰り返したのに、
もうまったく再現できない。

それと同じ事がポールにも起こっている。

Sunday 21 July 2013

池田塾でのある発表 (2013)


以下、小林秀雄さんの編集者をされていた、池田雅延さんの塾にて、
昨日私が発表した内容です。
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小林秀雄さんの『本居宣長』を繰り返し読んできて、
今の私に、最後まで残った言葉がありました。
それは源氏物語について書かれている16章に出てくる
「外部に見附かった物語の准拠を、作者の心中に入れてみよ」
という言葉でした。

この言葉はどんな文脈の中で出てくるかというと、
16章では、物語の准拠説というものが扱われています。
准拠説というのは、どういうものだったかというと、
例えば、源氏物語の作中の誰々は、現実にいた誰々がモデルである、とか、
源氏物語の中のこの部分の話は、これこれこういう故事がもとになって作られた話だ、
というように、
物語を外部の出来事に対応づける、というもので、
宣長以外の批評家達はみんなそればっかりをやっていた、
そういうことが書かれた上で、
「外部に見附かった物語の准拠を、作者の心中に入れてみよ」といわれるのです。

この言葉はこんな風に続いていきます。

外部に見附かった物語の准拠を、作者の心中に入れてみよ、その性質は一変するだろう。
作者の創作力のうちに吸収され、言わば、創作の動機としての意味合いを帯びるだろう。
宣長が、「源氏」論で採用したのは、作者の「心ばへ」の中で変質し、
今度は間違いなく作品を構成する要素と化した准拠だけである。
彼のこのやり方は、徹底的であった。
(小林秀雄全作品27 『本居宣長(上)』p179)

ここに書かれているとおり、
物語に対応する出来事が例えば全て集められたとする。
でも、その出来事の集団だけがあれば、
まったく同じ物語になるのかというと、そんなことはない。
その出来事が作者の心の中を通る、作者の心に映る、ということがなかったら、
物語になることはない。

ここではっとさせられたのが、
では、宣長のやった、その、作者の心に映った出来事だけを追っていくことというのは、
本当のところ、どういうことなのか、ということでした。
何かについて語るとき、
自分はいつもどんな地平に足を置いて、話しているだろう、と
すごくドキっとさせられたということがありました。

そしてこの言葉は、それだけではなくて、こんな風に続いていきます。

「日記」を書いたのも、「物語」を書いたのも、なるほど同一人物だが、
「物語」に現れた作者の「心ばへ」は、「日記」に現れた式部の気質の写しではない。
(小林秀雄全作品27 『本居宣長(上)』p180)

すなわち、物語を書いた作者自身の性質、作者自身すら、
物語の准拠としては、認められていないということです。
私はここを読んだとき、すべての糸が切られたような、
最後の拠り所をなくしたような気持ちになって、
逆に言うと、
それほど物語というものは、完全なんだ、と思わされました。

紫式部だから、源氏物語が書けた、
その糸さえ切れて、
逆に、完全な源氏物語の中から、紫式部を作れ、といわれたように思いました。

外にあるものも、自分自身も、物語ができる准拠じゃない。
だからこそ、
心に映るということ自体というか、
今ここにいる私、今ここにあるものから、物語になる、ということが
ものすごく不思議なことに思われてきたのです。

今が物語になる不思議、
そして、自分以外の誰かの、心の中に入った出来事だけを辿っていくことが、
どんなことなのか、ということを自分でつかんでいきたいと思いました。

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去年の発表は、池田塾でのある発表 (2012).




Saturday 15 June 2013

小野雪見御幸絵巻

サントリー美術館のもののあはれ展で、
小野雪見御幸絵巻を見た。

乱暴きわまりない言い方をしてしまうと、
大好きな男の人が、雪の日に自分のところへ通ってくることがわかって、
おもてなしをする絵。

真っ白な雪の庭に、彼が車でつく。

女の人は、それを想像して、
御簾の下から、真っ赤な袴の、女の人の足下がたくさん並んで見えたら、きれいなんじゃないかと思う。

女の人をたくさん並べてみる。それでも、まだ足りないような気がして、
袴を半分に破って、二倍にかさ増しして、並べてみる。

その光景は、ほんとうにきれいだった。
私は、車で到着したばかりの男の人になって、その光景を見たようだった。

それに、私だったら、大好きな人には、できるなら他の人のところへ行って欲しくない。
いくら足下だけだって、他の女の人をたくさん並べたりしない。
女の人をそんなに並べて、もてなして、それはもうなんていうか、
心意気があっぱれ、っていうか、想像を超えている。

もちろん、いやらしさなんてなんにもない。
その光景が、美しいってことが全てだった。
ふかふかの雪の庭に、真っ赤な足下。

目の前に、最も美しい光景を用意して、待っている。
それって、なんだか、大好きな人に映画を見せてあげるような感じというか。

大好きな人にみせてあげたい光景。
それがフィクション。
なんだか、ものすごいものを見てしまったと思った。

(東京芸大美術館所蔵。このサイトより拝借














Sunday 9 June 2013

紙風船のお腹


昨日突然思い出した。幼稚園の時に一度、
夏休みに近所の大学のプールに水泳を習いに行った。
その最終日、試験があって、ある距離を泳げたら何級合格という感じになっていた。

わたしは必死で泳いでいた。
泳いでいたが苦しくて苦しくてたまらなかった。
まだかまだか、もうだめだ、というとき、
横について水の中を歩いてきてくれていたコーチのお兄さんが、
泳いでいる私のお腹を、突然に触った。
まるで紙風船か何かのように、下からぽん、ぽん、と叩くのである。
私は、どきーーーっとして死にそうだった。それでも体は浮くのだった。
その後お兄さんは私がゴールに着くまで、
ずっと、ぽんぽんやっていて、
私はいつのまにか六級合格の旗の下にたっていた。
私にとってそれは人に言えない恥ずかしい記憶となった。

それで、いままで封印して、思い出すこともなかったのだが、
ふと、昨日テレビでプールの映像を見たら突然に、
あのお兄さんの手の感触が鮮明に蘇ったのである。
それで、よくよく思い出してみて笑ってしまった。

あのお兄さん、優しい人だったんだなあ。
はじめてわかったけれども、そうだよね、幼稚園の女の子、六級合格したっていいよね。
いじわるなことをしたわけでも、いやらしいことをしたわけでも、なんでもないのが、
33歳になった私が眺めたら、わかったのだった。

それでなんかおかしくなって、思い出すまま両親に話したら、
「ああ、あのお兄さん、まるでウェイターさんみたいだったなあ、
グラスののった銀の大皿片手で運ぶみたいにお前のこと、すーって水の中でなあ」
と大笑いされてしまった。
私の頭のなかの、秘事は、全然秘事じゃなかったのだった。


Thursday 23 May 2013

山寺 つづき

明けて今朝、

山寺の、
一本の大きな木にもたれて、眼下の景色を見ながら
休憩していたら、
薫風が吹いてきて、
あんまり気持ちよくって眠くなって、
そのまま眠ってしまったら、
どんどん体が小さくなって、木にどんどん包まれて、根本の穴におさまる、
夢を見た。

私も、穴の中の骨となった。
びっくりして、飛び起きた。

Wednesday 22 May 2013

山寺


思い立って、今日、日帰りで、山形県の山寺に行ってきた。
松尾芭蕉の、俳句、
「静けさや、岩にしみいる蝉の声」
で知られる山寺である。

山の奥へ奧へと、1015段もの階段を登る。
登りながら、何度も、何度も、胸が詰まる感じがした。

その一番のふもとのところでは、
ちょうどいま、50年に一度ということで、
この山を開かれた慈覚大師の作られたご本尊、
薬師如来像がご開帳になっている。
拝観しようと人々が何時間もの列をなしていた。

困ったなあと思って、ふらふらとしていたら、
このお堂の外に立っている柱に、綺麗な四色の紐が垂れていた。
人々が入れ替わり立ち替わり、
その紐を握って何やら拝んでいるのだった。

結局、
その紐の反対端は、薬師如来様の挙げられた右手の薬指に結びつけられていたのだった。
事情があって並ぶことが出来なくても、お姿を拝見できなくても、誰でも、
外の紐を握って、薬師如来様の御手と間接的につながることができるようになっていたのである。
(*もし薬指じゃなかったらごめんなさい。私の記憶の責任です。)




入山するとごつごつした切り立った岩に、若緑が美しかった。
遠くの上方には藤の咲いている紫が見える。
千数段の階段を一段一段あがっていくと、
岩の隙間に、あちらこちら、小石が積まれ、風車が回り、
塔婆のような、名前の書かれた木片がおかれ、それには木のわっかがついている。
わたしは、そんなわっかを初めて見た。

若くして亡くなってしまった人が、
早く人間界に戻ってこられるように、
回してあげるためのものだという。

なくした人に与える形、
それはどうしても胸を打つ。

険しい岩ぺきには、自然の風化で出来た無数の穴があって
そのいくつかには、骨が納められているそうである。
なんであんな高い場所の、奇妙な岩穴に骨壺を、
どうして、ここに、集まってくるのだろう、
どうしてなんだろう、
この山を開いた人はどんな気持ちだったんだろう、
そんな理屈の付けがたい景色にさらされながら、上へ上へと登り、
五大堂という場所に辿り着いて、眺めると、
理屈の付けがたさも極まり、もうとにもかくにも美しい。

ガイドさんの話を盗み聞きしたところによると、
行者さまが、何メートルもある岩の裂け目を、飛び越えるなどの修行をしていたそうである。
ぴょんぴょんと、真っ白な着物の行者さまが、天狗のようにあっちこっち飛び回る姿が見えるようだった。

木のわっか




















観音様の形をした岩のふもとにも

























五大堂からの眺め。

Friday 10 May 2013

タリーズ閉店

大好きな本厚木タリーズ。
ここで訳した本四冊。
うち出版された本二冊。友人に製本してもらって展覧会に出した本一冊。

四年通った。
今日で閉店。


きっと変化はちょっとずつ起こってた。

私にとっては、翻訳のお仕事は、全部このお店でやったことになる。
感謝の気持ちでいっぱい。私の居場所だった。

誰かにとっては、
あれ?ここに何があったっけ。
ってこともあるんだろう。

いつものように、今日、本を読みに行って、
帰り際、おとといこのタリーズで買った水筒に、コーヒーを入れてもらった。
ありがとうございました、ありがとうございました、って言葉と笑顔で全てだった。

水筒というものには、フィリピンに行った友人が使ってて、
何度かわたしにコーヒーを入れてくれた思い出があった。
きっと人は記憶で新しい何かを好きになる。
その友人が、今日の朝、メイルをくれて、アントニオ・ロペスみてきてほしい、といった。

そのまま、渋谷のアントニオ・ロペス展に行った。
いつだって死に向かっていることは、本当のこと。
砂の山が風で崩れていくように、何の痛みもないかのように、破綻なく。
ロペスの絵には、
ほんとうに、ささやかな一生物の感触としての、
あたたかな、ちくっとした痛みが、ちくっちくっちくっちくっと、
時を刻んで、ずっと響いているような気がする。


今日の朝は、不思議なことに、めずらしく私に小包が届いていたのだった。
兄のお嫁さんのお母さまからだった。
須賀敦子さんと武田百合子さんの本が4冊も!
編集者だったお母さまが、この間お会いしたときに、
女の作家に出会っていないといった私に、
大好きな本だとお薦め下さっていたものだ。
ものすごく素敵な装丁の本だ。
そして葉っぱの形のしおりに、

お手紙が。

感激して、お手紙を書こうと思っている。



(あけるのが今、23時になってしまったために、ご本人にお礼をお伝えする前に、感激そのまま、ここに書くことになってしまった。)

Wednesday 3 April 2013

かなで旅立つ

姉妹のようにべったりだった友人が、フィリピンに行ってしまった。
半年後に一度帰ってくるらしいが、その後どうするかわからないといっていた。

友人がフィリピンに行った日、
両親が3泊4日の旅に出た。

料理とか、家事とか、全部やろう、と思った。

毎日朝夕まじめにご飯を作る。お掃除をする。洗濯をする。
なんとなくは、できた。

これまで毎日続けていないことは問題だったんだろうけど、
続けていないが故に、コンプレックスだった。

できた。少なくとも、この3日は。
(世の中には三日坊主っていう言葉があるのだ。すごい。)

(本当のことを言うと、見ないことにしたこともたくさんあった。)

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その友人が成田から出したらしい手紙が届いた。
やっと出られる、という感じがすると書いてあった。
「やっと」。
そうだね、あなたにとっては、やっと、なのかもしれない、
わかるよ、って思った。

それから、私が、料理をしたり、マリーナを思い出したり、
しないできたこと、しばらくしなかったこと、
そういうことをやり出すこと、
まるで知ってるようだった。

料理は彼女の得意分野だった。
そういえば、別れてからの方が、
自分の中のあなたが育つようなきがする、って前にいってたな。
わたしもそうなんだろう。

裏面一面、励ましの言葉が書いてあった。
彼女が住んでた町のお菓子と一緒に。




神像

2009年の、『伊勢神宮と神々の美術』という展覧会で
神像をはじめてみて、度肝を抜かれた。
中でも、夫須美大神坐像を見た時は、思わず吹きだしてしまうくらいだった。

神様というと、キリストのようなぎちぎちの姿や、
いくつかの仏像のような、厳しさしか知らなかった私にとって、
(私は、そういうものをどちらかというと愛してきた。)
そして、繊細さ、というものが自分の心の中で価値あるものだった私にとって、
昔の日本の人の心にあった神様というのは、
こんなにもおおらかな、ふっくらとした、やわらかい、どーんとしたものだったのか、と知ったら、
本当にびっくりして、
なんだか力が抜けたのだ。

痩せてなくてはならない気がしてた。
(肉体的には痩せられなかったんだけど。)

こんなにおおらかな神様なんて世界中他のどこにもいるわけないよ、
と思ってしまうような、
本当に絶対的なおおらかさに、目をぱちくりするしかなかった。
日本って、こういうものだったのか、
昔の人の心はこんなにおおらかで、ふくよかで、強くて、やさしいものだったのか、と思ったら、
なんだか誇らしく、
不思議と解放されていくような気がした。
自分の中には、きっと、こういうものが生きている、
いままで、神経質こそいいような気がしてたけど、それは違ったんだな、と
目が覚めるような思いだった。

私は、このとき、こんなふうにふくよかになりたい、と思った。
私の心の中に、憧れの像として、どーんと座った。
そういう意味では、
まさに、神の像を得たような気がしている。


建築マップFORES MUNDIより拝借いたしました。)







Wednesday 27 March 2013

夢見るスフィンクス

ベーコン展でとても好きだった絵。
『Sphinx iii』というタイトルで、
できることなら、ここにある質感の全てを、記憶したい、と思った。
一面黒に見えるけど、覚えきれないのはなんでだろう。
いくらでもいくらでも、質感が出てくるのだった。

それに、スフィンクスの目が血が通ってきらきらとして、
希望を持った檻の中のゴリラ、みたいな感じで、
体は固く、頭は大きく柔らかで、
恋しくて、なかなか離れられなかった。
今の自分と重なった。

http://www.allpaintings.org/)より拝借

マリーナとウーライ

Twitterで、マリーナとウーライの再会の映像があることを知った。
マリーナがニューヨークでやったパフォーマンス『Artist is present』は、
椅子に座ったマリーナの前に座って、言葉を一切使わず、
触れることも、まったくしないで、
見つめ合う、というもので、
誰でも、観客が、一対一で、マリーナと向き合うことが出来るのだった。
私も、どうしても、これだけはとニューヨークに行って、マリーナの前に座った。
何時間も待って、やっと自分の番が来る。
なぜなら、一度座ったら、何時間でも、見つめ合って良いことになっているので、
全然、自分の番が来ないのである。

マリーナは、結局、自分が作品になったのだった。
何も喋らず、飽きずに、他人が、ずーーっと見ていられる人間であるというのは、
一体どういう事なんだろう。

でも、Twitterで、このビデオを見たとき、
そんなことはともかく、この瞬間のためにこの作品はあったんだ、という気がした。

ウーライというのは、彼女が若いとき、公私ともにパートナーだった人で、
私は二人の作品が大好きだった。
私が一番好きなのは、マリーナの心臓に矢先を向けて、互いに反対側に体重を掛け合い、弓を引いていく、というもの。
マリーナは、ずっと、パフォーマンスとは、演技じゃないのだ、本当の感情なのだ、といっている。
信頼ということは、お互いがこんなにも緊張状態におかれることかと、震えてしまう。

結婚まで考えて、直前で、ウーライに好きな人が出来て、別れることになった。
そういうことってあるんだなあ、と最も信じられないことだっただけに、信じてしまう。
二人は、それ以来決して会わなくなった。

何十年経った、この日、ウーライは、多分私と同じように列に並んで、順番を待った。
マリーナが目を明けると、ウーライが座っていた。
言葉を頼らず、知らない人と向き合うこと、相手に好きなだけ見られること、
自分のコントロール出来ないことを背負うこと、3ヶ月それを毎日続けるということ、
いろんな考えがあってのパフォーマンスだった筈だけど、
目の前にウーライが現れたとき、
わたしは、このために、この作品はあった、と思ってしまった。
マリーナの意図したことではない。
だけど、この作品の成立はひとつ、ここにあった、と思ってしまった。
例えば、わたしと会うことは、わたしにとっては最上の体験だけれども、
マリーナにとっては、そうではなかったと思うからだ。
わたしには、非対称のつらさがあった。

このビデオは、
一生ないと思っていたことが、起こる。
あきらめていたことが、絶対無理だと思っていたことが、
思っても見なかったことが、実現された、という感じ。

ウーライとだったら、あっと体が反応して、動けない魔法はとけるのだ。

どうにもわからず生きている。
勝手に進行している、流れがあるから大丈夫。



Marina & Ulay, 1980. Rest Energy.
artlinkedより拝借)





記憶

今年の元旦、母方の祖父母が、何十年ぶりに、我が家へやって来た。
父の生家に私たちは住んでいるので、母方としては遠慮があったらしく、
私たちが小さくて面倒を見る必要がどうしてもあるときを過ぎてからは、
ずっと来てなかったのだ。
でも、昨年末、屋根を直したり、色々と家の修復をして、綺麗になったことを知って、
祖母が来たい、と言うことを口にしたので、お正月に呼んだのだ。

元旦、兄もお嫁さんと一緒に帰ってきた。

そして、父母、私が迎えた。

こんなにたくさん家族が集まるのは、なかったことで、
わたしはなんだかその日とても楽しく、
祖父もいつになく饒舌で、たくさん笑って、とても幸せな気持ちになった。

そして、3ヶ月が経って、この間である。
お彼岸で、祖父母の家に行ったときのこと。
普段からちょこちょこ顔を出してはいるが、
お彼岸ということで、この日も、祖父母、祖父の妹夫婦、母、私と、
めずらしく、一家が集まったという感じがあった。
やはり、たくさん笑って、
そうしたら祖父がまためずらしく饒舌になり、
突然嬉しそうに、こんなことを言い出した。
「この間、おまえのうち行ったときよう、久しぶりに繁夫さんに会ったなあ!
奥の部屋から、ちょっと顔出されてよう!
もう繁夫さん、何歳になるんだ?」

私たちは固まってしまった。
繁夫さんというのは、父方の祖父で、私が小学生の時に亡くなってしまっている。
私は、動揺して、
「うん、生きていたら、100歳くらいになるかなあ。。」
と答えたら、
「100けぇ!そうかあ、じゃあやっぱり、俺のことわかんなかったんだべ!
奥の部屋から、すっと顔出されて、すぐひっこまれたみたいだったかんなあ。」

その後も、戦争中、自分が、学徒動員で、炭鉱に行ったら、繁夫さんがそこにいたんだよ、
だから母を嫁に出す前から、知ってたんだ、とかいうことも含めて、
何度も、この話を繰り返すのだった。

私は、なんだか胸がいっぱいになってしまって、
「ねえ、おじいちゃん、繁夫おじいちゃんなんかいってた?
どんな顔してた?」
と聞いたら、
「なんでだぁ?なんかいってたの?」
「ううん、ただ、何か話したのかなあって思って。」
「いやあ、おれのことわかんなかったんだべ、奧から顔をちょっと見せられてよう、
すぐ、入っちゃったみたいだからよ。」

繁夫おじいちゃんが、本当にいたのかどうかはしらない。
でも、繁夫おじいちゃんがいたとしても、
ただおじいちゃんが繁夫おじいちゃんをみたということでも、
どちらでも、涙を堪えることが出来なくなって、私は急いで外に出てしまった。

色んなことを忘れやすくなっているおじいちゃんが、
私の家に来た楽しい時間のことを覚えていて、
その記憶と、繁夫おじいちゃんの記憶とが結びついてしまっただけだとしても、
それはなんとあったかいことだろう。

そして、奧の部屋から顔を出した、おじいちゃん、というのは、
絵が、びゃびゃびゃ、っと一瞬でわたしの頭にも浮かぶのだった。
顔がはっきり描けるのだ。

それに確かに、この日はお彼岸のお中日だった。




桜のもっとも美しい日に


3月22日、ゼミの日、たまたま桜がとっても綺麗だったので、
いつもゼミをやるビルの前の広場で、
極めて親しい人達と、
一本ずつ、缶酎ハイを飲むことになった。
特別な話もせずに、
静かに静かに時間が流れて、
青空に、薄いピンクの花びらがきゅっと、しているのを見上げていたら、
自分の内側で何かがしゅわしゅわといった。

そうだ、わたし、2011年3月11日は、このビルで地震にあって、
やっぱりコンビニで、一本ずつビールを買って、ここで、仲間と飲んだんだ。
その時は頭が完全に興奮していて、落ち着こうと思ってここに出てきたんだけど、
そしたら、火球(かきゅう)まで見ちゃって、あれ、火球だよね、はじめてみたよ、って、
とても落ち着くどころじゃなかったっけ。

へらいくんが、小学校の時、自分が太っていることに気がつかなかった話をした。
保健室に呼び出されてショックだった、
一緒に呼び出された仲間が太っていることには、ずっと気付いていたんだけど、
自分がまさか太っているなんて、思っても見なかった、とかいうんで、
とても幸せな気持ちになった。

うえだくんが、小学校の時、女の子と手をつなぐときに、
なんちゃらだったとかいっていた。


なんとなく、普通のことがまぶしかった。
何でもないいつもが、いつも通り表面静かに、しゅわしゅわしゅわしゅわ音を立ててた。

自分のサイズが、小さく小さくなっていくような、桜マジック。


Saturday 16 February 2013

二月

大山阿夫利神社本社




























大山にはるなちゃんと登る。
大山阿夫利神社下社を過ぎた当たりから、段々雪が積もってきた。
ふっかふかの、軽い、踏むと、ぎゅっぎゅっと音を立てる雪がここにあった。