Saturday 21 December 2019

魂をつかんだ生き方

 祖母は足が悪くて車いす生活をしていた。それでもトイレだけは一人で行くのだといって、車いすから手すりをつかんで、一人で立ち上がり、トイレに体を移す、ということを毎日やり続けた。人に助けてもらうよりも、時間が掛かっても、自分で行く方が楽なのだそうだ。
ところがそのトイレの個室の中の移動で、ある日転んで、大腿骨を骨折して、入院、手術した。
それ以来、祖母は食べ物を食べたがらなくなった。内臓はなんでもないのに、水分もとれなくなった。プリンなどを口元に運んでいっても、唇や、舌がまったく動かない。点滴中心の生活になった。
二ヶ月が経った。祖母の手も、足も、点滴の内出血の跡でいっぱいになった。祖母はもう点滴の針が嫌で、自分ではずそうとして、失敗しては、血管を更に傷つけているらしい。それを防ぐために手にミトンもはめられた。
食事を取らなくなって二ヶ月の間に、だんだん起きている時間が短くなって、朝夕の区別がつかなくなった。手術の直後は、傷を修復しようとして体がエネルギーを勝手に消費するのか、お見舞いに行くと5分もせずに疲れて、「気をつけて帰りなさい」と祖母の方から言ってきた。しかし今は、ようやく目を覚ましたと思うと「こんなにはやくにきてどうしたの。おじいちゃんにはあった?もうすぐ来るからあのドアのところをよく見ていて。お店屋さんはもう見てきた?」などと、朝も夕も、今も昔もなく、死んだ祖父と一緒に居るようなことを言ってきたり、祖父だけでなく、死んだ兄弟達の名前をさんざん出して、一緒に旅行しているかのような話をしてきたりする。
 晩年、祖父と祖母は、別々の施設で暮らした。罹った病気が別だったために、同じ施設には入れなかったのだ。
 祖母はずっと気丈で、祖父と離れて暮らしていることも、祖父がついに死んだことも、受け入れてきたけれど、今ここに来て、祖母は毎日祖父と一緒に居るようだ。会うたび、祖母の言葉に表れる、祖父のリアリティは強くなっていく。
もしも祖母が死に近づいているのだとして(そんなことはないと信じ続ける)、近づけば近づくほど、祖父のリアリティが増していくなら、死後の世界というか、魂というものが本当にあるような気持ちになる。
今日は、私一人でお見舞いに行ったのに、「帰りなさい。私は一人じゃないから、大丈夫。」と言われた。
少なくとも、祖母が生きている限り、祖父の魂があることは間違いなく、それはつまり、少なくとも、祖母は、祖父の魂をつかんだ生き方をしてきたということだろう。
手にはめられたミトンを外して、帰れ帰れと言われても、私が手をつないで、一時間くらい一緒に居ると、祖母の顔が祖母の顔に戻ってくる。私の現実のぬくもりによって。私も祖母の魂をつかもうとしている。

Wednesday 18 December 2019

Shutter

茂木ラボのクリスマススペシャル(ふだんとは違う自分になって、作品をひとつしあげて発表し合う会)で、今年出した作品は
身体をつかって自分の声で表現する詩(spoken poetry)で、
入院しているおばあちゃんの詩。


タイトル Shutter

決めつけてはいけない
"食べられない"といっていても
次の日にはバナナジュースを一口飲んでいる
決めつけてはいけない
死んだはずの"夫が迎えにくるからそこをよく見ていて"といっても
次の日には"あの人が死んだことは知っているね"とこちらをさとしてくるのだから。
手にはめられたグローブを外して、預かっていた指輪をはめたら、
安心して眠りにつくのだから。
近づいているのか、遠ざかっているのか。
小さくなっているのか、大きくなっているのか。
決めつけてはいけない。
目を開けるたび、景色は全然違うから。