Thursday 21 November 2013
Wednesday 20 November 2013
Paul McCartney Live in Tokyo(1)
11月18日、Paul McCartneyの東京ドームコンサートに行った。
スタンド席に加えて、普段は野球選手の立っているグラウンドのところまで、
ぎっしりと席が用意されて、
popsとかrockとかいわれるもののコンサートにいくのは、
人生で二度目というくらい不慣れな私は、
始まる一時間前に圧倒されてしまっていた。
後で聞いてみたら、五万人。
そんなに大勢の人が、集中するということ。
そんなに大勢の人の気持ちを、一気に動かすということ。
そんなことができるってどういうことだろう。
会場にいて時間とともにどんどん期待感が大きくなるというよりも、
不安というか、恐れというか、そんな気持ちに呑み込まれてしまった。
会場を盛り上げるためだろうか、音楽や映像が流れ始めて、
少しだけリラックスしたけれど、
こういう、録音されたものを流すのと、ポールが出てきて歌うのと、
何が違うんだろうという余計なことまで考えた。
結果、全然違うのだった。違うっていうよりまったく問題にするのが間違っているのだった。
ポールは豆粒くらいの大きさだったけれど、真っ正面から音楽が迫ってきた。
何にも過不足なく、全部が一体になってここに届くのだった。
他には何にも聞こえない。
ステージの左右に置かれたでっかいパネルに映し出される、巨人ポール二人と、
真ん中の豆粒ポール一人、
豆粒ポールのちょっとした肩の動き、足の動きが、巨人ポールに拡大されて、
私は何を見てるのか。
初めて聞く曲もいっぱいあったけれど、
どの曲もどの曲も、音楽がすごいのだった。
言葉が聞き取れればいいのに。
言葉は意味なくそこにおかれているのではないのに。
その言葉や音楽の生まれた背景も何一つ聞き漏らすことなく、ついていきたいのに。
結局、私は、
言葉は意味を失って、背景も意味を失って、
ただここにある音楽として、体を揺らすしかできないのだった。
昔、友達が言ってたっけ。
わかんなくていいんだ、全部あるんだ。
音楽が良いっておもってるときには、全部感じ取っているんだ。
多分、それは、正しいけれど。
音楽は覚えておくことが難しいのかもしれない。
いっぺんで全部、覚えて置かなくちゃいけないのに。
一度しかないのに、覚えておきたいのに、終わった瞬間からぼろぼろと落ち始める。
なるべくなるべく、忘れないように、
頭の中で繰り返し鳴らしてみるけれども、再現すらできない。
この間、アシカの声を聞いたときもそうだった。
San Diegoのdowntownから、La Jollaに向かうタクシーの中、おじさんが道を間違えて、
たまたま海辺の道に出たとき、信じられない数の、イルカなのかシャークなのかホエールなのかの背びれのようなものが見えた。
ホエールだ、とおじさんがいうので、
3分で戻ってくるからちょっとここで降ろしてくれ、といったら、
そこでちょうどタクシーを探していた一行に捕まって、
おまえらの行く美術館はすぐそこだから、ここから歩け、ということになった。
そんなわけで、たまたま降りることになった場所。
タクシーのドアを開いた瞬間に、
ものすごく大きな、聞いたこともないような動物の鳴き声が、あっちからこっちから響いてきた。
正体の分からぬ、大きな大きな無数の声。そして、むおっと全体に薫る動物の匂い。
海への階段を下りる。
目にしたのは、岩に休む何百匹ものアシカの群れ。
背びれだと思っていたものも、おそらくアシカの手のようなものなのだった。
海にも、岩にも、あちこちに、アシカと海鳥がいて、
何層も重なり恐ろしい年月を想像させる岩肌の、湾状の岸壁のせいなのかなんなのか、
互いに呼び合う声が重なり響き渡るのだった。
どんなにスケールの大きな動物園でも見たことのない、
音、匂い、強さ、平和、
それを見せつけられて、
その中にまた、私もいるのだった。
こういう圧倒的な平等、
胸を打たれて、何にも言葉が出なくなった。
この、アシカの声だけはわすれまい、
そう思って、その時も、頭の中で何度も何度も繰り返したのに、
もうまったく再現できない。
それと同じ事がポールにも起こっている。
スタンド席に加えて、普段は野球選手の立っているグラウンドのところまで、
ぎっしりと席が用意されて、
popsとかrockとかいわれるもののコンサートにいくのは、
人生で二度目というくらい不慣れな私は、
始まる一時間前に圧倒されてしまっていた。
後で聞いてみたら、五万人。
そんなに大勢の人が、集中するということ。
そんなに大勢の人の気持ちを、一気に動かすということ。
そんなことができるってどういうことだろう。
会場にいて時間とともにどんどん期待感が大きくなるというよりも、
不安というか、恐れというか、そんな気持ちに呑み込まれてしまった。
会場を盛り上げるためだろうか、音楽や映像が流れ始めて、
少しだけリラックスしたけれど、
こういう、録音されたものを流すのと、ポールが出てきて歌うのと、
何が違うんだろうという余計なことまで考えた。
結果、全然違うのだった。違うっていうよりまったく問題にするのが間違っているのだった。
ポールは豆粒くらいの大きさだったけれど、真っ正面から音楽が迫ってきた。
何にも過不足なく、全部が一体になってここに届くのだった。
他には何にも聞こえない。
ステージの左右に置かれたでっかいパネルに映し出される、巨人ポール二人と、
真ん中の豆粒ポール一人、
豆粒ポールのちょっとした肩の動き、足の動きが、巨人ポールに拡大されて、
私は何を見てるのか。
初めて聞く曲もいっぱいあったけれど、
どの曲もどの曲も、音楽がすごいのだった。
言葉が聞き取れればいいのに。
言葉は意味なくそこにおかれているのではないのに。
その言葉や音楽の生まれた背景も何一つ聞き漏らすことなく、ついていきたいのに。
結局、私は、
言葉は意味を失って、背景も意味を失って、
ただここにある音楽として、体を揺らすしかできないのだった。
昔、友達が言ってたっけ。
わかんなくていいんだ、全部あるんだ。
音楽が良いっておもってるときには、全部感じ取っているんだ。
多分、それは、正しいけれど。
音楽は覚えておくことが難しいのかもしれない。
いっぺんで全部、覚えて置かなくちゃいけないのに。
一度しかないのに、覚えておきたいのに、終わった瞬間からぼろぼろと落ち始める。
なるべくなるべく、忘れないように、
頭の中で繰り返し鳴らしてみるけれども、再現すらできない。
この間、アシカの声を聞いたときもそうだった。
San Diegoのdowntownから、La Jollaに向かうタクシーの中、おじさんが道を間違えて、
たまたま海辺の道に出たとき、信じられない数の、イルカなのかシャークなのかホエールなのかの背びれのようなものが見えた。
ホエールだ、とおじさんがいうので、
3分で戻ってくるからちょっとここで降ろしてくれ、といったら、
そこでちょうどタクシーを探していた一行に捕まって、
おまえらの行く美術館はすぐそこだから、ここから歩け、ということになった。
そんなわけで、たまたま降りることになった場所。
タクシーのドアを開いた瞬間に、
ものすごく大きな、聞いたこともないような動物の鳴き声が、あっちからこっちから響いてきた。
正体の分からぬ、大きな大きな無数の声。そして、むおっと全体に薫る動物の匂い。
海への階段を下りる。
目にしたのは、岩に休む何百匹ものアシカの群れ。
背びれだと思っていたものも、おそらくアシカの手のようなものなのだった。
海にも、岩にも、あちこちに、アシカと海鳥がいて、
何層も重なり恐ろしい年月を想像させる岩肌の、湾状の岸壁のせいなのかなんなのか、
互いに呼び合う声が重なり響き渡るのだった。
どんなにスケールの大きな動物園でも見たことのない、
音、匂い、強さ、平和、
それを見せつけられて、
その中にまた、私もいるのだった。
こういう圧倒的な平等、
胸を打たれて、何にも言葉が出なくなった。
この、アシカの声だけはわすれまい、
そう思って、その時も、頭の中で何度も何度も繰り返したのに、
もうまったく再現できない。
それと同じ事がポールにも起こっている。
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