Sunday 29 April 2007

葉っぱの穴から。

昨日はお友達とゆうごはん。
その人はいつもなんか独特のポリシーがあって、面白い。私は安心してぼけーっとついていってしまう。
連れて行ってくれたスペインの洞窟の中みたいなこじんまりした、でもspatialな、
(多分)イタリアンレストラン(すごくいい感じという意味。)で食べたピザがおいしすぎて感動した。
女同士の話をしていたら、その人が「小津映画の杉村春子の帯がいつも曲がってるのが気になる」ということをいっていた。

そして今日、一日快晴で、
畑の農作業のお手伝いをした。
草をひっこぬいたら、細かな蟻がわあっとでてきたり、
ビニールをめくったらもさもさした虫がさーっと逃げたり、
土に顔を近づければ近づけるほど、
目が慣れれば慣れるほど色んなものをみつける。
地面に這ってジャガイモの葉っぱの茂みを覗き込んだら、穴の開いた葉っぱの上に大きな蟻が一匹のって、
しきりに自分の体を隅から隅までなでてなにかを体に塗っていて
なんだか鏡の前のヨーロッパの貴婦人のようで優雅だった。
こんな風に土に近づくのが久しぶりなんて、なんてことだ。

変なズボンをはいて、黄色い割烹着みたいなのを着て、麦わら帽子をかぶって、眼鏡をして、やっていたら、
私はとても目が悪くて(右目も左目も0.05くらい)普段、コンタクトをしたり眼鏡をしたりしないことはないことに気がついて、
そういう矯正をしていたくなくなってきて、眼鏡を外した。
最初は、みようみようとして目を細めたりしてがんばっていたけど、
日高さんのいってた、環世界を思い出して
作業に差し支えない限り見えない感じのままいてみることにした。

”のらちゃんな”の枝を抜こうとしてがんばっていたら、
近所のおじさんがやってきて、
「ハイハイ、どきなさい、お嬢さんにはできないさ〜」
といってひょいひょい抜いていくし、
母親や母親の友達やそこにいた、あたし以外は
すごいテキパキしていて、
なんだかすごい自分がうすのろな気がして悔しかった。

ふと、思い出して、ねえ、火曜日って晴れかなあ?と聞くと、
母親の友達は、雨!火曜日と水曜日は雨!と即座に答えてくれる。
娘がいつも今日は天気どうかな、とかいうので、
気にするようになって予報士並みに詳しくなってしまったらしい。

今日そういえばいきなり、母親が、保育士になろうかな〜、というようなことをいいだしたんで、
そんな事考えていたんだと思ってびっくりした。
是非やってほしい。

葉っぱの穴から世界をのぞいた気分がした。

Friday 20 April 2007

車窓から見える小さな黄色い花が畑を満たして揺れるのが好きで。

はっ。また、更新せずに日が経ってしまった。

春だから、きれいな色の服が欲しくなって、飛行機を調査しにHISにいくついでに、
新宿でふらっとお買い物。菜の花みたいな色のカーディガン。

家にずっといるのはなんとなく気がめいるので、
外の空気に触れるために喫茶店に行く事が多くなった。
歩けば、MP3を聞く時間ができるし、電車に乗れば、本が読める。行き帰りで別の本を読む。
喫茶店でも別の本を読む。
チャーマーズのをよまなきゃいけないとおもってよむと、全然進まないんで、
気が向くままに移り変わるのをよしとした。

その中の一つ、「人生の鍛錬ー小林秀雄の言葉」
読んでいて、決意を新たにした。

まず始めに信じよう。自分に安心を与えてくれる事が確かめられてから、信じるのではなくて、
まず始めに信じよう。直感の指差した人を、ものを。
私が信じる人が、ものが、素敵であればあるほど、
それらを本当に感じる事は、私自身が素敵にならねば無理だろう。
だから、まず信じて、どうなることも恐れずに、飛び込んでいこう、と、
(だって、こうなろうと思ってなにかすれば、こうなろう以上の実現はできないのだから。)
それで、「信じる」を死ぬまで成長させていきたい。

今はなんか全部が全部心配で、全部全部心配。何から何まで、しつこいくらい。
だけどころっと忘れたり。
春はゆっくりと茂る。今日家では筍の初物がとれた。


以下「人生の鍛錬ー小林秀雄の言葉」より抜粋。

「経験というものは、己れの為にする事ではない。相手と何ものかを分つ事である。
相手が人間であっても事物であってもよい、
相手と何ものかを分って幸福になっても不幸になってもよい、
いずれにせよ、そういう退引きならぬ次第となって、はじめて人間は経験というものをする。
そういう点に心を留めてみると、経験は、場合によっていろいろな事を、教えたり教えなかったりするだろうが、
たった一つの事は、あらゆる場合にはっきり教えているという事が解る。」

「風景に対する愛や信頼がなければ、風景画家に風景というものは存在しない。
そうして出来上がった風景画は、見る人に愛や信頼を要求している。
かような要求に共鳴するからこそ、美しい形の知覚は、動かしがたく、堅固なものになるのである。
かくの如きが、美しい形の持つ意味なのであり、意味を欠いた美しい形は、忽ち安定性を失う。」

Sunday 15 April 2007

八重桜の季節

昨日久しぶりに大学のときからの友達とあってあれこれ聞いてよー!っと話をしてて、
色んなことを話してるときの自分の心の動きに目がとまって、
ふと
私はあれがいやだとかこれがいやだ、誰はどうだとか、とか
そういうことから開放されつつあるかもしれない、と思った。
そういうことが関係なくなってきてるかも、自分を守らなくても良くなってきてるかも、と。
自分のまとってる防御の膜をできるだけ薄くしたい。
不安を勝手に埋めようと急いだりすることが今の私の欠点だけど、そういう無理矢理のエネルギーより、
今ないならないで、そうか、と認めるほうが、
そうして、永久になかったらそれならそれで、と思う方が
なんかよっぽど悲しくないのはどうしてだろう。
もっともっと信じられるようになる気がするのはどうしてだろう。
このままほんとに変われたら。
ぎゅーっと凝縮されていく夏に向かって。
本当の栄養をと、心が太陽に向かう。
ああ、春は良いな、春は好きだな。

Friday 13 April 2007

春セミナー

今日はいつもの場所がとれなかったということで、
研究所の外に出て、
神田の美しい場所を茂木さんが予約してくださり、そこでのセミナーの日となった。
昔のお家そのままの甘味所。竹むら
私が研究室に入ることが決まったまだ学部生の頃、
偶然ここでなにかの研究会があると、先輩のみんなにまじって誘っていただいて、
初めて来たのだけど、その時の感動をまだ覚えてる。
なんか小俣さんの着てた服とかまで覚えてるかも。夏だった。
それに、ふみちゃんとの衝撃の出会いの場所だし(その頃は桜の頃)、ほんととても思い出深い場所。

今日は、てくてく歩いて向かって、その建物が見える角を曲がったら、
2階の窓があいてて縁側というかベランダというかに、柳川さんが腰掛けていて、
なんとも粋だった。
うらやましくなって急いで中に入って私も早速腰掛けた。
気もちいー!

みんなそれぞれ自分の今考えてることを自由に書いたA4一枚のレジュメをもって発表して議論した。
それぞれのことを聞くと、いつも話してたのに、ヘーそんなこと考えてたんだーっていう驚きがあったり、
その人らしさがみえて楽しかったし、
色んな話題で議論ができたり考えられたりするのが楽しかった。
私は、「新しい学習理論のために」ということで話した。
変化と唯一性と主体性の関係、この辺もうちょっと整理したい。
ここには既に主観性が前提となってしまっている気がするから。
関係性と比較も。

とてもさわやかな春の風が吹いてた。

Wednesday 11 April 2007

positive energy

今日はひょんなことからCSLによって
柳川さん、関根君、篦伊くんと韓国料理の「チェゴヤ」でご飯。
関根君が、蚕の炒めたのを頼んだ。
関根君が今日、象の気持ち悪いダンスを踊ってくれたからか
私は見た目が変わった食べ物やクセのある食べ物がわけへだてなく苦手なのに、
ぱくりと一匹食べてしまった。
きっと後にも先にもこれ一回のことだと思うけど、
濃厚な味で、でも頭の中の衝撃の方が大きすぎて、しっかり記憶することができずに、
その味はもはや、そしてなぜか、美化されて心の中に刻まれることとなった。
楽しかった。

最近マリーナの講演を久しぶりに聞いていたら、
なんかいろいろはっとした。

「私には制限が必要です。私の人生の全ては制限を破ることにあります。
だから私は、私自身の心や体の制限を見つけて、簡単には克服できない課題を自分に課すのです。
私がやろうとすることは自分が苦痛で苦痛で仕方がないと思うことです。
自分の好きなことばかりをやることは、簡単であるが故に、
常に同じ状態に居続け、同じ間違いを何度も何度も繰り返すことになります。
だから未知で怖いことをしなくてはなりません。
私は、そのような反復が嫌いなのです。
パフォーマンスとは変化についてのことなのです。
(中略)
予想不可能な事態に晒され、リスクを引き受け、
精神的にも肉体的にも自分を限界においたら、その時、
どんな場所にあなたがいたって、アイディアはsurpriseとしてやってくるのです。」
(私の訳)

ならばリスクをとることも、失敗することも、結局、神の祝福。

私はなんとなく、
自分に正直でいたい。
Australiaにいって、私はどんなことをChalmersと話したいかな、とか
多分みんなのまえでトークをしなくちゃいけないだろうな、とか、
自分が本当に心の底から大事だと思ってることを話さなきゃ意味がないなと思って、
自分の考えを整理しているのだけれども、
自分に嘘のないモチベーションってなんだろうって真剣に向き合ってみると、
意外とその姿はぼやぼやしていてることに気がついて、
甘えなく、あらゆる仮面を取り除いた姿をみなくては、と思うようになった。
そして全体像は過渡期かなにかいっそう混乱してきてしまったけれど、
なんだか色々足りないパーツや誤摩化してるパーツは既にたくさん見えてきた。
こうなると勉強が楽しくなってきた。
鏡を通さずに、勉強って自分の心の姿をみようとすることなんだな、と何となく思った。
Marinaの魂に殉ずれば、ありのままの姿は制限であり、克服されるべき実体なんだろうと思う。

友達の言葉や態度のパワーってすごい。
根底の優しさってすごい。
そのpositive energyで
のびのびのびーっと風船のように天高くまでいけるきがした。

Friday 6 April 2007

ベタの地団駄


http://ikimono.ciao.jp/beta/beta.html

少し前、私のことをよく知る人に、
オマエ、ベタに似てるな、とつぶやかれる。

・・・闘魚らしい。

血の気がおおくて、この口、この上目遣い、そっくりではないですか。。
私がちょくちょく落書きしてた自画像にも似ている気がします。

今は沈黙だけど、
なんかいろんなことが悔しくて仕方ない。

私は学生を卒業したばかりで、今職探し中で、いわゆるニートとかフリーターとかいうやつだけど、
だからこそ(かどうかはしらないが)息苦しいほど思うことがある。
私は、なぜか、でも絶対的に、存在してしまっている。
この先どうやって食べていったらいいのかわからないのに、
存在してしまっている。
定期が学割じゃなくなったり、銀行から今後の身の振りを聞かれたり、
あらゆる書類の所属欄を見たりして、前よりも多めに、
ぽっかりと、何者でもない自分を意識せずにはいられなくなってくるけど、
この息苦しいほどの、存在してしまっているという事実に向き合うのにはちょうど良い。
ニーチェやマリーナが示してることは、
ただ、呼吸して、どんどんエントロピーの広がる方向へ、弛緩していくんじゃなくて、overcomeが必要だということだ。
この存在の重苦しさに等しいくらいの自分になるためには。

私のこの息苦しさが、もっともっと深まって、「それから」でくるくるくるまわる「赤」の時を迎えればいいのに、と思う今日この頃。

Tuesday 3 April 2007

自戒

ニーチェに出会って、変わったことは、
私、この人のこと感じたい!っていうような気持ちになったってことだった。
死んでしまって、決して問いただしたりできない相手の気持ちを
とことん感じたいという衝動が起こったことだった。
でもほんとは、
死んでるから断絶してるんじゃない。
生きてたって完全な断絶があるんだ。
だから、同じ。
対、他者だって、対、自分だって、未来だって、
生きてるから、ついつい
こうだったらいいのに、とか、こうじゃなきゃいやだ、
上手くいかなかったらどうしようとかいう気持ちが生じちゃう。
そういう気持ちが、いき過ぎて強くなって暴れ出したら、
ニーチェへの愛をしっかり心に抱きしめればよい。

前の日記の、私の家の目の前にある一本の桜の木は、どうやら、
変な時期に枝が切られてしまったために、
調子が狂って、いつもとちがう咲き方をしているみたいだ。
枝に少しずつの固まりで咲いて、満開とはほど遠いのに、既に葉っぱがたくさんついている。

Sunday 1 April 2007

桜の灯

体が先か、心が先か、なんだかメタメタになっている。
どうしてこんなに疲れてるんだろう。
なんか背中から魂がふーーっとぬけて、体がどさっと落ちちゃうんじゃないかっていうくらい。
。。脱皮じゃないんだから。
なんだか若干、中心崩壊状態。
寝るのが一番大事かも。

今日は花見だった。
東京は上野。満開の桜。たくさんの人手。いろんな人の顔。揺れる赤い灯、花吹雪。
私の家の目の前の桜は、すこしずつ咲いてる固まりが枝にぽつぽつついてきて、
夜、その木を見たら、花の固まりがほわっと白んで、雪の降る中にたつ木みたいだった。
私もしっかりたたないと。