オープニングの日に、どうしてか今回はお邪魔しようと思っていた。
17時からはレセプションパーティもあるということだったけれども、
なんとなく、17時まで待つより、自分のタイミングで行ってしまいたくなって、
15時には会場についていた。
全ての絵が、女の人が子供を抱いている絵で、
植田君のお母さんが出て行ってしまったこと、
植田君が前に創ったアニメ作品(少年が、自分の胸に刺さった釘を抜いて、
その釘で岩に立ち向かって女の人の像を掘り出す作品)のこと、
植田君が主人公のモデルになった小説『東京藝大物語』(あくまでもフィクション)では、
植田君の奥さんの名前がマリアだということ、
いろいろ思い出しながら、
ついに展覧会の日が来たなあ、と見て回っているうちに、
twitterの告知を観たときに「いいな」と思った絵から離れられなくなった。
この女の子は、子供を抱くには若すぎる。
なんで子供がいなくてはならないのだろう、
なんで、わたしたち、いなくてはならないんだろう、
そんな気持ちもわくにはわいたが、あまりにも二人ともかわいかった。
色が綺麗で、愛しかった。
植田君の絵だからいい、ということではなくて、
植田君の展覧会ということをこの絵の前では忘れた。
誰が描いたとしても、良い、としか言えない。
今回展示された中で、キャンバスに描かれた絵としては、一番小さな絵だ。
このあたりから、わたしの思考は混乱してきたのだった。
いくらなんだろう?と思った。
もしかして、買える値段だろうか。
なんだか、訪れた人が名前を書く台の下にファイルが控えめに置いてあって、
手に取ると価格が書かれていた。
値段を知ってみれば、
「号いくら」という、決まり値では、
失礼に当たると思うくらいに、
キャンバスが化けていた。
訪れた方の名前を観たら、私が二番目の客だった。
これからレセプションで人がたくさんやってくる。
絶対これから売れてしまうだろう。
もしかして、私が買える絵としては、最初で最後なんじゃないだろうか。
今回の展覧会で初めて出た絵の中でダントツに好きな絵が、
たまたま一番小さな絵なわけで、
タイミング的にほとんどの人が観る前で。
名画や、既に価値の定まったものを、私が自分の生涯で買うことが出来るとは思えない。
もう完全にわけのわからない雲に包まれていた。
植田君に、「買いたいとおもってしまって、頭がおかしくなったのかな?」とメールをしたら、全然返事が来なかった。
返事を待ちながらなおその絵を見ていたら、ある方の絵を思い出した。
少し前に、その方の訃報を植田君から聞いた。
藝大の卒業制作展で、何年か前に、その方の絵を、私も一緒に拝見していたそうで、
「ほら、すごく「この絵は良いなあ−。。。」ってみんなが言った絵があったでしょ」
と植田君が言った。
私は思い出すのに時間がかかって、写真を見せてもらって、やっと思い出したのだった。
「僕なんか、本当のことを言って焼き餅を焼いてしまうくらいにいい絵でさあ、、
僕もあのとき観たのが最後で、
親しくつきあっていたわけじゃないんだけど、すごくショックでさあ、、
残念だなあ—、、、」「いやーっ、残念だあーっ」
と植田君は、ショックでそれしか言えないみたいになっていた。
写真で見せてもらった絵と、観た日のことをなるべく鮮明に思い出そうとしてみると、
「これは良い」って、ほんとうにみんなが言っていたのだった。
私はその基準を共有できていなくて、恥ずかしかった。
既に確立された画家の、いい絵はわかっても、そうじゃないとわからないということ。
やっぱり藝大のお友達の、菜穂子ちゃんと話したとき、
菜穂子ちゃんも、「この人の絵をずっと見ていきたいなあー、って気持ちあるじゃない?
楽しみだなあーって。。あの人はほんとそういう人で。だから、本当に、残念」
と言った。
この人の絵はいいなあ、、見続けていきたいなあ、とほんとに楽しみにするようなこと、
そこから出てくる、残念だなあー、、という二人の言葉の響きが、
蘇ってくるのだった。
わたしも、既に価値が決まったすんごく良いものを追うんじゃなくて、
今生きている人の、どうなるかわからない人の、
そういうのを楽しみだなあ、っていいたいな。
いま、私がなんとか買えるお金の、今の私が見続けられる絵が目の前にあって、
もしこれを買ったなら、
これから先色んなものに出会ってもっと色んなことがわかるようになったら、
もっとこの絵の良いところがわかるようになるだろう、
この絵と一緒に育っていける、そんなこともあるんじゃないかな。
そんな気持ちになっていて、
植田君の返事が来る前に、
ギャラリーのオーナーに「これ、買うことができますか?」と言ってしまったのだった。
植田君の寝てる間に、
私は清水の舞台から飛び降りていた。
もう、とりかえしはつかないんで。
植田君はお礼にバームクーヘンを持って自転車で駆けつけてくれた。
展覧会が終わるまで、私のもとには来ない。
写真に撮って観ているが、
私はこの絵を毎日毎日好きになっている。
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*『東京藝大物語』は、私たちが、こうでなければならない、と
知らず知らず身につけてしまった習慣から、
目を覚まさせてくれる小説だと思うのです。
私たちが生きるというのは、こんなにもへんてこで、こんなこともしてよかったって、
茂木さんの本はいつも自由にしてくれます。
私が主人公の植田君から、実際に学んだことは、
目的を達成するということよりも、いかに人が気持ちよく動けるようにするか、
今この場をどんな風に気持ちの良い場所にするか、の方がよほど大事だとでも言う感じ。
誰にも会わず偉大な絵を描くためだけに黙々と作業するというよりも、
植田君はいつも友達に会って、助けてしまう。お茶してしまう。
でも私は、そういうことがなくって、本当にやりたいことができることなんてあるのかな、って思うようになりました。
「下手くそな画学生よ、君たちの芸術には、本当は、世の中を変える力がある。
それほどアートは、人を煽動する、そして洗脳する、そんな力がある。
君たちはアーティストになりたいのか、それとも、作品を通して、世の中を変えたいのか。
お前らはこの世の中をよりよいものに変えるために、どういうポジションを、
目指そうとしているのか。」
(登場人物、福武總一郎さんの演説より抜粋)