Friday 7 August 2015

池田塾でのある発表(2015)

以下は小林秀雄さんの旧ご自宅で、池田雅延さんが月一度開かれている「池田塾」にて
今年私が発表させて頂いた原稿です。

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私の発表は、2013年に発表した部分のくり返しのようなものになります。

小林秀雄『本居宣長(上)』の16章では、
『源氏物語』の准拠説、つまり
この物語を当時の学者たちがどんな風に扱っていたか、ということが書かれています。

この物語のここの部分は、現実にあったこんな出来事がモデルになっている、とか、
ここは、漢籍のこんな教養から出来た話だ、とか、
この人物は、現実にいた誰々だ、とかいうように、
物語の中のことを、現実のことに対応づけることができると、
物語が「説明できた」ことになっていた。
つまりは、現実にベースが見付かること、それが研究するということだった。

そういうことが書かれた上で、小林さんはこんな言葉を発します。
「外部に見附かった物語の准拠を作者の心中に入れてみよ。その性質は一変するだろう。」

物語に対応することが現実に見付かったとして、
それらを全て組み合わせ、結び合わせてみても、もとの物語にはならないじゃないか。
本当に物語を「説明する」というのは、
作者の心に、どんな風にそれらの現実の出来事が映って、どんな意味が見いだされたか、
その心の中でどんな風にその出来事が変質したのか、
ということを追うことだ、
と小林さんは言っているように思います。
この言葉は、私自身にグサリと刺さって、いまのいままで私を驚かせ続ける言葉になりました。

なぜなら、一つには、私自身が学者であり、脳科学をやっているということがあるのです。
現在の脳科学では、意識(心)は脳から生み出される、ということが常識になっています。
けれども、たとえ、意識が脳から生み出されるということが事実だとしても、
意識と現実にある脳とを対応付けるだけでは、准拠説と全く同じで、
意識のことを説明できたことにはならない、と
小林さんにはっきり言われてしまったように思ったのです。
この数十年の間、脳科学は、まさに意識と脳を対応付けることをやってきたのです。
例えば、
我々がこんなことを考えているときには、脳のどこどこが働く、
我々の意識レベルがこれくらいのときには、脳の中にこういう物質が放出されている、
というように、意識と脳とを対応付けてきた。
でも、そうやってばらばらに見付かった物を組み合わせてみたって、確かに脳が出来るだけなのです。
心のことは何にも説明していない。
みんな絶望しているのですが、改めて、
じゃあ私の知りたい心ってなんなのだろう、どうしたらわかるのだろう、
と自分に問いただしてみると、
小林さんの言う「心に入ると、一変する」
その「一変する」ということこそが、私の知りたい心の不思議のように思いました。

このように思ってから、
この問題は随所で顔を出してくるようになりました。
記憶の論文を読んだときもそうでした。
美術館で美術品を見る、そしてしばらくして、どれほど記憶に残っているか、
ということを調べた論文です。
「記憶に残っている」ということをどう判定しているか、というところに
私は非常な違和感を感じたのです。
例えば、仏像だったら、
「その仏像は右手に何を持っていましたか?」という質問に、
正しく「剣」と答えられたら、その仏像が詳細なところまで完全に記憶に残っている、とされていた。
だけど、私が仏像に感動して帰ってきたとき、
友達に、「仏像が右手に剣を持っていてね・・・!」と語ることはまずないと思った。
手でなくても同じです。目がこんな角度で、口がこんな角度で切れ上がっていてね・・・、
そういう現実の像をそのまま写すようなことを言ったって仕方が無いというか、
私は何に感動しているのだろう、
自分の感動にぴったりの言葉ってどんな言葉なんだろう、
どんな言葉で言ったら、仏像のことが本当に説明できたことになるんだろう、
本当にこの仏像のことを言い得た言葉ってどういうものなんだろう、
と思うようになって、
心に映ったかたちを知ること、
そういうかたちで、心を知ることが、私には、言葉で表現する問題になっていきました。

こうなると、もう言葉で実際に表現することでしか、私にとっての「わかる」はないということになってしまいました。
それで今回の発表では、「書く」ということで体験した、はじめの一歩のような話をさせてください。

私は今年、「モギケン一座、新印象派展を観に行く」ということで、
茂木さんと、画家の植田工さんと一緒に、弟子として、お仕事をさせて頂きました。
植田さんは、茂木さんの絵を見ているところなどの絵を描いて、
私は、茂木さんが絵を見て語られることを文章にする、という役割です。
恩蔵絢子という名前をだした上での、聞き書きをさせていただいたのですが、
私自身の考えを書くわけではなくて、あくまでも茂木さんのお考えなので、
主語は「僕」を使うように、と編集の鈴木芳雄さんからご依頼を受けました。
誰かの身になって書く、ということをやらせていただくことができたわけです。

しかし、はじめ、私は、自分がいる意味がわかりませんでした。
茂木さんが直接書かれた方がいいものができるに決まっているからです。
私は、知っていることも、感じられることも、文章力も、茂木さんより小さい。
私が介在してしまうことは、劣化させることだという風に思いました。
実際に、茂木さんがそこでしゃべられた言葉は素晴らしかった。
だから、私は、もう完全に黒子と化して、ただしゃべり言葉にある文法的間違いや、
脱線を、ただ整えることだけに徹したのです。
でも、その原稿は没にされてしまいました。
黒子と化して、自分の心を動かさずに書いたら、人の心を動かす文章にはならなかった。
自分の心を動かさずに書いたら、文章は死んでしまう。
当たり前なのですが、そんなことに初めて気がつきました。

それで、私は、茂木さんがしゃべられたこと全てを書くのではなくて、
茂木さんがしゃべられたことの中で、自分が一番感動したことだけを、
その感動が伝わるように書こう、と思いました。
私が茂木さんの下で学んできた13年間の記憶を総動員して、
あのときこうおっしゃっていた、だから多分この言葉はこんな意味の言葉なんだと思う、
だから私はここまで感動しているんだと思う、
と、この美術館の現場では直接にはおっしゃられなかったことを書かないと、
生きた文章にはならないのかもしれない。
書くのは私なのだから、私を100%働かせて書いた文章じゃないと、人は読んでくれないのだろう、
けれども、茂木さんの実際におっしゃられた言葉の中で、私が感動したことなのだから、
茂木さんと私の「AND」であり、
この書き方だったなら、主語が「僕」でも許されるのだろう、と思いましたし、
誰が主語であれ、文章自体が生きていることが一番大切なことだと感じました。
一つの言葉がちゃんと驚かれ、その驚きが伝わるように努力する、
どこまでできたかはわかりませんが、こういう書き方だったなら、
文章に関わる人全員で、真実を探っていくことになるのだろうと思いました。

些細な発見かもしれませんが、
宣長の、他人の心に映った出来事だけを追うということはどういうことなのか、
文章が文章独自の世界を持つとはどういうことなのか、
について、自問自答したところは、いまのところ以上になります。


(参考)『本居宣長(上)』p179

外部に見附かった物語の准拠を、作者の心中に入れてみよ、その性質は一変するだろう。
作者の創作力のうちに吸収され、言わば創作の動機としての意味合いを帯びるだろう。
宣長が、「源氏」論で採用したのは、作者の「心ばへ」の中で変質し、
今度は間違いなく作品を構成する要素と化した准拠だけである。
彼のこのやり方は徹底的であった。

2013年の池田塾での発表
モギケン一座新印象派を観に行く

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