Slides and Swingsというサイトに文章を書かせて頂きました。
最初植田君がやっているメールマガジン、
Tanzen and Mirrorで書かせて下さい、と私の方から立候補してしまったのだけれども、
いざ文章を、ということになったら、
人からどう見えるかが気になって気になって、
自意識の塊、みたくなってしまっていた。
自分の文章は「成立」してないんじゃないか、
「成立」ってどういうことだろう、と
うじうじ、ぐだぐだ。
だけど、急に、植田君が、多様な人が、色々なことを言って、議論する場を作ってくれて、
こんな場所ってすごい、と思った。
「成立」ということも、この場所で考えていける。
私が特別じゃなく、この場でいろいろなことを考えていける、
私が暗いことをいっても、別の人の音楽が流れている。
すごく幸せな気持ちです。
出来る限りのチャレンジをしたいです。
Thursday 22 December 2011
Wednesday 21 December 2011
讃
この間、内田樹さんらの『現代人の祈り』という本を読んだ。
祈りというのはそのままを記述することだ、というようなことを内田さんがおっしゃっていた。
「「国誉め」という儀礼がありますけれど、あれも別に美辞麗句を並べ立てるわけではないんです。
ただ「ここに高い山がある。その横に深い河がある。そのかたわらには大きな森がある・・・」
というふうに、そこにあるものをただ列挙的に記述してゆくだけなんです。
祝福するというのは、本来そういうことだと思うんです。別にことごとしい形容詞を並べ立てる必要なんか無い。
目に見える一つひとつのものを「その名で呼ぶ」ということが祝福なんだと僕は思います。」
「仮面を被る人というのは、自分自身の素顔に対して、一種の劣等感があるんですよ。
その人自身が、自分の素顔を愛せない。それに対してはその人自身の現実、具体性を読み上げてあげる。
「右に見える競馬場、左はビール工場」でいいんです。
「あなたのこのへんが、こういうふうに、こうです」と、具体的に「あなたはこういう人でしょう」と言ってあげる。
僕はそれだけで「呪い」は部分的に解除できると思います。」
その時、その場所にあったものを、ただ記述するだけで、
それがなくなった後から見た時、
具体性を与える手がかりとなる、
ということも書かれていて、
なんだか、そうか、と思った。
今ここにはこれがあって、これがある。
おじいちゃんはいついつに、これこれをした。
確かにすごい祝福に思えた。
わたしは今、とても文章を書きたくて、
それが人にはどう届くのかを知りたがっている状態にあって、
あなたのこのへんが、こういうふうに、こうです、というのを実際すごく欲しているから、
なんだかよくわかる、という気持ちがしたのも確かである。
事実を言うことってとても難しいことだけれども、
この辺にわたしがもし科学的精神をもっているとするなら、それが関わる余地もある気がして、
私の道は、「讃」だと思った。
私は震災後、『北の国から』のDVDを全巻買って、
今に至るまでほぼ毎日見ている。
こんなにも必要としたのは、
「ただこうなる」ということをいっぱいみたかったからじゃないかと言う気がする。
祈りというのはそのままを記述することだ、というようなことを内田さんがおっしゃっていた。
「「国誉め」という儀礼がありますけれど、あれも別に美辞麗句を並べ立てるわけではないんです。
ただ「ここに高い山がある。その横に深い河がある。そのかたわらには大きな森がある・・・」
というふうに、そこにあるものをただ列挙的に記述してゆくだけなんです。
祝福するというのは、本来そういうことだと思うんです。別にことごとしい形容詞を並べ立てる必要なんか無い。
目に見える一つひとつのものを「その名で呼ぶ」ということが祝福なんだと僕は思います。」
「仮面を被る人というのは、自分自身の素顔に対して、一種の劣等感があるんですよ。
その人自身が、自分の素顔を愛せない。それに対してはその人自身の現実、具体性を読み上げてあげる。
「右に見える競馬場、左はビール工場」でいいんです。
「あなたのこのへんが、こういうふうに、こうです」と、具体的に「あなたはこういう人でしょう」と言ってあげる。
僕はそれだけで「呪い」は部分的に解除できると思います。」
その時、その場所にあったものを、ただ記述するだけで、
それがなくなった後から見た時、
具体性を与える手がかりとなる、
ということも書かれていて、
なんだか、そうか、と思った。
今ここにはこれがあって、これがある。
おじいちゃんはいついつに、これこれをした。
確かにすごい祝福に思えた。
わたしは今、とても文章を書きたくて、
それが人にはどう届くのかを知りたがっている状態にあって、
あなたのこのへんが、こういうふうに、こうです、というのを実際すごく欲しているから、
なんだかよくわかる、という気持ちがしたのも確かである。
事実を言うことってとても難しいことだけれども、
この辺にわたしがもし科学的精神をもっているとするなら、それが関わる余地もある気がして、
私の道は、「讃」だと思った。
私は震災後、『北の国から』のDVDを全巻買って、
今に至るまでほぼ毎日見ている。
こんなにも必要としたのは、
「ただこうなる」ということをいっぱいみたかったからじゃないかと言う気がする。
Wednesday 14 December 2011
今日のオスカー
キリストの中に、完璧なるものに近づいた人格を見ることができるだけでなく、彼の性質のその根本は、芸術家の性質の根本と同じものである。――強烈な炎のような想像力が彼の根本にあるのである。彼は人間関係のありとあらゆる領域で、その想像力にとんだ思いやりを示したのである。それは、芸術の領域においては、唯一の創造の秘訣ともいうべきものである。彼は、ハンセン病患者のハンセン病、盲人の暗闇、快楽に生きる人々のすさまじい不幸、金持ちの奇妙な貧困を理解した。ある人が窮地にある私に「あなたはあなたの台座の上にいなければ、面白くないですよ。」と手紙を書いてきました。この書き手は、マシュー・アーノルドが「イエスの秘密」と呼んでいたものから、なんて遠いことでしょう。アーノルドかイエスのどちらかが、誰かに起こることは何でも自分自身に起こるのだと、彼に教えていたでしょうに。それから、もしあなたが、夜明けに、夜更けに、喜びのため、あるいは、苦しみのために、読みたい碑文があるとすれば、家の壁に、太陽が金色に、月が銀色に輝かせる文字で、「自分に起こることは何でも誰かに起こる」と書くのがよいでしょう。
オスカーワイルド『獄中記』より拙訳
オスカーワイルド『獄中記』より拙訳
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