Monday 5 September 2016

美術の人たち

大学院に入って、茂木さんのところで脳科学を学び始めたちょうどその頃、
茂木さんは、東京芸術大学で週に一度授業をしていた。
自然に私も授業にもぐらせていただくことになって、
美術の世界の人たちと知り合うことが出来たのだった。

それによって、私の人生は変わったな、と思う。

一番変わったのは、人生で一番大切にするものは何か、という点。
世の中には、正しい/正しくないという清い倫理で生きる道と、
清濁併せ持った「質感」というものを大切にして生きる道の、
二つがあるのだな、ということを知った。
そして、救いのあるのは、後者だということもまた。

私の知っている美術の人たちには、
正解と不正解という概念がないようで、
例えば、私がやってしまった「失敗」を彼らに話した時には、
彼らの反応の中に、
気にするポイントが違うんじゃないか、という強い圧力や、
そこじゃない、大丈夫だ、という優しさを
繰り返し繰り返し感じてきた。

人の中に、その人にしかない質感を、見つけだすことに最大の喜びを感じるらしい人たち。
だから、その人のどうしても繰り返す失敗どころや、なかなか変わらないその欠点こそが、
ぎこちなくて、むしろ、最高においしいものとして、受け取られることがあるということ。

なにかがうまくできたり、できなかったりすることと、
その人が生きているということは、
全く関係がないことなんだ、というのを、
彼らは体で知っているように見える。

たとえば、私が、彼らのいう「質感」は、どういうものかとずっと考えてきて、
今言えるのは、こんなこと。

上野御徒町に、蓬莱屋というとんかつさんがある。
ここは映画監督の小津安二郎さんが愛したお店だ。
緊張するほど綺麗なお店で、出てきた器も美しくて、なんどもゆっくり火を通されたとても繊細なお肉で、おいしかった。
ある時、突然にわかった。
あ、これは、ほかのどこでも味わうことができないものだ、
すさまじくおいしい、
ということが。
おいしい、とはずっと思っていたけれど、
あるものが、心の中で唯一性を獲得すること、
それを、質感というのだと、
そのときはじめて理解した。

「質感」というのは、なににも分解できない。
有名な小津さんが愛したお店、どんな油をつかっている、どんなお肉をつかっている、
とどれだけ説明されてもダメだった。
繰り返し繰り返し自分の記憶に蓄えて、
ある日体が雷にうたれて、ピントが定まるみたいに、他にかわりが無いと知る、そんな体験のことだ。
自分でも繊細でおいしい、と思っていたのに、ある瞬間まで「特別」にならなかったのだ。
はっきりと自分の体験の中で、ある場所を占めること。
それは逆説的だけれど、どんな言葉も失ってしまう体験だった。

その「質感」が、この世の全てのものに、あるとしたら。
それこそが、学ぶべきものであるとしたら。
味わう、ということこそが、人生で一番大切なことだとしたら。

美術の人たちは、とても、優しい。

私には、その気付きは、自分の持っている言葉を全部見直さなければならなくなるような、体験だったのだ。

誰かが誰かであることを説明するのに、どんな言葉だったらぴったりなんだろう。
目の前にいる人、目の前にある作品、その「質感」を本当につかむことができるかどうか、
その「質感」にぴったりの言葉を探すこと、それが私のやりたいことになった。

だからここでは、美術の人たちに教えてもらった「質感」を大事にする生き方を、
言葉を通して、探っていきたい。

そんな気持ちで、はじめます。


(*上記は2015年11月にある企画のために書いた文章です。それがなくなったので、いまさらですが、ここにアップしてしまいました。)