Saturday 25 April 2020

いろんな顔

4月23日
歩いて行ける範囲に自然がたくさんあることでは、本当に恵まれているとつくづく思う。
普段は一人で散歩しているのだが、この状況で、
父は四六時中母と一緒に居るので、少しは気分転換の時間になればと、
両親と一週間に一度、一緒に散歩をすることにした。
主に家の裏山をうろうろとする。

母は雨が降った後で足場が悪いところなどは、足を広げて通るとか、どこの石に足を置くとか、自分で適切に判断して歩いていく。
コンクリートの道とは違って、自然の中では判断しなくてはいけないことが膨大にあるものだ。
「どうしたらいいの?」と怖がって立ち止まる場面はあるけれども、はげませば普通に歩いて行くのだった。
後ろを歩いていた私が一度滑ったときには、後ろを向きながら歩くのは負担だろうに、私の手をつないでリードしてくれる。
じめじめした道、うっそうとした道、私がここは通っていると動物が来たら怖いなあ、と思うような道は、母は「ここは行けないね」と口にし、緊張しているのがありありとわかる。気持ちの良い場所、緊張するべき場所、信頼できる判断をしている。

いくら家の裏山とは言え、山に入るのは一人では怖いから、
両親と週に一度、思いがけずこんな時間を持って、
今日はあっちの道からのぼってみよう、
あっちへ行くとどこにつくんだろう、今度行ってみよう、
と探索することが楽しい。
どこへついても家に歩いて戻れるだろう、というくらいの、小さな名前のない山なので、安心して冒険ができる。人が押し寄せることもない。
父は山に入ると頼もしく、「おまえは、ずっとここに住んでいて、この道も知らないのか」と威張っているのが面白い。そんな父も、「あれ?こんな道があったかなあ?」と探索する余地のある山だし、それでいて、大体こっちに行けばこうだろうと見当がつくところがすごい。
家の周りの、また、家族の、いろんな顔を知る。
そうして午前中歩いて、午後は仕事に戻っている。

コロナがいつか落ち着いたら、友人を呼んで、案内したいと思っている。

いいことばかりではないから愚痴も

4月21日。
自宅にこもるひびがつづいて、体重が気になるので、
今日はランチは軽めにしたいな、と思って、
大きなりんごまるまる一つ、ヨーグルトを掛けてたべるなんて贅沢なことをしてしまおう、と思いつく。

両親は、ふたりで午前の散歩がてらに、ランチを自分たちで済ませてくるので、
今は私のことだけ考えれば良いのである。
しかし、りんごは母の好物だ。
なんとなく、ひとりで食べ尽くしてしまうのは、と思って、
居間のテーブルにすこしだけ小皿におすそわけをしておいた。

しばらく自分の部屋にこもって本を読み、一階に降りてくると、
廊下に、楊枝が一本転がった小皿がぽつんとおいてある。
居間から台所に行くか、トイレに行くか、というのが、母の自主的な二大行動パターンなのだが、
母はリンゴを食べ終わって、お皿を持って立ったは良いが、
間違ってトイレに行く方のドアを開けたら、がらん、と廊下が拡がっていて、
困って下に置いたのだろう。

たとえば、カラスが荒らしたゴミ捨て場の様子は、
これは悪意を持った人間の荒らした様子とは違うな、と一目で分かるように、
ぽっと、玄関前の廊下に小皿などおいてあると、
妙な存在感で目に飛び込んでくるのである。
そういう気持ちの傷付きは、ずっと続いている。

4月20日。
夕食中、母の箸から何か小さな物が落ちてしまった。
母は、それを絨毯から指でひろって、
まだ一口も口を付けていないお味噌汁の中に捨てた。

普段からお味噌汁はあまり母は好まないようだが、
自分がいらないからといって、それをゴミ捨て場にするのはどうかと思う。
つくった私の目の前で。

元気でいてくれるだけ、いいのだけれども。

Saturday 18 April 2020

4月18日、思うこと

PCR検査ができないのならば、とにかく、コロナ関係なく、何人の人が毎日なくなっているのか。例年と比べて、今死者の数は、どれくらい増えているのか。
もし変わっていないのなら、ほんとうに、日本にはコロナの影響が少ないと言えるのだろう。
もし変わっているのなら、検査数が圧倒的に足りていない現在、真実はそこにあると思う。このデータをだすのに、検査は必要ないのだから、負担は少なくて済むだろう。ただコロナ関係なく、どんな病気でも、事故でも、老衰でも、原因不明でも、区別なく、毎日、亡くなってしまった人の数を教えて欲しい。
もし、例年よりも、前月よりも、死者がずっと増えていたなら、それはなにか私たちが無視している要因があるのだろう、そのせいだろう。
人を数に落とし込んでしまうこと、それは冷たく、つらいことだけれども、事実の把握は、私にはどうしても必要だ。
検査ができないなら、これが一番状況把握には、誠実なデータに思える。
毎日の感染者数を伝えられる(テストが足りてないのに、感染者数ってなんの意味があるんだ?)よりずっと、本当の怖さと、痛みと、自分の行動を変える意味を見つけられるだろうと思う。
しかし、対策にあたっている方々はプロだ。そんなものは見た上で、クラスター対策でいける、と思っているのかもしれない。それなら、信じられるけど、そうでないならば、と思ってしまうのだ。





秋からはじめたプロジェクト(後篇)

春には大事な課題があった。
ツマキチョウを発見するという課題である。

ツマキチョウは、モンシロチョウととても似ている白い蝶で、モンというべき黒い点もある。
だから普通はみんなモンシロチョウだと思って、見過ごしている蝶がいると聞いていた。
しかもモンシロチョウは秋までいるけれども、ツマキチョウの生息期間は短く、
桜の散る頃から出始めて、たった二週間くらいでいなくなってしまうという。

もし今年ツマキチョウを見られなかったら、また来年の春まで見られない。
50種類の達成も、来年まで持ち越しになる。
新型コロナウィルスで、今私たちは出かけることができないけれど、
今のところ家の周りの散歩ならば許されている。人に会わなければ良い。
私は、ツマキチョウを見つけるというこの課題に、夢中になった。

ツマキチョウが出始めた、と他人のツイートを見ていて知った。
私はこの春、毎日外を歩き回っているのに、まだ一頭も目にしていない。
見かけるのは、モンシロチョウばかりに見える。でも、私も「モンシロチョウだと思っている」だけだろうか。
ところで、モンシロチョウと、ツマキチョウは棲み分けしているのだろうか。モンシロチョウを見つけたら他を探しに行かねばならないのか。それとも、モンシロチョウがいたらチャンスと思えば良いのか。
何もわからなくて不安である。
とにかく、モンシロチョウを見かけたら、追いかけて、相手がどこかにとまるまで見ることにした。羽の裏を確認するのである。
羽の裏は、モンシロチョウは緑色。
図鑑で見たところ、ツマキチョウは下羽の裏が、海の貝のような、白地に黒の複雑な模様を描いている。
裏を確認しなくては。
もう一つの大きな違いは、ツマキチョウは、羽のつま先が、まるでバレリーナの履いたトウシューズみたいに曲がっていて、黄色い。だからツマキチョウという名前らしい。
モンシロチョウのつま先は、もちろん黄色くはなくて、黒い。
だから簡単に見分けられそうだが、はたはたはたと動いているときは、モンシロチョウだって、私の目にはとにかく白いだけである。
動いている蝶は、ほんとうに、図鑑とは別物なのである。
ツマキチョウだって、白く見えるだけに決まっている。
黄色いつま先に気がつけたらラッキー。
とにかく、静止したときに裏を確かめるということを、出始めを知ってから三日間、毎日十二キロ歩いて続けたが、一向に見付からない。

四月七日、片道の六キロが終わろうとしていて、疲れたな、もう無理かも。今年は桜の開花も早かったし、二週間しか出ないというし、うちの近くは、もう終わっちゃったのかも。あるいは、うちの周りにはそもそもツマキチョウはいないのかも。
あきらめそうになったとき、長く続く川沿いの花壇を遠くから低空飛行ではたはたはたはたとまっすぐにこちらへやってくる白い蝶がいる。
私の前まで来て、急に舞い上がって上に架かる橋を越えていこうとする。
高く上がってきて私の顔の前を通り過ぎるとき、黄色いつま先が目に入った。
モンシロチョウよりはっきりとした黒い点がある。
そしてなんだか、まるいかな?でもとにかく、絶対に、先が黄色い!!!
ほんの一瞬、時間がゆっくりにすすんでつま先が確かに黄色いことを確認しただけで、携帯のカメラを構える暇なく、飛んでいってしまった。

人生で初めてツマキチョウを見た。確かに見た。
ほんとうに見たのだけれど、ほんとうに見たと言うことをもっと強く言いたくなって、
もう一度会わずにいられなくなった。
というより
ツマキチョウは、かわいかった。
つま先に靴下でも履いているみたいで。
それから毎日一週間そこへ通ったけれども、会えたのはそのたった一度。
曇りの日で寒かったり、時間帯が微妙にずれたりして、会える蝶がそもそも少ない日も多かった。

桜も散って、八重桜が満開になった。
でも、ツイッターで、今日もみた、今日も見た、と毎日見られている人がいる。
その頃また新しいことを知った。雄が出終わってから、雌が出るらしいのだ。
雌のつま先は、黄色くない。ただ黒いのだそうだ。
すなわち、モンシロチョウと一層似ているわけで、難易度が更にあがったわけである。

しかし、私には一度会えたことで、いくつか手がかりがあった。
ツマキチョウは、(1)モンシロチョウよりはっきりとした黒い点が見えること、
(2)モンシロチョウよりちょっとまるっこく見えること、
(3)飛び方がまっすぐであること、
(4)実はモンシロチョウより、少し小さいらしいこと、
(5)裏の模様が海の貝のようであること。
それにモンシロチョウの飛ぶパターンを観察し続けて、少しは蝶の動きに目が慣れているはずだ。

四月十六日。自分の家の周りはこんなに美しかったのか、と思う。
近所のおじさんの散歩コースを教えてもらって、いままで一度も通ったことのない道を行ったのだ。山沿いの道で、とても日当たりが良い。
ブナの若葉の輝く、主に広葉樹の山である。
気持ちが良いな、と歩いているとぴかぴかした野原に出た。
あっちにも、こっちにも白い蝶が飛んでいる。
白い蝶だけではない。
あれはぜったいに見たことがない風貌、という茶色い蝶が
ちょうど足下の草に止まってくれた。
カメラに収める。(後で調べるとテングチョウだった!はじめまして!)



そして、この野原の一番奥に、どうもいままでの白とちがうように見える蝶がいる。
気持ちがはやって走る。去ろうとするのを追いかける。一転、近くに寄ってきた。とまってはくれないけれど、私の立っている道沿いの、ちょうど私の頭の高さくらいの崖をまっすぐに行く。私の位置から、羽の裏側が見える。黒っぽい、貝の模様だ!!!!!
どきどきした。そのまま走って追いかけた。私の足下まで降りてきた。
なんとカメラに収まった。そして追いつかなくなるまで、見えなくなるまで、見送った。
きれいだった。

胸一杯に来た道を振り向くと、目の前にもう一頭、ツマキチョウがいた。
よくよく見なくても、モンシロチョウじゃなくて、ツマキチョウとわかった。つま先は黒いのだが、モンシロチョウとは何かが違っていた。

私、わかった。モンシロチョウと、ツマキチョウをついに区別することができるようになった。
家の周りに存在するはずの50種類の蝶を、全てカメラに撮るというプロジェクトは、モンシロチョウを綺麗な蝶だなあ、と思ったところからはじまったのだが、
ついに、春だけに見ることができる、まるっこい、ツマキチョウの美しさがわかるようになった。

この地球上にはツマキチョウがいる。

図鑑だけ見ていても、絶対に分かるようにならない。
通常は、子供の頃に、昆虫を大好きで、長い時間追いかけた人だけが知っている。
私は、網を振り回して昆虫観察をする、少女時代をもたなかった。
「今日は寒いからいないだろうな」「今日はいるだろうか」
そんな風に、人間以外を気にして生きることを知らなかった。
それが、今、40歳にしてはじめて、このコロナの不安の中で、身につけられた能力。
(ツイッターと、動画の助けを随分借りて。)

興味のない人には、どうでもよい能力であり、
興味があった人には、当たり前の能力だけど。

新型コロナウィルスで、4月の予定はまっさらになってしまった。
一緒に暮らす両親との生活があるだけである。
政府のメッセージは二転三転、しかも、科学がない。
言葉が守られない。
この国で生きていることが苦しい。
不安でいっぱいで、ツマキチョウのために毎朝起きるということが、生活を保つ鍵になった。
ツマキチョウさん、存在してくれてありがとう。
あなたが出てこられる環境を、守りたいと強く思います。
頭の中に、会えるのを楽しみにしたり、気になったりする存在が、そして自分とはまったく違った生き物の存在ができたこと。
自分で、自分の環境を探索する喜び。
これを知って、何か私が判断をする際に、知る前とは必ず違いを作るだろうと思う。

そして、やってみてこの難しさを知ると、50種類を撮影するという目標の達成は、来年どころか、もしかすると10年くらいかかるのかもしれない。
Active learningは、こういう小さなことから初めて、ずっとつづく趣味を持つことなのかもしれない。





私は遅筆で、なかなか記事をあげられないので、今ここで。
ほんとうに、ほんとうに、みなさん、お気を付けて、誰もが、この危機を乗り越えられますように。

秋からはじめたプロジェクト(前篇)

三月最終週から、たった一度の避けられない仕事を除いて、住んでいる町を出ていない。
一度も友人に会っていない。
電車も乗っていない、タクシーも乗っていない。
だけど、歩いてはいる。
野菜が一番新鮮で、好きな物が大体そろうスーパーマーケットまで片道六キロ。往復で十二キロ。
あるいは、家の裏の山道へはいって頂上まで。
人とあまりすれ違わない道を。

去年の秋から、はじめたプロジェクトがある。
第一のきっかけは、グレタ・トゥーンベリさんだった。
大人は経済を気にして、科学を無視して、子供の未来に気が付かない振りをして、
平気でいるけど、地球は火事だ、という力強い言葉。
自分にはなにができるだろう、と思った。
地球環境のために、と考えると、レジ袋を減らす、食品や洋服の無駄を減らす、ということは、意識してやるようにしているが、なんだかまだ漠然としていた。
そこに第二のきっかけがやってきた、東京近郊でも、大体50種類くらいの蝶がいることを知った。
そんなにたくさんの蝶がいるのか、と意識して散歩するようになって、
たまたま目の前を横切った蝶がとてもきれいだったので、調べてみたら、モンシロチョウらしい。
この経験は衝撃的だった。モンシロチョウなら知識としては知っている。
なのに、モンシロチョウも、私はわからないのだ、ということ。

図鑑に載っているような静止像だったら、なんとなく知っている。
でも動いているときは、慣れない眼にはモンなどうまく判別できなくて、ただ白くて、
白いのだったら他の種類もいるはずだから、ビデオに撮って、停止してコマ送りして、
モンや、羽の裏が緑っぽい色をしていることを理解して、図鑑で調べたら、
モンシロチョウだったのである。

自分の家の周りに、どんな生き物がいるかも知らなくて、
というより、モンシロチョウすら知らないで、なにが環境問題だろう。
わたしにグレタさんの言葉に対応する術が一つも浮かばなかったのは、
自分が具体的に地球に親しんだことがなかったからだ、と思い至った。
地球上の植物や、動物の性質を知るような関わり方をしたことがない。
それで、家の周りにいるはずの50種類の蝶々を写真かビデオにとる、というプロジェクトをはじめたのである。

蝶は、意外と、ひゅっときて、なかなか花や葉にとまってくれないで、飛び去ってしまう。
自分の足下に長く留まってくれるような種から順々に集まっていった。
最初に驚いたのは、動きの中でこれがなんの蝶だと判断するのは不可能だと言うこと。
ほんとうに、静止像とは別物なのである。
また、動いているから、当然ビデオに撮るのが難しい。
遠いし、人の家の敷地だし、勝手に入れない、それに高い所だったりして、どんなに拡大しても届かない、それに速くて、追いつかない。
たまたまビデオに撮れたものを、家に帰ってきてから停止して、フレーム送りして、拡大して、図鑑と見比べる、それでもわからない、ということが続いた。
違う種類がやっと撮れた、と思っても、雌と雄の違いだったりした。
それでも毎日続けていると、いつもいるものがだんだんわかってきた。
あれは絶対に見たことがないな、というものが、たまたま近くまでやってきて、撮れたときは嬉しくなった。
秋の間に見た蝶で一番綺麗だと思ったのは、ムラサキシジミ。
今日の散歩もそろそろ終わり、というとき、ちょっと先の家の垣根に、ブルーのフラッシュが見えた気がした。それがムラサキシジミだった。
その一瞬は、いまでもスローモーションのように覚えている。
いそいでカメラをむけたのだった。
まだ、人生でたった一度しか見たことがない。




蝶が好きなのはどんな場所か、どんな時間帯に出るのか、それがわからなければ、撮れる種類は増えていかない。ゆっくり自分の家の周りの環境とつき合っている感触が増えていくのが嬉しかった。

冬の間は、ほとんど蝶々をみなかった。
蝶って、冬はいないものなのだな、どうしているんだろう、そんなことすら知らなかったし、越冬についてはまだ調べていない。
3月の終わりくらいから、歩いていると、モンシロチョウを見るようになった。ベニシジミもよく見かける。また、蝶々が出てきた・・・!

新型コロナウィルスで、こんなにも生活が変わるとはおもってもみなかった。
3月の終わりから私は、毎日人のいないところを歩く生活が始まった。
すなわち、蝶々を探しに歩いているのである。