飾っていたおじいちゃんの写真がなくなっている。
ちょうど私の座っている横の席の頭上に、
去年のおじいちゃんの誕生日に、親戚があつまって、おじいちゃんを囲んで家族写真を撮っていて、
それがあるはずだった。
その席は、いつも母が座るソファーで、母のお父さんなので、そばにおいておくのがいいと思っていた。
その写真は一度、うらがえっていたことがあった。そのときは、たまたま、落とすなどして、そうなってしまったのかと思っていた。
今回は、探してみると、たたんで、他の飾り物の陰に隠されていた。
それで気が付いた。
母は、この写真があるのが、いやなのかもしれない。
おじいちゃんのいた施設での写真。母も、私も、父も、親戚も、みんな笑顔で立っている。
おじいちゃんはでも、目を閉じてうつむいている。
もうこのころには、目が見えなかったし、耳は元々悪くって、眠っている時間も長かったから、
私たちが行っても、気づいたかどうか、
施設の人が出してくれたお誕生日ケーキとお茶を、目をとじながら、なんとか口に運んでいくのを最後まで見守って、
たくさん手を握って帰ってきたのだった。
おじいちゃんは目を閉じてうつむいている、その周りを勝手に囲んで、お誕生日祝いをしている写真だった。
おじいちゃんの元気な頃の写真は、古いアルバムのセロファンシートのしたにしっかりはいっているから、
それを剥がして出してしまうというよりも、最近の写真を飾っておくことに、
私は大丈夫だけれども、
母は、もしかしたら、おじいちゃんがなくなってしまった顔を、なくなってしまった事実を、
その写真からいつも感じるのかもしれなかった。
お風呂に入ろう、というと、母は、そうね、といって、あれこれとわたしの指示にしたがっている。
あそこにいこう、というと、それがいいわね、といって、笑顔になってついてくる。
母は、意志というものを、あまり言葉で出してくることがないけれど、
なんか、今回ばかりは、無言の強い意志を感じた。