Friday 11 October 2019

2019年10月11日

 朝、ソファーに座ってコーヒーを飲んでいて気が付いた。
飾っていたおじいちゃんの写真がなくなっている。
ちょうど私の座っている横の席の頭上に、
去年のおじいちゃんの誕生日に、親戚があつまって、おじいちゃんを囲んで家族写真を撮っていて、
それがあるはずだった。

 その席は、いつも母が座るソファーで、母のお父さんなので、そばにおいておくのがいいと思っていた。

 その写真は一度、うらがえっていたことがあった。そのときは、たまたま、落とすなどして、そうなってしまったのかと思っていた。

 今回は、探してみると、たたんで、他の飾り物の陰に隠されていた。

 それで気が付いた。
母は、この写真があるのが、いやなのかもしれない。

 おじいちゃんのいた施設での写真。母も、私も、父も、親戚も、みんな笑顔で立っている。
おじいちゃんはでも、目を閉じてうつむいている。
 もうこのころには、目が見えなかったし、耳は元々悪くって、眠っている時間も長かったから、
私たちが行っても、気づいたかどうか、
施設の人が出してくれたお誕生日ケーキとお茶を、目をとじながら、なんとか口に運んでいくのを最後まで見守って、
たくさん手を握って帰ってきたのだった。
 おじいちゃんは目を閉じてうつむいている、その周りを勝手に囲んで、お誕生日祝いをしている写真だった。

 おじいちゃんの元気な頃の写真は、古いアルバムのセロファンシートのしたにしっかりはいっているから、
それを剥がして出してしまうというよりも、最近の写真を飾っておくことに、
私は大丈夫だけれども、
 母は、もしかしたら、おじいちゃんがなくなってしまった顔を、なくなってしまった事実を、
その写真からいつも感じるのかもしれなかった。

 お風呂に入ろう、というと、母は、そうね、といって、あれこれとわたしの指示にしたがっている。
あそこにいこう、というと、それがいいわね、といって、笑顔になってついてくる。
母は、意志というものを、あまり言葉で出してくることがないけれど、
なんか、今回ばかりは、無言の強い意志を感じた。

Wednesday 9 October 2019

あいちトリエンナーレ


10月9日、あいちトリエンナーレに行ってきた。
愛知芸術文化センターと名古屋市美術館の二会場。




アンナ・ヴィットさん(愛知芸術文化センター)
写真を撮るためにみんな素晴らしい笑顔を作っているのかと思ったら、長い。
あまりにもビシッときまったかっこいい姿なんだけれども、
それを60分間続けて居なくてはならないというのには驚いた。
スーツ姿の人たちが60分間微笑し続けるビデオ。
彼らだって時計をついみてしまう。
そんな素に戻る瞬間を見てしまうことが怖い。人が笑顔に戻る瞬間も。
人生の中の演技と、素というのは、ほんとうにどんなバランスで存在しているだろう。
最高の瞬間にすら、きっと、このゆらぎはあるだろう。





ウーゴ・ロンディノーネさん(愛知芸術文化センター)
たくさんのピエロが存在する部屋。
本当の人かな、いやそんなわけないな、でも足をみたら、生きている、って思った。
でも動かない。
生きているかもしれない、と思いながら、どのピエロと写真をとってもらおうかな、と決めるまで自分の心の動きがなまなましかった。
女の人よりも、男の人の方が安心できる、と感じていることだとか。




タニア・ペレス・コルドヴァさん(名古屋市美術館)

長い髪の毛が自動的に洗浄されているのや、大理石の聖水みたいな台に片目だけコンタクトが浮いているのや、全部で7つの作品があった。
不思議と、人間がばらばらにされているというよりは、会場の中にもう一方の片目のコンタクトをした人がいるかも、という説明書きの影響もあってか、なんだか、ひとりのひとの存在を感じた。


この三つの作品がとっても好きだった。
しかし、それ以外にもタニア・ブルゲラさんの作品(愛知芸術文化センター)で、



番号を入り口で押される。難民となって、涙が出る刺激臭のする部屋に入る、というもので、言葉でわからない人は、実際に涙を出してしまえ、ということで、催涙ガスではなく、ハッカっぽいもちろん安全なものが充満する部屋に入る。そんなの普通に怖い、と思った。
そしてトリエンナーレの会場を出て、新幹線にのる前にお弁当を買うときや、新幹線で隣り合った人などに、このはんこがみられるとき、つい隠さなくちゃと思ったり、
会場を出てなお、というか、会場を出てからが本番で、stigmaというものを意識して、
入る前も、出てからも、ずっと怖い気持ちが続いている。

という風に、本当に美術ってすごい、と思った。
最後は説明に頼れない、自分で感じるしかない、というところ、本当に、本当に、すごい、と思う。