Monday 11 May 2020

忘れられない母の言葉 恩蔵絢子

先月発売された「PHPスペシャル」2020年5月号に載せて頂いたエッセイ
『忘れられない母の言葉』を編集の丹所千佳さんにご相談して許可を頂いて、
全文公開致します。

「PHPスペシャル」2020年5月号イラストはカトウミナエさんに描いて頂きました。


月、祖母がなくなった。母の母だった。最後の約3カ月、母が認知症を患っているので、私は母の代わりに祖母の看病をした。祖母は、大腿骨骨折で入院したのだが、なぜだか食事を一切取ろうとしなくなり、食事のことで悩んだ3カ月だった。
祖母は点滴も嫌がって、自分で針を抜いて毎日血だらけになり、そのうち手にミトンをつけられた。91歳の高齢、血管も弱くなっているそうで、これ以上栄養を点滴から取るのには限界があると医者から言われ、最後は水分だけの点滴に変わった。その水分だけの点滴を外すという決断をしたのは私である。点滴を外して、たった2日で祖母は死んだ。
祖母の命に関わる決断を、私がすることになるなんて、思ってもみないことだった。

看護師や、ソーシャルワーカーとの家族面談で、母の弟は、「まだ意識もはっきりして、会話もできるのに、点滴を抜いてしまうのはどうなのだろう」と言った。全くその通りである。
私も、祖母には1日でも長く生きていてほしい。けれど、もし、骨折とそれに伴う手術の疲れや精神的なショックで食事が取れなくなっているだけで、本当には祖母の体に元気が残っているならば、いい加減にお腹が空いてくるはずだ。
怪我から3カ月経ってなお、食事を自分で取れるようにならないなら、これは祖母が体力を使い果たしてしまったということなのではないか。
祖母はこの話し合いの日の昼食時、スプーンの先にほんの少し、のりたまのかかったどろどろのおかゆをのせたのを、数回口に運んだら首を振り、そのあと数秒白目を剝いた。
ベッドでただ座っているのだって、枕を体の横に敷き詰めなければ、棒のように倒れてきた。
点滴が嫌だから、祖母は自分で針を抜こうとするのであって、ミトンをつけた不自由な状態で、最後を過ごさせて良いのだろうか。最後が近づいていることから、祖母でなく、私たちが目を背けているのではないか。
叔父と私の意見を聞いたところで、看護師が、同席していてそれまで一度も口をきいていなかった母に話を振った。「娘さんは、どう思われますか」。
私は、母の沈黙が苦しくて、また母が文脈から外れたことを言ったらどうしようと怖くなって、母の応答を待たずに、看護師の方だけを向いて「認知症があるんです」と言った。
それで自分ではっとした。母を決めつけてしまった。それに認知症があろうと、なかろうと、祖母の息子、娘を差し置いて、孫の私が意見を言っていることが信じられなかった。
「ごめんなさい」と口に出したら、なんだか涙が溢れてきた。

驚くべきことが起こった。母が、その瞬間、大きな声で「ごめんなさいじゃないよ」と私をかばってきたのである。病院の関係者、母にとっては知らない人がたくさんいる部屋で、母のお母さんについて私が口を出しているのにもかかわらず、また、私が母の意見の機会を奪ったのにもかかわらず、何もかも無視して母は私を守ってくれた。
正直、その瞬間は私の頭の中からも祖母のことが吹き飛んで、なんてなつかしい「母らしさ」、これがあれば私は生きていける、とあたたかい血が通うのを感じた。

母がアルツハイマー型認知症と診断されたのは、4年半前の2015年の秋である。その間に、私も母もいろんなことに慣れていった。
今では介護をしていると思わない日がある。母はデイケアに週3回通っていて、朝は父が母を送り出してくれるので、私は夜に3人分の食事を作るくらいだ。母はデイケアでお風呂にも入ってくるので、私が母のお風呂の手伝いをすることもほとんどなくなった。多くのことがルーティーンで、意識されることなく進んでいく。だからこそ祖母の看病もできた。
多くの人の力を借りていることと、慣れたことによって、認知症の症状は徐々に進んでいくにもかかわらず、楽になることがあるのは事実だ。
私が最近気になるのは、母の独り言くらいだ。「おばちゃんがね、じゃあそうしたらいいんじゃない、って言うからね、だからそうじゃないって言ってね、そうしたら男の子も早く来られるからいいじゃないって言ってね・・・・・・」
無関係に、その瞬間に目に入ったことが、一文一文連なって、終わりがない語りとなることがある。母は脳の記憶中枢「海馬(かいば)」に問題があるために、「新しいことを覚えることが苦手」だ。1分前に何を語りたかったのか、何を言ったのかがわからなくなると、このようなことが起こる。
私は、病院での話し合い時のように、人目があると、こんな語りをどう思われるだろうと心臓がどきどきしてきて、フォローを入れなければ、ごまかさなければとあがいてしまう。
母が人前で何を言っても大丈夫、という気持ちになれたら、はじめて、私は人間の自由をほんとうに尊重するいい大人になれたと言える気がする。

あの面談の2日後に、病院から危篤という連絡をうけて駆けつけたら、祖母はもうなくなっていた。そこにあったのは、遠いところを見つめて涙をためた祖母の目と、もう手を握り返してくれないという事実。祖母の看病の思い出の中で、「ごめんなさいじゃないよ」という母の声は、私を支え続けている。

(「PHPスペシャル」2020年5月号初出)


Thursday 7 May 2020

今日のお弁当箱

散歩に出て、青空の下、喉を通っていったアイスコーヒー。
頭に浮かんだ、母の腰の痛がり方は、圧迫骨折ではないかという不安。
ダイニングテーブルに痛くて着けない母。
布団の上で食べられるようにつくったおにぎり。
海苔の部分を避けて食べる母。
これならどうかと出した一個きりのシュークリーム。
下からクリームが飛び出して、ぐちゃぐちゃになったのを、使用済みのマスクに包んで隠蔽する母。
病院に行こうという提案をめんどうくさがって寝転ぶ父。
痛いと訴えるのに、寝転ぼうとしない母。
何もかも嫌になって自分の部屋に上がって、一人で食べた、ちゅるっと冷たい素麺。
窓からびゅうっと通り抜けていく風。
夕飯の残りだけど、なんておいしいのだろう。

感情のお弁当箱

あるときから「感情のお弁当箱」を考えるようになった。
今の自分の人生の主食となっている感情は何か。
母が認知症になって、毎日どうしても引き受けざるを得ない悲しみ。
それが、お弁当箱の中を半分占めてる白いご飯である。
それはどうしても避けられず、毎日の中に入ってくるのだとしたら、
それをどうしたら楽しく食べられるか。
梅干しを載せて、空豆が入っていたら嬉しいし、味の濃いチーズハンバーグなんかも欲しい。
それが例えば、友達とのお酒や、習い始めたフラ(体を動かす喜び)であり、研究である。
栄養のバランスを考えて、お昼にあけるのが楽しみなお弁当にしようと考えるように、
人生の感情のバランスを考える。
お弁当箱の中に、ときには、さらに苦い物が入ってくることがあるけれど、
何があるとおいしく食べられるのか。
一つの感情に偏らないように、どんな感情があったら、人生が幸せになるかと考える。
質の違う感情を意識して、ちょっとしたおかずをどんどん人生に入れていくこと。
それが癖になった。



Tuesday 5 May 2020

三、四、五月の本


 最近下巻が出版され、完結したばかりの角田光代さんの新訳『源氏物語』(上、中、下)(河出書房新社)。角田光代さんの新訳はとても読みやすく、巣ごもりして仕事もなかった四月でなければ読めないようなボリュームのある源氏物語だけれども、これを読んでいる間は不安も忘れる、というほど没頭した。どんなひとにでもいいところを見つけて、一度関わったらずっと付き合い続ける光君と、女君、それぞれの諦め、苦悩、ほんのちょっとの喜びを、一気に駆け抜けてみると、素晴らしくカラフルな人間の魂が見えてきた気がした(ほんとうにカバーの色のとおり!)。



 これをきっかけに、分厚い本を読み通す、という快楽に目覚めてしまった。それで、実は一度も読んだことがなかったファーブル昆虫記を読み始める。これもカバーが本当に綺麗だ。モンシロチョウとツマキチョウの見分けができるようになりたいばかりに、毎日歩き回っていたからか、祖父母の家に、ファーブル昆虫記がずらっと昔は並んでいた気がする・・・と思い出す。だけどいまや祖父母はどこか空の上。書物も叔父が持っているかどうか。いまは叔父にも会いに行けないから、奥本大三郎さん訳の『ファーブル昆虫記』第一巻(上)(集英社)を注文して読み始める。昆虫との関わりが、まったく「観察」「分類」という冷たいものでないどころか、独特で、笑ってしまう。そうでなければ、続くはずなんかないんだよなあ、と思う。
 p.273より「生き物の秘密ーーその解剖学的な構造の秘密でなく、生きて動いている生命の秘密、それも本能の秘密ーーを解くとなると、観察者の前に、無生物の場合とは別の意味で、ひどく厄介で微妙なもろもろの条件が派生する。自分の時間が思いのままになるどころか、彼は季節や日や時間、そして瞬間の制約をさえ受ける。チャンスが現れたら、迷うことなく、その場で摑まえなければならない。おそらく長いことかかってももう二度と再び現れないかもしれないからだ。そしてチャンスというものは、ふつう、そのことを夢にも考えていないときに現れるので、それをうまく利用できる用意はまったくできていないものである」好き。。。


 そうそう、こういうふうにブックカバーを紹介しようと思い立ったのは、沖縄在住の写真家、武安弘毅さんから、ブックカバーチャレンジをいただいたことがきっかけだった(うれしかった!)。武安さんからのバトンということで、本当は紹介したかった本がある。与那原恵さんの『首里城への坂道』(中公文庫)だ。ゴールデンウィークだけれども、今は沖縄に行くことができない。心の中だけで沖縄へ旅をする、そして。去年の秋に焼けてしまった首里城へ思いを馳せるという意味でもぴったりの本だと思った。だから読み返して、ここに載せたい、と思ったのに、家の中で行方不明になっている。。。悲しい。。。もう一度買ってしまおうか。


というわけでAmazonからイメージを拝借。
(https://www.amazon.co.jp/首里城への坂道-鎌倉芳太郎と近代沖縄の群像-中公文庫-与那原-恵/dp/4122063221

 感染症に関わる本ということで、読んだ本の中で、とても好きだったのが平川祐弘さん訳のマンゾーニの『いいなづけ』(河出書房新社)。感染症は、まったく予想もできないタイミングでやってきて、おさまるときもまた、そうなんだなあ。「ペスト塗り」なんて存在を人々が想像していることも、めちゃくちゃこわい。登場人物達が、みんなそれぞれの切実な動機を持っていて、それに従って動いていて、こういう人いるよなあと、ずるい人の気持ちに入り込めるところがほんとうにすごくて、一方でほんとうに清浄な人がいて、一つのものすごく大きな世界を感じた。


イタリアの質感にすっかり虜になって、もう一冊。平川さんの訳がとても好きだったので、こちらも平川祐弘さん訳のダンテ『神曲』(河出書房新社)。ほぼ一ページめくる毎にドレの挿絵がついていて、すごい。絵本の様に読める。『神曲』は、情景を頭に思い描かねばならない作業が多すぎて、何度挫折しただろう。しかし、その絵が、思ってもない迫力でページをめくる毎にせまってきて、文章に没頭できる。どうしてこの人物(たとえばプラトン!)が地獄にいなきゃいけないのか、一方どうしてこの罪を犯していてなお、この人は煉獄にいられているのかと、私の感覚からするとまったくわからないことがあって面白い、あれこれと思いをめぐらして、今煉獄編の途中にいる。



 この巣ごもり中に、はまっていた番組と言えば、netflixで公開されている『Tiger King』。虎やライオンという猛獣を飼う人たちのドキュメンタリー。オーストラリアの友人が、「見た人いる?この人について話さずにはいられないよ!」とfacebookで話題にしていて気になって見始めた。出てくるどの人も強い信念を持っていて、強い疑惑にさらされている。一話があんまり過激だったので、見るのを中断したほどだけれども、こわいものみたさでもう一話だけ、と見てみると、話を追う毎にもっと思いも寄らない疑惑にさらされる。正直、どうしていいかわかりませんでした。一方同じ頃、NHKのドキュメンタリーで『ヒグマと老漁師』がやっていて、動物との関わりということで、ほんとうに私の心に触れるのはやはり、後者でした。そんな流れで、動物物が読みたくなって、ずっと積ん読していた濱野ちひろさん著『聖なるズー』(集英社)を読みました。動物と肉体関係を持つ動物愛の人たちのノンフィクション。動物愛護と言っても、実は、動物をコントロールするという思想になってしまっている人と、動物には性欲があるということを込みで愛することを選ぶ人がいる。自分の思い込みが、どんどん剥がされて行きました。動物を愛する人たちは、いつもパートナーの動物が誰を、何を見てるか、視線を意識していて、家の中に動物がいる、という気配がそういう意味で色濃い、という話がとても好きでした。
(この画像もAmazonから拝借致しました。https://www.amazon.co.jp/聖なるズー-濱野-ちひろ/dp/4087816834)
 そして、濱野ちひろさんが開高健ノンフィクション賞を受賞していたので、開高健が読みたくなって、吉行淳之介さんと開高健さんの対談『美酒について』(新潮文庫)を読みました。正直、なにを言っているかわからなかったです笑。お二人が常識としていることを、自分がまったく共有していない、ということで、わからないことが多すぎて、一ページを読むのが、どの本よりも遅かったです。一行に掛かっている元手(人生経験)というものを感じました。ほんとうに身の毛もよだつ話をされていて、たとえば駅の痰壺からストローでチューーと吸う、とか。そして、そんなのこわくないね、「我々はかなり地面に近く暮らしてたからね」とか言っている。私は、この感染症の不安の中散歩しているときに、すれ違うおじさんが、私の横で痰をペッと吐き出したとき、「それだけはやめて〜〜〜。なんでいまなの〜〜〜」とほんとうに泣きたくなりましたが、そんなの甘かった、と思いました。スノッブになりかけていた自分をぴしゃりとたたかれて、くらくら目がまわってしまう本でした。

昨日良くなかったことが、今日良くなること、そしてその逆

五月二日日記

両親とまた裏山に入る。
母は、一週間前に裏山に入ってから、すこし腰の調子が悪化したようではあった。
母はいつからか背骨がかなり曲がっていて、腰がよくなかったのである。
しかし、あんまり良い天気なので、今週もやはり、
父のストレス解消をかねて、三人で散歩する時間を持ちたい、
どうせ散歩するなら山に入りたい、と
母の様子を見ながら登ってみよう、ということになった。
母も、「山に行く?」と言うと、「いいよ、じゃあいこうよ」と言うのだった。

最初は、「大変なことは無言でちゃっちゃとやり通してしまうがよし」といわんばかりに、母はいつもよりはやいペースで、先頭切って登っていった。
折角山にいるのに、周りを見渡す様子がぜんぜんなく修行僧のように歩いて行く。
いつもだったら、あの花がどうだの、おしゃべりをするのに。
どんどん体が動いていることは、楽しんでいない証拠といえた。

気分を変えてもらおうと、さんさんと照る太陽避けに母は帽子をかぶっていたのだけれども、山の中に入るともはや木の陰でひんやり涼しくなっていたので、帽子をはずして、さらに腕まくりもしてもらい、こちらから色々と話しかけていくうちに、
ペースが落ちて、
しばらくすると、いつもの母に戻って見えた。

道の途中、誰かが小枝を立てて守っている植物

家を出て一時間ほどで頂上へ着いた。
もう夏に入った証拠に、霞が出ていて、素晴らしい天気なのに、かえってこの前にははっきり見えていた大島が見通せない。
夏の蝶、モンキアゲハがツツジの上を何頭も飛び交う。
木のベンチに腰を下ろして、レモンティーを口に含んで、母は「あーここはいいところだね」と言った。
無理して来てもらって、やっぱりよかったと思った。

四月から五月にかけて、この山に来るのはほんとうに最高。
暑すぎないし、蛭もいない。
ちょっと今日はもう暑すぎるだろうかと心配したが、
まだ大丈夫だった。
一週間前に登ったときは、鬱蒼としていてなんとなく嫌だった道が、今日のようなかんかん照りの日にはちょうど良い木漏れ日の道となり、すばらしく気持ちが良かったし、
大島は見えなくなっていたけれど、富士山が見えた。
「最高」は、移り変わっていくなあ、そしたらいつでも最高は見つけられるということか。
一時間ほど、頂上でゆっくりとする。

下り。
前回腰を痛める原因となった岩場のごつごつした道を避けて帰ることにする。
そのかわり距離は長くなるが、なだらか、なめらか、な道である。
家に着いたら、お昼は何にしよう、パンケーキにしようか。
りんごやキウイやヨーグルトもある。
そんな話をしていたら、母が私の目の前で転んだ。

つるっとすべっておしりから落ち、腰を打った。
あっというまだった。

父が振り向き、母は尻餅をついていて、私は体が固まったまま。
何秒間かが過ぎて、「ママ、大丈夫?」と後ろから声を掛ける。
母は動かない。
おそろしいが、顔を見ない分にはと、細い道だがなんとか回り込む。父も登ってくる。
母は目をぎゅっとつぶっていた。
「ママ」
「・・・もういいですから」とても小さな声だ。
「転んじゃったね。痛かったね」と触ろうとすると、
「もういいですから。やめてください、もうだめですから」と小声で言う。
「ちょっとこのままゆっくりしていようね、大丈夫だからね」
「ごめんなさい、もういいですから。大丈夫ですから。もうなにもしなくていいんです。わかっていますから。ごめんなさい。これはわたしのうちの問題で、もうなにもされたくないんです、だからやめてください」
目を閉じたまま、完全に拒絶して、何かを完全に諦めて、顔面蒼白で、小声でくり返す。
「おかあさんのところにいくつもり、おかあさんもそれがいいんじゃない、っていったから」
完全なショック状態だった。

どうなることかと思った。
骨が折れていたらどうしよう。このまま歩けなくなったらどうしよう。本当にこんなところで動けなくなったら。
入山禁止の山に入って、コロナ感染の疑いがあってニュースになった人がいた。
それを読んだばかりだったのに、入山禁止になりようがないような、小さな、そして、慣れた山だけれども、無理に連れ出して、母が転んで、どうやって助けを求めたら良いんだろう。
おかあさんのところにいくつもりって、母は祖母がなくなったことが本当はわかっているんだろうか、そして、確かに祖母は転んで骨折して・・・そのつづきは一ミリも考えたくない。
「大丈夫だよ。ちょっとゆっくりしようね」と笑って父を見る。
父も「ちょっと心が衝撃をうけちゃったみたいだね」と笑っている。
母が「もういいんです」をくり返すので、「ツツジがさいているねえ」と返す。

どうしたら、気がそれるだろう。どうしたら。どうしよう。
腰が悪くなっていたから、足に力がうまく入らなかったのだろう。
「わたしが悪かったね。無理をさせちゃった。ごめん」
「もういいですから。」

そこはちょうど木陰がとぎれたところで、太陽があつい。
母に帽子をかけなおす。
「あついね、帽子かぶろうね、わたしが悪かったよ」
どれくらい時間がたったのだろう、
母の目があいたので、少し立ってみようか、ともちかける。

なんとか立てたのだった。
そこからは、もう降りるしかない。狭い道だが、父がしっかり手を握って横で歩いて、
私が前を歩き、ときどき笑いかけるが、顔面蒼白。どこが痛いのかもわからなくなっているようだった。
お腹が痛いという。
おしりを打って下からの突き上げがあったのか、また、ショックでお腹を下すということもあるのかもしれない。
トイレは下山するまでないし、だからといって早く歩けるわけじゃない、どんどん私の気持ちが焦ってペースが上がってしまう。もう駆け出したいが、
何度も止まって、戻って、何度も痛い場所を聞いて、腰を触ったり、お腹を触ったり。
どこまでいったらトイレにたどり着けるのか、そこまで母は歩けるのか、生きた心地がしなかったが、降りられた。

歩いて降りられたということは、骨は折れてないと言うことか。
でもお腹が痛いのはどうしてか。
病院に行きたいけれど、土曜日だし、コロナの心配もある。
家で様子を見ることにした。

母の腰の悪さに気が付いていたのに、山に登りたいというこちらの気持ちを優先したことでこんな風になってしまった。
母にも刺激が必要で、無理をさせてみるのもときには良い、能力を見限って、活動を限定しては良くない、それは確かだが、
これで、母が動けなくなったら。
もし、母の状態が悪化したら。
祖母のようにはならない。絶対ならない。何度も心の中でお願いをする。
楽しみからの急降下。
眠れない夜を過ごした。




Monday 4 May 2020

五月一日日記

五月一日
まだ外出自粛要請が明けないで、ひとつき、一度も友達に会うことなく過ぎてみて、思うようになったのは、
人を尊敬したいということ。

最初の頃は、ほんとうに緊迫した気持ちで、
我が家で感染の確率が一番高いのは、電車に一番乗って、
移動をたくさんしている私であり、
私に症状がでていなくても、私が実は感染をしていて、両親にうつして、
彼らが体調を崩すかもしれないんだ、と
一緒に暮らすこと自体に緊張していた。
距離を取らなくちゃ、と気をつけていたし、ちょっとでも外に出たり、何か触ったりしたら、手を洗うように父にも母にもうるさく言っていた。
こうして、なんとか三人だけでいつまでかわからないほど長い時間を過ごしていかなくてはならない、と一ヶ月間不思議な距離の生活の工夫をした結果だろうか。

数日前、長いことヒビが入っていたのに、だましだまし使ってもらっていた母のお茶碗が割れてしまって、買いに行かないといけないなあ、でもいま買い物に行くのはいやだから、お客さん用のお茶碗でしばらく我慢していてもらおう、と私は思っていた。
それでそのお茶碗でごはんを出したら、母は、「自分のではない」と思うようで、手を付けようとしなかった。(いつもはおかずはたべなくてもごはんだけはしっかりたべるのに。)
でも、そのうち慣れるだろう、かわいいのを今度私が見つけてくるからね、と放っておいたら、
父が昨日知らないうちに出かけて、買ってきていた。
夕飯を作るために台所に降りてきたら、置いてあったのだ。
予想外に母にぴったりの模様だった。
父は母の洋服をどうしたらいいかいつも私に聞いてくるのに、こんなのが選べるなんて。
母も、その茶碗ではいつも通りにごはんを食べるのだった。
「すごくいいね」と口に出したら、父は「そーお?」とうれしそうで、この瞬間に、なぜだかわからないが、それまでは私は父の弱いところは見たくないという気持ちを持っていたのだけれども(だって母の弱さだけでもう十分だったから)、それぞれの人が自由にやって、見せてくれる景色はすてきだな、と思った(遅い)。

親の話していることって、ついつい面倒で聞かない癖がついていたみたいなんだけど、ちゃんとまず聞いてみるようになったし。
それが人を尊敬したい、と思う気持ちの正体。
命が脅かされる状況におかれて、身が軽くなったような思いがする。