マリーナがニューヨークでやったパフォーマンス『Artist is present』は、
椅子に座ったマリーナの前に座って、言葉を一切使わず、
触れることも、まったくしないで、
見つめ合う、というもので、
誰でも、観客が、一対一で、マリーナと向き合うことが出来るのだった。
私も、どうしても、これだけはとニューヨークに行って、マリーナの前に座った。
何時間も待って、やっと自分の番が来る。
なぜなら、一度座ったら、何時間でも、見つめ合って良いことになっているので、
全然、自分の番が来ないのである。
マリーナは、結局、自分が作品になったのだった。
何も喋らず、飽きずに、他人が、ずーーっと見ていられる人間であるというのは、
一体どういう事なんだろう。
でも、Twitterで、このビデオを見たとき、
そんなことはともかく、この瞬間のためにこの作品はあったんだ、という気がした。
ウーライというのは、彼女が若いとき、公私ともにパートナーだった人で、
私は二人の作品が大好きだった。
私が一番好きなのは、マリーナの心臓に矢先を向けて、互いに反対側に体重を掛け合い、弓を引いていく、というもの。
マリーナは、ずっと、パフォーマンスとは、演技じゃないのだ、本当の感情なのだ、といっている。
信頼ということは、お互いがこんなにも緊張状態におかれることかと、震えてしまう。
そういうことってあるんだなあ、と最も信じられないことだっただけに、信じてしまう。
二人は、それ以来決して会わなくなった。
何十年経った、この日、ウーライは、多分私と同じように列に並んで、順番を待った。
マリーナが目を明けると、ウーライが座っていた。
言葉を頼らず、知らない人と向き合うこと、相手に好きなだけ見られること、
自分のコントロール出来ないことを背負うこと、3ヶ月それを毎日続けるということ、
いろんな考えがあってのパフォーマンスだった筈だけど、
目の前にウーライが現れたとき、
わたしは、このために、この作品はあった、と思ってしまった。
マリーナの意図したことではない。
だけど、この作品の成立はひとつ、ここにあった、と思ってしまった。
例えば、わたしと会うことは、わたしにとっては最上の体験だけれども、
マリーナにとっては、そうではなかったと思うからだ。
わたしには、非対称のつらさがあった。
このビデオは、
一生ないと思っていたことが、起こる。
あきらめていたことが、絶対無理だと思っていたことが、
思っても見なかったことが、実現された、という感じ。
ウーライとだったら、あっと体が反応して、動けない魔法はとけるのだ。
どうにもわからず生きている。
勝手に進行している、流れがあるから大丈夫。
Marina & Ulay, 1980. Rest Energy. (artlinkedより拝借) |
1 comment:
とても魅力的な記事でした。
また遊びに来ます!!
Post a Comment