Sunday, 16 May 2010

二つの本より、仮面の下の「首」

岡本太郎「美の呪力」(新潮文庫より抜粋) 

 面との出会い。
 幼かった頃の思い出である。[中略]
一日中、障子をしめきりのうす暗い座敷で、黙々と机に向かってものを書いていた母。
若く、ひどい苦悩に動揺していた時代だった。やせた真っ青な顔。大きな眼で
狂ったように前方を見すえ、黒髪をバサッと背に垂らして、異様な気配だった。
 ほとんど動かない背中。振り向きもしない。
あやされたり、にっこりとほほ笑みかけてくれたという記憶はない。
親なし子のように、私は一日、外で遊んだ。
 真昼の陽の中で孤独な幼児の心に、ふと閉ざされた部屋の、
透明な母の影が、傷口のようにズレて浮かんでくる。
あの黒髪をとおした母の横顔。・・・それは蒼白い面であった。
 
 ところで夕方、遊び疲れるころ、忽然と恐怖的な事態が身に押し寄せてくる。
うす暗くなった横丁から真赤な鼻をテラテラさせた天狗がとび出してきて、私に襲いかかる。
その後ろから何人かの子が揃って大声をあげ、私を追っかけてくるのだ。
それは通り二つほど隔てた向うの、私より五つ六つ大きい子供たちだ。まったく不思議だった。
同じ町の中でも道筋がちがい、まして年齢がそのくらい離れると一緒に遊ぶことはないし、
ふだんは全然つきあわない子供たちなのだ。それが夕刻になると、真赤な天狗の面をかぶって
私に迫ってくるのだ。不思議な執拗さで。他の子もいるのに、いつも私だけをねらって襲ってくる。

 天狗なんて決して信じていなかったし、それに、面自体、幼い私の眼にも型どおりの、
俗悪な天狗だった。そしてかぶっているのがどこの子であるかも、ちゃんと分かっている。

 ただ真っ赤に飛び出した鼻が、毎夕、遮二無二襲ってくるとき、
何か、人間集団の意地悪さ、酷薄さ。
地層が崩れてくるような圧迫感で、じわじわっと身に迫る。
どろんと淀んだ夕闇のなかの、ゆがんだ世界の重み。
それに私はおびえたのだ。

 [中略]

 真っ赤な面に襲われた私は家の中に駆け込む。恐怖で身体じゅうが引きつっている。
しかしその恐怖感、事件を、母に、「蒼白の面」に話して何になるのだ。
幼な心にそう直感した。私は訴えなかった。
だから母は私が夕刻、震えながら家に駆け込んでくる意味がわからなかった。
あの残酷な体験を私はただ一人で耐えなければならなかった。


太宰治 「人間失格」(青空文庫より抜粋)

 自分の人間恐怖は、それは以前にまさるとも劣らぬくらい烈しく胸の底で蠕動(ぜんどう)していましたが、
しかし、演技は実にのびのびとして来て、教室にあっては、いつもクラスの者たちを笑わせ、
教師も、このクラスは大庭さえいないと、とてもいいクラスなんだが、と言葉では嘆じながら、
手で口を覆って笑っていました。自分は、あの雷の如き蛮声を張り上げる配属将校をさえ、
実に容易に噴き出させる事が出来たのです。

 もはや、自分の正体を完全に隠蔽(いんぺい)し得たのではあるまいか、
とほっとしかけた矢先に、自分は実に意外にも背後から突き刺されました。
それは、背後から突き刺す男のごたぶんにもれず、
クラスで最も貧弱な肉体をして、顔も青ぶくれで、
そうしてたしかに父兄のお古と思われる袖が聖徳太子の袖みたいに長すぎる上衣(うわぎ)を着て、
学課は少しも出来ず、教練や体操はいつも見学という白痴に似た生徒でした。
自分もさすがに、その生徒にさえ警戒する必要は認めていなかったのでした。

 その日、体操の時間に、その生徒(姓はいま記憶していませんが、名は竹一といったかと覚えています)その竹一は、
れいに依って見学、自分たちは鉄棒の練習をさせられていました。
自分は、わざと出来るだけ厳粛な顔をして、鉄棒めがけて、えいっと叫んで飛び、
そのまま幅飛びのように前方へ飛んでしまって、砂地にドスンと尻餅をつきました。
すべて、計画的な失敗でした。
果して皆の大笑いになり、自分も苦笑しながら起き上ってズボンの砂を払っていると、
いつそこへ来ていたのか、竹一が自分の背中をつつき、低い声でこう囁(ささや)きました。
「ワザ。ワザ」

 自分は震撼(しんかん)しました。ワザと失敗したという事を、
人もあろうに、竹一に見破られるとは全く思いも掛けない事でした。
自分は、世界が一瞬にして地獄の業火に包まれて燃え上るのを眼前に見るような心地がして、
わあっ! と叫んで発狂しそうな気配を必死の力で抑えました。

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