Wednesday, 4 July 2012

民話

『秦野のむかし話』という本を、本屋さんで見つけた。
小学校の頃に、怖がった、タクシーにのっていて、あるトンネルで消えるおねえさんの話が
動物などが出てくる、知らない昔話に混じってのっていた。
このトンネルの話は、うわさ話のような感じで、あそこのトンネルにはでるんだよね〜、
あのトンネルは夜通るのやだね〜、みたいに大人達が話していて、
みんな信じているんだか、信じていないんだかわからないような、
浮ついた気持ちになる話だった。
まさかそれが、民話という物になって、今私の目の前に表れるなんて思っても見なくて、すごく驚いてしまった。
民話という物はそういうものなんだろうけど、
私の周りから、民話がうまれるなんて思ったことがなくて、
なんだかそれは感動ですらあって、
もしかしたら、
おじいちゃんがシベリヤにいって、毎日、小屋の外を狼がうろつくから、
天井の梁に逆上がりをして登って過ごした夜もあった、という
私が子供の頃に、おじいちゃんに何度もせがんで聞いた、大好きだった話、
戦争の話なのに、ただただ面白くって、
英雄の話のように聞いていて、
何か誇張があるのかなんなのか、
それにもう記憶の中で、本当なのか嘘なのかわかんなくなってしまった話
これだって民話になるのかもしれない、
何度も繰り返し繰り返し、頭の中でしゃべったから、
これはもう民話になったのかもしれない、という気がした。

話は変わるが、私は、
私が感じることは、私も人間の一人なのだから、
人間の根っこにつながっていることであって、
どんなに小さくても、自分の感じることなんて、と馬鹿にしてはいけないのだ、と思うことがある。
おじいちゃんが人間の根っこにつながるなら嬉しい。

それから、もう一人の、母方のおじいちゃんはまだ生きていて、
この人はとてもとても心配性で、
何時に行くよ、といって、その時間に付かないと、道端に出て待っている。
文句を言ったり、怒ったりすることはまったくなく、
ただただ、私達の姿が見えるとほっとして笑う。
私が大学生の時も、おじいちゃんの家の近くで夜家庭教師をしていたら、
終わる時間になると必ず、私がその家から出てくるのが見えるところまで、
来てくれていた。
この間、家に帰るとき、ちょっと暗かったけど歩けるので、
たまたま母に、今駅だから歩いて帰るよ、と連絡して帰ったら、
家の庭の、一番遠くが見渡せるところに、ぼんやりと母の影が立っていた。
暗闇の中で、手を振る母の姿を見たら、
ああ、おじいちゃん、ちゃんとママの中に生きてる、って思った。
多分この心配性は、私の中にもしっかり生きてるから、
こっちのおじいちゃんもきっとずっと生き続ける。

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