Wednesday, 4 July 2012

夢の大きさ

ロラン・バルトの『明るい部屋』
これは、写真論なのだけれども、バルトのお母さんが亡くなったことで、書かれた本である。
彼は、悲しみの毎日を過ごしていて、
しかし、なんとなく時がやってきて、写真を整理することになった。
色々な写真が出てきた。
しかし、バルトはどれをみても不満だった。
写真の中の母親は、確かに母親だということはもちろんわかるけれども、
自分の知っている母親、大好きな母が、写っていなかった。
どれをみても、確かに母親ではあるが、不足である。
母の本質を捉えた写真がない。
やっぱり、彼女は永遠に失われてしまったと、うちひしがれる。
さらには、母親が若い頃の写真も出てきて、
自分の知らない服を着ている母親をみて、
なんとなく落ち着かない気持ちも味わう。
しかし、最後の最後に、彼女が子供の頃の、
彼女の兄と手を繋いで写っている写真が出てくる。
それを見た時、
バルトは、
これだ、これぞ、母親だ、
この目の、純粋さ、そう、
自分がこんなに悲しいのは、「母親」が死んでしまったからではなくて、
「母親がこんな人」だったからなのだ、
母親が一番小さな頃の、
自分が知っている母親とは最も遠い姿の写真に、
本当の母親が写っている、といって
彼は、涙を流す。

バルトが知っている、母親。
私は感激してしまった。

私は、
鏡の中の自分が自分であるということが気になってきた。
私は、鏡の前に立って自分の顔を見るとその瞬間に飾っている気がする。
カメラだって、向けられた瞬間にポーズを取っている。
人にどう見られているかわからない。
そのことがずっと怖かった。
もちろん、鏡の中の自分は、自分であるとわかる、
写真に写った自分も自分であるとわかる、
けれども、それでは知った気にならなかった。

バルトのこの話を読んで、
ああ、当たり前だったのだ、と思った。
私は、私と等価になるものを探していたのだな、
それは、鏡に映れば良いという問題ではなくて、
そんなの簡単に見つかるわけない、
自分の母親と例えば、何が等しいと言えるだろう、
そんなの簡単に見つかるわけない、
見つかって良いかどうかもわからない、
そう思った。

私がこの本を読んでいたちょうどその頃

池田塾の池田先生が、
小林秀雄さんは、自分を託すに足るものがないから、
文芸批評をやめて、美の世界へ行ったのだ、というお話をされていた。
「自分を託すに足るもの」
その言葉を聞いたこともきっと影響していただろう。

作品というのはきっと、そういうものなんだろう。
植田君の、展示を見て、
ああ、たしかに植田君そのものだなあ、と思った。
私の理解できるところも理解できないところも全部、作品の中にあるなあ、
そして、植田君本物はあっちこっちへいってしまうけど、
作品だったら、ずっと、好きなだけ向き合って良い。

作品を見ることが私は大好きだなあ、と思った。

そして、今日、植田君と話していたら、
「茂木さんの書生」っていって終わるんじゃなくて、
じゃあ、それは一体何なんだ、っていったときに、
そこにあるよ、ってことを示したいと思った、
だからとにかくいまはいっぱい絵を描いているんだ、というようなことをいった。

人間ってとても小さい。一人ってとても小さい。
現在はいつも怪しげ。
だけど生きてる。

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