Monday, 2 April 2012

終日二十三区

3月11日。奏さんの家に集合して、貸し切りのバスに乗る。
久しぶりにお天気がよい一日だった。
緑色の大きな、普通の路線バスを貸し切り。
奏さんが北九州のアーティスト・イン・レジデンスにいたころの先輩(守さん)の作品らしい。
守さんとも、同乗したほとんどの人とも、私は初対面だった。
守さんのお友達の家にバスを停車し、乗せ、また出発する、ということを繰り返し、
東京二十三区を巡っていく。
私は12時半頃バスに乗った。

私には、それほど馴染みがない、東京。
(私は、生まれてから神奈川県にずっと住んでいる。)
大学時代から東京に通ってはいるものの、
ほとんど、初めての景色が窓の外を流れる。
東京でバスに乗るなど私にはあまりないことで、色々全てが新しかった。
一つの区を通過する度、次々と人が乗ってくる。
みんなは互いに知っているらしく、挨拶が交わされ、
バスの中は和気藹々とした空気が流れている。
しかし、
人が新しく乗る度、守さんは何やらスピーカーにつないだパソコンをいじって、
その区の、夕方の音楽(いわゆる、5時に流れるもうおうちへ帰りましょうの音楽)を流している。

私はみんなの会話を聞きながら、窓の外を眺めている。
すててこをはいて自転車に乗って孫を連れてるおじいさんや、
ひらひらしている窓の洗濯物、
東京の日常を眺めながら、ぼーーっとしていると、
突然5時の音楽。また、5時の音楽。また、5時の音楽。
窓の外は時間が経過しているのに、
バスの中はずっと5時。

守さんがどうして、五時にこだわってるのかはしらなかったけれども、
だんだん、その守さんの、音楽をならそうとパソコンをいじる後ろ姿が
小学校の時に見ていた、おばあちゃんの、台所で漬け物を刻む後ろ姿に見えてきた。

私が乗車してしばらくして、守さんが、私に話しかけてくれた第一声は、
「帰れましたか?」だった。
なんのことかまったくわからず、ぼーっとしていると、
「どこにいたんですか?あのとき」
と言われて、
去年の3月11日のことだとわかった。

守さんは、石巻の人で、あの津波で、今までに作った作品が全部流されてしまったらしい。
それから、
あの音楽は、みんな子供が帰る時間の音楽だと思ってるけど、
実は、防災の音楽で、有事の時に放送できるように、毎日試験として、五時に鳴るようになっているらしい。
守さんは震災の前から、色んな土地のそれをずっと集めていたのだという。

そういうはっきりとしたことは全部、バスの中にいるときは、わからなくて、
ただ、なんとなく、なんの脈略もない「帰れましたか?」という第一声や
その異様な時間の止まった五時の感じ、
夕焼け小焼けとか、鐘の音とかだから、別に緊迫した音楽ではないけれど、
人が乗ってくる度、ああ、また五時か、という感じで、
このバスの時間が止まっていて、でも、バスは走っていて、東京の景色がどんどん移り変わっていって。
小さな女の子が走っていたり、おじさんが自転車にのろうとしてたり、そういうのんびりの日曜の景色。
いつかなくなってしまうもの、いつか時間が止まってしまうもの、
そして私も、バスに乗せられているしかない。

トイレ休憩に、江古田の公園によった。
公園のトイレがいっぱいだったので、コンビニ(サンクス)に移動して、お手洗いを借りた。
そこで、2時46分を迎えることになった。
区長さんの、それこそ「防災放送」がはいって、
黙祷をした。

バスに戻りながら、いつもの会話をした。
バスの中の人達も、その作家の守さんも、その日のお天気のように、本当におだやかだった。
私は、守さんたちのおかげで、そういう一日を過ごした。

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