私は、一人では車が運転できないので、歩きか自転車で移動するしかない。
地図を眺めていて、デンデラ野という名前に引かれて、調べてみると、
姥捨て山というか、
60才になったらその場所に連れて行かれることになっていた場所とのことで、
今回は、ここだけは絶対に行きたい気がした。
遠野駅から、大体12キロくらいのようだった。
自転車でなら行けるはず。
ここが目的地になった。
遠野に着いたのは大体夕方の4時くらいだった。
もう暗くなりかけていた。
駅で早速自転車を借りて、
近場くらいはまわってみようかなと思いつつ、まず宿に向かった。
こんにちは〜と、福山荘と書かれたガラスの引き戸を開けると、
石油ストーブがあって、その前に猫ちゃんが丸くなっている。
おかみさんが出てきて下さった。
まあまあ、今日はどちらから?
神奈川です。
まあ、神奈川からお一人で。
はい、ずっと、遠野に来たい来たいと思っていて、ようやく来ることができました。
まあ、最近は、女の方がそうやって一人で見えることが多いんですよ。この前もねえ、民話の研究をしているとかいう方がいらっしゃいましたよ。
そうなんですか。
色々まわってみられるといいですよ、自転車ですか?
みなさん、伝承園やカッパ淵なんかによくいかれますねえ、
でもデンデラ野とよばれる辺りなんかまではちょっと遠すぎて、
男の方でもつらいつらいといってらっしゃいましたよ。
地図で見るとすぐのようですけれどもねえ。意外につらいらしいです。
それからねえ、五百羅漢と続石とこのデンデラ野というところは、
熊がちょくちょく出ているので、気をつけないといけません。
ええっ?私は、あの、実は、デンデラ野にいちばん行ってみたいと思っていたのです。
まあ、そうなんですか、
デンデラ野はねえ、姥捨て山というんで、
みなさん楢山節考なんかをイメージされているんですが、
実際の所は、途中に小屋があって、
60才以上のおばあさんたちがみんな一緒にそこで暮らして、
時々その山から下りて農作業なんか手伝ったりしながら、
亡くなるまでそこで暮らしたというような場所なんですねえ。
本当にただの野原のような場所ですねえ。
ただ、今ねえ、今年だけで遠野全体で熊が32頭捕獲されているんですよ。
ええ、しかもいまは、冬眠前で、一番危ない時期ですから、
たくさん人がいればいいですけど、ちょっとここは獣道という感じなんですよねえ、
自転車で一人というと、やっぱり・・・
5月くらいから8月くらいまでだとまだいいんですけれどもねえ・・
それから、草が刈られてればまだいいんですけど、
時期によってはねえ、草がぼうぼうになっていることがあるんですよ。
そうするとねえ、ちょっと怖いですよねえ。
・・・そうなんですか・・・どうしましょう。
そうですねえ、熊の鈴なんかつけてても、ねえ、一番危ない時期だから、やっぱり・・・
普通の民家にも出てるくらいなので、ちょっと心配ですねえ。
この間も、夜、黒い塊が牛小屋の前にあるから何かと思ったら熊だったとか私の友達も言っていたのですよ。うん、心配です。やめたほうがいいとおもいます。わぁ、そうですか、タクシーなんかではどうでしょう。
そうですねえ、ただ、遠いですから、
途中に伝承園という観光客の方がみんな行かれるような場所がありますから、
そこにタクシーがいるとおもうので、そこから拾うような感じにして、
そしていざとなったら、タクシーの中から、サファリパークのような感じで見られれば、絶対大丈夫ですねえ。
本当に素敵な女将さんだった。とてもとても親切で、寄り添ってお話しして下さる。
情報を話すと言うことではなくて、私に話をして下さっている、という感じがする。
その上、一緒に考えて下さっている。私はこの方のおっしゃることは守ろうと思った。
ところでこの辺りも熊が出るんですか?
卯子酉さまですか。ここは大丈夫ですねえ。車の通りのすぐ横でたくさん車が通りますから。
ここは今から行くのでは遠いですか?
自転車では10分くらいでつくとおもいますよ、大丈夫です。でも今何時でしたっけ、あっ四時ですか、うん、もう日が暮れますから、明日にされた方が良いと思います。
わかりました。
そうして私は、夜の時間をどう過ごそうかと考えて、
近くのホテルで聞けるという、語り部さんのお話を聞きに行ったのだった。
戻ってきて夕食を頂くと、
周りはみんな、働いている男の人達、という感じで、
なんとなく恥ずかしくなって私は、
気を紛らわそうと一人で熱燗なんか頼んで飲んでいた。
もっと遅くなってから、共同の洗面所で会った一人の方と少しお話が出来た。
建設業者の方で一年間この旅館に泊まっていたそうである。
次の日の朝、6時半に起きて、カーテンを開けると雨だった。
青空は出ているのに、かなりの雨が降っていた。
テレビで天気予報を付けると、私がいられる時間帯はずっと雨だった。
雷が鳴るかもとか言っている。
ただ、土地の名前が「遠野」というよりもっと細かい名前が使われていて、
岩手のどこのことなのか全然分からない。
自転車、もしかして絶望的かも・・・
私の一日はどうなっちゃうんだろう・・・
とりあえず、朝ご飯を食べようと思った。
食べ終わって玄関に向かうと、女将さんがいらっしゃった。
雨ですねえ。ちょっと今日自転車、心配ですねえ。
はい。そうですねえ。どうしたらいいでしょう・・
ちょっとねえ、でも、
バスがねえ、二時間に一本とかですが、あるんですよ。
だから、この足洗川という停留所で降りるとねえ、伝承園やカッパ淵まではすぐです。
そうですか。やっぱりそうですねえ、自転車が大丈夫な雨じゃないですね。わかりました、やめます。八時四十六分のバスで伝承園に行くことにします。
それまでは、少し時間があったし、昨日話に出た「卯子酉さま」に向かってみた。
「卯子酉さま」と女将さんが呼ぶことが、なんだか
女将さんの素敵さを表している気がして、
わたしにとっては、女将さんが語り部さんのような気がしてきた。
「卯子酉さま」には、「卯子酉さま」から、流れ出てきたような木の根があった。
男女を結ぶ神様のようで、
お願いが書かれた赤い布がいっぱい結びつけられていた。
卯子酉さまのすぐ横にあった愛宕神社にもお参りしようと思って、
ものすごく急な階段を上がっていくと、
なんだか山の中にずんずん入っていく感じがして、
途中で恐怖で足が完全に止まってしまった。
頭の中で熊が大きな大きな存在になっていた。
くるっと向きを変え、焦って、駆け足で降りてしまって、
雨で滑って、何段か落ち、
肘を思い切り石に打ちつけてしまったけれども、
そのまま振り返らずに帰ってきた。
びしょぬれというわけではないけれども、
かなり濡れてとても体が冷えてしまった。
デンデラ野がますます遠ざかる。
ここでこれでは、デンデラ野は、どうなっちゃうんだろう。
出会い方として、自転車で長々景色の中を走って、
徐々に一人で向かっていくのがいいような気がしていたけれども、
熊もいる、雨も冷たい、
絶対に無理だなあ、と思った。
でも雨が降ってくれたおかげで、
もう、絶対タクシーで行く、と心に後悔なく決めることが出来た。
バスに乗ると、一人だった。
伝承園についても、
観光客は誰もいなくて、私一人だった。
タクシーもいなかったのだが、
伝承園自体が、とてもよくて、
また、ここのみなさんもとても優しくて、
タクシーを呼んで下さり、ここがいちばんあったかいですよー、ここで待ったらいいですよーとか、様々な食べ物をお勧めしてもらったりして、なんだかとても心地がよいのだった。
いよいよ、タクシーに乗った。
寒さで、窓が曇るのを、きゅっきゅと何度も手で拭いて、外を見ていた。
紅葉した山々、稲の刈り取られた畑がずっとつづいた。
なんて美しいところなんだろうな、
それしか頭に浮かばなかった。
ここですよ。ここを上がったところだからね、と急にタクシーが止まる。
あ、はい、と緊張してカメラの入った鞄を持ち上げると、
鞄に付けていた熊鈴がりんりんなった。
おじさんが初めて笑って、ああ、持ってきたんだねえ、という。
熊、いますかねえ・・
うーん、いないとおもうけどねえ・・・
ごめんなさい、少し待っていて頂いても宜しいですか
ゆっくりしておいで
なんだか涙が出そうになったけれども、タクシーを降りた。
なるべくなるべく鈴が鳴るように、大袈裟に鞄をゆらしながら、上り坂を行く。
その金属音がいっそう心細い。
気が付くと、草が刈り取られて、なあんにもなくなった野原が広がっていた。
もしかして、ここ?
草刈ってあったよ女将さん、ありがたい、
でも、だからより一層なにもないって感じかも。
そこに立つと、びゅーびゅー風が吹いた。
目の前の山が美しかった。
なあんにもない、本当に本当に美しい場所だった。
デンデラ野は、亡くなる前にみんなが行くところ。
熊のよく出る場所。
来るのが難しい場所。
雨が降るとこんなに寒い場所。
本当に本当に美しい場所。
遠野はなんだか、この世のものとは思えないほどに美しい。
(福山荘、朝)
(サムトの婆から撮影。一瞬こんなに晴れたりするのだ。)
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