昨日はAlがランチをとりながら、議論をしよう、といってくれて、
ついに、話すことができた。
Alは確率を専門にしている哲学者なので、
どんな風な反応をするか、非常に緊張していたけど、
私の実験の意味をすぐに理解し私と同じ深刻さで捉えてくれた。
ものすごくあたまの切れるひとで、議論は本当に面白く、
私は集中してしまって目の前にあるご飯をすっかり忘れてしまって
居残りご飯をしたくらい(笑
それに加えて、philosophyのjournalに出すのはどうか、ということから、
誰々を紹介するから会え、ということまで色々suggestionをしてくださった。
Davidに話をしたり、また、飲み会の場で、合宿の場で、
様々な人に聞いてもらったけれども、
どうも、rationalityということを気にする人が多い。
はじめは、これがrationalであろうが、irrationalであろうが、
関係ないじゃん、と思っていたが、
なんでだろうとどっかでずっと気になっていて、
ふと思った事は
rationalityの定義を変える事が重要だ、ということ。
optimal behaviorとrational behaviorを区別することが意外と重要なのではないか。
ある行動が、optimalなものでないからといって、
rationalでないという理由はない。
なぜならば、みんながみんな同じ行動をしていたら、その種は外乱に弱い。
多様である事が種として安定、
すなわち、多様性、個体差というものをひっくるめて"objectively" rationalと定義できるはずである。
そう考えたとき、主観性(それがもしも個体差を生み出す原因であるならば。)
そのものがrationalであると考えられるのではないか。
そのように"collectively" rationalとsubjectivityの関係についてぼんやり考えながら、
研究室の窓からぼけっと外を見ていると、
ぞっとした。
噎せ返るほどの多様性を体が理解した。
種も何も、この世の中には、こんな変な動物が居る!植物がある!
人間だけ、動物だけが、中心のはずがない。
神様が、人間だけが種として安定であるようにつくっているはずがない。
人間が種として生き残るために世界を作っているはずがない。
安定なんて、してもしなくても良かった。
あの鳥がいる、あの草がある、あの生の形、あの形、あの形!
どうしてこんなにもたくさんのものが今こうして存在しているのか。
どれもこれも、この地球に奇跡的に一瞬表れてこの地に触れただけのこと。
種もなにも、どろり、と溶けた。
自分がビリリと音を立てた。
数日前にいったキャンプの、恐ろしいほど美しいプライベートビーチの寄せては返す波の感触が蘇る。
そのビーチでみた満月は空に開いたピンホールのようで、
真っ暗な地球という星の外側は光に満ちた場所であり、
まるで電気の通わぬボロ屋に開いた壁の穴に光が差し込むかのごとくだった。
Thursday, 7 June 2007
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1 comment:
ピンホールの満月のイメージ、すばらしいね。私の中に今、その事実がつくられました。
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