Tuesday 23 December 2014

Pesta Boneka (3)村のお話

今回、色んな面白いことがあった。
奏さんの作品の準備をしているとき、
奏さんが「わたし」といいながら自分の鼻を指さす仕草をした。
それをプトリというインドネシアの女の子がまねをして「わたし」といって自分の鼻を指さしたら、
横にいたリースが急に強い言葉で、
「その仕草は日本人のものである。
インドネシア人は自分が頭にあるとは思っていない。
私たちの心は、胸のところにあるし、さらには指ではなくて手のひら全部で指すのだ。
プトリ、そんな影響はいらない。インドネシア人らしく振る舞いなさい。」
といって
私はすくなからずショックを受けてしまった。

ショックを受けた理由はいくつもある。
まず私自身が、自分たちの出し物は、人形劇という言葉いらずの世界に比べて、
とても言葉的、概念的、頭的かもしれないと思ってしまっていたこと。
それ指摘された気がして、ずきっと痛んでしまった。
そもそも強い言葉に聞こえたのも、自分の思い込みだったのかもしれない。
自分が悩んでいたというだけ。

だけど、私は、どちらかというと欧米の人と出会って、
自分が言葉足らずであること、なにもいえないことにとまどってきたのだった。

言葉だって、言葉いらずの世界を目指している。
きっと言葉によるその世界も可能だと思う。
そういうことができるように、できることから実行する。
かなでさんと西山君と実現できたことが最高に嬉しい。
のびのびとこれからは、また作って行きたい。

そしてKepek村である。
Kepek村での料理大会は、壮絶だった。
村の少女達が、二人ずつ各国のグループに手伝いについてくれた。
私たちについてくれたのは、スチとインタン。
市場へ歩いて行って、通訳をしてもらって、足りない材料を見繕う。

太巻き寿司を作るのに、
西山君がコンロを確保して、あつーい卵焼きを作ってくれる。
手際がものすごく良くて素敵だった。
かなでさんが色んな食材を切って、酢飯の準備。
私は料理の時は使い物にならないので、洗い物とかをしていて、
ぼんやりコンロコーナーの西山君を見に行ったら、
とっくに卵焼きを終えて、村のお母様達に、
テンペ(インドネシアの食材、発酵した大豆食品。)の揚げ方指導を受けていて
油が足りないから取りに行ってこい!
と言われているところだった。
西山君が、じゃあ、恩蔵さんこれ見ていてください、とまかせてくれて、
油を取りに行ってくれた後、
私は村のお母様達をひやひやさせながら、
テンペをひっくり返してはびしゃーっと油を飛ばし、しかめつらされ、笑われ、
最後まで面倒を見てもらって、
「パレ!」というお母様の号令が、「ひっくり返せ!」という言葉だということだけはしっかり覚えたし、
テンペだけはちゃんと揚げられるようになって帰ってきた。
6枚揚げて、かなでさんと西山君のところをどうしてるかなと眺めたら、すごかった。
寿司の威力絶大。お寿司様、という感じ。

奏さんの指導でお母様達子供達が手伝って巻きすで巻いて巻いて、
巻いたそばから、売れていく。
子供の手があちこちからのびて、一瞬も休まることのない大戦場だった。
かなでさんは、超絶きりっとした顔をして、話しかけるのが本気で怖かった。
寿司マスターとして殺伐とした(うそ)見事な仕事ぶり。
台を常に綺麗に保ち、また仕上げていくことに、周りの女性からため息が漏れていた。

そのときだけは、ただ立っている私にもちょうだいちょうだいと声がかかる。

そんな中ひときわ目立つ女の子がいた。
12歳といっていただろうか。
表情が特別だった。
ダンスをやっているというからか、神がかったような特別な目の動きをする。
彼女に誘われるまま村の中を歩いた。

村の中には子供達が描いたいくつもの大きな布絵が立っていた。
これは鬼の話で、彼女はこのあと、このいくつもの布絵の間で行われる劇に、
鬼よりもずっと賢い天狗役で登場するのだという。
インドネシア語と英語を駆使して一生懸命説明してくれる彼女に対して
一生懸命うなずく私。
鬼が村のチキンをすべてさらってしまったとき、落としていった黄金の歯の話。

ものすごく賢いladyとして最後まであきらめずに細かく説明してくれた後、
じゃあ私はうちにいって支度をしてくるからね、といって彼女は手を振った。

何はできなくても、こうして面倒を見てくれる人たちに会えるから素晴らしい。

かなでさんと西山君と合流して、すこしほっとした時間を過ごしたら、
なんだかパフォーマンスが始まった。

わらわらとひとだかりへよっていくと、西洋の音楽集団が笛を吹きバイオリンを弾き、
遠くの方から竹馬に乗った大きな大きな紙の恐竜がやってきた。
子供達の間を軽快にはねる大きな恐竜は、異様で、かっこいい。
ハンガリー人のタマスだった。
タマスはサングラスをかけ、恐竜を背負い、くるくると竹馬の上で踊った。

その後すぐ、例の村中を移動する鬼の人形劇が始まった。
千人くらいいるんじゃないかという観客を引き連れて、大移動。
オーストラリア出身のスーが、ものすごい形相で子供達を引き連れる。
逃げるチキン、歯を落とす鬼。
歯を手に入れて、強大な力を得て家を持ち上げる子供。
歯を盗まれまいとする村人、取り戻そうとする鬼。
演じる人たちも、観客も、押しては引いて。

あの子に会って、you did very well!といったら、ぴょんととびはねI'm beautiful!といって去って行った。

夜が訪れて、
設置された舞台でのパフォーマンスが始まった。
人はどんどん増して、何千人にもなっただろう。
村にござがどんどんひかれて、もうくたくたで、座れる場所があるのがほんとに嬉しかった。
主催者のリアやアニャはもう声がでなくなっているのに、それでも舞台に立っていた。

劇場も芸術も科学もまったく関係なくなった場所。
ただの村。暗闇の中、何千人もの人が集まって、みんな一人のただの人になって、
インドネシア語のお茶の間コメディーみたいなものすごい劇を
ぎゅうぎゅうに座りこんで目撃した。
一切通訳はないけれど、あんなに大きな、土が揺れるような笑い声をわたしは初めて聞いた。
みんな、笑い袋かと思うくらいに笑う。たがをはずして笑う。
私も一切内容がわからないのにおかしくておかしくて笑う。

目の前をいくつもの鬼が通り過ぎていった気がした。
いくつもの鬼が集まっている気がした。
いくつもの鬼を目撃した気がした。

アメリカも、イギリスも、ハンガリーも、インドネシアも、アフリカも、Kepek村も、日本も、
世界中どんな場所も、人類が同じだけの時間を過ごしてたどり着いた一つの場所。
ああ、なんでもなくなった、鬼を見た、そんな恐ろしい一夜だった。




Monday 22 December 2014

Pesta Boneka (2)リースのこと

マンデラさんの追悼式典でのオバマさんの手話の通訳を担当した人が
偽物だったというニュースはずっと心に残っている。

厳しい審査があったはずで、絶対にミスはありえない、という場所に限って、
そういうことが起こる。

その人の手話は、本当にダンスのようで素晴らしかった。

こういうことがあると、自分が小さな時のことを思い出す。
例えば通訳になりたいな、と思ったことがあったこと。
でも実際は、自分は英語の特別な訓練や、通訳の訓練を全く受けることなく、
科学の分野で英語のトレーニングをして、
その縁で、たまたま翻訳の仕事をさせていただいたこと。
これだってあの手話の人とおんなじと言ったらおんなじだと思う。
(手話の人のダンス自体が素晴らしいというところには私はたどり着けていないのだけど。)

世界にはそういうことが起こりうるということは私にとっては単純に希望なのである。

今回のPesta Bonekaだっておんなじだ。
通常の人形劇団体だったら、Pesta Bonekaへの参加はどのくらい難しかっただろう。
今回は奇跡のような出会いと努力が重なって、なぜか私も人形劇の場所に立たせてもらった。

いつだって、どうして自分がここにいるかわからない、という感じがする。

あんまりにも不安で、前日かなでさんに自分の内容を確認してもらおうと思ったら
彼女も忙しくて喧嘩になった。
でもかなでさんは、多分、全て自分で決めて最後までやるってことを、
私にやって欲しかったんだろうと思う。
許可なんかとらなくていいからやってごらん、っていうことだったんだと思う。
そして実際そうできたことに、私は今とっても感謝している。

ーーーーーーーーーー
私はリースという人に、私のやることを見て欲しかった。
前回インドネシアに行ったとき、かなでさんはアーティストとしてリースの施設で滞在して、
私はかなでさんの友人として一週間ちかくお邪魔した。
そのとき私はただの友人で科学者で、リースにとってはあまり接点のない人物として存在した。
それでもかなでさんと一緒に常にお世話してもらえて本当に感動したのだけれど。
印象的だったのは、かなでさんと一緒にあるアーティストの家を見せてもらいに行った時。
あまりにも素敵な家だったので感動していて、
その家でもやはりアーティストを滞在させているという話になったとき、
「あなたもここに滞在したいなら、まずアーティストになることね」
といわれた。
当たり前の発言なのに、ずきりと傷つく自分がいた。

どうしてアーティストじゃなきゃいけないの?

でも、確かに私はリースに自分のことを話すという努力をしなくて、
話したところでどうしたってリースの描く人とは違うのだろうけど、
なんだか幽霊のような存在として1週間過ごしてしまったことをずっと後悔していた。

ーーーーーー

秋に名古屋で授業をやっていたとき、
やっぱりそこでも、私はその大学の教師ではなく、
その授業のためだけにその日やってきた人間なのだけれども、
1時間半まとめて一つの話をしたら、
なんとなく「誰だかわからない」というみんなの間の緊張がとけるんだ、
ということを実感した。

言わなければなんだかわからないのは当然だし、
言って、もう隅から隅までわかる親友、みたいになるわけじゃなくても、
ただまとめて話すだけで、
「あ、なんとなくそーゆーひとね」と
人と人との緊張がとけるということ。

わたしはもう、幽霊のように存在するのはいやだ。
その場になにか作りたい。

自分にそんな変化が起こった秋だった。
ーーーーーーーー

リースは、実際に、私がspoken poetryをやっている間、すっぱいような顔をして、
ずーっとずーっと見ていてくれた(写真を見せてもらったところによると)。
その後やっぱりそのことについて話すということはできなかったけれど、
それは一つとっても嬉しいことだった。

Pesta Boneka(1)はじめてのSpoken Poetry

12月3日から、12月12日までインドネシアに行ってきた。
ジョグジャカルタで行われるPesta Boneka 4(International Biennale Puppet Festival 4)
に参加するためだった。

三日間にわたる人形劇の祝祭。
連日お昼過ぎからゆるゆると始まって、
夜10時半くらいまで各国のパフォーマンスがつづく。
すごかったのは、最終日。
各国でクッキング大会をやると聞いていて、
私たち日本のグループとしては
代表の奏さんのアイディアで、お寿司と日本茶を振る舞うことにして、
巻きすや、すしのこを日本から持って行ったのはいいのだけれど、
会場へと朝主催者が宿泊場所に車で迎えに来てくれて、連れて行かれたのは、
Kepekという村だった。

ジョグジャカルタ市から、30分ほど走っただろうか、
景色が田んぼに変わっていって、道も細くなったと思ったら、
大きな藁や布でできた人形が道案内にたち、空を飛び、
ひゅんひゅん目を回すうちに村に着いた。

劇場、ギャラリー、ホテル、そんな場所を何十分も離れて、
普通の村人が暮らす、大きな村。
今回の祝祭のために藁で飾り付けられたゲートをくぐる。





















pesta bonekaに参加している団体だけの国際交流みたいなクッキング大会を想像していたら、
むしろメインは村人の方で、
pesta bonekaの参加者は少数派。
これまでは英語も通じたけれど、英語どころか、インドネシア語の「ありがとう」すら
ジョグジャカルタとは違うという。
お互いに不思議そうな顔をしてしまうけど、
おじきをして”slamat pagi(おはようございます)"と言ってみると
とたんにおばあさんの笑顔が返ってきた。

村の人たちは、洗い物をするのに、井戸の水をくみ上げていた。
これはものすごいことになった、と思った。
「祝祭」という言葉の意味がはじめてわかるような時間になっていった。

前日までの各国のショーだって、端的に言って素晴らしかった。
人形劇は箱の中の小さな世界のものじゃない。
人間が人形を体に纏って、人形の顔と人間の顔とが糸でつながり、暗闇の中、
別の人間と恋をしていた。
あるいは、人形は、人間の手に抱かれ、人間の顔と顔をすりあわせて、母と子になった。
私が今までに持っていた「人形」という概念はめちゃくちゃに崩れて、
正直に言って、人形って何なのかわからない、と愕然として、
西山君としばらく無言でコーヒーを飲んだ。
人間と人形とが堂々と共存する、(黒子として人間が存在するのではない不思議な共存)そんなものを初めて見たのだった。
人間役として存在している人の、顔の豊かさに改めて驚いたことは確かだ。
私はどちらかというと人形によって、人間にびっくりしてしまったのかもしれない。

そこには物語いらずの存在があった。
ストーリーはシンプル。
たとえば母と子が愛情で結ばれているという物語。
もし複雑な物語があっても、私はそれを忘れてしまうだろう。

そんな人形を見せつけられる中、
私たちは、「人形とは何か」「物語とは何か」ということを科学者として問う、
そんなセッションをやることにしていた。

西山君と、自分たちのセッションを前にして、
「帰りたくなったね。とてもできないね」と笑った。

だけどやるしかないのであって、自分たちが希望して参加したのであった。

私がやろうと決めていたのは、
Spoken word poetryと呼ばれるものだった。
私のあこがれの人はSarah Kay。それからMalalaちゃんの演説。
まっすぐに思うことを口にして人に伝わる表現。

自分でいま信じることを人に伝わる形で表現すること。
私はいままで、科学の分野としても自分自身としても、
例えば「化粧」とか、「物語」とか、
そのままの自分とは違う存在についてずっと興味を持ってきた。
だから、人形劇の祝祭で、自分の興味がマッチしないことはない、と考えていた。

それから、私は、授業の経験や、池田塾での発表などで、
文章で書いたものを、口で言おうとすると、
言えることが変わることを知っていて、
文章ではつながっているように見えるロジックも、
口にするとまったくつながらなかったり、そもそも口に出せなかったり
そういうことが起こることを知っていて、
だから、口でしかいえない、私の身体全てを通した表現というもので勝負がしてみたい、
と思ってきた。
ちゃんとやったら、それは単なる科学的な文章ではなく、
科学の内容は中に入ってはいるけれども、一つの物語になるはずだ、と願って、
Spoken word poetryをやる、と宣言した。

やっぱり私が話すときには、科学ということから話をすることになる。
だけど、分野を問わず聞きに来てくれた人にとって、
「自分にとって関わりの無い話に聞こえるか」
そこは私の勝負だった。

私は、自分の科学の人生の始まりに、
それまでに思ってきた科学というものの思い込み全てを壊す体験をしていた。
三人の先生に同時に出会うことができたことによって。
科学は、自分の人生と全く離れていないということ、
それから、
いままで考えることをあきらめてきた全てのことを、
そういうことこそ考えるべきなのだと教えてもらった。
自分が生きるということと科学はおんなじだと知ったのだから、
私の科学も、みんなにとって関係のある話であってほしい。

でもそんなことはともかく
色んな人がのびのびと、楽しく作品を作っている。
その一つとして、私も存在できたら何よりも嬉しい。
チャンスをいただけて、一番やりたいことをやってみた、
はじめてのspoken poetry。
その映像をここにアップします。
大変つたない英語ですが、どうかみなさまの人生の7分間を耐えていただいて、
最後まで聞いてくださると幸いです。




友人の植田工くんが英語字幕をつけた編集をしてくださいました。
もしつたない英語とノイズで聞き取りにくい場合、英語字幕をオンにしてくださると嬉しいです。

(村の話へつづく)





Friday 28 November 2014

お知らせ

12月5日から12月7日にインドネシアのジョグジャカルタで行われる
国際人形劇フェスティバル(International biennale puppet festival in Yogyakarta (Pesta Boneka #4))に参加します。

友人のアーティスト、矢木奏さんがずっとあたためてきた作品のアイディアが、
去年から一年間、彼女がフィリピンやインド、インドネシアを旅して活動して、
様々な人たちに出会ってきたことによって、
ついに形になることになりました。

インドネシアには、日本の文楽にも通じる、長い人形劇の歴史があり、
自分たちの歴史を引き受けて今も新しい物語をつくり続けているpaper moonという団体があります。

矢木さんは、矢木さんで、
アーティストという道を選びながらも、小さな頃から科学に興味を持ってきた歴史があって、
現在、脳科学の実験で、ある操作をすることで、自分という感覚を、別の人や、別の物体に移したり、広げたりすることができることがわかっているのですが、
その実験を使って、作品を作るというアイディアを何年も前からあたためていました。

その彼女が、インドネシアでpaper moonに出会った瞬間を、
わたしはたまたま目撃していていたのですが、
paper moonの代表のリアが、「冬にフェスティバルをやるんだけど、
新しい人形劇の形を探ってる。広義の人形劇として、色んな国から色んな人に参加をしてほしいと思っているんだ。」
というような話を出した瞬間、
奏さんは、目を輝やかせ、
「広義で良いならやりたいものがある」
と言いました。

ただの物体である人形に魂が宿るに見えるのはどうしてだろう?
フィクションって一体何なんだろう?
というように、「人形劇」というキーワードを得ることで、
「自分が他の物体に移る」という科学的実験を作品に昇華させる
最後のピースがはまったということだったのだと思います。

私は、ちょうどその場に居合わせたものとして、また科学者として
その場のお手伝いをすることにして、
また私自身、自己や物語をテーマにずっと研究をしてきましたので、
私は私で、何か発表させてもらいたいと思い、
ずっとやりたいと思ってきたスポークン・ポエットリーに挑戦させていただくことにしました。

そして、もう一人、西山雄大さんという
まさに、「自分が他の物体に移る」実験をずっとしてきた人で、
かつ、人形劇を使って子供を対象にした実験もやっているという、
私たち二人となぞのつながりを持つ科学者がいるので、
その方には、彼の考える科学のレクチャーをしていただきます。

もしもインドネシアにその期間いらっしゃる方がおられましたら、
どうかよろしくお願いいたします。
とっても、とっても楽しみです。

オフィシャル告知 https://www.facebook.com/events/696623903768860/?fref=ts
 Riesが作ってくれた広告


Thursday 11 September 2014

日記 2014/09/10

8日は雨で、まったく月を見ることが出来なかった。
8日が中秋だったのだけれども、9日が満月という分類になるらしく、
その9日には、ものすごく大きくて赤い、最高に綺麗な月が見られたのだった。

なんとなく嬉しくて、8日にできなかったことを、あり合わせのもので、たくさんやった。
8日に買っていたススキとコスモスを8日とは別の花瓶で居間の窓に飾って
(コスモスはすでにしゅんとしていたけれどそのまま)、
残り物のお団子と、ママのたまたま作っていた豚汁と白いご飯をお供えした。

日本酒もお供えして、家の中から、
暑さよけのためにその窓にかかったままの簾を疎ましく思いながら、取り外そうともせずに、
その簾越しにうっすら月を見ながら、
床に寝転びながら(じゃないと角度的に月が昇るにつれて見えなくなっていったからです。)私も飲んだ。
夏前に買っていた片口と、ペアのおちょこを使って(そえちゃんの手作り)。

とても気楽で、楽しい夜だった。

ベッドに入ってからも、なんとなく眠るのが惜しくて寝転がりながら
iPhoneでいろいろ検索していたら、
可惜夜(あたらよ)という言葉を知った。なくなるのが惜しい夜、ということらしい。

この秋の空気、ひんやりとして、確かに肌に触れている感じ。
そしてこの不特定多数の虫が空間にばらばらに存在し、
四方八方から音が届いて、自分を貫通して行くような感じ。
そういうのに、今夜は身も心も任せてみたくなって、布団を掛けずに、目をつぶった。

この感じを歌にするならとあれこれ頭の中で考え回して、

可惜夜は風のみ纏ひ臥してみむ
奥に深きに誘ふまにまに

というなんちゃって短歌を作って、意図と反してエロくなってしまったかな、とか、
こういうのを凡庸って言うんだろうか、とか思いながらも、
なんとなく満足して眠りに落ちたのだった。

そしたらいつになくたくさんの夢を見た。ちゃんと誘われていったということか。


その一つをここに。


場所はどこかのホール。
客席がいっぱい。

フィクションについてのシンポジウムのようなもので、
私の講演もアサインされているという。

私は何の準備もしていなくて途方に暮れていた。できるわけないと思っていた。
そうしたら、主催者(池田塾の渋谷くん)も、あなたは講演の前に殺されることになっているから大丈夫だ、という。

私も、それなら大丈夫だ、とほっとした。

ところでどうして殺されるんだろう、と渋谷君に聞いたら、
あなたの発言が原因で怒った人があなたを蹴っ飛ばして、
それでそのホールの階段状の客席を飛んで下位の席に頭をぶつけて死ぬ、という。

どうしてそんなことがわかるんだ、といったら、
あなたと同一人物がそうだったから、そうなることに決まっているんだ、
何時何分にそうなる、といわれた。

それで、それならば講演の準備をしなくても良いというほっとしたきもちと、
殺されるということへの恐怖に似た感情がない交ぜになって、
だけど殺されるどうにもできない時間がくるのならばと、
なんとなくトイレに行って気持ちを落ち着けた。

そうして、その時間をむかえる前にその座席のところに戻って渋谷君と会った。
ホールに人はまばらにしかいなかった。

時間はそのまま過ぎて行ったのだった。私は死ななかった。渋谷君と顔を見合わせた。
死ななかったんだな、と思った。

と、いうことは講演の時間が来るのである。


私は、どうやら死ぬよりも講演の方がいやみたいだ、と思った。

だけど、とにかくそのときは来てしまう。
もう数分しかない。
おそろしい焦りで頭が高速回転した。

講演を何分するということも聞いていない。
でもどっちにしろ、何分であっても、この状態でしゃべったとしてほんの数分分しか出来ないだろう。
とにかく、とにかく、頭に何が浮かぶか、フィクションのテーマで私は何が話したいのか、
浮かんでくる物をこねくりまわして言葉にしてみた。
断片的なものが、次々に浮かんだ。
書かないと、前の物を忘れてしまう。それに、次の物とのつながりも、見えない。
書く必要がある!という気持ちと、
とにかくその浮かぶ断片の数をふやさなきゃ!という気持ちで必死だった。

私は何が言いたいのかという核になることを、
あと数分でとにかく見つけなければならないと準備をただただ実行した。

その概念になる前の、あやふやな状態だけど、書いたらしっかり定着できそうな断片は、
ちゃんといくつも浮かんで、
なんだか、私は夢の中で、私考えられるじゃん、ちゃんとあるじゃん、という自信を得てしまったのである。

ああそうか、私はそういうことを思っているのか、うん、そのことを言おう、
といういくつかの種が、ちゃんと思いついて、
それは、現実の、10月からやる授業に使えるはずだし、
12月のかなでさんの公演のための何かになるはずだった。

どこまでが夢でどこからが現実なのか、そんな風に頭の中で思考は、
夢のための講演から、現実に来る講演に移っていって、目が覚めたのだった。

目が覚めてみれば、その思いついたはずの種は記憶から消え、
「考えられるはずである」という根拠のない確信だけが残って、
何にも手についていない授業の準備と公演の準備の壁をじりじりと感じながら、
なんとなくartifitial superintelligenceの勉強に励む今日になったのだった。

Tuesday 12 August 2014

コアラの世界

7月。オーストラリアはブリズベン。

コアラが見たくて、ローンパイン・コアラサンクチュアリに行く。

ーーーー

初めてオーストラリアに行ったとき、
大学のすぐ横のモーテルで朝、鳥の声で目が覚めた。
聞いたこともない、恐竜のような鳴き声。
ベッドで寝ぼけ眼で、窓から光が差し込んで床にできた木々の陰が揺れているのを見て、
未知の世界に迷い込んでしまったと夢半分に思って
どうしようかと布団に潜り込んでまた眠った。

白と黄色の大きなオウム、赤いオウム。
そういうのが普通に空を飛んでいるところだ。
だだっぴろい大学の構内を、カンガルーが飛んでいることもある。

オーストラリアは、私にとって、そのままで動物園というか、
ユーカリの木々から何から、すぐ目の前にある物すべてが、
常識から離れていて、
三ヶ月留学したときも、
まったく違う世界にいるという感じがいつまでも消えなかった。

普通に生活していてそれだから、動物園に行く必要はまるで感じないのだけれども、
オーストラリアの動物園は行ってみると、これまた素晴らしいのだった。
膨大な土地のせいだろうか、人のせいだろうか、
動物たちが本当に元気。
シドニーでは、シドニーのど真ん中、オペラハウスの前の港から
フェリーに乗って、動物園に向かうのだ。
それもtaronga zooという、不思議な音の名前の動物園だ。
私の中では、taronga zooは世界遺産。夢のような場所だった。

そうして今回、7年ぶりに、オーストラリアに来て、
それも世界最大のコアラ保護区、ローンパイン・サンクチュアリのあるブリズベン。
まずはコアラと、楽しみに向かったのだ。

ーーーーー


森の中、ユーカリの低木が、規則的に配置されていて、気がつくと
一本にひとつ。
丸く顔を埋めて実のようにコアラがしがみついている。

日本の美術館の仕組みになれたわたしは、
最後の目玉というかたちで、コアラに出会うと思い込んでいたら、

入ったらすぐ、いつでもどこでも手に取れるような感じで
コアラが鈴なり。

ああ、いつだって、オーストラリアはこうなんだ、と思う。


コアラをだっこして写真を撮るコーナー。

こういうのって動物にとってどうなんだろうと不安に思いながらも
やっぱり並んでしまう。

見ていると、入れ替わり立ち替わり、
コアラがなんとなく疲れると、鈴なりの木から、別のコアラをとってくるみたいな感じで、
係員さんが抱きかかえて連れてくる。

こんな感じだったなら、コアラにとってもむしろ、あ、お仕事ね、と
なんとなく刺激があっていいんじゃないかと思ってしまうほどだった。

私の番がきた。
緊張して、係員さんの指示に従って、
両手を下で組むと、
その上にとんとコアラが乗った。
私のホールドが甘かったのか、
がしっと肩につめでしがみついてきた。
イタイ!と声を上げそうになったけど、
コアラがびっくりしてしまってどんなことになるかわからないと必死でこらえた。
なるべく平静をたもって、コアラの様子に耳を澄ます。
するとぐんっと、コアラが顔を上げて私を見た。
おそるおそるのぞき込むと、
体に電気ショックが走った。

肩に食い込んだ爪は痛いけど、
しっかりとしがみついてくれているおかげで、片手が自由になって、
体をなでると、
カーペットのようなごわごわした質感で、
うわあ、うわあ、かわいいなあ、しかも人間の赤ちゃんよりもずっと軽いような気がするなあ、
そんな思いの中で、
彼と目を合わせると、一瞬で、
まったく自分の論理の通じない、全然違う生物だとわかった。
とんでもないものを今自分は抱きかかえているんだと
だらだらと冷や汗がでてくるのがわかった。

動揺の中、カメラマンに向かって笑顔を作る。

係員さんにお戻しする。

たったの2、3分だっただろうか。
ごわごわと軽い感触がいつまでもいつまでも手に残った。

一瞬だけのぞき込んでしまったコアラの世界も忘れられずにいる。

ーーーー

自分とは全く違う物を好きになる、そんなことが起こったのだった。
以来、非典型的な人間にお会いすると、コアラを思い出すようになった。
全く違う、自分の論理で生きている方が、幸いなことに私の周りにはいて、
コアラを見つめるような気持ちで眺めている。

lone pine koala sanctuaryカメラマンさん撮影

Saturday 7 June 2014

チュト寺院

5日目の夜、ガイドブックで知りうる限りのところだけれども、
ジョグジャカルタで行ってみたいと思っていたところは大体行ってしまったな、
と思って、
明後日には飛行機に乗らねばならないので、
実質最終日の明日、どんなところだったら行けるだろう、と考えていた。

少し、遠くなるけれども、隣町ソロの郊外に、気になる遺跡があった。
イスラムでも、ヒンドゥーでも、仏教でもなく、
土着の自然信仰が、それらの宗教の影響を受けて15世紀に建てられた遺跡だという。
ガイドブックには、山を登り詰めた場所にあって、マヤ文明のようだとか、書かれていて、
写真を見ると、確かにそれまでに見た遺跡とは雰囲気が全然違っているように感じられた。

奏さんは、その夜の内に、それまでに出会ったタクシーのドライバーにメイルをして、
朝早く家を出られるように手配をしてくれた。
タクシーは12時間貸し切りということで、
どんな場所に行くかによって、いくら、という交渉をすることができたのだった。

たどり着けるかな、、、行けると良いな、、、行けたとしても、どんなところなんだろうな、、、心配になりながら眠った。

いままでのタクシーのおじさんは、都合が悪かったので、別のお兄さんを紹介してくれたようだった。
お兄さんが、朝9時に時間通り、顔を出してくれて、すぐ、心配なことを聞いてみた。
「実は、このCandi Ceto(チュト寺院)というところに行きたいんです。あとできれば、その側にあるという、Candi Sukuh(スクー寺院)にも行けたらいいと思っています。でも、今日中に帰ってこなければならない。可能だろうか。」
「しかも、もしも、可能だったら、夜には、ジャワダンスとか、人形劇をこのジョグジャカルタで見たいと思っているんだけれども・・・・」

「片道3時間半はかかるね。」という返事だった。
そんなに遠くまで行くとは思っていなかったようで、
ちょっと詰め込みすぎだし、何かはあきらめてくれよ、というお兄さんのことを
もっともだと思って、
とにかく、チュトに向かってもらった。

最初は、話がちがう!といらいらした様子だったお兄さんも、
走っている内に、話がまとまってきて、
トイレとか、写真撮りたい所があったら、とまるからいつでも言って。
あれが、何々だよ。
と、なんだか優しいお兄さんになっていった。

隣町のソロまでジョグジャカルタから二時間、
そこから更に一時間半みたいな感じらしかった。

ソロは、なんだか大都会だった。
みたことのある企業の建物がいっぱいあって、
ショッピングモールなんかもおっきいのがどーんとあって、
ジョグジャカルタとは随分ちがうなあ、と思った。
ジョグジャカルタの人達が、すごく自分たちの街を愛している様子を思い出した。

でも、そこから遠ざかって、いくつもの田んぼを通り過ぎて、
いつのまにか雲にとざされ全貌がまったくわからない程の山の近くに来て、
景色は茶畑に変わっていた。
これは、ジャワティーだよ、とお兄さんが教えてくれた。
坂が急で、車に負担がかかるから、クーラーを消していいかい?といって、
窓を開けると、
茶畑からなのか、ものすごく良い匂いがしていた。


保護地域なのかなんなのか、車の通行料が必要な地域に入って行った。
山村、という感じである。


ぶるん、ぶるん、がたがたがた、と苦労しながら、車がのぼっていく。
自分たちの登っている山の、奧に見えているあの山はなんなんだろうな。
もう随分登ったのに、はるかかなただ。

道がどんどん細くなって、斜面はどんどんきつくなるのに、
窓から見えるその急激な斜面には、水田や畑が作られていて、人が作業をしている。
それに、ふっときずけば、車の横を、
大きな大きな籠を担いだおばあさんが歩いて登っていく。

おおお、と前を向き直って、
フロントガラスを下からのぞき込むと、その坂の上り詰めたところに、
尖った山を半分に割ったような、あるいは、
ぎざぎざとしたするどい角のような門が、本当に姿良く聳えていた。

チュトについたのだった。

車を降りて、その坂を登って、階段を一段一段門に向かって上がる。
あと二段、というところで、門の間から、全貌が見えた。
あの、道からずーーっと見えていたあの山は、
日本でいうところの、ご神体だったんだ。
あの山のふもとに、この、遺跡が立っていて、
なんて、無駄のない、簡潔な作りだろう。
私の頭の中から、石や、木という違いがまったく消えていった。
ものすごく、親しい風景が広がっていた。

勇気を出して、門を入ってみる。
足元には土の感触。
草が綺麗に刈り込まれていて、
トンボが舞う。
一歩、一歩がうれしかった。

私が今までに見た中で、最も、美しくて、清らかな、場所だと思った。

小さくて、かわいい、化石のような彫り物が石に彫られて、
土の中に埋まっている。
例えば、蟹。カブトガニ。ナマズ。
それから、大きな亀の石像。

ここはいったい何処なんだろう、と思う。

ここで、インドネシア人の、男の人3人と、若い女の人1人とすれ違って、
挨拶を交わした。
良く見れば、女の人だけ、裸足だった。


また、少しの階段を上って、
山を半分に割ったような門をくぐって、
次の段に向かう。


小さな小屋に、神様の像が、道を挟んで左右に一体ずつおさまっている。
そこで、さっきの女の人が、お線香を持って、お祈りをしていた。
男の人は後ろで見守りつつ、一度、神様の像のお腹に両手で手を当てて目をつむった。

ああ、この人達は、きっと夫婦で、
赤ちゃんができたんだな、と思った。

あっちの人はお父さんで、もう一人の男の人は神主さんみたいな人だろうと思った。

彼らは左右の神様の両方にお祈りをして、
また、その先にある、例の形の門をくぐって静かに静かに上に向かっていった。

私は邪魔にならないように、すこし時間をあけてから、上にのぼっていった。

その上にもやっぱり、左右に一体ずつ神様がいて、
多分彼らは、さっきと同じように両方にお祈りをした後、
右に作られた小屋に入っていったようだった。
戸が開いていて、
彼らが座って祈っているのが見えた。
真ん中には白い布をかけられた像のような物があった。
しばらくすると、神主さんのような人と、おだやかな会話が始まった。

場所がそうさせるのだろうか、
私は全く言葉は分からないけれども、ほんとうに穏やかな、あたたかい会話だと思った。
私は、
お腹に赤ちゃんが出来たら、お母さんは、無事に生まれてきて欲しいと願うだろう、
そういうすごく当たり前の、お祈りがささげられていることに、
なんだかものすごく感動してしまった。

自然信仰って、こういうこと。
誰でも持ってるお祈りの気持ち。

私と奏さんはそれぞれのリズムで随分長い時間この場所を過ごし、
蟹やかぶとがにのレリーフのところで合流すると、
奏さんが言った。
「どうみても海だねえ。」

その通りだな、と思った。


















遺跡と廃墟(Water castle)


あるデザイナーの若い夫婦?のおうちでお茶をごちそうになっているときに、
リースがこんなことをいった。
「あなたたちの家にくると、毎回驚かされるわ。毎回、新しい物ができていて、
それが超絶すてきなんだもの。
あなたたちのようなのを、アートの中で暮らしている、っていうのね。
アートと、生活とにまったく隔たりがなくて、
アートをやります、って力んでないの。」

この人達のおうちは、まるで、原生林の中のお家のようで、
家の中に木を生やし、気持ちの良い風を通わしている。
その二階にあたらしくベランダを増築したようで、
そこで、日没という最高の時間帯に、
こだわりのお茶を出してもらったのだった。
私は、この人達のように、家を設計したり、庭を造ったり、
こだわりのお茶を作ったり、ということはもしかしたらできないかもしれないけれど、
言葉の精度、ということで、
「作品と、生活とが離れていない」「生活の中にアートがある」暮らしができたらいいな、と思った。

色んな人が、気持ちよく存在できるようにすること。
自分も、一つの場所を作っている、構成要素であるということ。
ーーーーー

4日目は、寝不足と、疲れが溜まっていて、朝はゆっくりとすごすことにした。
それで、なおかつ、スパとかいっちゃう?みたいな感じで、
3時間コースとかいうのに挑戦した。
(私は、スパは、沖縄での兄の結婚式の前の日に、宿泊したホテルで調子に乗って、
30分ほどやってもらったのが初めてで、これは人生二回目のスパなのだった。)
インドネシア語しか通じないので、
担当のお姉さんは途中で私達と話すことをあきらめてしまったようで、
無言でどんどん行われていくのだが、
ある瞬間に、パカっとまぶしいライトをあてられたと思ったら、
強烈な痛みが鼻に走って、なんだなんだ、なんなんだ!!と叫びそうになって、
だけど、これって、スパに慣れた人には当たり前のことなのかも知れず、
手をぎゅっと握りしめて耐えに耐えた。
どうも、ひとつひとつの毛穴から金属のピンセットのような物でなにかをとりだしているようで、おそろしい、
シンジラレナイ時間帯を過ごしたのだった。

全てが終わって、かなでさんに合流したら、
「あれ、痛かったねーーーー!!!!私、涙流しちゃったよ」
というのだった。
やっぱり、フツウじゃないらしい。
「インドネシア語でいいから、やる前せめて、一言いってほしかったよねーー。
ビックリしたねーー!」
「うん、介護とかではさ、なにかアクションする前、語りかけるのが鉄則です。」

体験を共有し、結束を強めて、私達は、スパを後にした。
しかし、全身がさっぱりしていて、
「お湯につからないお風呂に入った」という感じがまさにして、
スパってそういう意味だったのか、って気がした。
人にやってもらうのは、なんだかちょっと気後れするんだけれども、
なんとなく銭湯の帰りのような気分で、
すっかり夕方になって、涼しくなった帰り道を歩いていた。

そのうち、壊れた城壁のようなものが見えて来た。
「あ、これ、リースが登れるっていってたな。」
「登ろう、登ろう」

迷路のような小道を少し入ると、階段が見えて来た。
「water castle」という名前らしい。
王様が、女の人を囲っておく場所だった、みたいなことを、
客引きのおじさんが横で話してくる中を、
ありがとうと思いながら振り切る。

いつだって、実際に入って見ると、想像を超えることがあるんだな。
天井が崩れ落ちた廃墟、空が大きく割れていて、
大きな大きな窓だった場所には、風が吹き抜けて、
若者達が集う場所になっていた。
壁に腰掛け、本を読む人、
雑誌か何かに使うために、撮影をしている民族衣装の若者、
彼女にポーズをとらせて写真を撮る彼氏。
サッカーをする子供達。

遺跡、というには新しすぎる、廃墟。
「世界遺産にはなれないような場所でも、なんだかすごくいいところってあるね。」
とかなでさんがいった。

私達も、あまりにも気持ちがよいので、そこに腰掛け
気になっている作品や、自分たちの考えていることの話をした。
自分たちの地面の同じ高さに、民家のオレンジ色の屋根瓦が続いていて、
その下から凧がいくつもあがって、鳥のように飛んでいた。
私達は、やっぱり、ビールがあるといいな、と思った。




Friday 6 June 2014

ボロブドゥール

丘からタクシーで、ボロブドゥールに向かった。

もう日は高く上がっていて、炎天下。
全てが石でできた灰色の大きな大きな構造物。
その壁に、これもまた石でできた大きな仏陀が何体も、何体も、埋め込まれている。
心なしか、日本で見る仏陀よりも、力強い感じがする。
石像というのは、なんだか、固いというか、強いというか、独特な印象を与える物だな、と思う。

日本では、こういう石でできた、石丸出しの構造物って、お墓ぐらいじゃないかな、という気がする。
遺跡をまわっていて、特に仏教の寺院では、実際、なんども頭の中に日本のお墓が浮かんできた。

ただ、ボロブドゥールは、本当に、はじめて見る質感だった。
奈良のひろびろとした空間に、仏像が堂々と何体も並んでいるのを、
思い出さないわけでもなかったけれど、
やっぱり、この全てが灰色の、硬い石の、莫大な感じ、
炎天下で、石からの照り返しもあっては、すぐに疲れてしまうし、
(寝不足や、旅疲れもあったのかもしれないけれども)
この広大な空間は茫然とするというか、砂漠にいるような感じすらした。
そして、
壁面のレリーフだろうと、なんだろうと、
自由に触ったり、登ったり、座ったりがかなり許されていて、
色々、全然分からない、と思った。
でも、遺跡に腰をかけられるというのは、嬉しいし、実際助かることだった。

そんな風にして、日陰になっているところをみつけて、腰をかけて、遺跡の真っ直中で休んでいると、
二人の制服を着た少年に声をかけられた。

高校生で、英語の授業の一環で、ボロブドゥールに来て、
外国人を見つけて英語で喋ってみましょう、という課題で、
私達に声をかけてくれたらしい。

「僕たちは、英語を勉強しています。会話をさせて下さい。」
「あなたたちは、どこから来ましたか?」
「ここに来たのは、はじめてですか?」
「どんな印象を持ちましたか?」

私は、印象というものを、聞かれたことにどきどきして、
たどたどしく、自分は日本から来て、日本にも寺院があるんだけど、
共通点を見つけて嬉しく思ったり、まったく石の質感におどろいたり、している、
ということを話してみた。

「日本にも、仏教のお寺があるんですか。」

そうなんです。木でできていることが多いです。

「あなたたちは、仏教徒ですか?」

一応、そうですね。あなたたちは、どうですか?

「僕たちは、イスラム教徒です。」

かなでさんが、ここで
あなたたちには、この寺院はどう見えますか?と聞くと、

「僕たちは、他の宗教に敬意を持って接したいと思っています。」

といった。

話はたどたどとしながらも、ゆったりとした時間がながれはじめ、
彼らも私達の横に腰を下ろしての、会話となっていった。
私達の職業の話になった。
私は、科学者。奏さんは、アーティスト。
アーティスト、といった瞬間に、一人の子の目が輝いた。

「歌を歌うんですか!?僕は、日本の歌手で好きな人がいます!あやかさんが好きです」

奏さんは、めんくらったようだったが、
アーティストというのは、歌手のことだけをいうのではなくて、実は、ものすごーーーく広い概念で、
絵を描いたり、写真を撮ったり、映画を撮ったり、色んな人がいるんだよ、
説明がとっても難しい色んな人がいるんだよ、
ということを一生懸命説明していたのが、なんとなく素敵だった。

そして、あなたは何になりたいの?
と聞いたら、

「My ambition is...」
といって、

エジプトの大学で、アラビア語を勉強することです、と教えてくれたのだった。

もう一人の子もやはり、
「My ambition is」
といって、
さっきの男の子と同じことを目指していることを教えてくれた。
でもお金がかかるし、ここを離れるのもいやだから考えてる、
ということも教えてくれたのだった。

この石の上で、高校生の男の子が、伏し目がちな目をして言った、
My ambition is、というのと、
それが、エジプトの大学で、アラビア語を学ぶことだったというのは、
私はきっとずっと忘れないだろうと思った。

科学者と、アーティストと、おそらくはコーランに関わる職業と、というように、
あるいは、
石と、木と、というように、
なんだか、
それぞれの国が、人間が生まれてから、同じだけの時間を過ごして、至っている形が、
全て、並列に見えて来た、というか、それぞれに本当にすごいような気がして、
インドネシアも、日本も、エジプトも、アメリカも、
同じ時間だけ流れてきて、今こうなんだ、という感じがじりじりとしてきたのだった。
























インドネシア旅行記 前編

5月28日から、6月4日の、6泊8日で、インドネシアの古都ジョグジャカルタに行ってきた。
今回は、ジョグジャカルタのアーティスト・イン・レジデンスに入ったばかりの奏さんを訪ねて、
一緒に観光しようという目的だった。

そこでまず驚いたのは、ジョグジャカルタがものすごくアートが盛んで、
アーティストの街みたいな存在であったこと。
そして、そのアーティスト同士のつながりがものすごく密だということ。

アート・マネージメントをしているリースさんが、
奏さんを、色々な人に会わせていく感じがとても印象的だった。
ジョグジャにいるアーティストのおうちを尋ねて、お茶を出してもらって、
のんびり話して、帰って行く。

とくに、お互いにどんな作品を作っているか、とかいう話はしないで、
その人のおうちという空間の中で、もちろんそこにはその人の作った物があって、
その人の質感に囲まれながら、ただ、気持ち良く会話をする。
私も横にいさせて頂いて、
私はアーティストではなくて、サイエンティストなんだ、というと、
「neuroscientistなんて、本の中の存在だと思っていたわよ。これが実物!!」とか言って笑って、
あとは、
それぞれの人が、今どんなことを気持ちよく思っているか、
どんな気持ちでこの空間を過ごしているかということを、
非常にあたたかく思いやっている、という感じだった。

そもそも奏さんが、そのレジデンスに入ることになったのも、
書類を出して、どんな作品を作ってきたか、何をやりたいのか、で審査されて、
ということではなくて、
フィリピンに以前行っていたときに出会った人とのつながりを通して、
こんなところがあるよ、と紹介してもらって、
行ってみたいなと思ったら、相手も受け入れてくれた、ということらしかった。

「面白くなければ、素晴らしいことが出来なければ、ここに入ることは出来ない、それを証明しろ」
そういうような雰囲気はまったくないのだった。
私がこのインドネシアの旅全体を通して、感じたのは、
「人を理解するのには、ものすごく時間が掛かる」
という当たり前だけど、日本ではしばしば忘れられているかもしれない、大切なこと。
ゆっくり、つきあっていけばいい、そういう在り方だった。

Independentな人を応援する、という雰囲気が、リースさんにはあって、
「あなたが誰だか知らないけれども、安心して、好きな物を作りなさい。」
そんな風に迎えているように見えたのだった。
何でもお見通しの目で、この子にとって、今はどういう状況なんだろう、ということを見て、
できないことはできないし、できることはやってあげる、みたいな感じで、
アート・マネージメント、ってそういう意味なんだ、と思ったし、
その何でもお見通しの目と、懐の深さを、ものすごく感謝したい気持ちになったのだった。


ーーーーーー
私は、今年の二月にシンガポールに行って以来、
私の中にアジアを育てたいと思っていた。
対欧米、ということで、自分を卑屈に思うところがどうしても私にはあって、
日本の昔の神像のように、
もっと、おおらかに、もっとふっくらとした存在になりたい、と思っていた。
それで、奏さんがインドネシアに二ヶ月行くというので、
すこしだけ、時間を共有させてもらって、一緒に色々みたいと思ったのだった。

そして、観光、ということになると、私がどうしても見たいと思うのは、
遺跡や寺院なのだった。
それで、一つ、どうしても行きたいと思ったのは、ボロブドゥールという
8〜9世紀に存在した仏教の王朝の遺跡だった。

今は、ジョグジャカルタは、イスラム教の人が多く、それに次いで、
ヒンドゥー教、仏教という人達が多いようなのだけれども、
インドネシアってどういうところなんだろう、ということを思った時、
そのままの質感を受け取りたいと思いつつ、
どこかで、自分と似た質感を探し求めていて、
最初に、インドネシアと握手できるとしたら、ボロブドゥールなのかもしれないと思っていた。

それでも、他にもたくさん遺跡があるから、
行けるところは全部行ってみようということで、ボロブドゥールの前に、
プランバナンというヒンドゥー教の遺跡で、
やっぱり世界遺産になっているところを訪ねたり、
奏さんが地元の人に情報収集してくれて、
Candi Ijoや Candi Barongというところ(Candiというのは寺院という意味で、
その後ろに付いているのが名前である。)をまわったりした。
一つひとつが、ものすごく違っていて、
Ijo寺院は、どうも地元の人がおやつをもって、くつろぎに来たり、
日没を見にデートをしたりという場所になっているようで、
私達は不謹慎かも知れないけれど、ビールを持ってここで飲めたら最高だね、とこっそり話して、
Barong寺院は、なんとなく沖縄の首里城を思い出す雰囲気があって、素敵だった。
プランバナンは、ものすごく敷地がひろくて、その中にいくつもの寺院があった。
私が一番素敵だと思ったのは、もうほとんど崩れてしまっていた仏教の寺院で、
(プランバナンはヒンドゥー教の遺跡だけれども、ヒンドゥー教の中では、
仏教は、ヒンドゥー教の一部として組み込まれている。)
草の中に石が埋もれている、そこが蝶々の天国みたいになっているところだった。
とはいっても、どの寺院も石を組み合わせてできていて、
プランバナンのロロ・ジョングラン寺院という、とげとげと聳える寺院は圧倒的だった。

蝶々の寺院




























そんな風に巡っている内に、いつも見えている山があることに気がついた。
ムラピ山という火山らしかった。
富士山のような形をしていて、
日本人だったら、これを絶対に神様だと崇めるなあ、というくらい
はっきりとした形をしていた。

気がつけば、その山は私達の滞在先のベランダからも見えていて、
いつもその山を見ながら、そのベランダで朝ご飯を食べるのが日課になった。
朝ご飯は、おいしいパン屋さんでかったパンに、
バターを塗って、バナナや、林檎や、梨をのせたもの
(奏さんが毎日素晴らしい組み合わせを思いついて作ってくれるのだった)と、
リースの庭でとれるjambuという赤い果物。
シャリシャリと非常にかるく、果物というより野菜という感じで、
毎日食べても全然飽きなかった。
私は料理はへたくそなので、もっぱらコーヒーをいれることに徹した。
(粉を入れてお湯を入れるだけ。)

そんな風に巡ってきて、私がジョグジャカルタについて3日目に、ボロブドゥールに行くことになった。
ガイドブックやら、インターネットやらを見ていて、
ボロブドゥールの日の出を見たいな、と思っていたら、
リースが、それはツアーに入らないと見られないようになっているから、
タクシーを1日借りて、丘の上から、街を見下ろす形で、
ボロブドゥールに日が差すのを眺める方がいいんじゃない?といってくれて、
朝3時45分にお家の前にタクシーに迎えに来てもらって、ずんずんどこどこと、丘に連れて行ってもらった。

一時間くらい走っただろうか、
ここからは車は入れないから、歩いて行ってね、ということになって、
まだまだ真っ暗な細い山道を登っていった。
ひんやりしている。
細い道のところどころに、ランプを持って、照らしてくれる人達が立っていた。
大きな大きな葉っぱの背の低い木々。
山頂まで辿り着くと、遥か下の街がひろびろと見渡せて、
でもあつい霧が立ちこめていた。

だんだん明るくなってくるのとともに、霧もゆらゆらと姿を変えていくのだけれども、
一体どれがボロブドゥールなのか、どこに見えるのか、どんなサイズなのか、
皆目見当が付かない。
ぼーっと光の変化、霧の変化に身を任せていると、
隣で奏さんのはっと息を呑む音が聞こえた。
今まで全然見えていなかったのに、街をまたいだ地平線上に、おおきなおおきな山が姿を現した。
ムラピ山だと思った。
うわあ、すごいなあ、、
私達の足元の植物、この丘の稜線、そして遠ざかるに連れ、幾重にも重なる山の稜線、
そしてふもとの街、
それらを霧が手で覆ったり、顕したり、を繰り返し、
一番向こうにムラピ山。
そしてこのどこかに、ボロブドゥールがある。見えているのかいないのか。

そんなことをおもっていたら、
ムラピ山のすぐ隣に、突然、もう一つの山が、姿を現し始めたのだった。
ムラピ山とほぼ同じ高さ、だけど、もっと傾斜の緩い、太った、大きな大きな山。
ぎざぎざと、段々と登るような不思議な稜線をしていて、
私は、これがボロブドゥールでも構わない、と思った。

ガイドブックで見たボロブドゥールの写真は横に太って段々とした姿をしていたから、
それにとてもよく似ていると思ったのだった。
だけど、人間が作るには、確かにあまりにも大きすぎた。
多分、違うだろうと思った。3000メートルに近いと思われる山のような遺跡を、
作るのは無理だろう。
だけど、
町中で、一度も見かけなかった山が、いつも見ていたムラピ山のすぐ横に現れたのだから、
これがボロブドゥールだよ、と私が思うのは仕方がないような気がしたのだった。

この二つの山は、雄山と、雌山、のペアの神様だと思うのは当たり前みたいな感じで、
しかも、その二つの山の間から、太陽が姿を現したときには、
もうだめだ、と思った。

すっかり明るくなった後、
奏さんとふたりで、やっぱり、ボロブドゥールはあそこに見える、あれだよね、という話になったのだけど、
それは、やっぱり、街の中に埋まった山、みたいだった。

でも、それはともかく、ここにある山の形や、木々の形は、
私がそれまでにまわった遺跡の姿にとてもとてもよく似ていて、
土地というものと、人間が作るものと、
この場所で生きるということをほんのほんの少しだけ、感じられたような気がした。

ボロブドゥール(真ん中)


Saturday 22 February 2014

"Between Worlds" by Nasirun

2月10日から14日、茂木さんの飛鳥II乗船おみおくり、
また、シンガポール国立大学の田谷さんをたずねて、シンガポールへいった。


シンガポール・ビエンナーレで見た作品『Between Worlds』by Nasirun.

ここの部屋から見よう、という感じで入ってすぐ、右側を向いたら、
もう一つの部屋がぱっくりとむかえていて、その一番奥に、
透明な、照明を受けて輝く、おおきなガラスの寺院のようなものがあった。
その前にいくつかの作品があって、それも無視できないけれど、
わぁぁ・・あそこに早く行ってみたい、そんな気持ちでどきどきした。

徐々に近づく。
全てが透き通った、ガラスの質感、光ファイバーかなんかで、下から照らされた、
透明の色んな色の質感。
その寺院のようなものは、とにかくなんだか、たくさんの透明のものからなっている。
プラスチック板のような透明のものでできた薄い、
カラフルな紙人形のようなものが、ビーカーやフラスコなどのガラスの瓶に閉じ込められている。
神様たち?妖怪たち?

"Nasirun has placed a cast of imaginary characters."
説明書きの最初にそう書いてあって、それだけ読んだ。

想像上の生き物たち。

心の中を見るみたいだな、と思った。

見とれていたら、
植田君がやっぱり見とれた顔で、「ゲーテ、思い出しちゃったねえ」といった。
「人工物はガラス瓶の中。」

うん、わかる、でも、なんか明らかに、インドネシアのあたりの、神様のような、生き物。
それが、化学の実験に使われるようなガラス瓶におさまっている。
ひょっとして、私の中の神様も、こんな風に、普遍性を獲得することができるの?

いままで、極めて東洋的で、あらわしようのなかった、何かを、
そのままで素晴らしいじゃないか、といわれた気持ちがした。

西洋の人がキュレーションをしたときの「アジア」とは、全然違う、成立の仕方をしていた。

一つひとつはガラス瓶の中。隔離されて、いくつもの世界が同時にある。
交わらない、だけど全部ある。
「生き生きとした」「標本」。
その全部が一つの寺院を作ってる。

心の中に、こういう寺院が造れたら、それだけでいいな、と思った。
私の中で生きている、大事なものを集めていって、いつかこんな素敵な寺院ができたら、いいな。
それをこうして見せられて、私みたいに、虫が光に集まるように、人がすいよせられることがあるなら、
本当にすごいな。

シンガポールって、なんだかすごかった。まさに、この作品みたいだった。
この作品の作者は、インドネシアの方なのだけれども。
シンガポールは、アジアの中の、ニューヨークみたいで、
色んな国のアジア人がいて、何処の誰でも気にしない。
すごく呼吸がしやすかった。
体格が比較的、西洋の人みたいにがっちりしていて、すっごく勢いがあって、
また、ひとつの見方では「人工的」な国なのかも知れないけれども、
レストランの人も、入国審査の人も、ホテルの人も、街で話しかけてきた人も、
不思議とみんなおおらかな南国的な笑顔を向けてくれて、なんだか、自分自身に安心しているように見えた。
私は、自分の中のアジアを育てていこう。
そう思った。





Tuesday 4 February 2014

発表(つづき)


研究室のメンバーも変わっていた。
あの時にいた先輩達は、誰もいない。
さまざまな研究所で、ご自身の研究をされている。
私も、とっくに卒業したのだが、どうしてか、
まだ今茂木さんと一緒に研究させてもらっている。
研究室の中のいちばんの古株になって。
そして、今度は、私が、このシンポジウムで発表をすることになった。
後輩の石川君と一緒に。
茂木さんや、郡司さん、池上さんという、
あの運命の時に、お話しをされた人達の前で、同じ場所で。

1月20日、21日という日程で、私の発表は21日だった。
茂木さんも、郡司さんも、池上さんも、個人的に本当にあれ以来お世話になっていて、
とくに今更緊張する必要などないような間柄ではあるけれども、
壇に立って、マイクを持って声を出した瞬間に、異常な緊張を自覚した。
声のコントロールがまったくきかず、震えてしまうのである。
言葉が出てこなくなって、焦った。
まったく、その瞬間まで、そこまでの緊張だという自覚がなかったために、
驚いてしまった。
20日の夜には、飲み会で、その日に発表された先生達に向かって、
言葉でかみつきさえしていたのに。
これは、ずるい、こんなはずではなかった、と思いながら、しゃべりつづけた。

私は、今の自分を、そのままに、言って良いということが嬉しかった。
実際にやれたことは、小さいし、びっくりするようなことなんか何もない。
あってもなくても良い研究。
でも、この場所では、自分の関心を、例え笑われるようなことでも、
あまり大事じゃないかもしれなくても、
本当に思っていることだったら、言っても良い。
私にとっては、ここはそういう場所だった。
他の学会では絶対にいえないようなこと。
それが本当に科学なんだということを、私は、私の科学の人生の最初に教えてもらった。後から、後から、自分が感謝の気持ちでいっぱいであることが実感された。
声が先に震えた。彼らの前で、正直に最大限、お話しできたことが嬉しかった。
終わってからは、何時間も、全く人の話が聞こえないくらいで、
まるで、夢の中にいるようだった。ようやく夢から出て、いまここに。

京都基礎物理学研究所での発表

私が大学4年生で、大学院の入試も終えて、
茂木研究室に入ることが決まっていた、12年前の冬(2001年12月)。
茂木さんが、京都で養老孟司さんのいらっしゃるシンポジウムがあるから、
みんな来い、と、茂木研究室の学生達と、
私のような入る前の学生にまで声をかけて下さった。
 
茂木さんに出会ったのは、私が大学で物理をやっていて、
物理のあまりの無菌さに違和感を持ち始めていた夏の頃で、
複雑系というもっと、猥雑で面白い学問があるよ、と先輩達が熱を持って語るのを聞いて、
のこのこと、複雑系というのをやっている大学院の説明会に行ってみたら、
たまたま茂木さんがいたのだった。
だから、脳科学をはじめから知っていて、茂木さんに憧れたのではなかったし、
本も読んだことがなかった状態で出会ったのだが、
その姿を見て、ここに入ると、その場で決めてしまった。
そうして、試験を受けて、合格して、大学の物理の卒論に追われている、
まだ白紙のぼーっとした状態で、そのシンポジウムに行ったのだった。
 
京大の湯川記念講堂。
木の床の大きな講堂に、たくさんの木机がならんでいて、たくさんの人が座っていた。
私は本当に無知で、養老さんさえ、実は存じ上げず、
研究室の先輩達以外に、誰一人として、識別できる顔はなかった。
私はなんとなく真ん中の段の端っこの席に座って、話を聞き始めた。
 
ぼそぼそと、前の方の席に座らねばとても聞き取れないよ!
という小さな声で、発表を始めた方がいた。
全然聞こえないから、前のめりになって、一生懸命聞き取ろうとすると、
「1+5は、もしかしたら、いちごかもしれない」という声が聞こえた。
自分が何を聞いたのかわからなくって、気のせいかな、と思ったら、
気のせいではなく、
「フレーム問題」という名前も付いているようで、
しかも、その方が、あきらかに本気というか、
まるで、自分自身が生きていくことと等しいかのように、話されているので、
私はなんだか、めまいがしたのだった。
このめまいが、どういう種類のものかといえば、
いままで、私の知っている科学の世界の中では、
自分自身の問題と、科学の問題とは切り離されたものだった。
自分とは遠いところにある、深遠な、無菌の、真実を探す、という感じで、
それをやることによって、自分自身は崩れなかった。
そういう頭の使い方こそが、知性というものなのだと思っていた。
だけど、この人の話していることは、自分自身の話だった。
自分自身の、ほんとうに切実な話なんだ、という感じがした。
衝撃だった。
後から考えれば、自分自身が崩れてしまう、
そこに、深遠な真実がある、ということを、
私ははじめて知ったのだった。
自分自身から離れない場所に、だけど、ものすごく遠い、
本当の世界が広がっているのだということ。
その方のお名前は、郡司ペギオ幸夫さんというのだった。
 
その人の後にも、ここで話されることは、そういう種類のことだった。
「そういうことって、考えて良いんだ」ということが、私の最大の発見だった。
ものすごく自由に見えて、科学って、こんなに自由なんだ、と思った。
自分の小さな頃に、あるいは思春期の時に、感じていた、悩み、
考えても仕方がないんだと切り捨てることを推奨された悩みが、
蘇ったような気持ちがした。
そういうことこそ、考えるべきなんだ、それは考えて良い問題だったんだ、
それを私はここで教えてもらったのだった。
 
夜の飲み会では、
「おまえら、養老さんの前に行け!話してこい!」と茂木さんにいわれて、
目の前に座らせて頂いた。
養老さんは、私たちに
「君は死体を、触ったことがあるか。解剖しようと思うか。」
と聞かれた。
私は、12年経ったいまだにない。
それ以来、時々思い出しては、
そう聞かれたことの意味を考え、
そうすることになる瞬間を、私はずっと恐れている。
 
それからは、私はどんどん自由になっていた。
やりたいと過去に思ったことがあることを、
一個一個取り戻していくような、
心の底から水が湧いてくるような、
そういう思いを味わった。
いまでも、その最中であり、
あの、シンポジウムがなかったら、
私の人生はまったく違っていただろうと思う。
あの時から、自分は生まれた、と私は感じている。
 
そして、2014年1月。約12年ぶりにそのシンポジウムが開かれることになった。


With Ken Mogi & Tetsuo Ishikawa @ Yukawa Institute in Kyoto Univ.