Tuesday 30 October 2007

Dancing

一番世の中で大事なものは信仰なんじゃないかな、と思う。
信じるということは、永遠愛するということで、長い時間つきあうことを含んでる。

昔、朝日カルチャーセンターで小林秀雄さんをずっと担当なさった編集者の池田雅延さんの講演で、
ある日小林さんを訪ねたら、なかなか出てらっしゃらず、やっと出てきたと思ったら、
”小林さんは今いません!”と本人が出てきて言った。
本人が言うのだからこんなに確かなことはないと思って帰った。
ということや、
また別の時には、小林さんが”僕は今宣長さんと話をしているんだからね。君と話している時間はない。”
といったと言うことを話されていた。
小林さんも、池田さんもなんという信仰か、と思った。

長い時間ある一人の人と向き合うとき、
はじめはこうだとおもっていたけど、こんなところがみえてきて、見え方がこう変わった、
なんてことはなくて、
小林さんはただ精しくなった、と言ったという。

それは、見え方がこんな風に"変わって"、嫌いになったとか、もっと好きになったとか
自分の好き嫌いを左右するなんてことはなくて、
もう絶対的な、永遠の、愛というものが最初からあるからこそに決まってる。

どうして、私の心の中では、こんなにも、消えたりついたり、蝋燭のように、揺れてしまうのだろうか。
どんな風にも耐える火を燃やせないだろうか。

私の心の中で、自由奔放に踊る、制御できないものの正体をつかみたいと思う。

Monday 8 October 2007

小乗から大乗へ

これから先私はどんなことをやっていくんだろうとか、
海のものとも山のものともつかない自分に焦って、
なんとかしなくちゃと必死にたどり着いた先が、
自分に自信をつけるだけだったらどうしよう。

誰かに、
できるだけ多くの人に、
できるなら、
どんな国の言語をしゃべる人にも、
普遍的な、
何か素敵なことができたらいいのに、と思うけれど
それってどんなことだろう。
「わかる」とか「愛する」とかいいながら、
他人の中に、ただ”自分と同じ”をみつけて喜んだり、
なんて”自分”から離れられないことだろう。

一方で、
できるだけ多くの人と仲良くいようとすればするほど、
濃度は薄まって薄まって。
なんて簡単に、”自分”は失われてしまうものだろう。

根拠なく信じるということのなんて険しいことだろう。

この間、京都の相国寺の美術館
「横川景三墨蹟 巫山神女賛」を見た。
内容は、(正確じゃないけど、大体)
ある日男の人の夢枕に、女神が現れて
”私は朝には雲となって夕方には雨となって大地を潤しているのに、誰もわかってくれない”
といってしくしく泣くので、その女神の賛を書いた、
というものだった。
なんだか、大変人生が愛しくなった。