Monday 27 October 2008

フェルメール

フェルメール展を見に行ってきた。

「マルタとマリアの家のキリスト」を見て、
なんだかキリストの表情を見ていたら驚いた。
知った人の余裕なんかまるでなく。
泣いているようかのような、
傷ついているかのような。
青白く、人生のなかでまるで一個しか言葉を言ってはいけないかのような、
そんな顔。

ルカ福音書10章38−42
さてみなが旅行を続けるうち、イエスがある村に入られると、マルタという女が家にお迎えした。
マルタにはマリヤという姉妹があった。マリヤは主の足下に座ってお話を聞いていた。
するといろいろなご馳走の準備にてんてこ舞いをしていたマルタは、すすみ寄って言った、
「主よ、姉妹がわたしだけにご馳走のことをさせているのを、黙ってご覧になっているのですか。
手伝うように言いつけてください。」
主が答えられた、
「マルタ、マルタ、あなたはいろいろなことに気を配り、心をつかっているが、無くてならないものはただ一つである。
マリヤは善い方を選んだ。それを取り上げてはならない。」
(岩波文庫 新約聖書 福音書より抜粋)

Wednesday 22 October 2008

梅の味の日

なんだか気が狂うほど食べたくなったものがあって、
深夜、目的のものの載った本を眺める。
なんだか、見るのをやめられなくて、料理の本数冊を始めから終わりまで、繰り返し眺める。
そして今日、興奮冷めやらぬまま、実行。

ちょっとした加減や、材料の質、タイミング等、色々なことがあるんだろう。
できあがったら、チガウ、と思った。
目指した味の気配をうっすらかぎとったところで、今日はおしまい。

パパは、”珍しくっていいね”、といった。
今日はパパの還暦の日。

Monday 13 October 2008

神と官能

うまく言語化できない不安で
体内がいがいがしていて。


顔学会の待ち時間に、三四郎池でしばらくぼーっとしていたら、
おじさんが一人、大変うやうやしく鯉にえさをやっていて
どうしても、おじさんが、視線に入ってしまうのが、
なんだかとてもうっとうしくかんじて、
でも
目の前におっきなクモがでっかい巣をつくっていて、
すべてを蜘蛛の巣を通してみていたら、
妙に鯉の動きがなまなましくみえてきた。
はっと気づくと池の表面にたくさんの小さな黒い亀が浮かんでいた。
無意識の底から黒い泡がふつふつ浮かんできたように。

猫が建物の脇から出てきたときも、
なんだか、やけに獣のにおいが一斉に香ったような、なまめかしい姿にうつり
なんか少し心がすっとした。

人生は、
まだ見ぬ、
そして恐ろしく現実的な、
そして官能的な、
神様の真実と共に。

Sunday 5 October 2008

穏やかさもまた

秋がすごい勢いで過ぎてく。
秋らしく高い青空の時は仕事。
約一ヶ月前、中秋の日の、かなでさんのおうちでのお月見パーティを、思い出す。
あの、穏やかで、優しい時間と、優しいオリーブオイルの味の料理もまた、愛しく。

忙しいけど
なぜだか、すごいスピードの中で、とまって見えるみたいに、
愛してる!と思った瞬間瞬間が、ほつ、ほつ、と急に思い出されて。

無限遠の光源



解析三昧の毎日でマリーナにあわなきゃ死ぬと思った。
横浜トリエンナーレへ。
まっしぐらにマリーナのところへいくと、
不安な出で立ち
タイトル「魂の手術台」("Soul operation table")

この人は。
たった一人、高い台の上で鏡の中の自分と向き合う。
その姿を人に見せるための冷たい鏡も横に用意して。
様々な人の目線をまた、feedbackしながら。
下では自由に人が行き交う。
マリーナが不在の手術台のライトが赤い鏡に映るのをずっとみていた。

マリーナの作品は固定化しない。
マリーナがそこにいなくて、ただ手術台があるだけでも。

マリーナの作品を見ていて
私は現実から逃れるためのファンタジーは要らない。
現実を直視して生きる姿を見たいのだ、と思った。

ファンタジーはどこかナルシスティックで、自己弁護的だ。
本当に心を癒してくれるものは、なにか別のもの、ではなくて、
ど真ん中で、逃げない、自己欺瞞をなくそうとする、
自分の一回限りのいいわけのきかない生の中で、魂の鍛錬をする厳しい人。

このような形で、このような条件に生まれついて、
だからこそ、魂の鍛錬は義務。
神にでも近づくような、魂の鍛錬。

愛している。

6時頃家に向かう道では
すっかりと日が落ちて、
空は曇りのためか、均一で、
どこか無限に遠い光源が
確かにあることを知らせる
セロファンのような透き通る濃紺の空だった。




写真 Marina Abramovic, "Soul operation table, 2008"