Friday 29 December 2023

プロフィール

 恩蔵絢子(おんぞうあやこ)

1979年、神奈川県生まれ。脳科学者。専門は自意識と感情。

2007年、東京工業大学大学院総合理工学研究科知能システム科学専攻後期博士課程修了(学術博士)

2023年現在、東京大学大学院総合文化研究科特任研究員。金城学院大学、早稲田大学、日本女子大学非常勤講師。


 著書に『脳科学者の母が、認知症になる』(河出書房新社)、共著に『なぜ、認知症の人は家に帰りたがるのか』(永島徹との共著、中央法規)、『化粧する脳』(茂木健一郎との共著、集英社)、訳書に『ドーパミン中毒』(新潮社)、『生きがい』(新潮社)、『顔の科学』(PHP研究所)がある。

 同居する母親が、2015年にアルツハイマー型認知症と診断され、以来娘として生活の中で表れる認知症の症状に向き合ってきた。一方で母親を脳科学者として客観的に分析することで、医者/患者、科学者/被験者という立場で研究するのとは違った認知症の理解を持つにいたり、情報を発信している。2023年1月には母親との家での時間に密着したドキュメンタリー、NHKスペシャル『認知症の母と脳科学者の私』が放映された。現在は、重度の認知症を持つ人の中にある豊かな感情と高齢者の創造性に強く関心を持つ。 

 

 連絡先: ayakoonzo@gmail.com

 Xアカウント:@ayakoonzo

 

 写真: Roma Kumakuraさんにとっていただいた写真です。(c)Roma Kumakura, Dec 2023.




















Friday 28 July 2023

"THE HISTORY OF EMOTIONS, A Very Short Introduction" by Thomas Dixonの感想

 同じ言葉でも時代により文化により意味が違う。たとえば現代人は「幸せ」になることに必死だけれども、happinessのhapはもともと偶然という意味で「幸せ」は強い感情を意味する言葉ではなかった、また「愛」にはそれを感じたときに特徴的な表情や身体表現がなく、愛は瞬間的というより持続的なものだから実験室では測り難く、愛はそもそも感情なのかというところから議論されるのが面白かった。でも一番面白かったのは、感情表現が自分たちと違う文化の人たちを見て、大声で笑うなど洗練されてなくて子供っぽいだとか、逆にこの民族は表情がないだとかいって、まるで自分らと同等の知性がないかのように扱った歴史があるけれども、弱い立場に置かれた人が、身を守るために無理に笑顔を作ったり、逆に、感情を押し込めて密かな抵抗することはよくあることだと分析されているところだ。日本人も子供っぽいと言われることがあったが、本当に知性がないわけではもちろんなかった。ただ違っただけだ。そして、感情を表さなくなる(inscrutability)、優しさを拒む(refusing to care)、頑なになる(obdurancy)、無関心になる(disinterest)などが、自分の基準を押し付けてくる人に対して身を守るための態度として挙げられていたのだけれども、現代の日本でも高齢者や認知症のある人が「介護拒否」をして困るなどという言い方をしている。まさにそれは私達が、「自分たちこそが普通」だと押し付けているからではないかとはっとした。




Wednesday 26 July 2023

死者と会える約束の場所があるらしく、そこで母と。

 朝、母の実家の方の大型ショッピングセンターまでランニングしよう、と思って家を出ていく。

うちから6キロくらい離れた母の生まれた町にさしかかると、しめ縄がはられていてこの日これから母の実家の氏神様のお祭りなのだと知った。

しめ縄沿いに走っていくと、そこからのどの脇道にもしめ縄がはられていて、町中に張り巡らされているようで、どっちに進めばいいのかわからなくなったが、とりあえず一番の大通りを進んでいくと、麦わら帽に浴衣すがたのおじさまたちが次々歩いて入っていく公民館のような場所があって、そこをのぞくとお神輿が見えた。

そこから母の家まではまだ2キロくらいあるはずで、母の家の地区のお神輿とは考えられなかった。祖母が昔この祭りの日はお料理を作って、家の前でお神輿をかつぐひとたちに振る舞うから忙しいんだと言っていたのを考え合わせてみても、いくつもの地区でお神輿を出しているらしい。

秋にある祭りでは花火もあがり、電車の吊革広告にも出るから人がたくさん集まり、私自身も何度かいったことがある。しかし、母の実家の氏神様のお祭りというのは、なんとなくその地区だけの人のもののように思い込んでいたから、今まで一度も行ったことがなかった。しかし、祖母も大事にしていたお祭りなわけで、ということは母の子供の頃の大事な一つの風景なんだし、祖母も母も亡くなった今、一度は見てみたいという気持ちになって、母の実家までそのまま走っていった。

現在母の弟が母の実家には暮らしているのであり、連絡もしないでたずねるのは迷惑かなと遠目に母の家を眺めてみると、その前の道路に、麦わら帽をかぶってこちらをみている人がいる。私と同じように、あれ、と立ち止まっている。その立ち姿はなんだか4年前に亡くなった祖父に似ている。祖父は私がいまからいくよと自分の家から電話するとかならず、つくくらいの時間に心配して、外に出て待っていてくれたのだった。似すぎている、あれは絶対、祖父の息子である母の弟(わたしはおじちゃまとよんでいる)だ。はからずも会えてしまった。父が最近、「おじちゃまはさびしいとおもうよ、両親もたったひとりの姉も死んでしまったんだから」とよく自分の寂しさを投影して涙をためて語るので、なんとなくおじちゃまのことは心配で、私も顔を見たい気持ちがあったのだった。

「まさか、おじちゃまが/おまえがここにいるなんて」と笑いあった。更に家から走ってきたんだというとおじちゃまは信じられないという顔をした。

お祭りのことをきくと、おじちゃまは俺が今年はこの地区の会長なんだ、と麦わら帽を指して言った。いまから近くのテントでみんなと合流するらしく家をでたところだったらしい。わたしが一度みてみたいと言うと、昨日から祭りはやっていて、今日のこの地区の神輿の出発は11時くらいで、昼間は各地区から4つのお神輿が出ていて、それぞれ町中をかついでまわっているけれども、夜がすごい、お神輿がある場所で夕方合流して、そこから1、2キロ上方にある神社まで3時間もかけて練り歩くんだ、と教えてくれた。

うちのお神輿は中でもおっきいんだよ、二トンもある。俺はもう年だからかつがないけれど、すごいんだよ、夜は特にすごいよ。

おじちゃまがこれだけ熱を持ってなにか語るのを聞いたのは初めてな気がした。こなければなるまい、せっかくだから浴衣で夕方にこよう、祖母に子供の頃着方を教えてもらったんだし、やっぱり一度は母が見たお神輿見に来よう。

17時頃お神輿の集合場所に到着する。出店もないから、きっと遠くから来る人はいないんだろう。その神社までの大通りに、近所の人々がゆっくり集まってくるのだった。車は完全通行止めで、神奈川県警が出て、歩行者天国にはなっているけれども、最初は、道端どこでも座りたい放題という感じだった。しかし、近所の人々だけで、かなりな数になるものだ。何万回と通ってきた、いつものどちらかというと人が離れていっている町が、日が落ちていくとともに、生命を帯びていく。いつもしまっていた木造の昔ながらの家が開け放たれ、そこに次々法被姿の人が出入りする。お正月にいつも神社でみかける神主さんもいる。

おじちゃまは4つといっていたけれども、今回は3つのお神輿だった。二トンのお神輿が大人たちによってすくっとかつぎあげられたと思うと、一つ一つの屋根に人が飛び乗って、今年は4年ぶりの開催だからがんばると拡声器は使わずに生の声を張り上げた。そしてさっと降りると、太鼓が鳴り響き、神輿はおしくらまんじゅうみたいな感じで大人たちが体をぶつけ合って沿道の家に突進していくではないか、わぁぶつかる!と思うところで急停止し、みんなグリコマークみたいに腕を精一杯に伸ばして「おりゃあ、おりゃあ、おりゃあ、おりゃあ」と掛け声を上げて高々とかつぎあげる。みんな顔が真っ赤だ。と思うと、肩までおろして今度は、逆の沿道の家に突進していく。神輿は道を斜めに右左、じぐざぐ突進していっては急停止、そして上へ上へと。神が家々を祝福して回っていく、みんなそのために自分の全力を注ぐ。自分よりも大きなものに挑んで、小さな個人が力を尽くす、秋田の竿灯祭、おわら風の盆、いままででかけていって感動してきた祭りの生命のようなものが、母の故郷にもあった。

お祭りの帰り、慣れない浴衣と下駄だからか、ものすごく疲れていた。8キロ朝に走って、祖父母の墓に行って母の亡くなった報告をして、そして帰って仕事をしてから浴衣に着がえて、神輿と一緒に歩いていって、やっぱり無理があったかな。夜の十時にストンと寝てしまった。

しかし、それから私はその夜、バスに乗って母と待ち合わせの場所に行ったのだった。ホテルのような真っ白い建物の玄関にバスがついた。私はバスを降りるや否や、母はどこかと探すと母が向こうで同じように私を探していた。母はあーちゃん!こっち!と本当に嬉しそうに顔をかがやかせた。私は駆け寄って抱きついた。やっぱり会えた!ともっと力を込めて抱きつこうとして、目が覚めた。朝の四時だった。母は若いのか、認知症になったあとか、子供の頃か、ぜんぜんわからない、タイムレスな母の顔で、本当に嬉しそうだった。

小さな頃、学校に行くときに家の鍵を忘れて出ていって、母が兄に必要なものの買い物で東京へ行って、私が塾で遅くなるから大丈夫なはずだと、ご飯も食べて夜遅くなって帰ってきたことがあって、私が駅の踏切で学校が終わってから何時間も母たちの帰りを待っていて、母が私を暗がりの中で見つけて、なんでこんなところに一人でいるんだと驚いて、その瞬間に母が泣いてしまったことがある。あのときも私は、やっぱりここで待っていれば必ず会えると思っていた!とただ得意だったなあ。

はじめてみた、母の実家の近くのお神輿


母とは2023年1月1日この神社に初詣に行った。この2日後母は肺炎を起こしてしまう。


Monday 19 June 2023

母が行方不明になったときのこと。

 5月末に母が亡くなった今、母の夢ばかりを見る。思い出すことは全部書き留めておきたいという気持ちで、このことも書いておく。

 市役所のお悔やみコーナーでさまざまな手続きをしてもらった帰り道、ちょうどお昼時だったので、市役所の近場のサイゼリアに父と二人でよった。このサイゼリアは、母がまだ元気で長い距離の散歩ができたころ、父と母とが散歩のついでによくよっていたところだった。そしてこのサイゼリアには私たちにとって強烈な思い出があった。

 2018年秋に母はデイサービスに通い始めた。2015年の秋にアルツハイマー型認知症と診断されたので、ちょうど3年経った頃で、私たちは、介護に行き詰まりを感じていた。母の母らしさは変わらないということをしっかり掴んで、できないこと、できることを見極めながら暮らすことはできるようになっていたのだが、じわじわと母のできないことが増えていき、それを補うために私たちが費やさなければならない時間も増えていった。単純に量の問題で、自分の時間の確保がむずかしくなって、疲れを感じるようになっていた。それでどうしてもいらいらして、母にきつく当たってしまうので、家族だけではなくて、他の人の力も借りる必要があると判断して、母に介護認定を受けてもらい、デイサービスに通うようになったのだった。このデイサービスがこのサイゼリアの近くだった。このエリアには母が結婚前までずっとくらしていた実家があり、母にとって馴染みがある場所なので私と父はこのデイサービスがいいだろうと決めたのである。

 デイサービスに通うようになって一週間が経ったかどうかの頃だったと記憶している。母はこの場所がなんなのか、一体なぜ知らない人ばかりいる場所に自分がいなければならないのか、まだ理解ができなかったのだろう。みなさんの目が離れた隙に施設を抜け出してしまった。

 その日私は名古屋で授業をしていて、施設から電話があったときにとることができなかった。午前中だった。授業が終わって携帯を確認すると、父からラインが入っていた。「ママがいなくなった。施設を抜け出してしまったらしい。まだ見つからない。どうしよう」

 どうしようと言われても、私は名古屋だし、探しに出ることがどうやったってできない。しかもすでに一時間は経過していた。兄夫婦に警察に連絡を取ってもらって、父は母が帰ってきたときのために家にいるのが良いということになったそうだった。私はすぐに新幹線にのることしかできなかった。施設の人が車を出して探し回ってくださって、夕方になってある場所で見つかった。6時間位母は一人で歩いていたことになる。

 「ママ、どこにいたの?」「今日、大変だった?」

 帰って母の顔をみるやいなやたずねたが、母は「なにもないよ」と言うだけだった。真っ青な顔をしていることだけが、なにかがあったことを知らせていた。疲れたことだろう。

 「なんで出ていったの?」「デイサービスでなにかがあった?」「それともただ帰りたかっただけ?」母は理由を言葉で説明することはできなかった。「寒くなかった?」、「どこに寄ったの?」聞きたいことはたくさんあったが、母が正確に語ってくれることはなく、質問攻めにすればさらに疲れさせるだけだった。玄関では、施設の人が頭を下げに来たり、父はあちこちへお礼の電話したり、家の中はなんとなくいつもと違う気配であり、自分のせいだということは母はしっかり感じていたと思う。いつもより断然口数は少ないのだった。結局、「もう大丈夫だからね」「眠ろうね」と布団に入ってもらい、ただ真っ青な顔を見つめるしかなかった。

 見つかった場所は、母の実家と私たちが今暮らしている家のちょうど中間地点、車通りの多い大きな道だった。施設の人が見つけたときは、その中間地点を実家の方(すなわち施設のある方角)へ歩き出したところだったらしい。

 施設を抜け出し私たちの家へ帰ろうとして、紆余曲折して、(だって施設から家までは私の足では多分90分ほどのはずで、中間地点まで真っすぐ歩いて45分、母の足でもいくらなんでも6時間もかからない)、中間地点までたどりついたはいいけれど、そのまま進むには自信がなくなって、また元の方へ戻ろうとしたのだろうか。とにかくずっと、あっちにいこうか、こっちにいこうか、実家の方なのか、結婚してからの家の方なのか、どっちへいけばいいのか、迷っていたのだろう。結婚してからも、実家でピアノ教室を開いていたので、認知症になるまで、我が家と実家を母は頻繁に車で往復していたので、その道は非常に慣れた道である。その道沿いで見つかってくれたことは、本当にありがたいことだった。どっちが正解か分からなかったとしても「帰ろう」としたことだけは確かだったような気がするからだ。

 母の沈黙の6時間。一体どんな6時間だったのかと考えると、冷や汗が出てきてしまう。必死だったことだろう。いつも車だったのだし、あっちかな、こっちかなとたった一人で歩くことなんて初めてだっただろう。心細かっただろう。夜になっていたら秋だから寒くて大変だっただろう。問いただしたい。だけど問いただしたって聞けない。「本当にいてくれてよかった」それだけは伝える。

 そんなことがあった数日後のことだ。父は、母とまた一緒に散歩をして、デイサービス近くのサイゼリアに寄った。そこで店員さんにこう言われたらしい。「この間奥様一人でいらしていました。ずっと窓の外を見て座っていらっしゃいました。」

 いつも行っていたサイゼリアを見つけて、母はここだと入って、ずっと父を待っていたのだろう。ここにいれば父が来てくれるときっと信じていたはずである。何も注文せずに、何時間もいたらしい。デイサービスには金目のものを持っていくことは禁じられているし、母はお金を持っていなかった。注文する、ということをそもそも思いつかなかったかもしれない。よく、咎めずにいさせてくださった。このサイゼリアがなかったら、どうなっていたことだろう。何も注文しないで、席を占めていることで怒られていたら、早くしてくださいと急かされていたら、母はどうなっていただことだろう。人の優しさにこのときほど感謝したことはないかもしれない。そして母には聞けなかった消息を、店員さんが知らせてくださったことで、私たちはどれだけ救われただろう。

 母は何時間も父を待って、ついにあまりにもこないから仕方ない、自分で帰ろうと思って歩きだして、中間地点まで行ったのだ。なんだか母の、父に対する絶対的な信頼、本当に忠犬ハチ公のように誠実な、ひたむきさに、そうだったこの人はこういう人だったと、心打たれたのだった。こんな大冒険をして、やっと帰り着いて、真っ青な顔をして何も言わずにだまっていた母の姿をここに記しておく。

 

Thursday 6 April 2023

母の入院

 負けた人たち 恩蔵絢子 2023年4月

 

ことのはじまり

 

 1月4日、母が入院した。誤嚥性肺炎を起こしていたらしく、1月3日に意識混濁をして、目撃していた父によれば、母は居間の絨毯のゴミかなにかを取ろうとしてかがんだ瞬間にそのまま崩れ落ちたのだった。「あや!ママが大変!」と父に一階から二階で仕事をしていた私が呼ばれてかけつけると、真っ青な顔をした母が父に抱きとめられていた。頭は打っていないという。顔色が悪いね、前にトイレで同じようなことがあったよね、絨毯の上で低い位置からの転倒で頭も打っていないなら心配ないかな、前と同じで貧血かもしれないね、とまる一日様子を見てしまった

 4日の夜、急に様子がおかしくなって、母の指で酸素飽和度を測ってみたら80だった。95以下になるなんて大変なことなのに80。救急搬送されてみてわかったのは、誤嚥性肺炎を起こしていたことと、絨毯に崩れ落ちたときに側の大腿骨頸部骨折していたことだった

酸素飽和度は、酸素マスクをして、抗生剤の点滴をして、その日の深夜には安心の値に回復した。肺炎なので二、三週間の入院が必要だが元気になるとのことだった。

骨折の手術は一日も早いほうが良いらしく、肺炎による発熱がおちついたらすぐにするという。それで1月7日に母は人生初の手術をした。

このとき新型コロナウィルス第八波のピークで、病院は完全に面会を禁止していた。認知症があっても、手術のときも、会いに行くことはできないと言われた。

 母の骨折程度は軽く、折れてはいるけれども全く左右上下にずれたりしていないから、ビスみたいなものを差して留める簡単な手術ですむはずであり、通常の場合、すなわち認知症も肺炎もない元気な人であれば、次の日から立ち上がるリハビリできるはずと説明を受けた。

 「手術中特に何もなく、終わりましたよ」と予定通り7日午後、医師から電話が来た。「無理はできないけれども、少しずつリハビリをしていきましょう。まずは寝ている姿勢から体を起こして、車椅子に座っていることからはじめましょう。」

 リハビリは着実に進んでいくはず、と信じた二週間後、母「回復の見込みは残念ながらありません」と電話で言われることになった。

 

電話を待つだけの日々

 

病院面会禁止だが荷物の受け渡しは許されていた。入院病棟の看護ステーションに行き「こういうものを持ってきたから渡してほしい」とお願いして、しばらく待合室で待っていると担当の看護師が出てきて母に渡してくれる。母には会えないが、看護師から母の毎日様子が聞ける。

 その待合所では携帯電話が使えて、入院している人たちは、そこで家族などに電話をかけているようだった「今日は〇〇を食べたよ」とか、会社の人への相談事などをしている人たちを見かけた。電話やパソコンの持ち込みは許されていて、面会禁止でも患者がさびしくないように配慮されていた。

 しかし、母は電話もパソコンも操作できない。母は認知症があって言語でのコミュニケーションが難しくなっており、そもそも言葉で自分必要なものを訴えることはできない。「どこが調子悪い、手術はどうだった、どんな部屋だ、どんな人たちがいる、食事はこんなだ、あれを持ってきてほしい」など言えないこれまでの生活で「あれが必要なんじゃないかな、ママ、これ食べる?これ着る?あそこ行く?」と問いかけて、母のやりたいことを想像してきた父と私にとって面会禁止は母とつながる手段が途切れることだった。

顔を見られず、電話もできなければ、母に必要なものが全くわからなかった。病院は服を持っていく必要がなく、看護しやすい前開きの服を借り、タオルすら、今はコロナ対策で私物のタオルは使わないということだった。「特に今は必要なものはありません」と病院からはいつも言われてしまった

 それでは母の様子を聞くことができなくなってしまう。私達は音楽が好きな母のためにCDプレイヤーを買い、これまで1年間母に音楽療法をしてきてくれた藤本さんに母が好きな曲を選んでCDを作って送ってもらい、看護師にどうか再生ボタンを押してくださいと頼んだり、家族の写真を飾ってもらうように持っていったり、ぬいぐるみを持っていったり、病院の有料テレビをつけてもらうためのテレビカードを買ったり、とにかく理由をつけては病院に通って様子を聞いた。

 大体3日に一回通っていたら、この病院での全部で1ヶ月少しの入院の中で二回、看護師から「今お昼が終わってちょうど車椅子に乗っていらっしゃるところなので、この病棟のドアのガラス越しですが、ここまで来てもらいましょうか」とありがたいご提案をいただいて、面会禁止の最中なのに、母とガラス越しに会うことができた。

 手術をして一体どんな姿になっていることかと思ったら車椅子連れられてきた母は両手にグローブをつけられていて、戦うボクサーのような姿だった。肺炎の治療に必要な点滴を抜こうとしてしまうからの拘束らしい。先生や看護師の言葉で状態を伝えてもらってはいたけれどれだけでは知り得なかった「がんばってる」ことが一目瞭然だった。顔を一瞬見られるだけでなんという膨大な理解が得られることだろう。「元気なんだね」「私達のこと覚えてくれているだね」「本当にママ、一人でよくがんばっているね」

 

「病院でずっと眠って離れていると認知症が進んでしまう」という恐怖

 

 それ以来病院には誰に会うときよりも念入りに化粧をして行った。

 母はまだ体力がないのか最初のときすぐ目を閉じようとしたので、少しでおしゃれをしたほうが母の目を引けるのではないか、と思ったのと、母に可愛いこの子(当社比)のためにがんばらなくちゃ、と思ってほしかったからだ。そして何より、私の中に強い緊張があったからだ

 ひょっとしてこちらのことがわからなくなってしまうのではないかとどこかで不安だった。よく入院して認知症が進んじゃう」とくことがあったから。

 母はガラス越しに会えた二回とも私達を見ると家族にしか向けないいつもの顔で笑ったちゃんと認識しているし、会えて嬉しいと思ってくれていることが伝わった。一、二週間離れて入院しても、一人でベッドの上で過ごしていても、私達を忘れなかった

しかし、再会を喜んで涙を流しているのは私達だけだった。母は会って数分すると車椅子に座っているのがつらいのか、ガラス越しで距離があり触るなどできないために私達のリアリティが薄いのか、二回目など母隣り看護師に「もういいね」と言って部屋に帰ろうとした。

「もういいね」は認知症が「重度」と言われたころからの母の口癖で、どんな素敵なところへ旅に行っても、どんな美味しいものを食べても「もういいね」と言うので、私が一時とても疲弊してしまった言葉である。久しぶりに会えたのに、入院中こんなに離れた後でも「もういいね」なの?と思うと脱力して笑ってしまったが、子供が入院してずっと面会禁止で母親に会えなやっと母親が来てくれたら泣くだろう。必死で求めるだろう。大人だって、入院してしばらく会えなかったパートナーに会えたら嬉しいだろう。しかし、母はボクサースタイルで、ちゃんと私達のことを認識したけれど、それでも最近知り合ったにすぎない看護師に笑顔を向けて「もういいね」と、一切私達にすがらなかった。

「ここから出してくれ」「なあなたたちは私のそばにいてくれないのか」「どうして私は一人で知らない人の中にいるのか」というような、不満怒りも見せなかった。あまりにもしっかりしていて、母が雲の向こうに行ってしまった気もした。

 

「回復の見込みはありません」

 

 必死で病院に通い、面会禁止なのにも関わらずご厚意でガラス越しに会わせていただいて自分なりに母の状態を把握してきたわけだが、入院から二週間後に、「これからのことですが、運動能力、すなわち立ち上がったり、歩いたりということに関して、これからできるようになる可能性は低いと思います」「食事の方も、肺炎を起こして誤嚥の可能性があるのでこれまでペースト食で様子を見てきましたが、嚥下訓練士の見立てでは、ペースト食から固形食へと食事形態を上げていくことは難しいということでした」と電話で言われることになったのは、驚きだった。

 家族としてはとても信じられなかった入院の三日前、1月1日一緒に歩いて初詣に行っていて、神社の長い階段を上る母を鮮明に覚えている。その前日の12月31日私は母が認知症になってからも母のレシピで年越しそばを毎年作ってきたのだが、この日はそのそばを食べている最中に「もっとください」と母が言ってきたのだった。食欲のもともと少ない母がもっと食べたいと自分から言うなんて母の代わりに私が台所を預かるようになってから、母が私の作る料理を認めてくれたのはそれが初めてだった。

それなのにその二週間後に、歩けるようにも、食べれるようにもならない言われることになったのだしかも手術の次の日からリハビリ開始できる軽い骨折だと言われていたのになんでこんなことに?

 「リハビリが開始できないのは、認知症で指示が伝わりにくいからですか? 指示さえ伝わればこれから回復する可能性はないですか? 本当に母は体の力を落としてしまったのでしょうか? もともとは父と毎日90分くらい散歩してきた人で、最近は確かに20分くらいに減りましたが、まだ72歳で、認知症になったあとも体の力があことが支えだったのですが、二週間の間、なぜリハビリができなかったのでしょうか?

 「ちょっとそれは判断できないです。確かに指示が伝わりにくくて、リハビリをやりましょうと言っても怖がってやっていただけないということは一つの理由です。本人が嫌がる中で、リハビリをするには病院としては難しいところがあるものですから。」

 「認知症で自分が骨折して手術を受けたことが記憶できず、どうして足が痛いのか何が起こっているのかわからないで、馴染みのない方に「歩いてみよう」と言われても気持ちが向かないのかもしれません。私としては、コロナがなくて家族が面会できて、「やってみよう」と毎日働きかけられたら違ったのではないかと思ってしまいます。いままでさんざんつきあってきた家族は母への伝え方が少しは得意なところがあると思うのです。「なおさなくては」というやる気も、認知症がある人は馴染みのない人の中では作りにくいところがあると思います。コロナさえなければというのは言っても仕方がないことですし、病院の方々のご尽力には感謝してもしきれませんが、「回復の可能性がない」というのは、家族にとって面会できず途中経過が見られない中で突然としか感じられず、あきらめられません。歩けず、立てず、寝たきりになるということでしたら、一緒に暮らしていく方法がこれからまったく変わってしまいますそもそも一緒に暮らすことが不可能になってしまうかもしれません。この先のことが全く想像できないので、認知症があるゆえの難しさを改めてご考慮いただいて、一度だけ実際にリハビリに立ちあわせていただくことはできないでしょうか。」

 

ガラス越しでもなく、家族がリアルで会えたとき

 

 リハビリの立ちが許された。この一回、母と直接会えることになった。特例である。迷惑をかけてはならないので自宅でできるコロナウィルス抗原検査キットを買って、父と私は家唾液陰性確認してから病院に向かった。

 青いビニール製のエプロンをかけて、病棟に入れていただく。その日だけ個室を開けていただいたようだ。その中で会い母の様子を見るという。母はベッドに乗って寝た状態で運ばれてきた。

「ママ!」

 声をかけても目を開けなかった。しかし何度呼びかけると「ん?」「どうしたの?」「なあに?」こどもに話しかけるやさしい声でこたえ、手をぎゅうっと握ってくれた。しかし目はあけてくれなかった。必死で髪の毛や、顔をなでて、「私達いるよ」と皮膚の感触で、声で伝えた。目を一瞬開けたと思うと上の天井を見て、私達の顔に気づかずそのまま閉じてしまった。私の手があたたかく、父の手はつめたいので、私の手の方をずっと握って離さない。

 「ではそろそろはじめましょうか」リハビリ専門士が言い、一度母の体を寝た姿勢から、座る姿勢に起こす。母は座位を維持することはできるようだった次にリハビリ士が支えながらベッドの端に腰掛けさせ、足を垂らすように座らせる。その時ようやく目が開いた。真正面に私と父がいる。母は「あ!」という顔になり、そのままこっちに来ようとして、立ち上がろうとした。すかさずリハビリ士が母の脇を支える。しっかり立って、母は前方の私達をしっかり見つめ笑っている。「あんたたちそこにいたの」という表情でそのまま当たり前にこっちに歩いてこようとするリハビリ士が慌てて母を座らせようとする。

 「ママ!立てたじゃん!!すごい!!!」

 父と私は思い切り拍手をする。同席していた医師や看護師もどよどよしている。

 「立てましたね。やはりご家族がいると全然違いますね。立てたのはこれが初めてです。」

 母は私達をまだ見つめていて、またすぐによっこらしょと立とうとしたので、もう一度リハビリ士が支える。

 「ママ!すごい!!!!」

 のままこの場で歩いたり、立ったりを何度もしてみればいいと思ったが、その特別な個室を使える時間の都合家族がコロナの条件下で合わせてもらえる時間制限があるのかその瞬間申し訳ないですが、ここまでとさせていただきます」と言われてしまった。10分くらいだったろうか

 母はベッドにもとのように寝かされるとまたぎゅっと私の手を掴んで離そうとしなかった

 母は自分の大部屋に戻っていった。食事の時間になったらその様子も見させていただけるという。今度他の人と同室にいるので、廊下の窓越しに見ることになった母のベッドは廊下のすぐ横だったらしい。は横を向けば私達がいるのに気が付かない。目をつぶったままの母に、看護師が一口一口、ペースト食を運んでいる。もっていくと嫌だと顔をそむけることが多い。しつこく促すとときどき吸い込む。一口ごとに待ち時間があり、すべて食べるには30分から1時間かかるようだった。ここは急性期の病院である。目も開けない人の、しかもおいしそうに食べない人に対して、忍耐強く接するのは本当に大変だろう、と涙が出てきた。

 「ご家族様と会うとやっぱりとても違いますね。あんなにご表情豊かなことははじめてでした。リハビリをやっていただくのもとても難しくて、やはり今日は立てましたが、明日からまた同じようにできるかというとうまくいかないと思います回復は難しいというしかありません。

 この言葉はそのとおりだと思った。体力はあっても、気持ちが動かなければ、回復の見込みはなくなってしまう。

 

リハビリ病院への転院

 

 肺炎は落ち着いたから、この病院は急性期の病院だから、そろそろ転所先を考えてほしいということで、このリハビリ立ちいはなされたのだった。母の様子を見せていただいたあと、医師や看護師、リハビリ士、ソーシャルワーカーみなさんが同席しての話し合いとなる。

 歩けるようにならなくても、車椅子でも、せめて自分で一瞬立つことができたら、着替えなども今までのように立ってできる。トイレにも自分で移れたら、なんとか家でやれるかもしれない。ペースト食も色んな種類が売られているらしい。スロープや手すりを家の中につけることはすぐにできるらしい。とにかく立てる状態にまでリハビリを進められないか、家族が会ったときに立てたのだから、まだその可能性はあるはず、と希望を伝える中で、私は失言をしてしまう。

 「リハビリに強い病院に転院することはできないでしょうか。運動機能、嚥下機能のリハビリに加えて、認知症の勉強をよくしているところはないでしょうか」

 即座に医師が応える。「うちも勉強をしています

 本当にそのとおり。この病院の方々はみな親切で熱心である。なにせ私達をこの状況で母に会わせてくれたくらいだ。近所のや母の友人、私の地元に暮らす人々は、このあたりだったらこの病院が一番良いよ、いいところに入れてよかったね、と口を揃えて言ってくれる。実際みなさんと関わって、本当に人を尊重して、自分の仕事に誇りを持って接してくださる方々だと感じた。認知症についての勉強もしていないわけがない。

 医療のプロでも、看護のプロでも、リハビリのプロでも、認知症の知識が高くても、母の気持ちは動かない。認知症の勉強をするということは、どうしたら人の心は動くのだろうという仕組みを知ることなのだろうか。それはきっと世界のどこにも書かれていないことだ。

 

グループホームに申し込む

 

入院から一ヶ月と少し。結局母は私の家から歩いて通えるリハビリ病院に転院となった。そちらも評判の高い病院である。同じリハビリ病院でも、脳梗塞のあとなど、治りたいという気持ちが強く、自主的にどんどんリハビリに向かっていく人は回復期病棟に転院できるのだが、母には自主性が見られないので、地域包括ケア病棟での受け入れとなった。どんどんリハビリを進める回復期病棟も、おだやかにリハビリをする地域包括ケア病棟も、どちらも自宅復帰を目的としていて、ずっと入院していることができず、地域包括ケア病棟は法律で二ヶ月以内の退院が定められている。

とにかく「立つ」練習をして、自宅復帰に望みをかける一方で、もしそれが叶わなかった場合について考えておかねばならなかった。

「立って」も「歩いて」もうまく母に伝わらないのは、そもそも母に「なおりたい」という気持ちがあまりないからだと思われた。「立つ」より「歩く」より「気持ちを作る」というのが一番母に必要なリハビリだと考えると、家に帰るのが一番いい。しかし私と父にはその状況の想像ができなかった。母が自分では寝ている以外に自分で姿勢を作って座ることもできないのなら、今までの暮らし方ではやっていけない。母と一緒に暮らしたくても、着替えのために起こすのも、私達の力で体を持ち上げなければならないとしたら、私が仕事でいないとき、腰が悪い父が一人でやるのは不可能だろう。トイレは?食事は?寝返りは?一緒に暮らす方法がわからなくて、どうしても受け入れられなかった。

次にいいアイディアとしては、家に戻れないなら、毎日会い行ことだと思うがそれはできな。病院はまだどこも面会を禁止していた。この病院も面会禁止だった。

その次に良いのはなんだろう、と考えていて、病院よりも介護施設のほう面会制限ゆるいことを知った。やはり医療現場では生命を救うことが最優先になるけれども、介護現場では、もちろん命は大事だが、それと同じくらい気持ちだったり、その人らしい暮らしが重要になることがある。

その病院のすぐ近くに、母の父、すなわち私の祖父が入所していたグループホームがある。祖父がなくなった朝、施設の方が祖父をお風呂に入れてくれて、私は祖父にドライヤーをかけた。その後一緒に祖父の服を選んで、化粧水を塗って、顔を整えた。そして葬儀の日には、その方々が祖父に会いに来てくれた。あまりにも嬉しかったので、その方々とラインでつながって、今日までときどき連絡を取り合っていた。母の認知症もご存知で、ずっと気にかけてくれていたのである。

「あそこだったら」と久しぶりに電話をかけてみた。うちから歩いて毎日通える。仕事のいきかえりでも。そして、知っている方々、信頼している方々がいる。そもそもグループホームは家族のように少ない人数で認知症のある人が過ごすところ。肺炎などの「治療」が必要なくなった今、母にはベッドで寝ることではなく、落ち着いて過ごせる「生活環境」が必要と思った

グループホームでも面会はまだ窓越しにしかできないらしかった。しかし窓越しなら時々でなく毎日顔が見られるという。さらに5月になってコロナの分類が5類になればもっと緩和していくということだった。今すぐの空きはないが、母のリハビリ病院の退院期限4月9日までには空きがでそうだという。その場で申し込みをした。

 

二ヶ月入院したリハビリ病院

 

急性期病院からリハビリ病院へ転院するとき、母はストレッチャーに寝た状態介護タクシー移動した。その移動の30分間は横にいてよいとのことだった。30分も一緒にいるのも、病院から外に出たのも久しぶり。母はパチっと目を開けて私の顔を認めると「あら、いたのー」というかのごとく、こーーっとした。外気に驚いたのか、「いいねえ」「どうしたの?」「そうなの?」「いくの?」次々言葉を発して私に自分から働きかけてきた。

「ちゃんちゃちゃかちゃー」などと即興で歌って笑わそうともしてきた。顔マネをしてふざけ合いもした。入院前の母とおんなじ関わり方ができたのだった一ヶ月少しの間で一度しかリアル会えてなかったのに。母が私を忘れることについてはもう心配しないと決めた

病院についたらすぐに母は検査室へと運ばれてそれ以来また会えなくなってしまった

それから母の状態は良い方に行くばかりではなかった。「新しい環境に移ったリロケーションダメージなのか食事がほとんどとれません」「だから食べ物ではなくメイバランス(高カロリーのドリンク)を飲んでいただいてます」「足の方のリハビリはできる状態ではないですね」。

しかし次の週には「食べています」「ご自身で立つのは怖がられてできないですが、一度立ってしまえば、脇を支えて歩く練習をしています」。「えええ、歩けるですか」「はい、支えていれば少しですけれども」。

良くなったり、悪くなったり、聞くたびに違った。

この病院は、まったくガラス越しなどでもリアルに会うことはできなかったが、その代わりにweb面会を申し込むことできた。二週間に一度くらいZoomを介して、家からつないだここでの約二ヶ月の中で四度ほど画面で会った

最初は、ガラス越しのときと同じように、画面では母の注意がうまくつかめなかった。目をつぶった母に対して父と私ひたすら呼びかけるだけだった。しかし、徐々に目を開けるようになって、こちらで歌うとそれに合わせて首でリズムを取ったりもできるようになった。最後には、つないでいる15分の間目をつぶることは一切なく、私がふざけると画面の私のおでつんつんして「まったく」「ばかね」とからかってくれるまでになった

姿勢も、最初は病室から寝ながらつないでいたのに最後は他の人と同じようにロビーにあるコンピュータの前から車椅子に座ってつなげるようになって、介護士によれば「本当に覚醒度が上がって、ロビーでレクリエーションにみなさんと参加もできるようになりましたし、少し音楽を口ずさんでまだ部屋には帰りたくないような素振りも見せられたり本当によくなられています!」

 そして、退院期限が二週間までにせまったとき、申し込んでいたグループホームから「4月9日には必ず入っていただけます」というお知らせも受けた。

 

突然の知らせ

 

 グループホームの入居の具体的な手続きをすすめる、グループホームの責任者と、リハビリ病院のソーシャルワーカーの話し合いが行われた。そこで突然最近、痰の吸引をしている、という情報が明かされることになった

 どうも朝方口に痰をためてしまって、ぺっと人前で吐き出せない。だから吸引していると言われた。その時はまた状況の認識が難しいせいだな、と思った。痰の吸引といっても、ほんとうに痰が絡んでしまっても自分でどうにもできないというのではなく、喉に絡んだ痰を自分で吐き出す力はあるけれども、ただ人前で吐き出すのが恥ずかしいだけなのだろうと思われた。やはり気持ちの動かし方の問題で、吸引という看護処置が本当に必要なわけではないのだろう。

それが数日のうちに実は一日のうちに二回、三回吸引しているらしい、と変わった。家族に様子を伝えてくださっているのがソーシャルワーカーで、直接母と関わっている看護師や介護士ではないので、情報にずれが生じてしまうことがあるようだ丁重に謝られて、直接医師から電話がかかってきた。痰の色は全く問題ないし、肺炎が原因などではなく心配な状態ではないと言われた。

 それで安心と思ったら今度はグループホームの方から、どんな理由であれ痰の吸引は看護処置であり、吸引が必要だと看護師が常駐しているグループホームでないと入居は難しいと伝えられたこのグループホームには常駐の方がいないそうだ。祖父をみてくれてずっと親身に付き合ってくださった施設長病院と直接話して、母ともzoomで面会して、看護師から話を聞いたら、実は夜間も吸引しているという情報が出て、最終的に今回母が入居するのはできないという判断をした

 私達は病院の介護士から「元気になっています!」という言葉を聞いていたから、「夜間吸引をしています」がどうしても頭の中でつながらない。再び母の姿がまったくみえなくなりそうだった。

自費で訪問看護をつけるから、母を引き受けていただくことはできないかと提案もしたけれども、訪問看護師が夜中すぐにかけつけることができない場合もあり、夜間に吸引があるということになると母の命に危険が及ぶ可能性があり、今回は見送り、看護付きの場所を見つけて、痰の吸引さえ必要でなくなったら、いつでも母を引き受けたいと言われた。

 

 最初から、回復の可能性がないと言われてきた。本当にそうだったのかもしれない。じたばたしてしまった。グループホームには入居前なのに、一人の人に対して尽力してもらった。あの施設長の判断だったら仕方ない。はこれ以上の努力はできなかった。

 退院期限が二週間を切ったときに、まったく新しい施設を探さなければならない状況になったのだった。施設の入居は通常二週間から一ヶ月手続きにかかるらしい。空いているところがあったらラッキーである。このやりとりをずっと見守ってくれていたリハビリ病院のソーシャルワーカーが母や私の気持ちに合うところをと必死で一つ見つけてくださった。そこに行くことにした。

一喜一憂の三ヶ月。浮き沈みしていないのは、母の気持ちだけのように見える私と父が良い決断をしようと悪い決断をしようと母はすべてを受け入れて、できることをして生きている。さぁ、ママ、桜を観に行こう。

 

Friday 14 May 2021

お相撲のこと

 もう10年くらいになるだろうか、大相撲が両国で開かれるたびに、両親と出かけていった。はじめて見たときは、土俵下に座るおおきなお相撲さん一人ひとりの、座布団や、まわしや、土俵上に垂れ下がるおおきな房、呼び出しの人たちの着物など、この場所でしか見たことがない綺麗な色に驚いた。日本の美意識が凝縮されている、という配色で、何とも言えず、美しかった。それから、無言で、時間いっぱいになって、取り組みがはじまって、無言で、呼び出しが上がって、土俵を掃く。決められたとおりに、一糸乱れることなく、くり返されていく動き。それを客が取り囲み、お酒を飲みたいだけ飲んで、焼き鳥などを食べ、歓声を上げている。あんまりお相撲をみていない人たちも多く、おもいおもいに過ごしていて、好き勝手に力士を怒鳴りつける人までいる。まさに花見のようだと思った。

 花は黙って咲いている。

 子どもの頃から通い通したようなおじさんが、数席先で「力士の体の色が変わるんだ。いいだろう」というようなことを言った。たしかに裸がみるみる赤く染まっていった。恥ずかしさで顔が赤くなったことならあるけれど、自分の体全体の色が変わるほど、力を入れた経験が私にあっただろうか。はじめての世界が開かれていった。

 ただ、私は相撲をとったことがないので、どなたの相撲がすごいとか、そういうことはまったくわからず、どちらかが倒れたり、線を出たりしたら、拍手をするというのがせいぜいで、何年も過ぎていった。父は、「あ、引いちゃった」などと私に見えない物を見る。いまだに私に相撲の良し悪しはわからない。ただ、決まった季節に、決まった場所へ、ほんとうに花見をするように、楽しみにしていた。そうするうちに、土俵に凝縮された努力への、また土俵以外で誰かが無言でしている努力への、敬意を持つようになっていったとは思う。

 そして一方で、オペラだとか、バレエだとか、西洋の観劇とは全く違う、日本的な観るという体験の居心地の良さも知った。向こう正面に座って、テレビに映ることを意識して、毎回来ているおじさんや、まったく姿勢を崩さずに誰かにお伴している芸妓さん、ビールを飲んでやじをとばしまくるおじさん、アイスクリームをほおばる外国の方、子ども連れのおかあさん、足の悪いおばあさんも、みんな気楽に存在できるのだった。静かにしていなくて良い。食べていて良い。お相撲にしても、落語にしても、歌舞伎にしても、この形は一つの到達点であり、優しさだと感じるようになっていった。

 最初は私と一緒にあれこれ感動していた母親も、その年月のうちに認知症になり、徐々に、状況の理解や、注意を維持することがむずかしくなっていった。土俵より、横の席に座る小さな子どもに夢中になったり、叫ぶおじさんの声に「うるさいわ」と小さく文句を漏らしたりするようになった。最近では、東京駅からタクシーで国技館に向かうとき、独り言がとまらない。東京のめまぐるしくかわる風景や、慣れない人の運転する狭い車で、落ち着かないのだろう。母が知らない人の前で文脈にそぐわない発言をするのが、私はどうしても恥ずかしくて仕方がなくなっていった。お相撲の中では、でも、そんな声はかき消されるから。母の存在は許されている。

 本当に色々変化していった。母の下着はパンツからオムツになった。コロナがやって来て、歓声を上げることは禁止になって、マスクをして一つおきに椅子に座って、観客は無言になった。そういう世界で、小さな母の独り言が響く。

 ざらざらざらと砂にもまれて、カラー写真が色をはぎ取られでもするように、母という印象が薄れていく。少しずつ、あっちの世界に転送して行っているのではないか、と思うほどに、私も母を忘れてしまう。そこにいるな、ということしか、気にしなくなっている。そういうときに自分の中の自然の力を感じる。


Saturday 25 July 2020

青い傘

毎日雨が降っている。以前と違って、どさっと降る。
折りたたみでは間に合わない。
私の使っている長傘は、母の病気がわかるしばらく前に、一緒にお店に行って選んだ青い傘で、
母は、「とても良いね」と言って買ってくれたわけで、心から気に入っていたからか、病気になってから「この傘は自分のだ」と主張することが増えていった。
私が持って出ようとすると、「まあいいよ、貸してあげるよ」と言うのだった。
しかし最近では、そんな風に自分の好みを主張することもなくなって、傘の取り合いもなくなった。
それで再び青い傘は私の傘になった。

数日前、用事があって久しぶりに東京に出た。どれだけ雨が続いてしまうのだろう、と茫然とする毎日の中で、ひさしぶりに晴れ間が見えた。
うれしくて、上下鮮やかなブルーの服を着た。
夜、気心知れた少数の人たちだけで短く飲んで、新宿で別れた。
久しぶりに人に会うと、うれしくて調子に乗りすぎて、言い過ぎてしまったかなと、一人で電車でゴトゴト揺られるにつれ、不安な気持ちでいっぱいになっていった。
自分の駅に降り立ったら、東京に比べて灯りもない真っ暗闇で、土砂降りの雨だった。
ふと見ると私の手に青い傘がない。
調子に乗りすぎて、のんだ場所に忘れてきたのだと思った。
急いで電話を掛けた。ありませんという返事だった。
昼間の場所かと思って、電話を掛けたら、夜だから誰もでなかった。
寄った駅のお手洗いかもしれないと思ったけれど、駅の電話番号が、お忘れ物係にかければいいのか、どこにかければいいのか、パニックで探し当てられなかった。
落ち着こうと思って、雨の中外に出た。
タクシーを待つ長い列ができていた。
コンビニへ方向転換して歩くうちに涙が止まらなくなった。けれど、どうせ体も濡れたし、マスクもしてるし、ビニール傘を一つ選んで、泣いたままレジに向かった。
そのままとぼとぼ家路についた。
あの傘は写真にもきっとうつっていない。傘になんて普通注目しないし、雨の日に外でなんか写真撮らない。大体、千円くらいのやすい傘だし。青くて、いくつか花が描いてあった。一番の特徴は、母が最後に選んでくれた傘ということ。
家に着いたら、父と母の寝室にオレンジ色の電球が灯っているのが見えた、もう寝てる。
号泣しながら玄関を開けたら、青い傘がいつものところに掛かってた。

そうだ、今日は晴れていた。だから傘はそもそも持っていかなかった。青いイメージは自分の服。人に会う喜びに化かされた一日。