Saturday 28 February 2009

お隠れdays

なんだか元気が出ずに、ぼんやりすごしている。
私が「お隠れdays」と名付ける習慣(いわゆるひきこもり)が私に今年頻発している。
(こう呼ぶのはなんとなく気分が明るくなるからです。)

私の大好きな、天岩屋戸の話を読んで以降、こう呼んでいる。
天照大神が、弟の須佐之男命のあまりの振る舞いに、絶望してしまって、
天の岩屋にお隠れになってしまったときのこと。
天照大神は太陽の神様なので、岩屋に引きこもってしまったら、
世界は真っ暗になってしまった。
みんなが困って、神様は会議を開いて、どうしたらいいか話し合う。
一番頭の良い神様が、思いつく。
岩屋の外で、女の神様たちが裸で踊り狂って、鶏が鳴きまくり
みんな面白すぎてゲラゲラ笑う。
天照大神はその騒ぎを聞いて
ちらりと岩屋の戸をあけて、
「私が隠れて、世界は真っ暗なはずなのに、どうしておまえたちはそんなに踊って楽しそうなんだ」
という。
そうすると、
「あなたよりももっと貴い神様がいらしたので、みんな嬉しくって騒いでいるのです」といって、
鏡を天照大神に向ける。
これは誰だろう、もっとよくみたい、とちょっと身を乗り出したところを
戸の横で待ちかまえていた一番力持ちの神様が天照大神を引きずり出して、
他の神様がその瞬間にその戸にしめなわを張り渡して、
世界に太陽が戻った、
という。

神様の絶望や、
あなたより素晴らしい神様といって、鏡を向けるところと、
「私が隠れて、世界は真っ暗なはずなのに、どうしておまえたちはそんなに踊って楽しそうなんだ」というところと
だれ?だれ?もっとみせて、とうっかり身を乗り出してしまうところで力ずくで引きずり出されるところが
お気に入りなのだけれど、
天照大神については、私にとってもっと大事なことがある。

それは小林秀雄の勾玉という話の中で、
小林秀雄が自分の持っている勾玉について
「僕はこれは天照あたりが首にかけていたって信じてる」
といったのをきいて、
私はひっくり返るような思いがした。
それは、突然天照が目の前に現れたような気持ちだった。

私は、簡単に「信じる」という言葉を使ってきたのだけれど、
それが、首にかけていた、というところまで、
信じることが実体を帯びること、だった。

神女たちは、どういうことを祈るのだろう、と思う。

Monday 23 February 2009

匂い

昔、兄に
「おまえは平安時代だったら美人だったな」と言われたことがある。

小野小町の絵を見たときの衝撃ったらなかった。
どうしてみんな目が細いのだろう、こんなにも今と昔は違うものかなと思ってた。

柳田国男の「妹の力」を読む。
「結局は大きくも小さくも出来る目を、・・・
本来の形状はなんとあろうとも、力めて之を丸くする機会を避け、
始終伏目がちに、頬とすれすれに物を見るようにして居る風が流行すれば、
誰しも百人一首の女歌人のごとく、今にも倒れさうな格好を保たしめて、
その目を糸に描かねばならなかったのである。」
(柳田圀男全集11 筑摩書房)

写真に目を広げて写るが如く。

桜がどこかで香った。

Sunday 22 February 2009

時刻み

確定申告とやらのための、色々をやる。
無理だった。どうでもよくなった。

心がどうも、落ち着かない。
軽さを、軽さを、と思ってやきそばをつくった。
我が家では麺の担当は私。
にんにくを沢山入れる。
粒のそろったみじん切りにするために心を砕く。
刻みすぎて、怒られる。

昨晩はお兄ちゃんが今のアパートメントから
新居への引っ越しもろもろで、
お姉ちゃんと一緒にやってきた。
結婚式の服装のことで、
沖縄の空の色にあうような、綺麗な色の服にしてね、とのことで、
二人はあーでもないこーでもない、といっている母親を、
好きなの着たらいいよ、あっそれいいね、と見守っていた。
私には、おまえ汚い、片付けろ、片付けられない女は最悪だ、と手厳しかった。
だからおまえは、アレもない、コレもない、・・と続くので、
私は、フフン、と強がった。

お兄ちゃんとお姉ちゃんの結婚式が今から楽しみ。

柳田国男を読もう。

Friday 20 February 2009

春風

春っぽいピアスがほしくなって、検索してたら、
何年か前に竹富島の春に見たブーゲンビリアのようなピアスに出会って、
他のピアスとともに、購入することにした。

そしてそれが今日届いた。

ピアスは予想よりもずっと繊細で、かわいらしくて、
幸せな気持ちになった。
そればかりか、手書きのお手紙と、
黒糖のシーサー型のちんすこうが添えられていた。
すっごく嬉しくなっちゃったので、ここに。


右のピンク:(記憶の中の)ブーゲンビリア。

Thursday 19 February 2009

今日

あったかいofficeにいたのに、体がどんどん冷えてって、
ダウンのコートを着ても寒い
お腹が痛い
冷や汗
死ぬ
そう思って即座に帰った。

母親に帰りにメイルした。
「冷や汗が出るほどお腹が痛いから迎えにこれる?」
母親は来てくれたけど
「どうして冷や汗が出るほどお腹がすくまで食べないの。」といって
車の中でパンを差し出してくれた・・・
ママ、ちがう。

最近、異常に眠かったり、おかしいなー

昨日の夢

体を微生物が分解し、どんどんどんどん、土や葉っぱに溶ける中で、
心臓ができあがる夢を見た。

身体が時間的に、空間的に、他の何かと隔離されていることは
制約じゃなくて、祝福っていうのかな、とか思って眠ったら。

Tuesday 17 February 2009

距離の取り方2

斎場御嶽のことばかり考えてしまう。
あそこにいくと、久高島は
私がみなくてもいい、私が知らなくてもいい、
そんな風に、圧倒的な存在になる。
私の中にどすんと、一個の島ができるかのごとく、
私を乗っ取った。
乗っ取ると言うよりは、初めて、
心の中にそんな領域ができた、そんな感じだろうか。
はじめて、アルということを、感じられる、
そんな感じだった。
手の中に石があって、たしかに、アル、って触れる感じ、
別にその石が、どんな由来をもっていても。

全然知らないのに、大事なものになっちゃうこと、いっぱいあるな。
大事なものになるはじまりは、いつもそんな。

身体があって、時間的に、空間的に、
場所、人と、隔離されていることが
なんだか祝福に思えた。

Sunday 8 February 2009

穏やかな姿を。

それに比べて、私は今もなんとおどろおどろしいことか。

はじめていったときには、
私の自意識が強すぎて、
その植物たちのあり方のあまりの存在の強さに、
私がまるで逆に存在していないかのような。
殺されたかのように
はげしく泣いた。
彼らのあり方が「許す」と言うことなんだと思った。

優れたものは、穏やかな姿をしている。
ほんとにほんとにすごいものは。

訪れ

かなでさんからgiftが届く。

昨年末からお正月にかけての沖縄旅の写真を
手作りのアルバムにいれて、送ってくれた。
信じられないほど、綺麗。
手元に届いた瞬間から、つまり、郵便物の装丁からして美しく、
それをあけての驚き、
かなでさんのgiftには常に、さりげなく、驚きが永遠と入ってる。

旅中に、出会ったものたち、それについての二人の会話、
そして大事な場所など、
ありありと蘇ってくるような写真たち。
かなでさんが見ていたものたち。

まさか、もう一度、あの時の旅が、
こんな形で、私のところにきてくれるなんて。

斎場御嶽の最後に行くといつも、
そこに生える植物たちの、ありかたに、大変なショックを受ける。
自意識が消え、さわさわと時々風の音がきこえる。
死後の世界のごとく。
やさしくも、きびしくもなく、存在する。
小さく。
はじめて訪ねたとき、目の前であさぎまだらが2匹ひらひらと舞った。
軽く。
透き通るほど軽快に。

かなでさんのgiftには、小さな一匹のテントウムシがとまっていた。