Saturday 24 January 2015

仏像の右手問題

一昨年の年末くらいからずっと考えていたことを、ここに書いておこうと思う。

私が一昨年くらいから気になっていたのは物語、とか、記憶、というもので、
こんな論文があった。

美術館に行って被験者に作品を見せる。
作品をただ見て帰ってきた人たちと、
作品を同じ時間だけ見て写真に撮って帰ってきた人たち、
後々どちらの人たちの方が作品のことをよく覚えているか。
(Henkel LA. "Point-and-Shoot Memories. The Influence of Taking Photos on Memory for a Museum Tour." Psychological Science, 2013)

その論文の結果としては、
「ただ見て帰ってきた人たちのほうが記憶に残っている。」

それは、例えば、写真にとってしまうと、
頭の中に残しておかなくてよくなって、
いわば写真が脳の外部装置として使える、というような
extended mindの議論とかと整合的で、
色々想像が膨らむ実験だったのだけれども、

私が一番興味を持ったのは、
その「記憶に残る」ということをどうやって調べているか、ということだった。

そこでは、例えば、仏像の右手に何を持っていたか、
盾か、槍か、刀か、何も持っていなかったか、みたいな感じの質問に
正しく答えられたら記憶に残っているとする、
みたいなやり方が使われていたのだけれども、
これは、私の記憶とは全然違う気がするな、と思った。

私が仏像を見て、感動して帰ってくる。
その時、良いもの見たよ、と持ち帰ってきて、人に伝えるとき、
「あの仏像はね、右手に何を持っていてね・・・」
ということではないような気がした。
そうしたら、
自分がその外にある仏像の何を写し取ってきたのか、
心に映る、ということは、もともとの像とはまったく変わってしまうことをいうのではないか、
もしも、本当に違うものに変質してしまっているとするなら、
自分が見たもののことをどうしたら、他者が納得する形で伝えられるのだろう。
その作品のことを、勘違いとしてでなく、本当に見たと言えるのはどんな表現のことなのだろう。

仏像の右手に何を持っていたか、ということを無視して良いわけじゃ無いと思う。
そこに意味が無かったはずは無いし、
作者のことを思えば、もっと細かく全部正確にすみからすみまで覚えておきたいけれど、
たとえ、そうできたとしても、きっと心に映るということは変質するということだと思っている。

いっこうに進まない自分の考えがもどかしい。