Friday 30 April 2010

蛙っていつも、もうちょっと前に鳴いていたんじゃないか、っていう気がする。

経験のこと

マリーナの体は、真っ赤で神々しく、微動だにしなかったけれど、
マリーナの目は、湖面のようで、さざ波が立っているようで、
でも、もしそこに石を投げれば、ゆっくりとどこまでもどこまでも永遠に落ちていくのが見えるような、
そんな静けさを見た。


私の好きなものは、年を追う毎に増えていって、
わけもわからず、ただその時にこれだ、と心震えて、好きになったものが、
また、新たに好きになった物の中に姿を現すような、そんな感じがする。
今回マリーナを見たときも、
永平寺を思い出し、斎場御嶽を思い出し、そして、今お風呂に入って、マリーナの目のことを考えていたら、
ああ、水面のようだ、そうだ、あの目の緑色、あれはどこかに似ている、と辿っていって行き着いたのは、
下地島の通り池だった。
今年旅行に行ったときに出会った、池で、
そこで、知らない観光客が、石を投げ込んだ。
そうしたら、その池は海につながっており、
どこまでもどこまでもどこまでも石の姿が見えたまま、落ちていった。


斎場御嶽に初めていったとき、
もう怖くて怖くて、一歩一歩が怖くって、
そうして最後に辿り着いた場所が、あの、石をくぐった先の、
静かな場所だった。
小さな植物が岩から生えていて、
静かに静かに植物の呼吸をしている。
最後に辿り着く場所はこういう場所なのかと思った途端に涙が出た。


私の「一番奥」とか、「静か」という言葉は、こういう経験から成っていて、
私は心の一番最後の場所には、物言わない物達が静かに呼吸しているという、
もしくは、小さな白い石ころが、ころり、と転がっている、
そういうことを信じてしまったと思う。


こういう経験が、どれほど普遍的で、
どれほど、人に伝わるのかわからない。
好きなことを繰り返し繰り返し、聞かされるのは、
人は苦痛だろうか。




「通り池」下地島

Friday 23 April 2010

英語の記事のこと。

マリーナのことを英語で書いたブログを上げました。
私にとってとても大切な経験なので、
何度も色んな形で書きたいと思ったことと、
私も自分のチャレンジをしたいという気持ちが強くなって、
英語圏の人に向かって自分の考えていることを言おう、と思ったからです。
マリーナのことを知る人とは、誰とでも、このことを話したいと思ったからです。

先日、ある外国の方に、
私たちが発言しないことから、
日本人はriskをとらない、passionがない、と言われてとても悔しい思いをしました。
静かなpassionというものも存在するのだと、私は思っています。
しかし、私自身が、現時点でriskをとる生き方をしているとは思えないことも又事実でした。

日本語と重複する部分もありますが、異なる部分もあります。
英語的に変なところはあると思いますが、自分の気持ちには誠実に書こうといたしました。
いずれ、英語のブログを立ち上げようと思います。

皆さんよろしくお願いいたします。

The "ARTIST" is present.

Marina Abramovic is one of the persons who I respect very much. My first encountering of her work was a house called “Yumeno-ie”. It made a great impact on my life. Although I had never seen her performances, which are almost synonymous with her, I thought I would love her whatever she made and will make in the future. The experience let me find that the person is much more important than his/her works and defined a part of my attitude.


A wall in the "Yumeno-ie"


A part of the "Yumeno-ie"

I went to see her live performance at MoMA in NYC last week, finally. She was in a space squared off by white tapes on the floor and enlightened by white lights on each corner. The surface of the floor was smooth and shining like marbles.

On the first day of my stay (which was only for three days), I went out in the morning wearing my favorite shirt to cheer up myself and arrived at the museum one hour before the opening. But there was a line for tickets already. “There’s nothing worse than not being able to see Marina today”, I thought. I decided to line up. “Where is Marina Abramovic?” I asked many times. I was really impatient. On the opening, I slipped through the crowd and made a beeline for her on the second floor.

Vivid red under white light jumped into my eyes. Marina! I realized her with the redness before realizing that she was in a beautiful red dress. There was a table with two chairs facing each other on the center of the space. Marina was on one side. An elderly lady was on the other side.

I thought we visitors must be allowed to sit in front of her! There was a line for that outside the white lines. I looked at her front face from the line. She was breathtakingly beautiful. She looked totally different from any other people being there. It had never occurred to me that such a simple word as “beautiful” occupied me when I saw a person. My soul was quaking.

Marina and the lady seemed not talking nor laughing. I was confident that there was no rule about how long and how we see her.

Once I had a similar (but of course, totally different) experience in a very small southern island in Japan. On a night with full moon (which was only a lucky coincident), I tried to sit on the rough road face to face with persons who I respect very much (one at a time), within a distance in which we could barely see each other’s face in the darkness of the midnight, where any artificial lights did not exist. The distance between us was, at the longest, about 30 cm. I tried to show them my true self, if any. I decided to make a smile when I could do that and not to run away however they reacted to me. I was a kind of persons who get extremely nervous in front of people, especially in front of persons who I like. It was a trial for me. As a result, those people run away from me within 3 sec and the trial was over.

Marina never left the table, and never had meals or drinks, until the museum closed. What I could see was subtle changes of her facial muscles. Very quiet time had passed. When the person across the table showed a move to leave, Marina closed her eyes. Until the next person came from the outside of the white line, she kept bending down her face. When both persons became ready, she raised her face and then opened her eyes as if she exposed herself to a new world….

On the outside of the white line, a variety of people were making noise. Some were waiting their own turns like me, and others were passing through. Some made a phone call, and others took photos with a flare of flashlight. Some made a look of dubiousness, and others a very serious look. However, it was very silent inside the line, as if Marina’s purified spirit was extended over the space. It reminded me of a temple named “Eihei-ji” in Japan where the totally different appearance of the monks when mingled with noisy tourists like me was very impressive. I found a lot of lines drawn on the wall behind Marina.


Marina has been sitting since March 14, until May 31.


On the center of the space inside,
I saw a person sitting with some intentions.
A person sitting provocatively.
A person sitting like confronting God.
Some people stayed on the chair over an hour.
I came to be uncertain.
Am I only to adore her?
What did I like to do?
What am I?
I didn’t come here to possess her.
This is her trial. That should be why she looks so beautiful.
….

(But it was very nice to see a person who was on a security role there sitting in his plain clothes on the other day. He must have been off on the day, I thought. He came back with bright red cheeks.)

Finally my turn has come. It was almost after 5 hours from the opening.

I started to walk.

I had the seat.
Marina raised her face.
Her eyes were opened.

She had wondering eyes, I thought.
In some way she looked vacant, and also very silent as a doll. But something was different from a doll. The color of the eyes captured me. “Beautiful”, my consciousness said. On that moment, I felt tears welling up and struggled to hold them. Marina didn’t alter her facial expressions. She was being there just quietly with the eyes, not showing any signs of sympathy, relief, anger or sadness.

“It is not the time to cry”, I thought. I lowered my eyes to calm down. I saw her eyes again. I found extreme silence in her mind. This time I felt my mind also became silent for a moment. I felt I've had enough and left the table. The duration must be within 5min.

The title of this performance is “ THE ARTIST IS PRESENT”. She was never showing sympathy, but presenting her innermost being. “ARTIST” might be to have a beautiful soul. Beauty must be an acquired state by training oneself, and overcoming it again and again, different from being innocent. I witnessed the soul of a person who has lived not by the motivation of just creating beautiful things or interesting and new things, but by the passion of creating one’s own life. I’ll never forget the silence in the person who keeps changing.


Marina Abramovic is here.

Tuesday 20 April 2010

マリーナと向き合った全ての人の、
その向き合っているときの写真がこのサイトにアップされています。
私もいます。

この写真を見ていて、写真ってほんとうにすごいんだな、と思いました。

ニューヨークの写真 


Strawberry Fields


From my room in The Pod Hotel


Breakfast in NY.


A girl.


Another girl.


The girl in me


Chinatown in NY

人々編

その、推定アーティスト、ということがなぜわかったかといえば、
その人がマリーナと向き合って座っている間、
それがあんまり長いと感じた人が
マリーナと彼女の向き合っている正にその真ん中に向かって、
「そんなに長く座ってたら俺等の番までこねえだろ、ちったあ考えろよ!」
と怒鳴ったからだった。

マリーナと彼女はそのまま続けていた。
しばらくして、彼女は戻ってきた。
そこへ例の人がやってきて、また文句を言った。
そうしたら彼女は、
「みんな何時間でも待ってるのよ。私は7時間だって待ったって大丈夫!私のpieceの邪魔をしないでくれるかしら!どうも!」
と大きな声で言って会話を打ち切った。

その時、私はもう順番が迫ってきており、色んな意味で動揺した。
そうして、前の方にいる私たちに後ろの方の人たちが話しかけてきた。
「長すぎるよね?一人どれくらいとか決まってないの?」
私は何にも答えたくなかった。私は助けを求めて隣の人を見てしまった。
そうすると仕方なさそうに私の隣の人が答えた。
「決まってないわ・・。」
「でも人があんなに待っているんだよ?」
「ええ。でも、最初から並んでる人はもう5時間も待っているのよ。私はこれで、ここに来たのは三回目。
今日までは、自分の順番が回ってこなかったから、今日こそはって、開館と同時に来たの。
多分、さっき叫んだ彼は、ちょっと前に来て、状況が分からずに言ってしまったんでしょう・・・」

その、妨害にあった彼女は、その次の日も、そのまた次の日も、カツラを変えて並んでいた。
だから私はそういう風に推定したのである。

Monday 19 April 2010

The "ARTIST" is present.

ある吹き抜けの空間の大理石のようなツルっとした床の表面が、
白いテープで四角く区切られていた。
その中心に、机を挟んで向かい合わせになるように椅子が置いてあった。
その片方に、真っ赤なドレスを着たマリーナが座っていた。
もう片方には、年配の女性が座っていた。

ニューヨークで過ごせる三日間、毎日少しでも見に来ようと思っていた。
初日、元気を出すために私の一番お気に入りの服を着て、朝、外に出て、
美術館の開館一時間前についたら、もうチケットを買う列が出来ていた。
何が何でも、マリーナに今日会えないということだけは、避けたかったので、
その列が、マリーナ目当ての人たちなのかどうかもわからないけれど、
並ぶことにした。
続々と人が集まってくる。入り口に続々と人が溜まっていった。
「マリーナは何階にいるの?」と色々な係員さんに何回も何回も聞いた。
「2階と6階よ。」
「マリーナ本人は2階にいるわよ。過去のマリーナの作品の展示も別の階でやっていて、そっちがみたいなら6階よ。」
気持ちが逸って逸って仕方なかった。
開館した瞬間に、人混みをすり抜けて、早足で、まっしぐらにマリーナの元へ向かった。

透明でものすごく清らかな明るさの中に、
真っ赤な色が飛び込んできた。
マリーナだ・・
顔を見た。
キレイ!
マリーナ、本当に美しい。
息をのむほど。

一人、一人、座るんだ・・・マリーナの、前に!
その列は、どこ?きっと、あれだ!
白い線の外側のある一画。
走った。

その場所は丁度、マリーナの顔を正面に眺められる場所だった。

美しい。
そこにいるどんな人とも違って見えた。
誰よりも美しい。
ただただ美しくて、心が震えた。


向き合っている二人は何も喋っていない。笑いもしない。
きっと、ルールはないんだろう。
無言で見つめ合うということだろう。
いつまででも座っていて良いのだろう。


最初の人が終わったのは、多分、30分くらいたった後のことだったと思う。
私に見えるのは、マリーナの顔のほんの少しの筋肉の変化。
静かな時間がひたすらに流れ、観客が席を立とうとすると同時に、マリーナは目をつぶる。
次の人が白線の外側からまた、入ってきて椅子に座るまで、ずっとずっと目を閉じて顔を伏せている。
そうして、互いに準備が出来ると、すっとそのまま顔を持ち上げて、目を開ける...

みんな、ずっとずっと座っている。
そうして、満足そうに微笑んで帰ってくる。
私の番まで回るかどうかもわからなく思って、どきどきした。 
私の隣の人は、誰かと会話していて、
今日で来るのが3回目で、今まで、一度も自分の番が来たことがない、と言っていた。
だから、今日は朝から来たのだ、と。
一時間、二時間座る人もいる。
でも、私たちの場所からはマリーナの顔がハッキリと見える。
マリーナと向き合っている人の方は、後ろ姿しか見えないけれど。
特等席だと思った。いくら、待っていても、まったく苦には思わなかった。
どきどきしてずっと立っていた。
だんだん足が疲れてきた。
でもこのまま自分の番まで立っていようと思った。


マリーナは一度も席を立たない。
美術館の開館前から、閉館後まで、
水も、食事も、何にもとらず、
トイレも行かずに座り続けている。
ひたすらに、前に座っている人の顔だけ見ている。

あるふくよかな年配の女性と向き合っているとき
突然マリーナが涙を流した。
静かな涙だった。


白線の外側では、私のようにあの席に座ろうと並ぶ人の他に、
たくさんの観光客が通り過ぎていく。
携帯電話も鳴り、フラッシュもたかれ(写真は禁止されていたのだけれども。)、がやがやと、団体客が次から次へと通り過ぎ、
笑われ、不審がられ、また、真剣に見られ、座り込まれ、スケッチされ、吹き抜けのその空間にはがやがやがやと、音が鳴り響いていた。
でも白線の内側は、まるで別世界みたいに、
4隅に大きな大きなライトが立っているせいか、
輝かしく、清浄な空気が満ちているかのように、静まりかえっている。
マリーナの魂がそこを満たしているかのようだった。

なんだか永平寺のようだな、と思って周りを見渡しているとき、
マリーナの背中側の壁に、
線がいっぱい引いてあるのに気が付いた。



マリーナは3月14日から、5月31日まで、
毎日毎日、毎日毎日、こうやって座っているのだ。


何時間もたって、足も痛くて、集中が切れ、辺りを見回して、
また、マリーナを見ると、はっとする。
周りの音に気をとられるとか、そういうそぶりは全くなく、ただただ静かに前の人を見つめている。
美しい赤のドレスのドレープが足下で本当にキレイで、その中の足の置き方の見事さにも感動したりしていた。


色んな人がいた。
毎日毎日開館前にやってきて、走って並んで、毎日向き合うことを自分の作品にしようとしているアーティストの人(推定)とか、
わけもわからず座る人、
挑戦的に座る人、
神を拝むように座る人。
自分がどんな気持ちなのか分からなくなった。
私も崇拝しているだけなのか、何がしたいんだっけ、なんなんだったっけ、と。


(でもちょっと話が前後するけれど、
私がNYで遊べる最終日にそこに行って見たのは、その場で警備員をしていたおじさんが、
私服でやってきて、列に並び、マリーナの前に座っていた。
その日は非番だったけれど、自分も向き合ってみたくなったのだろう。
そうして、顔を真っ赤にして、戻ってきた。
それはとても素敵だった。)


私の番が来たのは、開館(10時半)から5時間後のことだった。
ものすごく緊張して、ひたすらに、マリーナに愛していると(無言だけど)伝えること、
それから、押しつけるだけじゃなくて、マリーナのことをしっかりとみること、完全に自分を開くこと、
そういう思いだけが頭の中をぐるぐると回っていた。


白線の外側で、先頭に立つと、そこに小さなボードがあった。

" Visitors are invited to sit silently with the artist for a duration of their choosing. "
それから、"白線の内側に入ったら、ビデオカメラで撮影されることになります。
また、それをどのように使用することにも同意することになります。"
と書いてあった。

はい。
歩き出した。


椅子に座る。
マリーナがゆっくりと顔をあげ、目を開けた。

不思議そうな顔をしている、と思った。

どこかぼーっとしているような、人形のように静かで、
でもやけに目の色が飛び込んできて、深い緑色だと思った。
やっぱりとにかく美しい!
突発的に涙が出た。堪えるのに必死だった。ものすごく悲しい気持ちと似ていた。
マリーナは表情を変えなかった。
ただただ、私の目をのぞき込んでいた。
同情もせず、慰めるような顔もせず、意地悪な顔もせず、怒りもせず、悲しみもせず、
ひたすらに静かに、そこにいた。

こんな時に、泣いている場合ではない、と思って、目を伏せ、
気持ちを落ち着けてから、
もう一度見た。
マリーナの目を見た。目の奧を見た。極めて静かな心の奥。
マリーナも私の目を見た。私も一瞬だけ心が極めて静まった気がした。
ああ、それで十分だと思った。
それで、席を立った。

多分、5分もたっていない。
私が白線の外側に戻ると、並んでいる人たちが、やった!と沸いていた。


この作品のタイトルは「THE ARTIST IS PRESENT」。
アーティストというのは、美しい魂のことを言うのだろう。
美しい、というのは、清らかな、ただ、無垢なものというものではなくて、
ひたすらに鍛え、「美しいものを作る」とか「面白い物、新しい物を作る」と言うこととは全く別の論理で動いてきた、
「人生を作る」という人の、
誰にも到達しえない彼女の、美しさを見たのだ、と思った。
魂がそこにある。
私はそれを見たんだ、と思った。


この奧にマリーナは座っていた。

Tuesday 13 April 2010

The first performance

マリーナの最初のパフォーマンスについてのinterview.
http://www.moma.org/interactives/exhibitions/2010/marinaabramovic/marina_first.html
「小さな頃、鼻が大きすぎ(ると彼女は思っ)て、醜すぎ(ると彼女は思っ)て鏡も見られなかった。
親に整形したいと言っては殴られた。
そんなとき完璧なプランを思いついたの。」

今回のperformanceのliveも多分ここで見られる。

Monday 12 April 2010

明日

大好きなMarina Abramovicがニューヨークでパフォーマンスをやっている。
明日、見に行く。

新潟で夢の家というMarinaの作品に出会って、
私はパフォーマンスをやるようになって、
でも、それよりなにより、私の生き方の根本的な考えというものに、決定的に作用した感じがしている。

夢の家というのは、マリーナの作った実際に宿泊可能な家であり、
そこに行った後、
Tate galleryで行われたマリーナのトークをビデオで見たことで
完全に精神を侵された。
彼女の魂のようなperformance自体を生で一度も見ることなく、
マリーナがどんな作品を作っても愛する、という
「作品よりも、その作者の方が大事」
ということを決定的に経験して、
私のある一つの態度の取り方というものが決定された。

明日、ついに見てしまう。



夢の家:ある壁


夢の家:電話

Friday 2 April 2010

風の運び物



なんだか今日は、風が強く吹いた嵐の後で、
いつもの通りに駅に向かって歩いていたら、植物たちが違って見えた。
露をのせ、嵐の厚い雲と、晴れの混在する、ライティングのせいなのか、
斎場御嶽の植物に似ている!と思った。どこを向いても、どの植物も、そうだった。
そしたらなにもかも、神々の衣をまとって見え出した。
普段は好きではない、売り出し中の物件の前にはためく、宣伝の旗すらも、ゆら・・ゆら・・と神々しい。
何が起こってもおかしくない空気、というのが、神、ということだろうか。

帰ってくるとき、その道を逆方向に通ってきたら、
桜がいっぱい落ちていた。
てんてんてんてんてんてんてんと、
いっぱいいっぱい落ちていた。