Tuesday 11 August 2015

現在ということ

植田君の展覧会『Maria』にお邪魔した。
オープニングの日に、どうしてか今回はお邪魔しようと思っていた。
17時からはレセプションパーティもあるということだったけれども、
なんとなく、17時まで待つより、自分のタイミングで行ってしまいたくなって、
15時には会場についていた。

全ての絵が、女の人が子供を抱いている絵で、
植田君のお母さんが出て行ってしまったこと、
植田君が前に創ったアニメ作品(少年が、自分の胸に刺さった釘を抜いて、
その釘で岩に立ち向かって女の人の像を掘り出す作品)のこと、
植田君が主人公のモデルになった小説『東京藝大物語』(あくまでもフィクション)では、
植田君の奥さんの名前がマリアだということ、
いろいろ思い出しながら、
ついに展覧会の日が来たなあ、と見て回っているうちに、
twitterの告知を観たときに「いいな」と思った絵から離れられなくなった。

この女の子は、子供を抱くには若すぎる。
なんで子供がいなくてはならないのだろう、
なんで、わたしたち、いなくてはならないんだろう、
そんな気持ちもわくにはわいたが、あまりにも二人ともかわいかった。
色が綺麗で、愛しかった。
植田君の絵だからいい、ということではなくて、
植田君の展覧会ということをこの絵の前では忘れた。
誰が描いたとしても、良い、としか言えない。
今回展示された中で、キャンバスに描かれた絵としては、一番小さな絵だ。
このあたりから、わたしの思考は混乱してきたのだった。

いくらなんだろう?と思った。
もしかして、買える値段だろうか。
なんだか、訪れた人が名前を書く台の下にファイルが控えめに置いてあって、
手に取ると価格が書かれていた。
値段を知ってみれば、
「号いくら」という、決まり値では、
失礼に当たると思うくらいに、
キャンバスが化けていた。
訪れた方の名前を観たら、私が二番目の客だった。
これからレセプションで人がたくさんやってくる。
絶対これから売れてしまうだろう。
もしかして、私が買える絵としては、最初で最後なんじゃないだろうか。
今回の展覧会で初めて出た絵の中でダントツに好きな絵が、
たまたま一番小さな絵なわけで、
タイミング的にほとんどの人が観る前で。
名画や、既に価値の定まったものを、私が自分の生涯で買うことが出来るとは思えない。
もう完全にわけのわからない雲に包まれていた。

植田君に、「買いたいとおもってしまって、頭がおかしくなったのかな?」とメールをしたら、全然返事が来なかった。

返事を待ちながらなおその絵を見ていたら、ある方の絵を思い出した。

少し前に、その方の訃報を植田君から聞いた。
藝大の卒業制作展で、何年か前に、その方の絵を、私も一緒に拝見していたそうで、
「ほら、すごく「この絵は良いなあ−。。。」ってみんなが言った絵があったでしょ」
と植田君が言った。
私は思い出すのに時間がかかって、写真を見せてもらって、やっと思い出したのだった。
「僕なんか、本当のことを言って焼き餅を焼いてしまうくらいにいい絵でさあ、、
僕もあのとき観たのが最後で、
親しくつきあっていたわけじゃないんだけど、すごくショックでさあ、、
残念だなあ—、、、」「いやーっ、残念だあーっ」
と植田君は、ショックでそれしか言えないみたいになっていた。

写真で見せてもらった絵と、観た日のことをなるべく鮮明に思い出そうとしてみると、
「これは良い」って、ほんとうにみんなが言っていたのだった。
私はその基準を共有できていなくて、恥ずかしかった。
既に確立された画家の、いい絵はわかっても、そうじゃないとわからないということ。
やっぱり藝大のお友達の、菜穂子ちゃんと話したとき、
菜穂子ちゃんも、「この人の絵をずっと見ていきたいなあー、って気持ちあるじゃない?
楽しみだなあーって。。あの人はほんとそういう人で。だから、本当に、残念」
と言った。

この人の絵はいいなあ、、見続けていきたいなあ、とほんとに楽しみにするようなこと、
そこから出てくる、残念だなあー、、という二人の言葉の響きが、
蘇ってくるのだった。

わたしも、既に価値が決まったすんごく良いものを追うんじゃなくて、
今生きている人の、どうなるかわからない人の、
そういうのを楽しみだなあ、っていいたいな。

いま、私がなんとか買えるお金の、今の私が見続けられる絵が目の前にあって、
もしこれを買ったなら、
これから先色んなものに出会ってもっと色んなことがわかるようになったら、
もっとこの絵の良いところがわかるようになるだろう、
この絵と一緒に育っていける、そんなこともあるんじゃないかな。
そんな気持ちになっていて、
植田君の返事が来る前に、
ギャラリーのオーナーに「これ、買うことができますか?」と言ってしまったのだった。

植田君の寝てる間に、
私は清水の舞台から飛び降りていた。
もう、とりかえしはつかないんで。
植田君はお礼にバームクーヘンを持って自転車で駆けつけてくれた。

展覧会が終わるまで、私のもとには来ない。
写真に撮って観ているが、
私はこの絵を毎日毎日好きになっている。

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*『東京藝大物語』は、私たちが、こうでなければならない、と
知らず知らず身につけてしまった習慣から、
目を覚まさせてくれる小説だと思うのです。
私たちが生きるというのは、こんなにもへんてこで、こんなこともしてよかったって、
茂木さんの本はいつも自由にしてくれます。
私が主人公の植田君から、実際に学んだことは、
目的を達成するということよりも、いかに人が気持ちよく動けるようにするか、
今この場をどんな風に気持ちの良い場所にするか、の方がよほど大事だとでも言う感じ。
誰にも会わず偉大な絵を描くためだけに黙々と作業するというよりも、
植田君はいつも友達に会って、助けてしまう。お茶してしまう。
でも私は、そういうことがなくって、本当にやりたいことができることなんてあるのかな、って思うようになりました。

「下手くそな画学生よ、君たちの芸術には、本当は、世の中を変える力がある。
それほどアートは、人を煽動する、そして洗脳する、そんな力がある。
君たちはアーティストになりたいのか、それとも、作品を通して、世の中を変えたいのか。
お前らはこの世の中をよりよいものに変えるために、どういうポジションを、
目指そうとしているのか。」
(登場人物、福武總一郎さんの演説より抜粋)






Friday 7 August 2015

池田塾でのある発表(2015)

以下は小林秀雄さんの旧ご自宅で、池田雅延さんが月一度開かれている「池田塾」にて
今年私が発表させて頂いた原稿です。

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私の発表は、2013年に発表した部分のくり返しのようなものになります。

小林秀雄『本居宣長(上)』の16章では、
『源氏物語』の准拠説、つまり
この物語を当時の学者たちがどんな風に扱っていたか、ということが書かれています。

この物語のここの部分は、現実にあったこんな出来事がモデルになっている、とか、
ここは、漢籍のこんな教養から出来た話だ、とか、
この人物は、現実にいた誰々だ、とかいうように、
物語の中のことを、現実のことに対応づけることができると、
物語が「説明できた」ことになっていた。
つまりは、現実にベースが見付かること、それが研究するということだった。

そういうことが書かれた上で、小林さんはこんな言葉を発します。
「外部に見附かった物語の准拠を作者の心中に入れてみよ。その性質は一変するだろう。」

物語に対応することが現実に見付かったとして、
それらを全て組み合わせ、結び合わせてみても、もとの物語にはならないじゃないか。
本当に物語を「説明する」というのは、
作者の心に、どんな風にそれらの現実の出来事が映って、どんな意味が見いだされたか、
その心の中でどんな風にその出来事が変質したのか、
ということを追うことだ、
と小林さんは言っているように思います。
この言葉は、私自身にグサリと刺さって、いまのいままで私を驚かせ続ける言葉になりました。

なぜなら、一つには、私自身が学者であり、脳科学をやっているということがあるのです。
現在の脳科学では、意識(心)は脳から生み出される、ということが常識になっています。
けれども、たとえ、意識が脳から生み出されるということが事実だとしても、
意識と現実にある脳とを対応付けるだけでは、准拠説と全く同じで、
意識のことを説明できたことにはならない、と
小林さんにはっきり言われてしまったように思ったのです。
この数十年の間、脳科学は、まさに意識と脳を対応付けることをやってきたのです。
例えば、
我々がこんなことを考えているときには、脳のどこどこが働く、
我々の意識レベルがこれくらいのときには、脳の中にこういう物質が放出されている、
というように、意識と脳とを対応付けてきた。
でも、そうやってばらばらに見付かった物を組み合わせてみたって、確かに脳が出来るだけなのです。
心のことは何にも説明していない。
みんな絶望しているのですが、改めて、
じゃあ私の知りたい心ってなんなのだろう、どうしたらわかるのだろう、
と自分に問いただしてみると、
小林さんの言う「心に入ると、一変する」
その「一変する」ということこそが、私の知りたい心の不思議のように思いました。

このように思ってから、
この問題は随所で顔を出してくるようになりました。
記憶の論文を読んだときもそうでした。
美術館で美術品を見る、そしてしばらくして、どれほど記憶に残っているか、
ということを調べた論文です。
「記憶に残っている」ということをどう判定しているか、というところに
私は非常な違和感を感じたのです。
例えば、仏像だったら、
「その仏像は右手に何を持っていましたか?」という質問に、
正しく「剣」と答えられたら、その仏像が詳細なところまで完全に記憶に残っている、とされていた。
だけど、私が仏像に感動して帰ってきたとき、
友達に、「仏像が右手に剣を持っていてね・・・!」と語ることはまずないと思った。
手でなくても同じです。目がこんな角度で、口がこんな角度で切れ上がっていてね・・・、
そういう現実の像をそのまま写すようなことを言ったって仕方が無いというか、
私は何に感動しているのだろう、
自分の感動にぴったりの言葉ってどんな言葉なんだろう、
どんな言葉で言ったら、仏像のことが本当に説明できたことになるんだろう、
本当にこの仏像のことを言い得た言葉ってどういうものなんだろう、
と思うようになって、
心に映ったかたちを知ること、
そういうかたちで、心を知ることが、私には、言葉で表現する問題になっていきました。

こうなると、もう言葉で実際に表現することでしか、私にとっての「わかる」はないということになってしまいました。
それで今回の発表では、「書く」ということで体験した、はじめの一歩のような話をさせてください。

私は今年、「モギケン一座、新印象派展を観に行く」ということで、
茂木さんと、画家の植田工さんと一緒に、弟子として、お仕事をさせて頂きました。
植田さんは、茂木さんの絵を見ているところなどの絵を描いて、
私は、茂木さんが絵を見て語られることを文章にする、という役割です。
恩蔵絢子という名前をだした上での、聞き書きをさせていただいたのですが、
私自身の考えを書くわけではなくて、あくまでも茂木さんのお考えなので、
主語は「僕」を使うように、と編集の鈴木芳雄さんからご依頼を受けました。
誰かの身になって書く、ということをやらせていただくことができたわけです。

しかし、はじめ、私は、自分がいる意味がわかりませんでした。
茂木さんが直接書かれた方がいいものができるに決まっているからです。
私は、知っていることも、感じられることも、文章力も、茂木さんより小さい。
私が介在してしまうことは、劣化させることだという風に思いました。
実際に、茂木さんがそこでしゃべられた言葉は素晴らしかった。
だから、私は、もう完全に黒子と化して、ただしゃべり言葉にある文法的間違いや、
脱線を、ただ整えることだけに徹したのです。
でも、その原稿は没にされてしまいました。
黒子と化して、自分の心を動かさずに書いたら、人の心を動かす文章にはならなかった。
自分の心を動かさずに書いたら、文章は死んでしまう。
当たり前なのですが、そんなことに初めて気がつきました。

それで、私は、茂木さんがしゃべられたこと全てを書くのではなくて、
茂木さんがしゃべられたことの中で、自分が一番感動したことだけを、
その感動が伝わるように書こう、と思いました。
私が茂木さんの下で学んできた13年間の記憶を総動員して、
あのときこうおっしゃっていた、だから多分この言葉はこんな意味の言葉なんだと思う、
だから私はここまで感動しているんだと思う、
と、この美術館の現場では直接にはおっしゃられなかったことを書かないと、
生きた文章にはならないのかもしれない。
書くのは私なのだから、私を100%働かせて書いた文章じゃないと、人は読んでくれないのだろう、
けれども、茂木さんの実際におっしゃられた言葉の中で、私が感動したことなのだから、
茂木さんと私の「AND」であり、
この書き方だったなら、主語が「僕」でも許されるのだろう、と思いましたし、
誰が主語であれ、文章自体が生きていることが一番大切なことだと感じました。
一つの言葉がちゃんと驚かれ、その驚きが伝わるように努力する、
どこまでできたかはわかりませんが、こういう書き方だったなら、
文章に関わる人全員で、真実を探っていくことになるのだろうと思いました。

些細な発見かもしれませんが、
宣長の、他人の心に映った出来事だけを追うということはどういうことなのか、
文章が文章独自の世界を持つとはどういうことなのか、
について、自問自答したところは、いまのところ以上になります。


(参考)『本居宣長(上)』p179

外部に見附かった物語の准拠を、作者の心中に入れてみよ、その性質は一変するだろう。
作者の創作力のうちに吸収され、言わば創作の動機としての意味合いを帯びるだろう。
宣長が、「源氏」論で採用したのは、作者の「心ばへ」の中で変質し、
今度は間違いなく作品を構成する要素と化した准拠だけである。
彼のこのやり方は徹底的であった。

2013年の池田塾での発表
モギケン一座新印象派を観に行く