Friday 15 April 2011

奏さんの作品「投石」

今日から根津のギャラリーで、矢木奏さんの展覧会「投石」がはじまった。
どうかみなさん、見に行ってください。
http://kanadeyagi.jimdo.com/


以下、私の思いです。
見に行く前の人は読まないで頂きたいと思います。

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Dear Kanade,

奏さんの写真は、知らない人のことを好きになります。
あのレポーターの女の人や、あの悪石島の男の子や、カメラマンの人達。
それから、何枚もカメラの写真をとったり、
いっぽんいっぽんのとげとげだったり、日食に対してあなたがもった執拗さ。
その執拗さが、もしかしたら、その人達を、その瞬間を、特別なものに変えるのかもしれなかった。
あの写真達を見ていると、本当に、知らない人達が、かけがえのない人になってくる。

その執拗さというのは、
あなたが、あなた自身を誇示しようとするような種類のものではなくて、
まさか発揮されるときが来るとは知らずに集結した、
でも、もしかすると出番を待っていた、みたいな形の執拗さ。

あなた自身の気配を最大限に消しているなぞの眼差し。
まるで死者が生者をみるようなその目を通して、
生者が、生が、そこにくっきりと感じ取られてくる、みたいな感じ。
いつもと変わらない一日が、誰かが、私が、完全に祝福されてしまったような。
なんとも愛を感じることでした。悲しいくらいでした。優しいのでした。

その誰かや、ロサンくんや、セガールに挑戦した過去のあなた、
その年月、その空間、その人々、かなでさん自身、が全てつながって、
そういうものがいまこそここに、形をなして、ぴかりとする、みたいな、
そういうことを見ました。

日月山水図屏風のことまで作品になっていて、本当にびっくりした。
でもかんがえてみれば、日月山水図屏風は、かなでさんのこの作品にぴったりだった。

ロサンくんのことも、日食の企画も、わたしは聞いていた。
あなたの日記で、ロサンくんの文章をずっとずっとまえによんでいた。
あなたの過去もいま改めてぴかりとした。

そう、友人として、を離れて、新しいあなたに会いました。
でもそれは一貫したあなたでした。

ああ、そうか、執拗さ、というのは、潜んでいた一貫性、みたいなものだろうか。

モノの運命はモノに任せる、とかいういつものあなたの態度。
そうして集まったものたち。また、集めたものたち。それが今日ある形を取って、ぴかりと光りました。
「私は実際自分の意思でそれを見に行ったのですが、招かれてあの場に立つという体験をしたような気持ちだったからです」

あなた自身が最大限に消えながら、最大限の愛と、あなた自身を感じた日でした。

本当に胸がいっぱいです。


私は作品を見て、このひとがだいすきだなあ、と思いました。

このひとがいきる、ということと、作品は、やっぱり、わたしにとってはおなじことのようです。

恩蔵絢子

Monday 4 April 2011

2011年4月1日



研究室のお花見の日。
復興に向けて人生初のことをしようと、ちらし寿司を作った。
10人くらい分のちらし寿司の入ったお重を持って一人鎌倉を歩く。

婚礼行列のおなーりー みたいなかけ声 人力車に乗った白無垢の花嫁さんと黒い袴の花婿さん。
八幡さんの上を白と黒のとりが群れを作って飛び立つ。

お参りに来た観光客の顔が、
知らない二人を喜んで、一輪かそこらの桜の開花を喜んで、その空を喜んで、
待ちわびたお祭りの日みたいに、
晴れ晴れと、晴れ晴れと、本当にその日を喜んでいるように見えた。


ああ、晴れ晴れ!そんな日がくるように。