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Saturday, 14 July 2012

霞海城隍廟にて




















三つ目の廟となった、問屋街の真ん中にある小さな霞海城隍廟にて、
はじめてお線香を買って、自分もお参りをさせてもらう。
ここは恋愛の神様だそうで、
アナタ、ダイジョウブー。ゼッタイダイジョウブヨー。ガンバッテー。
と、すごくかわいいかおでいってくれたお母さんのお写真です。

作法を教えてもらったら、
まずは、外で、空に向かって、自分の名前をいって祈るところから、
始まるところがとっても印象的でした。

Friday, 13 July 2012

Wednesday, 23 May 2012

2012年5月21日 金環日食


4時33分が日の出だということで、4時半におきる。
目を覚ますと、なんだか音がする、そんなの嘘だと思いながら、雨戸を開けると、
さーさーと雨が降っている。
雨なんていってなかった、と動揺するけれども、
鳥が楽しそうにたくさん鳴いている、これは晴れると信じ込む、
二階のベランダに出る。(少しだけ屋根がある、風のないまっすぐの雨だったから、ほんの少しの屋根でも、壁にぴったりくっついていれば大丈夫そうだった。)
こんな時間に、こんなに明るいんだなあ、と思った。

雨はふったりやんだり、黒い雲は少しは動いていくけれども、
それより上に分厚い雲がかかっていて、
結局、7時半まで一度も太陽は見えなかった。

Twitterを見てみると、
東京は晴れているらしい。
いいもん、確かに起こっているもん、鳥とか温度とか、経験できることはするんだもん、と自分にいいきかせる。

外にいるのはとても寒くて、トレーナーの上に、カーディガンをきて、ズボンは二枚履きで、座り込んでいた。
部分食が始まる六時十八分を過ぎても
暗さの変化も、雲が厚いだけに、なんだかほんとうにわからない。
だんだん太陽が昇っていって明るさは変化しているはずで、
しかもだんだん欠けていっているはずで、相殺されちゃって、
私には、全然わからない。
鳥にも変化がおこるというけど、朝からずっと楽しそうに鳴きっぱなしで、
静かになることもあるけど、またすぐに鳴き出すし、
(それに鳥の声の区別が付く耳と記憶力が必要)
いったりきたりもたくさんしていて、
右から左が、左から右に飛んでいくようになった?
いや、そんなことはないな、とか、繰り返す。

母が途中で起きてきて、
雨なのに何やってるの、
かわいそうなこだねえ、といって
おにぎりをもってきてくれた。

それで、ちょっと楽しい気持ちになって、
ぼーっとして、
もうすぐ金環日食になる時間(7時31分から36分)という7時半に、
どーおー?と母親がやってきた。
ベランダより、こっちの方がきっとみやすいわよ、と兄の部屋の窓に移動。
その瞬間、はじめて、あ!あれ太陽じゃない、あそこじゃない!?結構高い位置だね、ほんと!?と太陽確認。
これは、見える、と母親は確信し、
大声で一階にいる父を呼ぶ、はやくはやく!
そして、父が階段をかけあがってきて、窓に到着し、見上げて、どこだどこだと探すと、
ぼやぁっと突然、ものすごく繊細な輪が見えた。
時間を確認すると、33分、金環日食がマックスになる時間だった。
三人で、見上げている。
なんだか涙がこみ上げた。

窓から身を乗り出した父の背中がなぜか、頭にこびりつき。
月と太陽だけでなく、なにかが、ぴったり重なった一瞬、というかんじ。
確かに存在した時間。

やっぱり、か、か、か、かめら!と叫んだ一瞬。



Wednesday, 14 December 2011

Monday, 29 August 2011

五島列島 野崎島



信仰の人々の住んだ、その痕跡の島。

フェリーから下りると、すさまじい風景が広がっていた。
風雨に晒され灰色になり、崩れ落ちた木造の家々、瓦の屋根の重みで潰れた神社、
陶器などの残骸、真っ赤な土の段々畑の跡、そこに草が茂り、それを野生の鹿が食べる。
歩きすすめる度にギチギチ、シャーシャーと耳元で蝉が迫り、真っ黒いお腹をひたすらに振動させている。
尋常でない量のトンボが低空飛行してきては、何の油断もない野生の鹿の目線を感じ、その足音を聞く。

無人島だとは知っていたけれど、かつて人がここに住んでいたことをしらなかった。
(この日は、私達と、私達が宿泊するから一緒に滞在して下さる管理人の方と、水質管理にやってきた方の4人だけだった。)
そんな風に軽トラックの一台やっと通れるくらいの細い山道を20分ほど進んでいくと、
唯一今でも大切に大切に管理されている、教会と、かつては学校だった宿泊施設にでる。

本当にすさまじいが、人間がいなくなってしまった跡がすさまじいだけではない、
人がいなくなるとはどういうことか、だけではなくて、
ある人がいかに生きたか、ということが輝いてくるような島。

この教会はもう使われていないから、とても、とても、静かで、
でも元々ほんとうに、華美なところがいっさいなく、
だけれども、わたしは初めて、ステンドグラスってこんなに美しいものだったんだと知った。
複雑な模様、細工、とかで勝負されたものではなくて、
木造の床の四角い空間の真っ白い壁に、どういう光が入るか、
ここを訪れる人にどういう体験をさせるか、
そういうところでものすごく、丁寧に丁寧に、ものすごい信念を持って作られた教会であることがわかる。
とにかく精神に満ちてた。
自分に依頼した人達の気持ちにはっきりと答えるような、
そして、
ここを訪れる人にどういうことをつたえたいか、
そういうはっきりとした意思のあるような、
何か大切なものをはっきりと示されるような、
でもそこで、ゆっくりと私は眠り込めるような。

(ここがあまりにも衝撃的なところだったので、私達は今回、他の島に移った後も、この教会を造った、与助さんという方の教会をめぐる旅をすることになったのだった。)
(それから、このステンドグラスの感じは、私は、マリーナ・アブラモビッチの作った新潟の「夢の家」を少し思い出したりした。)

作った人、依頼した村の人々、
(友人が調べてくれたところによると、この人に作ってもらうしかないと、
この村の人達は、自分たちの食事を削って、自分たちでお金を工面して頼みに行ったらしく、
そういう人達にものすごく強い影響を受ける。)
そして、この何も行われることのなくなった教会を、今大切に管理している人達のことや、
色々なことを抱えて遠くから訪れる人達のことが想像されてくる。
永遠に残り続けるってこういうものなんだ、こういうことなんだ、
そういう風に思った。
そして今ここにいる私達のこともまた。

本当に静かな姿をしているけど、
永遠に残り続ける息の音を聞くようだった。
本当に美しかった。

五島列島の他の島も幾つか移動して、今回見た教会達は、
一つ一つが、一つ一つの人生が匂ってくるような、
そういう風に作られて、守られてきた、本当に個性的な教会達だった。

でもこの野崎島は、私一人では絶対来られなかった。
友人に感謝。

Thursday, 19 May 2011

Monday, 4 April 2011

2011年4月1日



研究室のお花見の日。
復興に向けて人生初のことをしようと、ちらし寿司を作った。
10人くらい分のちらし寿司の入ったお重を持って一人鎌倉を歩く。

婚礼行列のおなーりー みたいなかけ声 人力車に乗った白無垢の花嫁さんと黒い袴の花婿さん。
八幡さんの上を白と黒のとりが群れを作って飛び立つ。

お参りに来た観光客の顔が、
知らない二人を喜んで、一輪かそこらの桜の開花を喜んで、その空を喜んで、
待ちわびたお祭りの日みたいに、
晴れ晴れと、晴れ晴れと、本当にその日を喜んでいるように見えた。


ああ、晴れ晴れ!そんな日がくるように。

Thursday, 13 January 2011

久高島のこと



私は、久高島という場所がとても大切である。
斎場御嶽から見える島なのだが、はじめてみたときに、
ああ、私がこの島を知らなくても良い、知らなくても私はこの島を愛する、
と思ったのだった。
しかしそんな風に決めても結局、どうしても知りたくて、過去5度尋ねてしまった。
最初の2度はほんの数時間寄るだけ、後の二度は一泊、最後の一度は二泊、という感じである。
あまりにも緊張する気持ちが強すぎて、とても泊まれるなんて思わなかった。
でも、だんだん図々しくなっている様が現れている。

不思議なことに、私は、この島のことを一人の人のように愛している。
むしろ、一人の人の愛し方を、この島から教わっているような感じがするのである。

私とは関わりなく、私はこの島を、この人を愛する。
そんな風な信心をもちつづけること、
それがわたしにとって一番大切なことのようだ。

Wednesday, 5 January 2011

2010年12月



なんとなく、言葉や行為、すなわち外に出すまでに掛ける時間、
下手すると言わないで済んでしまうことになるその内なる時間、
それが短くなるような気がした。

「面白い」では私は生きられない。
面白かろうと無かろうと、決めたら愛す、
捧げる人間として。
年末、そういう人に出会った。

あけましておめでとうございます!


椿を見たら、一気に明けた気がした。
今年は「試」の年にする。

Friday, 3 December 2010

夏のような冬の日



なんてことない一日。
一つのこと以外何も考えられない日々のうちの一日。
一年半のうちの。特にこの三ヶ月のうちの。もうすぐ終わる。
今日はこの一枚だけシャッター切った。
良くも悪くもない。
何の理由もわからない。
苦しい、苦しい。
がんばれ、がんばれ。

Saturday, 23 October 2010

Friday, 1 October 2010

旅写真:恐山

恐山

恐山には、湖が広がっていた。
車を降りると、強烈な硫黄の匂いがした。
その湖には、いかにも硫黄の溶けた、緑や黄色の混じる白濁した河が流れ込み、
沖縄の珊瑚の海のごとくの色をしていた。
濁りはどこへ消えるのか、近づいてみるとなんだかどこまでも透明で、
その透け方は、綺麗というような言葉で言えるようなものではなかった。
後から思えば、心にまで通じるというような透け方なのだった。

山門を入ると、その空間の感じは、灰色感というか、がらっとしていて、
山に囲まれた、不毛の土地、というか、硫黄の匂いと、岩のごつごつとした感じ、
もちろん、立派な本殿、門がたっているのだけれども、
なんだか、印象としては、「がらっとしている」、
そんなところに、木で作られた小さな小屋がいくつか立っていて、
色々なところから煙がたっていて、
よくみると、その小屋には「男湯」「女湯」と張り紙があって、
境内の中だけど、誰もが自由に入れる湯治場なのだった。

昔の小学校のような風情の、木で作られた本堂を覗くと、
端の方に、いくつもの遺影があり、
衣類がたくさん掛けてあったりするのだった。
誰かがいつも着ていたスーツ、そのまま、奥さんが、
朝タンスの中からハンガーに掛かっているそれを「はい」といって出すのが見えるような、
無言で着て出かけるのが見えるような、
なんていうか、どうしても、私は、自分の父の、
いつもかかっている洋服を思い出してしまうくらいに、
そのままあるのだった。
それが、何重にも重なっていっぱい、いっぱい掛けられているのだった。
靴もあった。玄関に脱ぎ捨てられた靴のように、ころ、とあるのだった。
でも、それらには、黒いマジックで名前の書かれた白い布が縫い付けられていた。

また上の方には、ケースに入った花嫁人形がたくさんあった。
男の人の写真が入っている物もあった。
花嫁人形というのは、結婚する前に亡くなってしまった人のためのものらしく、
お嫁さんの姿をした人形で、
亡くなった女の人にお嫁さんの格好をさせてあげ、
結ばれるはずだった相手の写真を入れていると言うことなのか、
はたまた、亡くなったのはその写真の男性で、
お嫁さんの代わりに人形があるということなのかは、
私にはわからなかったのだけれども、
とにかく、そういう風に、たくさんたくさんあるのだった。

賽の河原の方へ歩いて行った。
風車がくるくるまわって、ときどきキュキュキュと音を立てていた。
ところどころ硫黄の濃度が濃すぎて、近寄れない場所もあり、
とにかく石がつまれているのだった。

いままで、「賽の河原」という場所に二つほど行ったことがあったけれど、そこはそのどちらとも違っていた。
その荒野にも、ススキのような茶色い草が、時々生えているのだけれど、
よくみると、結ばれていたりするのだった。
それは、あまりにも微かなもので、気付かないくらいのものだった。
私は、賽の河原は、亡くなった子供を思って、みんなが石を積むところ、そういうことは知っていた。
お話としても、子供が、先立ったことをあやまりながら、親や兄弟やみんなのために石を積んでいると、
鬼が壊しに来て、子供が泣きながら必死で逃げる、だから、親はここにきて、子供のために、草を結んで、
鬼の足に引っかかるようにするんだということは聞いていた。
でも、先に見た衣類も、花嫁人形も、積まれた石も、この、結ばれた草も、あまりにも、自然なのだった。
自然というのは、「私が」という気持ちが消えているというか、
誰かがただただ誰かを思ってやっていったその跡を見ている、という感じなのだった。
そしてそれはすなわち、誰かが本当に生きていた跡を見ているということなのだった。
思いだけがあるのだった。本当にその人が生きていた跡が、ここにはあまりにも自然にあった。

もちろん、生きている私たちの側が石を積み、
死んだ子供が積んだものをみているわけではないのだけれど、
洋服や靴や、とにかく、大量に、色々な物がほんとうに「そのまま」にあるから、
それを着けていただろう人のことが、どうしてもリアルに感じられ、
私の中では色々なことが逆転してしまったのかもしれない。

結局、この賽の河原は、あの湖に通じているのだった。
ここで見る方が、白濁感は強く、寄せてくる波はなんだか、早いのだった。

翌朝は雨が降っていた。もう一度この賽の河原を散歩した。
ここにも小さなお堂があって、その中でしばらく過ごしていた。
やっぱり、スーツやシャツや靴や、写真や、色んな物がかかってた。
このお堂を出て、湖の方へ歩いて行った。
雨のせいか、湖の向こうに見えるはずの山は、
ひたすらガスに覆われて、消えてしまっていた。
この湖自体もなんだかとろっとしたように思われ、
一層白く感じられた。
その時、ああ、魂がとけているようだな、と思った。
ここで、おじいちゃんを呼べば、本当に会えるかも知れない、と自然にそう思った。

おじいちゃんは私が小学校三年生の時に亡くなっていて、
今でも私は何かあるとおじいちゃん!と心の中で呼ぶ癖がついているのだけれども、
特におじいちゃんを思うつもりで来たわけでもなかった。
自分の中では、整理が完全に付いていることで、
特別、何か思うこともなかった。普段、生きている人のことの方が心配だった。
恐山にはいたこさんがいると聞いていて、
もし会えても、口寄せして欲しい人、とくにわからないなんて思ってた。
それなのに、そんなことを思った。
そしたら、突然、スーツや、靴や、色んな物がいっぱい私に押し寄せてきて、
彼らはここにいる、と私は、逆転してしまったんだ、ということを理解して、
それで、なんだか、一気に悲しみが溢れて、思いっきり泣いてしまった。






(2)朝のお勤めのおじさんのこと

私は一人で宿坊に泊まったのだった。
6時半からの、朝のお勤めのとき、
お世話して下さったおじさんがなんだかとても素敵だった。
素直になる、ということを学んだ気がした。

私は、こういうことに疑問を感じている、こういうことでどうしてもひっかかる、
そういうことを考える度に、わかっている、私も自己欺瞞があるんだってことだ、
というふうに、すぐに内省するのをよしとしていたけど、
本当は違って、そういう風にすぐさま、頭が回る振りをして、
ずっと目をそらしているということで、
それだったら、頭が回らない方がましだな、と思ったのだった。
自分に嫌な感情があるということを、すぐになかったことにしてしまうんだけど、
もっと素直になってみよう、と思ったのだった。

地蔵殿へ朝のお勤めにいって、遠慮して後ろの方にたっていたら、
おじさんに「そっちになんかおもしろいものでもあった?」と言われた。
遠慮するのがいいことではない、内省できるのが良いことではない、
色々はがれていく気がした。
恐山を開いた円仁さんの像をみていたら、
「これは円仁さんだけどね、円仁さんといってもわかんないよね、
生きてる人のことだってわからないのに、死んだ人のことなんか言われてもね。」
イントネーションの違いで、わたしにはこう聞こえた気がしたんだけど、
今でもわたしが良いように聞き間違えてしまったんじゃないかと思う。
そのあと、本堂へ移動して、亡くなった方の供養のお勤めがあって、
お焼香があったのだけれども、
その日来ていたお客さんはみな、私よりもずっと年上だったために、
私が若く見えたのか、私の順番になると、おじさんは横へ座って、
「わかる?」といって、手取り足取り教えてくださった上に、見本も見せて下さった。
そのおじさんのすがたは、なんだか本当に力が抜けていて、
それでいて、心が強くて、がしっとした手をしていて、温かかった。
円空仏が3体あったのだけれども、そのことも、
「ああ、これ、週刊誌、なんだっけ、なんとかっていう。
なんとかってのがとりにきてたこともあったよ、これ有名なんだ、一応」
といっていた。
ずっとここで働いている方である。
その言い方があまりにも味があって、ミーハーな感じは一切無い。
それに、どんな人にでも、どんな変な人にでも、
この人は、優しく接することができるだろうな、という感じがするのだった。
偉大なお坊さんに違いない、と思った。

地蔵殿というのは、ご本尊のお地蔵様がいるところだけれど、
そのお地蔵様は袈裟を着ている姿をしていて、大変珍しいものだという。
鬼から逃げ惑う子供を見つけたら、すぐにでも手を広げて隠してあげるためだという。
朝のお勤めはこのお地蔵様とご縁をつなげるためのもので、
お地蔵様はなんでも聞いて下さるから、打ち明けなさい、
とお坊さん(そのおじさんとは別の方。)に言われ、
頭の中で、「私は神奈川県から来た、恩蔵絢子といいます。・・・・」とはじめて、
疑問に感じていることを全て出してみようと心の中で言い始めた。
ところが、すいすいはでてこない。
どこまで、私は抑制をかけているのだろう。
自分の頭の中だけで言うだけなのにそれも言えない。
言葉を選ばず、とにかく言ってみようと思った。
それでも、すぐに、ストップがかかるのがわかった。
それに気がつけただけでも良かったと思った。
きっとそのおじさんのおかげだと思う。

Sunday, 12 September 2010

Friday, 20 August 2010

Wednesday, 14 July 2010

7月



今日、家を一歩出たら、全く空気が違ってた。
なぜだか、画板を持って写生に出かけた小学校の図工の時間を思い出した。

Friday, 25 June 2010

シルヴァプラーナ湖のほとりにて



ニーチェがシルス・マリアに夏の間暮らし、シルヴァプラーナ湖の畔を散歩していて
永劫回帰のインスピレーションを得たと言われている岩がある、と聞いていた。
その岩を探して、歩いた。
親に一時間くらいでみつかるはずだからと説得して連れてきてしまったのに、
歩いても歩いてもそれらしきものがなく、
さらには、雪の残る湖の風が本当に冷たくて、凍えそうだった。
焦った私は、たまたま通りかかった人に
「ニーチェの岩を知っていますか?」と聞くと、
「????岩?どんな・・」
「わたしも、よくわからないのですが、ニーチェの・・・」
「????ごめんなさいね、私もここの人じゃないの。石?そこらへんにいっぱいあるけれど・・・」
確かにどれってわかるんだろうか・・と思ったけれど、
その人に、
「どっちにしろ、ここまでいったら、引き返すより、隣村までいった方が早いわよ。」
「隣村にいって、サンモリッツまで帰るバスはあるでしょうか・・・」
「大丈夫!バスはね、あそこに見えるお城の横に橋が架かっているから、その横から出てるから!
よくわかんないけど、この先に滝があるから、その辺りなら石はもっといっぱいあるわよ!
みつかるといいね、よくわからないけど(笑)!」
と教えてもらうと、みんなの顔に希望のあかりが灯って、また歩いて行くことができた。
(隣村まであるけば丁度湖を半周したことになるのだけれども、
こっちの半周のどこかにあるはずだと情報を仕入れていたし、
両親も、同じ道をまた引き返していくのが憂鬱だったようで、ほっとしていた。
でも結局2時間も歩かせることになってしまったのだった。)


それで、ああ、これは間違いない、と思った岩がこれである。

ここを境に、風景が一変した。
厳しく(冬だから余計に)寂しい針葉樹の一本道が、がらりと開けて、
まるでハイジにでも出てきそうな草原へと変わる。


ニーチェと同じ場所で、私が全く同じインスピレーションを得られるということはないのだけれども、
この一変ぷりというのはなんだか見事で、
私も覚悟を決めてがんばろう、と思ったのだった。



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チューリッヒ、サンモリッツ、ツェルマット、ジュネーヴ、パリ、と移動した9泊11日の旅だった。
親にとってスイスは憧れだったらしく、なんとか企画して、これが親との初海外旅行になったのだけれども、
随分体育会系の旅になり、
親にしてみれば、何で岩?とかそういう感じのことも多かったかも知れず、
更には初めてスリにもあったりして、
本当に反省しているけれど、
ジュネーヴでは大学時代の友達が、卒業以来会っていなかったにもかかわらず、
なんとtwitterで私を見つけてくれたことをきっかけに、私の両親を含めて案内してくれたり、
最後のフランスでは、突然兄が登場し、特別な旅になったのだった。

もう、とっくに日本に帰ってきているのだけれども。。。

Saturday, 5 June 2010

ニーチェの家



私は人生の中でニーチェに出会えなければ、悲しかった。
彼に出会って私は、本当の友達というのは、時間的にも空間的にも離れた場所にいるのかもしれない、
と思うようになった。
その考えは、私にとっては大切な生き方になった。

観光シーズン直前ということで、あと一週間たたないと、
ニーチェが夏の間滞在し、ツァラトゥストラの2部を書きあげたという
ニーチェハウスの中はみることはできなかった。
けれども、この家の前まで行き、この緑と白のどこか孤独な、憂鬱の、でもとてもかわいらしい家をじっくり眺めた後、
玄関の前に立って、振り向いたときの景色に、驚愕した。
ごつごつとした切り立った険しさ。
ツァラトゥストラの山。