Saturday 30 June 2007

プラトンの猫鼠

シドニーで、驚きの出会いが二つありました。

(一つ目)
確率に関係する学会をのぞきにいったら、
塩谷さんが一番前に座っていて、
いつものように、さっと手を上げて質問をしていました。
自分がどこに居るのか一瞬わからなくなりました。

(二つ目)
以前池袋で出会った猫ちゃんは時空を超えてシドニーとつながっていました。


@Ikebukuro in Tokyo


@Glebe in Sydney

Sunday 24 June 2007

お知らせ

明日から、シドニー、アーミデールと移動が続きます。
6/25-6/30: 学会二つ@sydney
6/30-7/7:学会@armidale
7/7-7/8:ラストナイト、完全にフリー!!@sydney
7/8: fly back to JAPAN!
となっています。

インターネットにつなぐのがこれから難しくなる可能性が高いです。
もしつなげたら、その時のことをUPしたいとおもいます。


最後の風景@私の居た研究室
私の滞在の終わりの方はOleとMarkと3人の共同Officeでした。
写真にうつっているのはMark、プリンストンからのやはり2ヶ月のvisitor。
Markの席のとなりが私で、反対側がOle。

今はすっごくありがとうの気持ち。

植物の教え

botanic gardenにいってのんびりケーキとコーヒーを食べ、散策した。
なんでオーストラリアの植物は、こんなにも違うかなあ、
なんていうか、木々自体、緩くて、飾りっ気がない感じで、
理解しがたい姿をしている。
とか思いながら、ぼーーーっと1時間超歩いていた。

アボリジニーの人のアートをみたときと同じ気持ち。
いいな、と思うんだけど、なんか解らないのだ。
どうしてこんな風に細かな点をこんな風にするのか、解らないのだ。
なんか本当に解らない、という感じがするのだ、オーストラリアって。

仕方ないよね、localにここで、育ってきたのだから。
それぞれの場所で、localにみんな環境に適応してきたんだから。
違う姿をしているのはあたりまえなんだなあ、
なんとか必死で生きてきたんだから。
当然脳も一緒で。一人の頭の中に閉じ込められているのだから。
簡単には解らない。
簡単には混じらない。
だけども、出会えた限りは、解るとか混じるとかじゃなくて
その違いをなんとか受け入れたい。
私なりの克服の仕方があるはずだ。
信じる何かを発見したい、この土地で。

今日はANU最終日

明日から学会でシドニーに移る。そして5泊したら、今度はアーミデールに移る。
この数日でキャンベラはほんとうの冬を迎えた。
朝は多分-5度くらいの極寒となり、
手袋を買わないと生きていけないかもしれない。
アーミデールはここ以上の寒さらしい。

冬と同時に、私にとってこの最後の週は本当に苦しくて、
いままでうまくいっていたこともいかなくなり、
色々な誤差が発覚し、違いに苦しんだ一週間だった。
自分でもどうして良いかよくわからなくて、
状況把握さえ難しく、いまだ、混乱状態にある。

私は哲学の事をほとんど知らずに認知科学から来た。
言語の問題もある。
同じようにmother languageが英語でない人はここにはたくさん居る。
ノルウェー、デンマーク、ドイツ、オランダ、シンガポール。
それなのに、彼らはなんなく英語を話す。
そんな中で、なぜ自分はここに居るのかということを、なんとか示さないとならなかった。
自分を主張しなければ、何も動かない世界。
そして、私以外のところではすごい速度で色んな事が進んでく。
気にかけてくれる人はいるけれども、そういう人に頼れば頼るほど、
周りの世界とはかけ離れていく。

日本とこちらの違いというのはとても難しい事だ。
当然、違う事は知っているけれども、
私にはこちらの人の考えてる事を推察する事は難しいし、
こちらの人にとっては私の考えてる事を推察する事は難しい。
理解してくれない、といってふくれるガキみたいな事をやってる場合じゃないし、
私がきたくてきてるのに、理解される事を求める訳には行かないし、
とにかく、なんとかしなければ、と思っているが、
例えば立食パーティーで、
自由に人が動き回り、あちこちで会話をしている中に、
なにか自分で話題を提供し場をつくることができなくて、
こういう事は難しいとか、自分の悩みを打ち明けるばかりでは、
何しにきたんだかわからない。

私にとってみれば、tea timeとかで、そこにただ座り、笑顔でいることだけでも、
最初は精一杯で、
だけど、そんなことは、こちらの人から見れば、多分、
自分からしゃべろうともせず、ただ居るだけで、なにしにきたんだという話だ。

今は、愛したい愛したいと思っても、混乱で、みんなのところへいくのが難しい。
しかし行くけれども。
自分がこの人たちの事をどう思っているのか全然解らなくなってしまった。
だけど、この状況こそが多分必要な一つの大きな試練なんだろう。

それに、くるんじゃなかったなんて思わない。
学んだ事を、明らかにわかってることだけでも、思い返してみれば、
私はとっても重要な事を掴んだ。

例えば、私はいままで、自分のお気に入りの物しかそばに置かなかった。
人もしかり。
そうして、自分の周りの物によって、人を納得させようとした。
気がついてみれば、装飾であった。
偽の装飾。
本当の輝きは、そんな中にはない。

そして、Davidの振る舞い。
ああ、思い出した、
彼はPCで傘でもなんでも、どこかへ置いて忘れてしまう。
周りの同僚が、なんとかかんとか考えて、
"ねえ、Dave, PCのカバーこれにするといいよ、ほらこんなに真っ赤で、絶対忘れないよ、これなら"
とか言いにきて提供している。
それで本人は呑気に、"梯子をのぼるとどうも、bad fortuneなんだ。梯子をのぼったあとにPCをなくして.."
とかいっている。
そして食事のときには注意しないと永遠に食べ続けてしまうために、Susanna
(彼女も4年前のシドニーのクルージングのとき私たちに会っていて、
アメリカの大学の哲学のprofessorだけどちょうどvisitorとしてきていた!)は
気がつくとDavidをただひっぱたいている。
curiosityとあの笑顔、
そういう宝物。

大学内の小さな本屋にはいったら、
なんか足が"asian" cultureのところでとまってしまった。
何冊か日本の事が書かれた本があって、
眺めてみた。
John F Howes著"Japan's modern prophet, Uchimura Kanzo, 1861-1930."
裏表紙に
"Uchimura Kanzo was one of Japan's foremost thinkers, whose ideas influenced contemporary novelists, statesmen, reformers, and relegious leaders. He lived at a time of increasing modernization and rapid social change. Known as the originator and proponent of a particularly "Japanese" form of Christianity known as "mukyokai",
Uchimura struggled with the tensions between his love for the homeland and his love for God. "
と書いてあり、
どうしても欲しくなって買った。

今日はこれをもって、一瞬大学を離れ、
これから、botanic gadenを散歩してランチをとろうと思う。
うん、天才的な思いつき。

昨日(アメリカ時間では今ごろ)はジローの結婚式だった。
ジローはやはり4年前にもぎラボにインターンで一ヶ月やってきたアメリカ人だ。
7,8年つきあった彼女Wenとの結婚式。
心から嬉しい。

Friday 15 June 2007

風化

毎日毎日複数の新しい人が加わって、
いれかわりたちかわり、という感じで
人の流れが非常に激しい。
その人の流れはまるで、風がびゅーーと吹き抜けていくかのごとくで、
常に、風通しの良い場所に居るような気分になる。
私はその風を体験していると同時に風を構成している。

そういえばここのphilosopher達は
実際outsideも好きだ。
tea timeもbeautiful weatherならどんだけ寒くてもoutside.
その意味では私にとっては非常に居心地のいい環境だ。

常に流動している。

人は慣れてしまうな、とおもう。
あんなに毎日驚いた木々や鳥たちも、
いまはもう当たり前になりつつある。
それでもはっと、畏怖をおぼえるときがあるけれども。

ただ何はできなくても、
ずっと触れているだけで変わるということはあるな、とおもう。
あるものが知らず知らずのうちに当たり前になっていて、
そのときには前提が変わってる。

風は長い年月が経って隆起した大きな大きな地の固まりの形をも削る。
そして創る。
私の生命の形。

Thursday 14 June 2007

こっちで進行してる事

(1)consciousnessのreading group
(第1週)Graham, Horgan, ToensonのConsciousness and Intentionality
(第2週)LoarのPhenomenal Intentionality as the Basis of Mental Content
(第3週)LevineのSecondary Qualities: Where Consciousness and Intentionality Meet

(2)Kim Sterelny著"Thought in a Hostile World"のreading group
毎週1chapterずつ。

他にもcontextualism, Ethics etcのreading groupが進行中。
当然全員事前に読む。
reading groupに関しては、私ははじめの2つ以外はなかなか手が回らない。

それ以外に週2回のseminarでゲストが毎回1時間発表、1時間議論、
またirregularにone day conferenceが入る事も多く、
明日は、PHENOMENOLOGY AND INTENTIONALITYのone day conferenceがあります。

私に関しては、それから、Davidに借りた本(Churchlandのmatter and consciousness, Bodenのthe creative mind)
関連論文などなど、
あと自分のpaperを直すことも!
私は楽しくて仕方がないです。
ただただ、みんなに比べてひたすら遅いので、くそー時間が足りないよ!って感じです。
こんなスピードで色んな事が進んでいく、という事に対してほんとうに素直に驚いたし、
それに対して悔しくなったり、かなわない、って素直に受け入れたり、尊敬の気持ちをもったり、
劣等感を持ったり、だからといって私は生きていかなくちゃ行けないし、
おとなしくこつこつやっているうちに、劣等感は押さえられ、
きっといつか、私は今ここにない何かを、という希望を胸に抱いている感じもしてくるし、
でもまた、tea timeなんかでうまく会話に入っていけなかったり、
seminar中に発言する事ができなかったりして、
また、現実と夢とずいぶんな差があり、
今の状況で、自分の中にわき上がってくる感情としては
本当にrichだな、とおもいます。
一人なのでなんとか絶対handleするしかないですし、
それもまたchallengingですが、
違いにぶつかること自体、というか
自分が呆然となる事自体、というか、
そういうことが私は全て好きみたいです。
結果としてすっごい楽しんでる、っていう感じです。

Student conferenceとしてKioloaに合宿に言った時の写真。
こんな仲間と一緒にいます。
上段Ayako, Nic, Carl, Brad
下段Ben, Ole, Rachael

Catherine Flickさん撮影

Wednesday 13 June 2007

生命の水

私たちのフロアでは、なんかみんな自分の顔のデフォルメが
それぞれのオフィスの扉に張ってある。
Davidが通りかかったとき、Ayakoもドアにはりなよ!ねえ、はらないの?
さあ、写真を撮ろう!
Weng Hongのコンピュータでできるよ!さあ!
といって、写真の撮り合いになった。
あははは、今のいいね、今の今の!これだ!とかいって、はしゃぐ。
Davidも自分をとって極度の頭でっかちにうつったその写真を
”意識の研究するから頭でっかち。”とかいって笑ってる。

Davidには嘲笑というのがない。
ゼミのとき、reading groupのとき、
どんなに変なpaperをもってこようと、どんなに不十分な議論をしようと、
ただ、少年のように、天を見つめて考えたり、
僕はこう思うけど、と自分の意見をいったり、
相手の理解が進むような言い方をしたり、
そしてたくさんのジョークをいって笑ってる。
嘲笑というのをみたことない。

頭が切れて、変な人を敏感に察して、嘲笑する人よりも、
少々鈍感であっても、決して嘲笑しない人の方がいいって
思うようになってきた。
(もちろん、Davidのことじゃない。彼の頭の切れ方と敏感さは並じゃなくすごい。)
私は、ずっと鈍感な人に憎悪といってもいいくらいの感覚をもって生きてきた。
そして人を馬鹿にしてきた。

今日はすっごく人を愛したいと思った。

何かできなくても、変でも、それぞれ生まれてから今この瞬間まで生きてきた。
どんなことを蓄えてきただろう。
どれだけのことを抱えているだろう。
どんな風に世界は見えているだろう。
どんな気持ちでいるだろう。
どんな事を夢見ているだろう。
計り知れない。
私が解るか解らないかに関わらず、その人の生がある。
それに、解ってもらえる解ってもらえないも関係なく私の生もある。
私に対する態度が何だ。
敏感って一体なんだ。
「こういう私」なんか人に提供できずに、
変で、どちらかというと機嫌が悪くて、そういう一瞬が切り出されて終わる事だってある。
コントロールできないものだ。態度なんか。もう、信用しない、そんなもの。
そう思った。そうなったら、人に対するrespectということだけが大事なもののような気がした。
それは同時に、心の中に大きなずっしり重い石をたてることでもある気がした。

素敵だから愛するのでもなく、
同じ感じ方だから愛するのでもなく、
ただただ人間に対してなんだか震える尊敬の気持ちになった。
大きな石を心の底において、しみ出す水がやけにつめたい。

Monday 11 June 2007

I hope you are well.

今日はこちらはナショナルホリデー。
静かな静かな大学構内。

今日は特別に寒い朝だった。
なかなか起きられなくてだけど寒くてそのまま眠る事もできずにただただ縮こまっていた。

もう約一ヶ月がすぎ、
こちらの生活には慣れた。
こちらの事をすごく大好きになった。
密かにANUのパーカーをかって夜寝るとき着てるくらい。
月末は学会でシドニーやらアーミデールやらにいくので、
キャンベラに居られるのはあと2週間ほど。
ついこの間までは、あああともうこれしかない、と思っていたのに、
どうも昨日今日はその2週間をつらく思う。
大好きになって慣れてしまった反動なのかもしれない。
日本の事をすごく恋しく思う。

あれをしていいのかな、これをしていいのかな、ああなんかこんなことしてみようかな!
という縮こまりからすこしびゅんと羽を広げる感じまで
さまざまな自分が出てくる。
日本では人にすごく厳しかったな、と思う。
こちらにきて、色々な事ができない、というハンデを背負ったとき、
どんな人でもいい人に見えた。どんな人とも関わりたいと思った。
少しでも知りたいと思った。
期限付き、ということが頭をぐるりと巡る。
もし期限がなかったらどうか。
いいわけができずに生きていかなくてはならないとしたらどうか。
相手にとっても自分にとっても。
そう考えた方がきっと変われる。芯を太める意味で。

自分が宙にぽっかり浮いて感じることもある。
そんなときは、ただただ精神を愛するもののところに返し、信じ、
またやれることを、と目の前の事を見つめる。

National holidayなんか関係なく、
夏を迎えていて、
それぞれの生活を送る仲間の事を思う。
いまどうなっているか、
どうしてこんなにも想像がつかないかというくらいつかない。
色んな事が少しずつきっと変わっている。
こんなときに祈りという言葉はあるんだね。

Sunday 10 June 2007

ある月夜

金曜日は恒例行事で学内のパブで飲んだあと、ピザを食べにいく。
その途中でなんだか歩道の段から足を踏み外し、転んでしまった。
気が動転して、すぐに大丈夫だよ!といってたったけど、
あれ?これは大丈夫ではないかも、と思った。
変な痛み。力が入らない。
なんだかKioloa合宿の時も、合宿所にあったピンポンゲームに熱中しすぎて、
思いっきりこけた。
その時ジーパンの膝に穴があいて、当然膝も穴があいた。
なんだか足下がおぼつかない。

とりあえずカールがゆっくり歩いてくれて、ピザやに到着した。
本当に意味が分からないけど、いつも生物学科の人や、医者や、色んな人と合流する。
カールが心配して、友達のお医者さん(いつも夫婦できてる)に足を見るように頼んでくれる。
ここが痛い?ここをこう押すと痛い?うーん、
そんなにシリアスじゃないとおもうけど、腱をちょっとやってるかもね。一日3回氷で冷やす、いい?
とのことだった。
カールによると彼はすっごく良いお医者さんらしい。
なんか、みょーーな雰囲気のある、千と千尋に出てきておかしくない感じの、ひょうきんさのある人だ。
ピザを食べながら、足が痛いなあ、でも2時間くらいかければ、歩いて帰れるかもしれない、
(タクシーはキャンベラは全然居ない。これ以上迷惑かけたくないから、誰かに呼んでもらうより、歩く方がいいかも。)
とかぼんやり思っていると、
いきなり知らない女の人が、
”ねえ、私が車で運転するからこのあと一緒に帰ろう?足のために本当にそうして?”
と話しかけてきてくれた。
彼女もカールの友達らしい。
”私はこの近くに住んでるから気にしなくていいの、あなたの家はどこ?本当に送るから。”
といって結局彼女に送ってもらうことになった。
彼女は途中薬局により、あなたはここにいて、私が買ってくるから!と
私のために、bandageからaspirinからそろえてくれ、
私の家に着いて、冷凍庫に例のパスタソースのはいったタッパ以外なにもはいっていないのをみて、
また買い物に行って冷凍枝豆を買ってきて、私の足を完全に手当てしてくれた。
彼女の名前はBobby。
メイルアドレスを教えてくれるように頼んだら、携帯の番号も書いてくれた。
”助けが必要かもしれない。助けてほしいときここに電話して。”
また必ずあう約束をして別れた。

私はどんなことをしてあげられるだろう、と思ってただただ目をつぶって眠った。

Friday 8 June 2007

家事でブレイク

一人暮らしを始め、
せっかく台所、お皿お鍋全部そろっているのに、
なにもやらない手はない、と、
中途半端に調味料をそろえ、(塩と醤油だけ。)
ふむ、っとなにやらつくりはじめた。

私は意外ときれい好きらしい。
掃除用具は必要ないものまで買って、ひたすら掃除した。神経質なくらい。知らなかった。
水回りと床は徹底的にきれいじゃないと嫌らしい。
だけど料理はどうでもいいらしい。
なんせ実家でやったことないんで、自分の性質がわからない。

スパゲティを食べたいけど、
オリーブオイルを買うのがめんどくさい、チーズでよし、肉も買ったしとか、
とにかくものぐさ太郎となって、
しかし、なにをおもったか、ミートソースのソースから作り始めた。
もちろん、以前に作った事なんかない。

多分きっとおいしいはず、と
赤ピーマンとたまねぎと、マッシュルームと、
にんにくとハーブのスパイスをかって、
やたらにきっていっきにトマトで煮込んだ。
量とかも残っても困るから、あるだけ入れた。
先にいためたりなんかしない。油がないんだから。
そして後からひき肉をなんとなくばさっといれてみた。
一応塩はした。

火が通ったくらいの感じではなんとなくおいしいけど、
なんとなく足りなくて、
もうちょっと肉かな、ボト、もうちょっと塩かな、バサ、とやって
すっごいすっごい煮たら、なんかおいしくなった。
赤ピーマンから出る味がすごい良いみたい。
あと多分、選んだ瓶のトマトが多分良かった。

そして気がつくと、冷凍してとっておけば、
何日か生きていける分のミートソースができた。
あったまいい〜。

それでも、ひき肉はあまった。だって、量が半端じゃない。
さて、次はこのひき肉を消費しなければ。

のんきに、Rachaelとデックリンに料理作った〜と話したら、
頭を抱えられた。
意外とおいしかったんだけどな〜
こっちの人は男も女もみんな料理ができるっぽい。

Thursday 7 June 2007

Rationality

昨日はAlがランチをとりながら、議論をしよう、といってくれて、
ついに、話すことができた。
Alは確率を専門にしている哲学者なので、
どんな風な反応をするか、非常に緊張していたけど、
私の実験の意味をすぐに理解し私と同じ深刻さで捉えてくれた。
ものすごくあたまの切れるひとで、議論は本当に面白く、
私は集中してしまって目の前にあるご飯をすっかり忘れてしまって
居残りご飯をしたくらい(笑
それに加えて、philosophyのjournalに出すのはどうか、ということから、
誰々を紹介するから会え、ということまで色々suggestionをしてくださった。

Davidに話をしたり、また、飲み会の場で、合宿の場で、
様々な人に聞いてもらったけれども、
どうも、rationalityということを気にする人が多い。

はじめは、これがrationalであろうが、irrationalであろうが、
関係ないじゃん、と思っていたが、
なんでだろうとどっかでずっと気になっていて、
ふと思った事は
rationalityの定義を変える事が重要だ、ということ。
optimal behaviorとrational behaviorを区別することが意外と重要なのではないか。
ある行動が、optimalなものでないからといって、
rationalでないという理由はない。
なぜならば、みんながみんな同じ行動をしていたら、その種は外乱に弱い。
多様である事が種として安定、
すなわち、多様性、個体差というものをひっくるめて"objectively" rationalと定義できるはずである。
そう考えたとき、主観性(それがもしも個体差を生み出す原因であるならば。)
そのものがrationalであると考えられるのではないか。

そのように"collectively" rationalとsubjectivityの関係についてぼんやり考えながら、
研究室の窓からぼけっと外を見ていると、
ぞっとした。
噎せ返るほどの多様性を体が理解した。
種も何も、この世の中には、こんな変な動物が居る!植物がある!
人間だけ、動物だけが、中心のはずがない。
神様が、人間だけが種として安定であるようにつくっているはずがない。
人間が種として生き残るために世界を作っているはずがない。
安定なんて、してもしなくても良かった。
あの鳥がいる、あの草がある、あの生の形、あの形、あの形!
どうしてこんなにもたくさんのものが今こうして存在しているのか。
どれもこれも、この地球に奇跡的に一瞬表れてこの地に触れただけのこと。
種もなにも、どろり、と溶けた。
自分がビリリと音を立てた。

数日前にいったキャンプの、恐ろしいほど美しいプライベートビーチの寄せては返す波の感触が蘇る。
そのビーチでみた満月は空に開いたピンホールのようで、
真っ暗な地球という星の外側は光に満ちた場所であり、
まるで電気の通わぬボロ屋に開いた壁の穴に光が差し込むかのごとくだった。