Tuesday 4 February 2014

京都基礎物理学研究所での発表

私が大学4年生で、大学院の入試も終えて、
茂木研究室に入ることが決まっていた、12年前の冬(2001年12月)。
茂木さんが、京都で養老孟司さんのいらっしゃるシンポジウムがあるから、
みんな来い、と、茂木研究室の学生達と、
私のような入る前の学生にまで声をかけて下さった。
 
茂木さんに出会ったのは、私が大学で物理をやっていて、
物理のあまりの無菌さに違和感を持ち始めていた夏の頃で、
複雑系というもっと、猥雑で面白い学問があるよ、と先輩達が熱を持って語るのを聞いて、
のこのこと、複雑系というのをやっている大学院の説明会に行ってみたら、
たまたま茂木さんがいたのだった。
だから、脳科学をはじめから知っていて、茂木さんに憧れたのではなかったし、
本も読んだことがなかった状態で出会ったのだが、
その姿を見て、ここに入ると、その場で決めてしまった。
そうして、試験を受けて、合格して、大学の物理の卒論に追われている、
まだ白紙のぼーっとした状態で、そのシンポジウムに行ったのだった。
 
京大の湯川記念講堂。
木の床の大きな講堂に、たくさんの木机がならんでいて、たくさんの人が座っていた。
私は本当に無知で、養老さんさえ、実は存じ上げず、
研究室の先輩達以外に、誰一人として、識別できる顔はなかった。
私はなんとなく真ん中の段の端っこの席に座って、話を聞き始めた。
 
ぼそぼそと、前の方の席に座らねばとても聞き取れないよ!
という小さな声で、発表を始めた方がいた。
全然聞こえないから、前のめりになって、一生懸命聞き取ろうとすると、
「1+5は、もしかしたら、いちごかもしれない」という声が聞こえた。
自分が何を聞いたのかわからなくって、気のせいかな、と思ったら、
気のせいではなく、
「フレーム問題」という名前も付いているようで、
しかも、その方が、あきらかに本気というか、
まるで、自分自身が生きていくことと等しいかのように、話されているので、
私はなんだか、めまいがしたのだった。
このめまいが、どういう種類のものかといえば、
いままで、私の知っている科学の世界の中では、
自分自身の問題と、科学の問題とは切り離されたものだった。
自分とは遠いところにある、深遠な、無菌の、真実を探す、という感じで、
それをやることによって、自分自身は崩れなかった。
そういう頭の使い方こそが、知性というものなのだと思っていた。
だけど、この人の話していることは、自分自身の話だった。
自分自身の、ほんとうに切実な話なんだ、という感じがした。
衝撃だった。
後から考えれば、自分自身が崩れてしまう、
そこに、深遠な真実がある、ということを、
私ははじめて知ったのだった。
自分自身から離れない場所に、だけど、ものすごく遠い、
本当の世界が広がっているのだということ。
その方のお名前は、郡司ペギオ幸夫さんというのだった。
 
その人の後にも、ここで話されることは、そういう種類のことだった。
「そういうことって、考えて良いんだ」ということが、私の最大の発見だった。
ものすごく自由に見えて、科学って、こんなに自由なんだ、と思った。
自分の小さな頃に、あるいは思春期の時に、感じていた、悩み、
考えても仕方がないんだと切り捨てることを推奨された悩みが、
蘇ったような気持ちがした。
そういうことこそ、考えるべきなんだ、それは考えて良い問題だったんだ、
それを私はここで教えてもらったのだった。
 
夜の飲み会では、
「おまえら、養老さんの前に行け!話してこい!」と茂木さんにいわれて、
目の前に座らせて頂いた。
養老さんは、私たちに
「君は死体を、触ったことがあるか。解剖しようと思うか。」
と聞かれた。
私は、12年経ったいまだにない。
それ以来、時々思い出しては、
そう聞かれたことの意味を考え、
そうすることになる瞬間を、私はずっと恐れている。
 
それからは、私はどんどん自由になっていた。
やりたいと過去に思ったことがあることを、
一個一個取り戻していくような、
心の底から水が湧いてくるような、
そういう思いを味わった。
いまでも、その最中であり、
あの、シンポジウムがなかったら、
私の人生はまったく違っていただろうと思う。
あの時から、自分は生まれた、と私は感じている。
 
そして、2014年1月。約12年ぶりにそのシンポジウムが開かれることになった。


With Ken Mogi & Tetsuo Ishikawa @ Yukawa Institute in Kyoto Univ.

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