朝八時半のオープンに合わせて、丸亀のホテルを出た。
琴平駅に降りると、平日ということもあって人はまばら。
桜が満開の、真っ白な傘の下、飴売りの女性たちが支度を始めていた。
既に支度を終えた一人の人が、「これ食べていってください、楽に上がれますよ-。」
と黄金に透き通った飴を一カケ下さった。
砂糖です!という味が口に甘ーくひろがるのかな、と思っていたら、
全然違って、どこまでも透明な味、遠くの方に柑橘の味、
天国にでも来たみたいだ。
お姉さんの言うとおり。楽々階段が上がれちゃう。
ああ、桜がこんなに咲いて、と顔をあげると、参道の左手、黒い馬が目に入る。
その横には、白い馬。
きゅっとこちらを緊張させる、異質な姿。
参道の右手は高橋由一館。
藝大美術館にある由一の鮭がすごい、と美術のお友達から何度も聞いていた。
それでも私は一度も目にしたことがなかったのだけれども、
この金刀比羅宮には、由一の奉納した油絵が27点もあると知る。
行きに寄るべきか。帰りに寄るべきか。
この天国のような流れで歩いて行くのも良いけれど、
帰りは違う道になったらどうしよう?
行きに寄ることにした。
係の方はまだ、外の掃き掃除をしていらした。
薄暗い館の中で、たった一人、観せて頂く。
全部が由一さんの絵だ。
いくら有名だからと言って、わからないものはわからない、
ぶつぶつ独り言を言いながら、一点目の前に立つ。
二点目、三点目、ときて、桜の枝の入った桶の絵の前に来た、
何かが気になったけれど、とりあえず通り過ぎて、
有名なお豆腐の絵の前に来てしまう。
はー。わからない。
先を歩いて行くと、琴平の絵に目がとまる。
あれ、昨日宇多津を歩いていたとき、まさにこんな気持ちで宇夫階神社の山を眺めたんだった。
このあたりは本当にこうだよねえー、、平らなところをなんとなく途方に暮れながら歩いて、
神社の山が見えて、ほうっとあれかあ、と思うんだ。
一度そう思うと、次の絵次の絵と自分の目を重ねていくことが出来る。
そして桜の絵の前に戻ってきたとき、
これには人が描かれていないけれど、人がすぐに横に居るような絵なんだ。
だからすぐに自分がその桶を置いた人物のような気がしてしまうんだ。
途方に暮れる原っぱの向こうに山があって、私はそこに桜の枝を持ってきた。
なんのため?
誰かのお参り、じゃないのかなあ。
この原っぱへ。
私が自分の目を重ねることが出来るくらいだ。
由一さんは一体いくつの目を持っているのだろう。
由一館をでると、一人一人が目にとまる。
そして実際、色んな人に声をかけられる。
一人で来ている人には、シャッターを頼まれ、
また、下で出会うとさっきのお礼を言われる。
階段がきついから一番上まで行くだけで、
ねーちゃんのぼってきたんかあ!俺はここで留守番や、と褒められる。
物知りの人には、あれみときぃ、あそこに描かれている桜はぜんぶ金で描かれてるんやでぇ。
あれだけで、財産やぁ、と教えられる。
自分に見えているもののことを描きたくなる。人の顔を描きたくなる。
あの景色、この景色、
寄り道しては立ち止まって、なかなかまっすぐ進めない。
お遍路ってこういうことを言うのかなあ。
一番大事な目的に向かってまっしぐらに走るのではなくて、
お祈りなんかどこへやら、
いま見えるものをひろえるだけひろって、それで見えたものを次にやる、みたいな、
寄り道、寄り道、自分で拾ったもので道を作っていくような、
歩いた道が全部体に残っていくような、
歩くこと自体が楽しくなってくる道をいうのかなあ。
ああ、ここは、両親と一緒に来たかった。
だから家へ帰って、沖縄の硬い豆腐を見つけて、
お豆腐のステーキをつくってしまったんだ。
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