ある意味で言葉は人間が生み出す物の中でもっとも圧縮率の高いものだと言える。
自分が見た物は、眼からLGNを経由して大脳新皮質の一番後ろ側に入り、
そこから、複数の経路を通って解析され、言語野に到達し、
我々は何を見たのか、言葉にすることが出来るようになる。
私はこの間一人、金比羅さんに一日旅をしたのだが、
長い長い階段を上りながら、小学校の頃のように画板を持ってこの景色を写生したい気持ちにとらわれていた。
快晴の平日で、人はまばらで、櫻は満開。
櫻以外の木々の緑に、おおきな造りの、書院、拝殿、寄り道寄り道登っていく。
天国のような景色の中で、この全部を覚えていたいのに、
覚えていたいと思った瞬間からばらばらこぼれおちていく。
「こんなところだった、こんなによかった!」というのを帰ってから人に伝えるのに、
言葉が足りないという経験を誰もがしている。
自分が見た物に対して、とても粗くて、大体でしか言えない、という経験。
いずれにせよ、私たちの体をすみずみ通って、最後にまとめあげられるのが言葉だ。
それがあまりにも粗くて、曲がっちゃうから、
せめてこの景色を手でなぞることでもうちょっとだけわかりたい、というのが
写生したい気持ちだった。
言語は、頭の中だけで作られる物、というイメージは間違いだ。
Michael C. Corballisは、”the gestural origin of language”というのを唱えていて、
彼は言葉の起源はもの言わぬ体にあると言っている。
言葉というのは同じ言葉でも誰が言うかで意味が変わる物だし、
言葉と意味というのは一対一対応しているわけではない。
それに、言葉は今ここにないものまで指し示すことができるわけで、
言葉の重要な一つの性質は、一般性、抽象性だと彼は言う。
声を使ってコミュニケーションをとる猿たちを見てみると、
意外と、この鳴き声はヒョウが近くに居ることを表す合図、
この声は蛇、この声は鷲、という感じで、一対一体応になっていて、一般性に欠けるらしい。
この声は蛇、この声は鷲、という感じで、一対一体応になっていて、一般性に欠けるらしい。
より一般的なのは、彼らがつかう身体のジェスチャーの方で、
ある一つのポーズが、全然違う必要性や意図を表すことがあって、
文脈によって違う意味を帯びるし、
文脈によって違う意味を帯びるし、
更には、鳴き声には数種類しかないけれども、ポーズにはたくさんの種類がある。
だから人間の言語に近いのは、彼らの言わば物言うコミュニケーションの方ではなくて、
静かな身体のコミュニケーションの方であり、
人間の赤ちゃんも、言葉でしゃべり出す前に、
指で何かを指し示す、という行為が始まるのであって、
指で何かを指し示す、という行為が始まるのであって、
言葉の起源は、身体にある、と彼は結論する。
そういう説を見ても、
やはり、手から、足から、内臓から、眼から、耳から、舌から、身体全部からの感覚と、
これまでに蓄えられた記憶とか全部言語野に届いて、
それが最後に圧縮されてある言葉にまとめられる、
やはり、手から、足から、内臓から、眼から、耳から、舌から、身体全部からの感覚と、
これまでに蓄えられた記憶とか全部言語野に届いて、
それが最後に圧縮されてある言葉にまとめられる、
という像が見えてきて、
けっして言葉は、頭と頭でやりとりされる便利な物なんかではない、という気がしてくる。
つまりは、
一つの言葉が何を指しているのか解凍するのには、
それを圧縮したのと同じ肉体がいるということにならないか。
一つの言葉が何を指しているのか解凍するのには、
それを圧縮したのと同じ肉体がいるということにならないか。
誰かが発した言葉を本当に理解するのは、本当に大変で、
一人一人自分の身体が解凍できる分だけ理解しているのではないかなと思う。
誰かの言葉が自分の体でどんな味わいとして展開できるか。
一人一人自分の身体が解凍できる分だけ理解しているのではないかなと思う。
誰かの言葉が自分の体でどんな味わいとして展開できるか。
自分の身体を全力で使って、自分なりにどういうことなのか理解しようとすることが大事なのだと思う。
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論文紹介を一つ。
この間見つけて面白かったのは、
J. M. Melcher & J. W. Schooler.
”The misremembrance of wines past:
verbal and perceptual expertise differentially mediate verbal overshadowing of taste memory.”
Journal of memory and language, 35. 231-245 (1996).
”The misremembrance of wines past:
verbal and perceptual expertise differentially mediate verbal overshadowing of taste memory.”
Journal of memory and language, 35. 231-245 (1996).
という論文。
例えば誰かの顔を覚えるのには、写真を何度か見せられれば覚えることができるかもしれない。
そういう知覚に頼った方法なら簡単に覚えられるのに、
言語を介してしまうと覚えられなくなってしまうと言う。
写真を見せられて、どんな顔か言語で表現してもらう。その後、何枚かの写真を出して、
さっき見たのはどの顔でしたか、と聞くと間違うことが多いようなのだ。
目が二つ、鼻が一つ、口が一つ、は言えるけど、
本当に個性をつくっているもののことを言葉で表現しようとしたら大変だ。
言葉が足りないというものについて、言葉で表現しようとするときに起こる問題が
この論文では取り上げられている。
著者たちは、ワインの味について、
ワインを飲ませて、その味を言語で表現させる場合と、させない場合で
さっき飲んだワインは、これから飲んでもらう4つのワインのうちどれでしたか、と聞いて、
正答率が変わるかどうか、という実験を進める。
ここで面白いのは、(1)ワインを一度も飲んだことのない未経験者と、
(2)ワインはよく飲むけど言葉でそれを表現するということにトライしたことはあまりないという人たちと、
(3)ソムリエのように味の経験も、それを言葉にする経験も両方持っている人たちの
(3)ソムリエのように味の経験も、それを言葉にする経験も両方持っている人たちの
三グループに実験をやっていることだ。
結果はこうだった。
(3)のソムリエたちは、言葉で表現しようとしなかろうと、飲んだワインを当てることが出来た。
(1)の未経験者たちは、言語で表現したほうが、しない場合より、正答率が高かった。
(1)の未経験者たちは、言語で表現したほうが、しない場合より、正答率が高かった。
(2)の中間経験者たちは、言語で表現しなければ当てることが出来たのに、言語で表現してしまうと、当てることが出来なくなってしまった。
つまりperceptionのexpertiseとlanguageのexpertiseの釣り合いが重要で、
(3)の、感覚も言葉もプロの人は別に良いのだが、
(2)の人たちは、ワインの味の経験は積んでいるけれども、それについて言語で表現する経験は積んでいない。そういう人たちは、へたに言語化すると、記憶がねじ曲がってしまう。言語なんか通さずに、味だけで勝負すれば、ちゃんと正答できたはずなのだ。
(1)の未経験者たちは、そもそもワインの味の経験が無いので、言葉で粗くでもとらえないと、そもそも区別の付けようがないらしい。
学校のオベンキョウのように、そもそも本の中に言語で書かれているものについては、それを覚えるのには言語でくり返し唱えればいいのだが、
実際の生活の中では、はるかに、言語で捉えられるものを超えた情報があって、そこに言語を下手に介在させてしまうと、学べなくなってしまう物があるということ。
そして、逆に、言語を介さずに学習できる物があるということ。そっちのほうが膨大だということ。
入ってくる知覚の氷山のトップが言語。
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