母語以外の言語を習得するというのは、
大人になってやってきた、赤ちゃんの雲を意識的に体験するチャンスなのだなあ、と思う。
中学校から大学までコンスタントに英語の授業を受けてきて、
ホームステイの経験もあるのに、
聴き取りが難しかったり、話せなかったり、長い長い苦しみの期間が続いた。
大学院を卒業した後、心の哲学のデイビッド・チャーマズさんのところへ行きたくて、
三ヶ月留学したのはいいけれど、
英語の哲学の世界は地獄だった。
ディビッドと、私の重要なコミュニケーションの一つは、
「今日のトークは何パーセントわかったか?」
20、とか、30、とか一言で終わるコミュニケーション。
デイビッドはその報告を本当に楽しそうに聞いてくれた。
もう三ヶ月たつというある日、
私は50、と報告した。
「みんな、あやこが50だって!!!!すっげー。三ヶ月で本当にあやこは上手くなったよね」
と大騒ぎ。
(ディビッドは、少なくとも、私については、
「その人」の中で一生懸命努力していれば良い、というポリシーをつらぬき、
「その人」と一緒に喜べることを大切にしてくれる人だった。
哲学が出来なければ来るなとか、英語が出来なければ来るなとか言う人ではなかった。)
だけどその時私は、確かに前より聞き取れた気はしていたのだけれども、
話し手が掲げた問題のstatementがあるとして、
それを正しいと言っているのか、間違っていると結論づけたのか、
そこがうやむやで、
つまりは、哲学的議論としては、さっぱりわかっていないと同じ事で、
W. Schultzの言っていた、50%は一番uncertaintyが高い、
ということを実感していたのである。
その三ヶ月、英語をどっさり浴びていても拾えることは少なくて、
例えばnotが聞き取れなくて正反対の答えをしては落ちこみ、
まさに雲の中で、全然世界が見えないような感じで、
最後の日々の「50%」の時間は、そのもやがもっと激しく感じられただけだった。
そんな私がまた何年もの時間が経って、
茂木さんとのお仕事で『頭は本の読み方で磨かれる』という本を作らせて頂いたとき。
茂木さんが驚くべきことを言った。
「本の中に書いてあることの全部がわからなければならないという気持ちで読むのは間違いだ。」
難しそうな本でも、スキミングをして拾える分だけ拾えばいい。
全部はわからなくても、雰囲気だけはつかんでいるものだ。
それに、全部がわかった、と思った本だって、
読み返してみればまた新しい発見があるものである。
本も自分も成長するものなのであって、「全部わかる」なんてことはないんだ。と。
私は英語の本を、全部わからなくても、最後まで一冊をめくり通す、ということを始めて、
毎日一章読むことを習慣にした。拾える分だけ拾って。
一月に平均二冊くらいは読める計算だ。それで二年が過ぎた。
「人の話を全部わかることなんてない」ということが当たり前になってきて、
ようやく36歳の今、もやが晴れてきた。
知らない単語が少々混じっていても、雰囲気をつかむ能力が長けてきているから、
全然それが邪魔にならないで物語をたどっていくことができる。
書く人が違えば全然違う味がする。
あーあ、長いことかかったなあ。。。
赤ちゃんはたった二年ほどで、言葉を話し始めるけれど、
その間の雲のかかった時間を、大人は忘れてしまうどころか、
大人になったからこそ、意識的に経験できるものなのだなあ。
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