Saturday, 25 July 2020

青い傘

毎日雨が降っている。以前と違って、どさっと降る。
折りたたみでは間に合わない。
私の使っている長傘は、母の病気がわかるしばらく前に、一緒にお店に行って選んだ青い傘で、
母は、「とても良いね」と言って買ってくれたわけで、心から気に入っていたからか、病気になってから「この傘は自分のだ」と主張することが増えていった。
私が持って出ようとすると、「まあいいよ、貸してあげるよ」と言うのだった。
しかし最近では、そんな風に自分の好みを主張することもなくなって、傘の取り合いもなくなった。
それで再び青い傘は私の傘になった。

数日前、用事があって久しぶりに東京に出た。どれだけ雨が続いてしまうのだろう、と茫然とする毎日の中で、ひさしぶりに晴れ間が見えた。
うれしくて、上下鮮やかなブルーの服を着た。
夜、気心知れた少数の人たちだけで短く飲んで、新宿で別れた。
久しぶりに人に会うと、うれしくて調子に乗りすぎて、言い過ぎてしまったかなと、一人で電車でゴトゴト揺られるにつれ、不安な気持ちでいっぱいになっていった。
自分の駅に降り立ったら、東京に比べて灯りもない真っ暗闇で、土砂降りの雨だった。
ふと見ると私の手に青い傘がない。
調子に乗りすぎて、のんだ場所に忘れてきたのだと思った。
急いで電話を掛けた。ありませんという返事だった。
昼間の場所かと思って、電話を掛けたら、夜だから誰もでなかった。
寄った駅のお手洗いかもしれないと思ったけれど、駅の電話番号が、お忘れ物係にかければいいのか、どこにかければいいのか、パニックで探し当てられなかった。
落ち着こうと思って、雨の中外に出た。
タクシーを待つ長い列ができていた。
コンビニへ方向転換して歩くうちに涙が止まらなくなった。けれど、どうせ体も濡れたし、マスクもしてるし、ビニール傘を一つ選んで、泣いたままレジに向かった。
そのままとぼとぼ家路についた。
あの傘は写真にもきっとうつっていない。傘になんて普通注目しないし、雨の日に外でなんか写真撮らない。大体、千円くらいのやすい傘だし。青くて、いくつか花が描いてあった。一番の特徴は、母が最後に選んでくれた傘ということ。
家に着いたら、父と母の寝室にオレンジ色の電球が灯っているのが見えた、もう寝てる。
号泣しながら玄関を開けたら、青い傘がいつものところに掛かってた。

そうだ、今日は晴れていた。だから傘はそもそも持っていかなかった。青いイメージは自分の服。人に会う喜びに化かされた一日。

Monday, 11 May 2020

忘れられない母の言葉 恩蔵絢子

先月発売された「PHPスペシャル」2020年5月号に載せて頂いたエッセイ
『忘れられない母の言葉』を編集の丹所千佳さんにご相談して許可を頂いて、
全文公開致します。

「PHPスペシャル」2020年5月号イラストはカトウミナエさんに描いて頂きました。


月、祖母がなくなった。母の母だった。最後の約3カ月、母が認知症を患っているので、私は母の代わりに祖母の看病をした。祖母は、大腿骨骨折で入院したのだが、なぜだか食事を一切取ろうとしなくなり、食事のことで悩んだ3カ月だった。
祖母は点滴も嫌がって、自分で針を抜いて毎日血だらけになり、そのうち手にミトンをつけられた。91歳の高齢、血管も弱くなっているそうで、これ以上栄養を点滴から取るのには限界があると医者から言われ、最後は水分だけの点滴に変わった。その水分だけの点滴を外すという決断をしたのは私である。点滴を外して、たった2日で祖母は死んだ。
祖母の命に関わる決断を、私がすることになるなんて、思ってもみないことだった。

看護師や、ソーシャルワーカーとの家族面談で、母の弟は、「まだ意識もはっきりして、会話もできるのに、点滴を抜いてしまうのはどうなのだろう」と言った。全くその通りである。
私も、祖母には1日でも長く生きていてほしい。けれど、もし、骨折とそれに伴う手術の疲れや精神的なショックで食事が取れなくなっているだけで、本当には祖母の体に元気が残っているならば、いい加減にお腹が空いてくるはずだ。
怪我から3カ月経ってなお、食事を自分で取れるようにならないなら、これは祖母が体力を使い果たしてしまったということなのではないか。
祖母はこの話し合いの日の昼食時、スプーンの先にほんの少し、のりたまのかかったどろどろのおかゆをのせたのを、数回口に運んだら首を振り、そのあと数秒白目を剝いた。
ベッドでただ座っているのだって、枕を体の横に敷き詰めなければ、棒のように倒れてきた。
点滴が嫌だから、祖母は自分で針を抜こうとするのであって、ミトンをつけた不自由な状態で、最後を過ごさせて良いのだろうか。最後が近づいていることから、祖母でなく、私たちが目を背けているのではないか。
叔父と私の意見を聞いたところで、看護師が、同席していてそれまで一度も口をきいていなかった母に話を振った。「娘さんは、どう思われますか」。
私は、母の沈黙が苦しくて、また母が文脈から外れたことを言ったらどうしようと怖くなって、母の応答を待たずに、看護師の方だけを向いて「認知症があるんです」と言った。
それで自分ではっとした。母を決めつけてしまった。それに認知症があろうと、なかろうと、祖母の息子、娘を差し置いて、孫の私が意見を言っていることが信じられなかった。
「ごめんなさい」と口に出したら、なんだか涙が溢れてきた。

驚くべきことが起こった。母が、その瞬間、大きな声で「ごめんなさいじゃないよ」と私をかばってきたのである。病院の関係者、母にとっては知らない人がたくさんいる部屋で、母のお母さんについて私が口を出しているのにもかかわらず、また、私が母の意見の機会を奪ったのにもかかわらず、何もかも無視して母は私を守ってくれた。
正直、その瞬間は私の頭の中からも祖母のことが吹き飛んで、なんてなつかしい「母らしさ」、これがあれば私は生きていける、とあたたかい血が通うのを感じた。

母がアルツハイマー型認知症と診断されたのは、4年半前の2015年の秋である。その間に、私も母もいろんなことに慣れていった。
今では介護をしていると思わない日がある。母はデイケアに週3回通っていて、朝は父が母を送り出してくれるので、私は夜に3人分の食事を作るくらいだ。母はデイケアでお風呂にも入ってくるので、私が母のお風呂の手伝いをすることもほとんどなくなった。多くのことがルーティーンで、意識されることなく進んでいく。だからこそ祖母の看病もできた。
多くの人の力を借りていることと、慣れたことによって、認知症の症状は徐々に進んでいくにもかかわらず、楽になることがあるのは事実だ。
私が最近気になるのは、母の独り言くらいだ。「おばちゃんがね、じゃあそうしたらいいんじゃない、って言うからね、だからそうじゃないって言ってね、そうしたら男の子も早く来られるからいいじゃないって言ってね・・・・・・」
無関係に、その瞬間に目に入ったことが、一文一文連なって、終わりがない語りとなることがある。母は脳の記憶中枢「海馬(かいば)」に問題があるために、「新しいことを覚えることが苦手」だ。1分前に何を語りたかったのか、何を言ったのかがわからなくなると、このようなことが起こる。
私は、病院での話し合い時のように、人目があると、こんな語りをどう思われるだろうと心臓がどきどきしてきて、フォローを入れなければ、ごまかさなければとあがいてしまう。
母が人前で何を言っても大丈夫、という気持ちになれたら、はじめて、私は人間の自由をほんとうに尊重するいい大人になれたと言える気がする。

あの面談の2日後に、病院から危篤という連絡をうけて駆けつけたら、祖母はもうなくなっていた。そこにあったのは、遠いところを見つめて涙をためた祖母の目と、もう手を握り返してくれないという事実。祖母の看病の思い出の中で、「ごめんなさいじゃないよ」という母の声は、私を支え続けている。

(「PHPスペシャル」2020年5月号初出)


Thursday, 7 May 2020

今日のお弁当箱

散歩に出て、青空の下、喉を通っていったアイスコーヒー。
頭に浮かんだ、母の腰の痛がり方は、圧迫骨折ではないかという不安。
ダイニングテーブルに痛くて着けない母。
布団の上で食べられるようにつくったおにぎり。
海苔の部分を避けて食べる母。
これならどうかと出した一個きりのシュークリーム。
下からクリームが飛び出して、ぐちゃぐちゃになったのを、使用済みのマスクに包んで隠蔽する母。
病院に行こうという提案をめんどうくさがって寝転ぶ父。
痛いと訴えるのに、寝転ぼうとしない母。
何もかも嫌になって自分の部屋に上がって、一人で食べた、ちゅるっと冷たい素麺。
窓からびゅうっと通り抜けていく風。
夕飯の残りだけど、なんておいしいのだろう。

感情のお弁当箱

あるときから「感情のお弁当箱」を考えるようになった。
今の自分の人生の主食となっている感情は何か。
母が認知症になって、毎日どうしても引き受けざるを得ない悲しみ。
それが、お弁当箱の中を半分占めてる白いご飯である。
それはどうしても避けられず、毎日の中に入ってくるのだとしたら、
それをどうしたら楽しく食べられるか。
梅干しを載せて、空豆が入っていたら嬉しいし、味の濃いチーズハンバーグなんかも欲しい。
それが例えば、友達とのお酒や、習い始めたフラ(体を動かす喜び)であり、研究である。
栄養のバランスを考えて、お昼にあけるのが楽しみなお弁当にしようと考えるように、
人生の感情のバランスを考える。
お弁当箱の中に、ときには、さらに苦い物が入ってくることがあるけれど、
何があるとおいしく食べられるのか。
一つの感情に偏らないように、どんな感情があったら、人生が幸せになるかと考える。
質の違う感情を意識して、ちょっとしたおかずをどんどん人生に入れていくこと。
それが癖になった。



Tuesday, 5 May 2020

三、四、五月の本


 最近下巻が出版され、完結したばかりの角田光代さんの新訳『源氏物語』(上、中、下)(河出書房新社)。角田光代さんの新訳はとても読みやすく、巣ごもりして仕事もなかった四月でなければ読めないようなボリュームのある源氏物語だけれども、これを読んでいる間は不安も忘れる、というほど没頭した。どんなひとにでもいいところを見つけて、一度関わったらずっと付き合い続ける光君と、女君、それぞれの諦め、苦悩、ほんのちょっとの喜びを、一気に駆け抜けてみると、素晴らしくカラフルな人間の魂が見えてきた気がした(ほんとうにカバーの色のとおり!)。



 これをきっかけに、分厚い本を読み通す、という快楽に目覚めてしまった。それで、実は一度も読んだことがなかったファーブル昆虫記を読み始める。これもカバーが本当に綺麗だ。モンシロチョウとツマキチョウの見分けができるようになりたいばかりに、毎日歩き回っていたからか、祖父母の家に、ファーブル昆虫記がずらっと昔は並んでいた気がする・・・と思い出す。だけどいまや祖父母はどこか空の上。書物も叔父が持っているかどうか。いまは叔父にも会いに行けないから、奥本大三郎さん訳の『ファーブル昆虫記』第一巻(上)(集英社)を注文して読み始める。昆虫との関わりが、まったく「観察」「分類」という冷たいものでないどころか、独特で、笑ってしまう。そうでなければ、続くはずなんかないんだよなあ、と思う。
 p.273より「生き物の秘密ーーその解剖学的な構造の秘密でなく、生きて動いている生命の秘密、それも本能の秘密ーーを解くとなると、観察者の前に、無生物の場合とは別の意味で、ひどく厄介で微妙なもろもろの条件が派生する。自分の時間が思いのままになるどころか、彼は季節や日や時間、そして瞬間の制約をさえ受ける。チャンスが現れたら、迷うことなく、その場で摑まえなければならない。おそらく長いことかかってももう二度と再び現れないかもしれないからだ。そしてチャンスというものは、ふつう、そのことを夢にも考えていないときに現れるので、それをうまく利用できる用意はまったくできていないものである」好き。。。


 そうそう、こういうふうにブックカバーを紹介しようと思い立ったのは、沖縄在住の写真家、武安弘毅さんから、ブックカバーチャレンジをいただいたことがきっかけだった(うれしかった!)。武安さんからのバトンということで、本当は紹介したかった本がある。与那原恵さんの『首里城への坂道』(中公文庫)だ。ゴールデンウィークだけれども、今は沖縄に行くことができない。心の中だけで沖縄へ旅をする、そして。去年の秋に焼けてしまった首里城へ思いを馳せるという意味でもぴったりの本だと思った。だから読み返して、ここに載せたい、と思ったのに、家の中で行方不明になっている。。。悲しい。。。もう一度買ってしまおうか。


というわけでAmazonからイメージを拝借。
(https://www.amazon.co.jp/首里城への坂道-鎌倉芳太郎と近代沖縄の群像-中公文庫-与那原-恵/dp/4122063221

 感染症に関わる本ということで、読んだ本の中で、とても好きだったのが平川祐弘さん訳のマンゾーニの『いいなづけ』(河出書房新社)。感染症は、まったく予想もできないタイミングでやってきて、おさまるときもまた、そうなんだなあ。「ペスト塗り」なんて存在を人々が想像していることも、めちゃくちゃこわい。登場人物達が、みんなそれぞれの切実な動機を持っていて、それに従って動いていて、こういう人いるよなあと、ずるい人の気持ちに入り込めるところがほんとうにすごくて、一方でほんとうに清浄な人がいて、一つのものすごく大きな世界を感じた。


イタリアの質感にすっかり虜になって、もう一冊。平川さんの訳がとても好きだったので、こちらも平川祐弘さん訳のダンテ『神曲』(河出書房新社)。ほぼ一ページめくる毎にドレの挿絵がついていて、すごい。絵本の様に読める。『神曲』は、情景を頭に思い描かねばならない作業が多すぎて、何度挫折しただろう。しかし、その絵が、思ってもない迫力でページをめくる毎にせまってきて、文章に没頭できる。どうしてこの人物(たとえばプラトン!)が地獄にいなきゃいけないのか、一方どうしてこの罪を犯していてなお、この人は煉獄にいられているのかと、私の感覚からするとまったくわからないことがあって面白い、あれこれと思いをめぐらして、今煉獄編の途中にいる。



 この巣ごもり中に、はまっていた番組と言えば、netflixで公開されている『Tiger King』。虎やライオンという猛獣を飼う人たちのドキュメンタリー。オーストラリアの友人が、「見た人いる?この人について話さずにはいられないよ!」とfacebookで話題にしていて気になって見始めた。出てくるどの人も強い信念を持っていて、強い疑惑にさらされている。一話があんまり過激だったので、見るのを中断したほどだけれども、こわいものみたさでもう一話だけ、と見てみると、話を追う毎にもっと思いも寄らない疑惑にさらされる。正直、どうしていいかわかりませんでした。一方同じ頃、NHKのドキュメンタリーで『ヒグマと老漁師』がやっていて、動物との関わりということで、ほんとうに私の心に触れるのはやはり、後者でした。そんな流れで、動物物が読みたくなって、ずっと積ん読していた濱野ちひろさん著『聖なるズー』(集英社)を読みました。動物と肉体関係を持つ動物愛の人たちのノンフィクション。動物愛護と言っても、実は、動物をコントロールするという思想になってしまっている人と、動物には性欲があるということを込みで愛することを選ぶ人がいる。自分の思い込みが、どんどん剥がされて行きました。動物を愛する人たちは、いつもパートナーの動物が誰を、何を見てるか、視線を意識していて、家の中に動物がいる、という気配がそういう意味で色濃い、という話がとても好きでした。
(この画像もAmazonから拝借致しました。https://www.amazon.co.jp/聖なるズー-濱野-ちひろ/dp/4087816834)
 そして、濱野ちひろさんが開高健ノンフィクション賞を受賞していたので、開高健が読みたくなって、吉行淳之介さんと開高健さんの対談『美酒について』(新潮文庫)を読みました。正直、なにを言っているかわからなかったです笑。お二人が常識としていることを、自分がまったく共有していない、ということで、わからないことが多すぎて、一ページを読むのが、どの本よりも遅かったです。一行に掛かっている元手(人生経験)というものを感じました。ほんとうに身の毛もよだつ話をされていて、たとえば駅の痰壺からストローでチューーと吸う、とか。そして、そんなのこわくないね、「我々はかなり地面に近く暮らしてたからね」とか言っている。私は、この感染症の不安の中散歩しているときに、すれ違うおじさんが、私の横で痰をペッと吐き出したとき、「それだけはやめて〜〜〜。なんでいまなの〜〜〜」とほんとうに泣きたくなりましたが、そんなの甘かった、と思いました。スノッブになりかけていた自分をぴしゃりとたたかれて、くらくら目がまわってしまう本でした。

昨日良くなかったことが、今日良くなること、そしてその逆

五月二日日記

両親とまた裏山に入る。
母は、一週間前に裏山に入ってから、すこし腰の調子が悪化したようではあった。
母はいつからか背骨がかなり曲がっていて、腰がよくなかったのである。
しかし、あんまり良い天気なので、今週もやはり、
父のストレス解消をかねて、三人で散歩する時間を持ちたい、
どうせ散歩するなら山に入りたい、と
母の様子を見ながら登ってみよう、ということになった。
母も、「山に行く?」と言うと、「いいよ、じゃあいこうよ」と言うのだった。

最初は、「大変なことは無言でちゃっちゃとやり通してしまうがよし」といわんばかりに、母はいつもよりはやいペースで、先頭切って登っていった。
折角山にいるのに、周りを見渡す様子がぜんぜんなく修行僧のように歩いて行く。
いつもだったら、あの花がどうだの、おしゃべりをするのに。
どんどん体が動いていることは、楽しんでいない証拠といえた。

気分を変えてもらおうと、さんさんと照る太陽避けに母は帽子をかぶっていたのだけれども、山の中に入るともはや木の陰でひんやり涼しくなっていたので、帽子をはずして、さらに腕まくりもしてもらい、こちらから色々と話しかけていくうちに、
ペースが落ちて、
しばらくすると、いつもの母に戻って見えた。

道の途中、誰かが小枝を立てて守っている植物

家を出て一時間ほどで頂上へ着いた。
もう夏に入った証拠に、霞が出ていて、素晴らしい天気なのに、かえってこの前にははっきり見えていた大島が見通せない。
夏の蝶、モンキアゲハがツツジの上を何頭も飛び交う。
木のベンチに腰を下ろして、レモンティーを口に含んで、母は「あーここはいいところだね」と言った。
無理して来てもらって、やっぱりよかったと思った。

四月から五月にかけて、この山に来るのはほんとうに最高。
暑すぎないし、蛭もいない。
ちょっと今日はもう暑すぎるだろうかと心配したが、
まだ大丈夫だった。
一週間前に登ったときは、鬱蒼としていてなんとなく嫌だった道が、今日のようなかんかん照りの日にはちょうど良い木漏れ日の道となり、すばらしく気持ちが良かったし、
大島は見えなくなっていたけれど、富士山が見えた。
「最高」は、移り変わっていくなあ、そしたらいつでも最高は見つけられるということか。
一時間ほど、頂上でゆっくりとする。

下り。
前回腰を痛める原因となった岩場のごつごつした道を避けて帰ることにする。
そのかわり距離は長くなるが、なだらか、なめらか、な道である。
家に着いたら、お昼は何にしよう、パンケーキにしようか。
りんごやキウイやヨーグルトもある。
そんな話をしていたら、母が私の目の前で転んだ。

つるっとすべっておしりから落ち、腰を打った。
あっというまだった。

父が振り向き、母は尻餅をついていて、私は体が固まったまま。
何秒間かが過ぎて、「ママ、大丈夫?」と後ろから声を掛ける。
母は動かない。
おそろしいが、顔を見ない分にはと、細い道だがなんとか回り込む。父も登ってくる。
母は目をぎゅっとつぶっていた。
「ママ」
「・・・もういいですから」とても小さな声だ。
「転んじゃったね。痛かったね」と触ろうとすると、
「もういいですから。やめてください、もうだめですから」と小声で言う。
「ちょっとこのままゆっくりしていようね、大丈夫だからね」
「ごめんなさい、もういいですから。大丈夫ですから。もうなにもしなくていいんです。わかっていますから。ごめんなさい。これはわたしのうちの問題で、もうなにもされたくないんです、だからやめてください」
目を閉じたまま、完全に拒絶して、何かを完全に諦めて、顔面蒼白で、小声でくり返す。
「おかあさんのところにいくつもり、おかあさんもそれがいいんじゃない、っていったから」
完全なショック状態だった。

どうなることかと思った。
骨が折れていたらどうしよう。このまま歩けなくなったらどうしよう。本当にこんなところで動けなくなったら。
入山禁止の山に入って、コロナ感染の疑いがあってニュースになった人がいた。
それを読んだばかりだったのに、入山禁止になりようがないような、小さな、そして、慣れた山だけれども、無理に連れ出して、母が転んで、どうやって助けを求めたら良いんだろう。
おかあさんのところにいくつもりって、母は祖母がなくなったことが本当はわかっているんだろうか、そして、確かに祖母は転んで骨折して・・・そのつづきは一ミリも考えたくない。
「大丈夫だよ。ちょっとゆっくりしようね」と笑って父を見る。
父も「ちょっと心が衝撃をうけちゃったみたいだね」と笑っている。
母が「もういいんです」をくり返すので、「ツツジがさいているねえ」と返す。

どうしたら、気がそれるだろう。どうしたら。どうしよう。
腰が悪くなっていたから、足に力がうまく入らなかったのだろう。
「わたしが悪かったね。無理をさせちゃった。ごめん」
「もういいですから。」

そこはちょうど木陰がとぎれたところで、太陽があつい。
母に帽子をかけなおす。
「あついね、帽子かぶろうね、わたしが悪かったよ」
どれくらい時間がたったのだろう、
母の目があいたので、少し立ってみようか、ともちかける。

なんとか立てたのだった。
そこからは、もう降りるしかない。狭い道だが、父がしっかり手を握って横で歩いて、
私が前を歩き、ときどき笑いかけるが、顔面蒼白。どこが痛いのかもわからなくなっているようだった。
お腹が痛いという。
おしりを打って下からの突き上げがあったのか、また、ショックでお腹を下すということもあるのかもしれない。
トイレは下山するまでないし、だからといって早く歩けるわけじゃない、どんどん私の気持ちが焦ってペースが上がってしまう。もう駆け出したいが、
何度も止まって、戻って、何度も痛い場所を聞いて、腰を触ったり、お腹を触ったり。
どこまでいったらトイレにたどり着けるのか、そこまで母は歩けるのか、生きた心地がしなかったが、降りられた。

歩いて降りられたということは、骨は折れてないと言うことか。
でもお腹が痛いのはどうしてか。
病院に行きたいけれど、土曜日だし、コロナの心配もある。
家で様子を見ることにした。

母の腰の悪さに気が付いていたのに、山に登りたいというこちらの気持ちを優先したことでこんな風になってしまった。
母にも刺激が必要で、無理をさせてみるのもときには良い、能力を見限って、活動を限定しては良くない、それは確かだが、
これで、母が動けなくなったら。
もし、母の状態が悪化したら。
祖母のようにはならない。絶対ならない。何度も心の中でお願いをする。
楽しみからの急降下。
眠れない夜を過ごした。




Monday, 4 May 2020

五月一日日記

五月一日
まだ外出自粛要請が明けないで、ひとつき、一度も友達に会うことなく過ぎてみて、思うようになったのは、
人を尊敬したいということ。

最初の頃は、ほんとうに緊迫した気持ちで、
我が家で感染の確率が一番高いのは、電車に一番乗って、
移動をたくさんしている私であり、
私に症状がでていなくても、私が実は感染をしていて、両親にうつして、
彼らが体調を崩すかもしれないんだ、と
一緒に暮らすこと自体に緊張していた。
距離を取らなくちゃ、と気をつけていたし、ちょっとでも外に出たり、何か触ったりしたら、手を洗うように父にも母にもうるさく言っていた。
こうして、なんとか三人だけでいつまでかわからないほど長い時間を過ごしていかなくてはならない、と一ヶ月間不思議な距離の生活の工夫をした結果だろうか。

数日前、長いことヒビが入っていたのに、だましだまし使ってもらっていた母のお茶碗が割れてしまって、買いに行かないといけないなあ、でもいま買い物に行くのはいやだから、お客さん用のお茶碗でしばらく我慢していてもらおう、と私は思っていた。
それでそのお茶碗でごはんを出したら、母は、「自分のではない」と思うようで、手を付けようとしなかった。(いつもはおかずはたべなくてもごはんだけはしっかりたべるのに。)
でも、そのうち慣れるだろう、かわいいのを今度私が見つけてくるからね、と放っておいたら、
父が昨日知らないうちに出かけて、買ってきていた。
夕飯を作るために台所に降りてきたら、置いてあったのだ。
予想外に母にぴったりの模様だった。
父は母の洋服をどうしたらいいかいつも私に聞いてくるのに、こんなのが選べるなんて。
母も、その茶碗ではいつも通りにごはんを食べるのだった。
「すごくいいね」と口に出したら、父は「そーお?」とうれしそうで、この瞬間に、なぜだかわからないが、それまでは私は父の弱いところは見たくないという気持ちを持っていたのだけれども(だって母の弱さだけでもう十分だったから)、それぞれの人が自由にやって、見せてくれる景色はすてきだな、と思った(遅い)。

親の話していることって、ついつい面倒で聞かない癖がついていたみたいなんだけど、ちゃんとまず聞いてみるようになったし。
それが人を尊敬したい、と思う気持ちの正体。
命が脅かされる状況におかれて、身が軽くなったような思いがする。


Saturday, 25 April 2020

いろんな顔

4月23日
歩いて行ける範囲に自然がたくさんあることでは、本当に恵まれているとつくづく思う。
普段は一人で散歩しているのだが、この状況で、
父は四六時中母と一緒に居るので、少しは気分転換の時間になればと、
両親と一週間に一度、一緒に散歩をすることにした。
主に家の裏山をうろうろとする。

母は雨が降った後で足場が悪いところなどは、足を広げて通るとか、どこの石に足を置くとか、自分で適切に判断して歩いていく。
コンクリートの道とは違って、自然の中では判断しなくてはいけないことが膨大にあるものだ。
「どうしたらいいの?」と怖がって立ち止まる場面はあるけれども、はげませば普通に歩いて行くのだった。
後ろを歩いていた私が一度滑ったときには、後ろを向きながら歩くのは負担だろうに、私の手をつないでリードしてくれる。
じめじめした道、うっそうとした道、私がここは通っていると動物が来たら怖いなあ、と思うような道は、母は「ここは行けないね」と口にし、緊張しているのがありありとわかる。気持ちの良い場所、緊張するべき場所、信頼できる判断をしている。

いくら家の裏山とは言え、山に入るのは一人では怖いから、
両親と週に一度、思いがけずこんな時間を持って、
今日はあっちの道からのぼってみよう、
あっちへ行くとどこにつくんだろう、今度行ってみよう、
と探索することが楽しい。
どこへついても家に歩いて戻れるだろう、というくらいの、小さな名前のない山なので、安心して冒険ができる。人が押し寄せることもない。
父は山に入ると頼もしく、「おまえは、ずっとここに住んでいて、この道も知らないのか」と威張っているのが面白い。そんな父も、「あれ?こんな道があったかなあ?」と探索する余地のある山だし、それでいて、大体こっちに行けばこうだろうと見当がつくところがすごい。
家の周りの、また、家族の、いろんな顔を知る。
そうして午前中歩いて、午後は仕事に戻っている。

コロナがいつか落ち着いたら、友人を呼んで、案内したいと思っている。

いいことばかりではないから愚痴も

4月21日。
自宅にこもるひびがつづいて、体重が気になるので、
今日はランチは軽めにしたいな、と思って、
大きなりんごまるまる一つ、ヨーグルトを掛けてたべるなんて贅沢なことをしてしまおう、と思いつく。

両親は、ふたりで午前の散歩がてらに、ランチを自分たちで済ませてくるので、
今は私のことだけ考えれば良いのである。
しかし、りんごは母の好物だ。
なんとなく、ひとりで食べ尽くしてしまうのは、と思って、
居間のテーブルにすこしだけ小皿におすそわけをしておいた。

しばらく自分の部屋にこもって本を読み、一階に降りてくると、
廊下に、楊枝が一本転がった小皿がぽつんとおいてある。
居間から台所に行くか、トイレに行くか、というのが、母の自主的な二大行動パターンなのだが、
母はリンゴを食べ終わって、お皿を持って立ったは良いが、
間違ってトイレに行く方のドアを開けたら、がらん、と廊下が拡がっていて、
困って下に置いたのだろう。

たとえば、カラスが荒らしたゴミ捨て場の様子は、
これは悪意を持った人間の荒らした様子とは違うな、と一目で分かるように、
ぽっと、玄関前の廊下に小皿などおいてあると、
妙な存在感で目に飛び込んでくるのである。
そういう気持ちの傷付きは、ずっと続いている。

4月20日。
夕食中、母の箸から何か小さな物が落ちてしまった。
母は、それを絨毯から指でひろって、
まだ一口も口を付けていないお味噌汁の中に捨てた。

普段からお味噌汁はあまり母は好まないようだが、
自分がいらないからといって、それをゴミ捨て場にするのはどうかと思う。
つくった私の目の前で。

元気でいてくれるだけ、いいのだけれども。

Saturday, 18 April 2020

4月18日、思うこと

PCR検査ができないのならば、とにかく、コロナ関係なく、何人の人が毎日なくなっているのか。例年と比べて、今死者の数は、どれくらい増えているのか。
もし変わっていないのなら、ほんとうに、日本にはコロナの影響が少ないと言えるのだろう。
もし変わっているのなら、検査数が圧倒的に足りていない現在、真実はそこにあると思う。このデータをだすのに、検査は必要ないのだから、負担は少なくて済むだろう。ただコロナ関係なく、どんな病気でも、事故でも、老衰でも、原因不明でも、区別なく、毎日、亡くなってしまった人の数を教えて欲しい。
もし、例年よりも、前月よりも、死者がずっと増えていたなら、それはなにか私たちが無視している要因があるのだろう、そのせいだろう。
人を数に落とし込んでしまうこと、それは冷たく、つらいことだけれども、事実の把握は、私にはどうしても必要だ。
検査ができないなら、これが一番状況把握には、誠実なデータに思える。
毎日の感染者数を伝えられる(テストが足りてないのに、感染者数ってなんの意味があるんだ?)よりずっと、本当の怖さと、痛みと、自分の行動を変える意味を見つけられるだろうと思う。
しかし、対策にあたっている方々はプロだ。そんなものは見た上で、クラスター対策でいける、と思っているのかもしれない。それなら、信じられるけど、そうでないならば、と思ってしまうのだ。





秋からはじめたプロジェクト(後篇)

春には大事な課題があった。
ツマキチョウを発見するという課題である。

ツマキチョウは、モンシロチョウととても似ている白い蝶で、モンというべき黒い点もある。
だから普通はみんなモンシロチョウだと思って、見過ごしている蝶がいると聞いていた。
しかもモンシロチョウは秋までいるけれども、ツマキチョウの生息期間は短く、
桜の散る頃から出始めて、たった二週間くらいでいなくなってしまうという。

もし今年ツマキチョウを見られなかったら、また来年の春まで見られない。
50種類の達成も、来年まで持ち越しになる。
新型コロナウィルスで、今私たちは出かけることができないけれど、
今のところ家の周りの散歩ならば許されている。人に会わなければ良い。
私は、ツマキチョウを見つけるというこの課題に、夢中になった。

ツマキチョウが出始めた、と他人のツイートを見ていて知った。
私はこの春、毎日外を歩き回っているのに、まだ一頭も目にしていない。
見かけるのは、モンシロチョウばかりに見える。でも、私も「モンシロチョウだと思っている」だけだろうか。
ところで、モンシロチョウと、ツマキチョウは棲み分けしているのだろうか。モンシロチョウを見つけたら他を探しに行かねばならないのか。それとも、モンシロチョウがいたらチャンスと思えば良いのか。
何もわからなくて不安である。
とにかく、モンシロチョウを見かけたら、追いかけて、相手がどこかにとまるまで見ることにした。羽の裏を確認するのである。
羽の裏は、モンシロチョウは緑色。
図鑑で見たところ、ツマキチョウは下羽の裏が、海の貝のような、白地に黒の複雑な模様を描いている。
裏を確認しなくては。
もう一つの大きな違いは、ツマキチョウは、羽のつま先が、まるでバレリーナの履いたトウシューズみたいに曲がっていて、黄色い。だからツマキチョウという名前らしい。
モンシロチョウのつま先は、もちろん黄色くはなくて、黒い。
だから簡単に見分けられそうだが、はたはたはたと動いているときは、モンシロチョウだって、私の目にはとにかく白いだけである。
動いている蝶は、ほんとうに、図鑑とは別物なのである。
ツマキチョウだって、白く見えるだけに決まっている。
黄色いつま先に気がつけたらラッキー。
とにかく、静止したときに裏を確かめるということを、出始めを知ってから三日間、毎日十二キロ歩いて続けたが、一向に見付からない。

四月七日、片道の六キロが終わろうとしていて、疲れたな、もう無理かも。今年は桜の開花も早かったし、二週間しか出ないというし、うちの近くは、もう終わっちゃったのかも。あるいは、うちの周りにはそもそもツマキチョウはいないのかも。
あきらめそうになったとき、長く続く川沿いの花壇を遠くから低空飛行ではたはたはたはたとまっすぐにこちらへやってくる白い蝶がいる。
私の前まで来て、急に舞い上がって上に架かる橋を越えていこうとする。
高く上がってきて私の顔の前を通り過ぎるとき、黄色いつま先が目に入った。
モンシロチョウよりはっきりとした黒い点がある。
そしてなんだか、まるいかな?でもとにかく、絶対に、先が黄色い!!!
ほんの一瞬、時間がゆっくりにすすんでつま先が確かに黄色いことを確認しただけで、携帯のカメラを構える暇なく、飛んでいってしまった。

人生で初めてツマキチョウを見た。確かに見た。
ほんとうに見たのだけれど、ほんとうに見たと言うことをもっと強く言いたくなって、
もう一度会わずにいられなくなった。
というより
ツマキチョウは、かわいかった。
つま先に靴下でも履いているみたいで。
それから毎日一週間そこへ通ったけれども、会えたのはそのたった一度。
曇りの日で寒かったり、時間帯が微妙にずれたりして、会える蝶がそもそも少ない日も多かった。

桜も散って、八重桜が満開になった。
でも、ツイッターで、今日もみた、今日も見た、と毎日見られている人がいる。
その頃また新しいことを知った。雄が出終わってから、雌が出るらしいのだ。
雌のつま先は、黄色くない。ただ黒いのだそうだ。
すなわち、モンシロチョウと一層似ているわけで、難易度が更にあがったわけである。

しかし、私には一度会えたことで、いくつか手がかりがあった。
ツマキチョウは、(1)モンシロチョウよりはっきりとした黒い点が見えること、
(2)モンシロチョウよりちょっとまるっこく見えること、
(3)飛び方がまっすぐであること、
(4)実はモンシロチョウより、少し小さいらしいこと、
(5)裏の模様が海の貝のようであること。
それにモンシロチョウの飛ぶパターンを観察し続けて、少しは蝶の動きに目が慣れているはずだ。

四月十六日。自分の家の周りはこんなに美しかったのか、と思う。
近所のおじさんの散歩コースを教えてもらって、いままで一度も通ったことのない道を行ったのだ。山沿いの道で、とても日当たりが良い。
ブナの若葉の輝く、主に広葉樹の山である。
気持ちが良いな、と歩いているとぴかぴかした野原に出た。
あっちにも、こっちにも白い蝶が飛んでいる。
白い蝶だけではない。
あれはぜったいに見たことがない風貌、という茶色い蝶が
ちょうど足下の草に止まってくれた。
カメラに収める。(後で調べるとテングチョウだった!はじめまして!)



そして、この野原の一番奥に、どうもいままでの白とちがうように見える蝶がいる。
気持ちがはやって走る。去ろうとするのを追いかける。一転、近くに寄ってきた。とまってはくれないけれど、私の立っている道沿いの、ちょうど私の頭の高さくらいの崖をまっすぐに行く。私の位置から、羽の裏側が見える。黒っぽい、貝の模様だ!!!!!
どきどきした。そのまま走って追いかけた。私の足下まで降りてきた。
なんとカメラに収まった。そして追いつかなくなるまで、見えなくなるまで、見送った。
きれいだった。

胸一杯に来た道を振り向くと、目の前にもう一頭、ツマキチョウがいた。
よくよく見なくても、モンシロチョウじゃなくて、ツマキチョウとわかった。つま先は黒いのだが、モンシロチョウとは何かが違っていた。

私、わかった。モンシロチョウと、ツマキチョウをついに区別することができるようになった。
家の周りに存在するはずの50種類の蝶を、全てカメラに撮るというプロジェクトは、モンシロチョウを綺麗な蝶だなあ、と思ったところからはじまったのだが、
ついに、春だけに見ることができる、まるっこい、ツマキチョウの美しさがわかるようになった。

この地球上にはツマキチョウがいる。

図鑑だけ見ていても、絶対に分かるようにならない。
通常は、子供の頃に、昆虫を大好きで、長い時間追いかけた人だけが知っている。
私は、網を振り回して昆虫観察をする、少女時代をもたなかった。
「今日は寒いからいないだろうな」「今日はいるだろうか」
そんな風に、人間以外を気にして生きることを知らなかった。
それが、今、40歳にしてはじめて、このコロナの不安の中で、身につけられた能力。
(ツイッターと、動画の助けを随分借りて。)

興味のない人には、どうでもよい能力であり、
興味があった人には、当たり前の能力だけど。

新型コロナウィルスで、4月の予定はまっさらになってしまった。
一緒に暮らす両親との生活があるだけである。
政府のメッセージは二転三転、しかも、科学がない。
言葉が守られない。
この国で生きていることが苦しい。
不安でいっぱいで、ツマキチョウのために毎朝起きるということが、生活を保つ鍵になった。
ツマキチョウさん、存在してくれてありがとう。
あなたが出てこられる環境を、守りたいと強く思います。
頭の中に、会えるのを楽しみにしたり、気になったりする存在が、そして自分とはまったく違った生き物の存在ができたこと。
自分で、自分の環境を探索する喜び。
これを知って、何か私が判断をする際に、知る前とは必ず違いを作るだろうと思う。

そして、やってみてこの難しさを知ると、50種類を撮影するという目標の達成は、来年どころか、もしかすると10年くらいかかるのかもしれない。
Active learningは、こういう小さなことから初めて、ずっとつづく趣味を持つことなのかもしれない。





私は遅筆で、なかなか記事をあげられないので、今ここで。
ほんとうに、ほんとうに、みなさん、お気を付けて、誰もが、この危機を乗り越えられますように。

秋からはじめたプロジェクト(前篇)

三月最終週から、たった一度の避けられない仕事を除いて、住んでいる町を出ていない。
一度も友人に会っていない。
電車も乗っていない、タクシーも乗っていない。
だけど、歩いてはいる。
野菜が一番新鮮で、好きな物が大体そろうスーパーマーケットまで片道六キロ。往復で十二キロ。
あるいは、家の裏の山道へはいって頂上まで。
人とあまりすれ違わない道を。

去年の秋から、はじめたプロジェクトがある。
第一のきっかけは、グレタ・トゥーンベリさんだった。
大人は経済を気にして、科学を無視して、子供の未来に気が付かない振りをして、
平気でいるけど、地球は火事だ、という力強い言葉。
自分にはなにができるだろう、と思った。
地球環境のために、と考えると、レジ袋を減らす、食品や洋服の無駄を減らす、ということは、意識してやるようにしているが、なんだかまだ漠然としていた。
そこに第二のきっかけがやってきた、東京近郊でも、大体50種類くらいの蝶がいることを知った。
そんなにたくさんの蝶がいるのか、と意識して散歩するようになって、
たまたま目の前を横切った蝶がとてもきれいだったので、調べてみたら、モンシロチョウらしい。
この経験は衝撃的だった。モンシロチョウなら知識としては知っている。
なのに、モンシロチョウも、私はわからないのだ、ということ。

図鑑に載っているような静止像だったら、なんとなく知っている。
でも動いているときは、慣れない眼にはモンなどうまく判別できなくて、ただ白くて、
白いのだったら他の種類もいるはずだから、ビデオに撮って、停止してコマ送りして、
モンや、羽の裏が緑っぽい色をしていることを理解して、図鑑で調べたら、
モンシロチョウだったのである。

自分の家の周りに、どんな生き物がいるかも知らなくて、
というより、モンシロチョウすら知らないで、なにが環境問題だろう。
わたしにグレタさんの言葉に対応する術が一つも浮かばなかったのは、
自分が具体的に地球に親しんだことがなかったからだ、と思い至った。
地球上の植物や、動物の性質を知るような関わり方をしたことがない。
それで、家の周りにいるはずの50種類の蝶々を写真かビデオにとる、というプロジェクトをはじめたのである。

蝶は、意外と、ひゅっときて、なかなか花や葉にとまってくれないで、飛び去ってしまう。
自分の足下に長く留まってくれるような種から順々に集まっていった。
最初に驚いたのは、動きの中でこれがなんの蝶だと判断するのは不可能だと言うこと。
ほんとうに、静止像とは別物なのである。
また、動いているから、当然ビデオに撮るのが難しい。
遠いし、人の家の敷地だし、勝手に入れない、それに高い所だったりして、どんなに拡大しても届かない、それに速くて、追いつかない。
たまたまビデオに撮れたものを、家に帰ってきてから停止して、フレーム送りして、拡大して、図鑑と見比べる、それでもわからない、ということが続いた。
違う種類がやっと撮れた、と思っても、雌と雄の違いだったりした。
それでも毎日続けていると、いつもいるものがだんだんわかってきた。
あれは絶対に見たことがないな、というものが、たまたま近くまでやってきて、撮れたときは嬉しくなった。
秋の間に見た蝶で一番綺麗だと思ったのは、ムラサキシジミ。
今日の散歩もそろそろ終わり、というとき、ちょっと先の家の垣根に、ブルーのフラッシュが見えた気がした。それがムラサキシジミだった。
その一瞬は、いまでもスローモーションのように覚えている。
いそいでカメラをむけたのだった。
まだ、人生でたった一度しか見たことがない。




蝶が好きなのはどんな場所か、どんな時間帯に出るのか、それがわからなければ、撮れる種類は増えていかない。ゆっくり自分の家の周りの環境とつき合っている感触が増えていくのが嬉しかった。

冬の間は、ほとんど蝶々をみなかった。
蝶って、冬はいないものなのだな、どうしているんだろう、そんなことすら知らなかったし、越冬についてはまだ調べていない。
3月の終わりくらいから、歩いていると、モンシロチョウを見るようになった。ベニシジミもよく見かける。また、蝶々が出てきた・・・!

新型コロナウィルスで、こんなにも生活が変わるとはおもってもみなかった。
3月の終わりから私は、毎日人のいないところを歩く生活が始まった。
すなわち、蝶々を探しに歩いているのである。