五月一日
まだ外出自粛要請が明けないで、ひとつき、一度も友達に会うことなく過ぎてみて、思うようになったのは、
人を尊敬したいということ。
最初の頃は、ほんとうに緊迫した気持ちで、
我が家で感染の確率が一番高いのは、電車に一番乗って、
移動をたくさんしている私であり、
私に症状がでていなくても、私が実は感染をしていて、両親にうつして、
彼らが体調を崩すかもしれないんだ、と
一緒に暮らすこと自体に緊張していた。
距離を取らなくちゃ、と気をつけていたし、ちょっとでも外に出たり、何か触ったりしたら、手を洗うように父にも母にもうるさく言っていた。
こうして、なんとか三人だけでいつまでかわからないほど長い時間を過ごしていかなくてはならない、と一ヶ月間不思議な距離の生活の工夫をした結果だろうか。
数日前、長いことヒビが入っていたのに、だましだまし使ってもらっていた母のお茶碗が割れてしまって、買いに行かないといけないなあ、でもいま買い物に行くのはいやだから、お客さん用のお茶碗でしばらく我慢していてもらおう、と私は思っていた。
それでそのお茶碗でごはんを出したら、母は、「自分のではない」と思うようで、手を付けようとしなかった。(いつもはおかずはたべなくてもごはんだけはしっかりたべるのに。)
でも、そのうち慣れるだろう、かわいいのを今度私が見つけてくるからね、と放っておいたら、
父が昨日知らないうちに出かけて、買ってきていた。
夕飯を作るために台所に降りてきたら、置いてあったのだ。
予想外に母にぴったりの模様だった。
父は母の洋服をどうしたらいいかいつも私に聞いてくるのに、こんなのが選べるなんて。
母も、その茶碗ではいつも通りにごはんを食べるのだった。
「すごくいいね」と口に出したら、父は「そーお?」とうれしそうで、この瞬間に、なぜだかわからないが、それまでは私は父の弱いところは見たくないという気持ちを持っていたのだけれども(だって母の弱さだけでもう十分だったから)、それぞれの人が自由にやって、見せてくれる景色はすてきだな、と思った(遅い)。
親の話していることって、ついつい面倒で聞かない癖がついていたみたいなんだけど、ちゃんとまず聞いてみるようになったし。
それが人を尊敬したい、と思う気持ちの正体。
命が脅かされる状況におかれて、身が軽くなったような思いがする。
Monday, 4 May 2020
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