「草枕」の最後ではほんとうに衝撃を受けた。
以前抜粋したように、浮世離れした女とのすがすがしいやりとり。
男はその美しさに翻弄されながら、途中から、
その女の顔を画にするには何かが足りない。それは「憐れ」の表情だと考える。
憐れは神の知らぬ情で、しかも神に尤も近き人間の情である。
御那美さんの表情のうちには憐れの念が少しもあらわれておらぬ。
そこが物足らぬのである。
ある咄嗟の衝動で、この情があの女の眉宇にひらめいた瞬時に、わが画は成就するであろう。
然しーー何時それが見られるか解らない。
あの女の顔に普段充満しているものは、人を馬鹿にする薄笑いと、
勝とう、勝とうと焦る八の字のみである。
あれだけでは、とても物にならない。
(新潮文庫「草枕」p.129)
最後の最後にその「憐れ」が表れる。その描写の仕方が怖かった。
女のいとこが戦争に向かう、それを見送りに行く。
その道すがら、画家と女はこんな会話を交わす。
「先生、わたくしの画を描いて下さいな」と那美さんが注文する。
「わたしもかきたいのだが。どうも、あなたの顔はそれだけじゃ画にならない。」
(p.172)
駅まで行っていとこを乗せた汽車が出るとき
老人は「いよいよ御別かれか」といい
その女は「死んで御出で」という。
汽車が動き出していとこの顔が小さくなっていく。
するともう一つの顔が現れる。
その恐ろしい列車に別れた夫の顔。
その時画家は女の顔に「憐れ」を見ていう。
窓は一つ一つ、余等の前を通る。久一さんの顔が小さくなって、
最後の三等列車が、余の前を通るとき、窓の中から、又一つ顔が出た。
茶色のはげた中折帽の下から、髯だらけな野武士が名残り惜しげに首を出した。
そのとき、那美さんと野武士は思わず顔を見合わせた。鉄車はごとりごとりと運転する。
野武士の顔はすぐ消えた。那美さんは茫然として、行く汽車を見送る。
その茫然のうちには不思議にも今までかつて見たことのない「憐れ」が一面に浮いている。
「それだ!それだ! それが出れば画になりますよ。」
と余は那美さんの肩を叩きながら小声に云った。余が胸中の画面はこの咄嗟の際に成就したのである。
(p.178)
こういう男の人の態度が、私に最も足りない物の気がする。
斎場御嶽の植物ばかりが頭の中に浮かぶ。
Friday, 18 September 2009
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