茂木さんのTwitterに影響され、二期会オペラ『サロメ』を見に行った。
聖人は聖人で、俗人を無視し、
俗人は俗人で、聖人を軽蔑した。
どちらともいえないような人ばかりがいた。
みんなどこかに盲点があった。
「顔を見つめてはいけない」
何度もその詞が出てきた。
そして、演出にあった、ドアのこと。
聖の人も、俗の人も、どの人もみんなシェルターの灰色の壁にチョークでドアを描いて、
悲鳴のような音楽の中で、どんどんどんどん叩いてた。
でもどのドアも、決して開かなかった。
それで人が死んだ。
でも、この演出の中では、ヨカナーンの首が切られるのは象徴で、実は生きてた、
象徴を殺すことによって、
二人は愛し合うことが出来た。
理想を殺すのでなく、また現実を殺すのでなく、
「どうせ」と「そうでなければならない」を殺せばいいんじゃないか、
そんな気がした。
(こういうところ、オペラって、(っていうかこの演出をした人って)本当にすごいなあ、と思った。
音楽も、歌詞も変えることなく、演出で、意味が180度変わること。
ヨカナーンは首を切られてしまったことになっているけれど、
舞台上で矛盾無く存在させることが出来るんだ。
意味というのは、本当にどんな風にも変えることができるんだ。
ここに対峙ということがあり、一人一人の戦いがあるんだ)
『愛の神秘は死の神秘よりも深い。』
とにかく興奮冷めやらず。
Monday, 28 February 2011
Monday, 21 February 2011
Thursday, 13 January 2011
久高島のこと

私は、久高島という場所がとても大切である。
斎場御嶽から見える島なのだが、はじめてみたときに、
ああ、私がこの島を知らなくても良い、知らなくても私はこの島を愛する、
と思ったのだった。
しかしそんな風に決めても結局、どうしても知りたくて、過去5度尋ねてしまった。
最初の2度はほんの数時間寄るだけ、後の二度は一泊、最後の一度は二泊、という感じである。
あまりにも緊張する気持ちが強すぎて、とても泊まれるなんて思わなかった。
でも、だんだん図々しくなっている様が現れている。
不思議なことに、私は、この島のことを一人の人のように愛している。
むしろ、一人の人の愛し方を、この島から教わっているような感じがするのである。
私とは関わりなく、私はこの島を、この人を愛する。
そんな風な信心をもちつづけること、
それがわたしにとって一番大切なことのようだ。
Wednesday, 5 January 2011
2010年12月
Saturday, 18 December 2010
岸田劉生の静物画
岸田劉生の静物画をみた。
美術館の中で遠くから、その一枚を見たとき、以前に一度見たことのあった、
岸田劉生の『麗子』の顔が頭の中に重なって、
岸田さんに間違いない、と思った。
湯飲みが二つ。
その両脇にみかんがいくつか。
その奧の壁はなんだか半分外に通じている。
湯飲みの口のその円形はなんだか斜めにちょっとずれていて
全体的にどこか、なにかが歪んでいて、
それなのに、
みればみるほど
「そこにある」感じがする。
その、「そこにある」感じというのは、
私の中では、恐山のお堂のなかにあった、誰かのスーツ、と全く同じ質感だった。
恐山のその、誰かのスーツ、というのは、
亡くなってしまったその人が、いつも着ていたものを、家族の人がそのままにそこに持ってきた、という感じのもので、
お堂の中には、そういった、誰かがいつも使っていた、そのままの、それ、が、たくさんたくさんおさめられている。
そういうものは、私に、「その人がそこにいるはずなのに、その人は死んでいる」、ということを感じさせて、
そんな簡単なことを理解するのが難しいほどだった。
そのスーツの存在感というのは、とてつもなくおおきくて、
「その人がそこにいるはず」ということを、疑いなく思わされてしまうのだった。
きっと、そのスーツを着る人は、この外にいる、
きっと、その湯飲みを使う人はこの絵の外にいる、
それほど湯飲みは「そこに在る」
でも、
その「外」というのが、
めのくらむようなかんじがするのだった。
ただ出かけているだけではないだろう、
今一瞬にいないだけではないだろう、
そういう感じがするのだった。
在る、ということとちゃんと描くと恐山になるのだと思った。

私が見たのはこれなわけではないのだけれども。このページより拝借。
美術館の中で遠くから、その一枚を見たとき、以前に一度見たことのあった、
岸田劉生の『麗子』の顔が頭の中に重なって、
岸田さんに間違いない、と思った。
湯飲みが二つ。
その両脇にみかんがいくつか。
その奧の壁はなんだか半分外に通じている。
湯飲みの口のその円形はなんだか斜めにちょっとずれていて
全体的にどこか、なにかが歪んでいて、
それなのに、
みればみるほど
「そこにある」感じがする。
その、「そこにある」感じというのは、
私の中では、恐山のお堂のなかにあった、誰かのスーツ、と全く同じ質感だった。
恐山のその、誰かのスーツ、というのは、
亡くなってしまったその人が、いつも着ていたものを、家族の人がそのままにそこに持ってきた、という感じのもので、
お堂の中には、そういった、誰かがいつも使っていた、そのままの、それ、が、たくさんたくさんおさめられている。
そういうものは、私に、「その人がそこにいるはずなのに、その人は死んでいる」、ということを感じさせて、
そんな簡単なことを理解するのが難しいほどだった。
そのスーツの存在感というのは、とてつもなくおおきくて、
「その人がそこにいるはず」ということを、疑いなく思わされてしまうのだった。
きっと、そのスーツを着る人は、この外にいる、
きっと、その湯飲みを使う人はこの絵の外にいる、
それほど湯飲みは「そこに在る」
でも、
その「外」というのが、
めのくらむようなかんじがするのだった。
ただ出かけているだけではないだろう、
今一瞬にいないだけではないだろう、
そういう感じがするのだった。
在る、ということとちゃんと描くと恐山になるのだと思った。

私が見たのはこれなわけではないのだけれども。このページより拝借。
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