Saturday, 10 June 2017

熊がこわくなくなった話

66日から8日知床に行く。

<カムイワッカの滝>
知床について、いちばんに向かったのはカムイワッカの滝である。
知床八景のうちの一つとして、知床観光ホームページで紹介されていて、
いちばん気になったところだった。
随分奥深いところにあり、アイヌ語でカムイは神、ワッカは水だという。
その滝の水はPH1.6〜1.8という強酸の温泉で、滝壺の中にまるまる体を浸すことができるらしい。
滝壺までは沢登りをしなければならず、強酸水で岩肌に藻が生えないので、
滝の脇を登るよりも水の中を歩く方がずっと滑らない、ということだった。
ただ、沢登り自体したことがないし、さらに問題なのは熊だった。
「カムイワッカの滝」で検索すると、そこは「熊のよく現れる場所」であり、
「熊鈴」や、「熊撃退スプレー」が必要で、
もし会ってしまったら、「騒がず、落ち着いて、行動しろ」。
知床はどこでも熊が出るけれど、たとえば、知床五湖や羅臼岳トレッキングをしたいと思ったら、
6月は熊の活動期で)ネーチャーガイドをたのんで一緒に行かなければならなかったから、
専門家の方と一緒なら、大丈夫なのかもしれない、と少しは思うことができるのだった。
しかしカムイワッカはそういうわけではなく、自分たちで行って登るだけだ。
せめて途中の観光案内所で熊などの情報を仕入れてから行こうと思っていたら、
友人とレンタカーでおしゃべりしているうちに、いつのまにか通り過ぎてしまっていた。

知床五湖に向かう道との分岐点から、道路は舗装がなくなって、砂利道をどんどんいくことになった。
うっそうとした森の中。ヒグラシに似たような蝉がシャンシャンシャンシャンないていた。

神奈川でも蝉はまだなのに?
もう絶対自分がかなわない領域に入り込んでしまった気がした。
一方、友人は助手席で窓を全開にして気持ちよさそうにしていた。
舗装もない、森の中だもの。満喫すべき。
しかし私は、森から今熊が猛スピードで降りてきたらどうしよう、
窓から手を入れて襲ってきたらどうしよう、と気が気でないのだった。
そこまでおびえていることは恥ずかしくて言えなかった。
ああ、いちばんいきたいところは、同時に、いちばんこわいとこ。
気分を紛らわそうと、ふざけて歌を歌おうと思ったら、
そんなときに限って『森の熊さん』しか思い出せなかった。
どんどこどんどこ、どこへつくのか、森の中の細い一本道をとにかく前へ走らせて、
二、三台すれ違う車があり「ああ、人がいる!」と一瞬の安心を得て、ようやく着いた。
この道はカムイワッカで完全行き止まりの道だった。

世界遺産になってから観光客が激増したと聞いていたが、
オフシーズンなのか、私たち以外の車は、一、二台。
しかもそれは測量の人たちみたいだった。よって騒がしさはゼロだった。
目の前で、硫黄で黄色、クリーム色、エメラルド色になった岩肌を水が滑るように流れていく。
こんな水に足を入れて、登っていかねばならないの?
私は熊鈴をリュックに付けたが、
とぎれとぎれにしか音をたてないことに不安が募った。
熊に人がいることを知らせなければならないのに、

恐怖で友人になにか話を振ることすらできない。
それで鈴を手に持ちかえて、りんりんりんりん振りはじめた。
私はやかましさのもとになった。

誰もいない、静まりかえったこの場所に、身を浸したら、どんなに素晴らしいかわからないのに。

友人はさすがに苦笑いしていたが、途中からわからなくなった。
すべるのか、すべらないのか、熊はいるのか、どうなのか、
10メートルくらいやっと登っただろうか、最初の滝壺が目視できた瞬間に、
これでもういいと思ったのだろう、私の足は完全にすくんでしまった。
「はるちゃん、もうだめ、わたしいけない」

わたしは、多少濡れるのもへっちゃらなほど頑丈な登山靴と、靴下を超特急で脱ぎ、
裸足を滝に差し入れた。
そしてそのまま、やってきたばかりのほんのちょっとの距離を逃げ帰る。
黄色、クリーム色、エメラルド色の表面を水が重さがなんにもないかのように通り過ぎていく。
それなのに、下る私の足はちっとも滑らなかった。

<知床五湖>
なにか見たようななんにも見なかったような、
強酸でチリチリする足だけついてきて、
知床五湖まで帰ってきた。
1時半をまわっていたけれど、
もしかしたらまだハイキングツアーに申し込めるかもしれなかった。
まとまった時間を落ち着いて(!)歩いて、この土地の自然を感じたいと思った。
お願いするとすぐ、
150分からのツアーに参加させてもらうことができた。
そこで早速教えてもらったのはこんなことだった。

熊鈴や、ラジオや、大声を立てて歩き続けるのは、実は危ないことがある。
なぜか。「相手の音を聞かないから。」
「自分の存在を知らそう」と、一生懸命自分のアピールだけを考えて、
りんりんりんりんならしていると、相手の音が聞こえない。
遊歩道のカーブで先が見通せないとき、プロのネーチャーガイドはこうしていた。
ぽん、ぽん、ぽん、と大きく手を数度叩いて、「ほうっ」と通る声を一度立てる、
それを合図に「だるまさんが転んだ」みたいに、全員人間はピタリと静止し耳を澄ます。
そこで熊の踏みならす足音や、笹を抜ける音がしなければ、そのまますすんで大丈夫。

熊の食べている物は、実は植物が多く、
植物が少ないときだけ鹿などをおそって肉を食べることもあるけれど、
幸い人間はまだ「食べ物認定」されずにすんでいて、熊も人間に会いたいわけではないのだった。
私たちが、適度に相手にお伺いを立てて、相手のことを聞いていれば、回避できる危機がある。
自分のアピールだけをしていることは問題で、耳を澄ますことが一番大事ということは、
なんだかとっても大事なことに思われた。

<羅臼岳トレッキング>
次の日はまた別のネーチャーガイドさんをたよって、羅臼岳に登った。
山の中で他の一組にしか出会わなかった、女三人の登山だった。
だけどこのガイドさんはすさまじかった。
その手たたきも、声出しも、一度もしないで行くのである。
彼女は笹のたてる音を聞いて、小さな鳥の種類をあてることができた。
つまり、ものすごく色んな音が聞こえているのだろう。
それだけ耳を澄ましているから、手を叩かなくていいのである。

彼女はとても穏やかで、マルハナバチと花の関係を研究されてきたらしい。
あそこに、と彼女が指す場所を、双眼鏡で覗いてみると、
6月の雪が残る高山に、単独で細い深山桜が咲いていて、ちょうどマルハナバチの女王蜂が、
フワフワの体をモップ代わりに、これから産む子供のためにたくさん花粉をつけまわっていた。

手つかずの自然、ということから、派手な野生動物に会えることを楽しみにしてしまうけれど、それなら動物園こそふさわしい。
高山にはまだ気温が低すぎて餌がないので、ここで熊に会うにはすこし早いらしかった。
そもそも熊も、鹿も、キツネも、ウサギも、ウグイスも、アオジも、モズも、トンボも、タガメも、アメンボも、ミズスマシも、マルハナバチも、小さな音で暮らしていた。
私は、彼女のおかげで、熊が少しだけこわくなくなった。

 


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