Thursday, 6 October 2011

毛深き人たち

昨日、授業の帰り、伏見で降りて、なんとなく名古屋市美術館によった。
地下の小さな部屋で『毛深き人たち』とかいう展示がやっていた。

ゴリラの展示である。
展示といっても、ゴリラの写真と名前があるだけ。
このゴリラはどこで暮らした、そういう紹介があるだけ。
写真といっても模造紙みたいな紙への印刷。
なんだろう?呆然とした気持ちで奥へすすんだ。
ビデオの部屋があった。
繰り返し繰り返しエンドレスに流れているから
途中からみることになった。
ゴリラが何か金属製のものにやるきなくよじ登ろうとしている。
ゆっくり手をかけてははずし、足をかけては、立ち止まる。
その進み具合ったらあくびが出るほど遅く、
私は重い荷物でくたくただったから、少しでも座っていたくてそのビデオの前にいる、という感じだった。
そのうち突然彼はバタンっとおおきな音を立てて地面に落下した。
重力になんの抵抗もしていないように見えるほどに、
おおきな音を立てて受け身も取らずに、ばたりと落ちる。
落ちては、痛みの声もあげずに、その落ちたままの姿でぴくりとも動かない。
なんなんだこの映像は、ゴリラってなんかすごい、
おかしさがこみあげてきた。
また、静止画と区別がつかない感じでのぼりはじめる、
そして
ばたりと落ちる。物のように落ちる。
そのまま動かない。
の繰り返し。
しばらくして、字幕が入った。

「ゴンはもう一度彼の定位置である棚の一番上に座りたかった。」

笑った口元が自分で悲しかった。

「崩落を繰り返し、二日後彼は死んだ。」

「ゴンは最後まで生きた。」

それで終わった。そういう映像だった。

途端にさっきの模造紙写真がなんだか遺影のように見えてきて、
途端に一人一人の区別が私についてきて、
ああ、毛深き人たち、そのタイトルをつけた気持ちがわかったような気がした。

命拾い

昨日ノーベル化学賞の発表を生でみていた。
電話が繋がらず本人はまだ受賞したことを知らない中で、
受賞理由の説明として、
その仕事の素晴らしさが、その研究を本当に理解している人によって、
語られていった。

本人以外の、別の誰かが、その人の仕事を熱をもって語ること、
それを、「命拾い」というのだろうと最近思う。
だって気づかれないままに、それどころか迫害されたままに、
消えていってしまうことだって
あるのだから。

私の愛するもの達は、やがてしんでしまう。
マリーナがもし、死んでしまったら、
私は命拾いをしていきたい。
命拾いの仕事をしたい。

今は授業をする中で、
自分が教えてもらったもののなかで、
私の中にしっかりと息づいているもの、
それをみんなに伝えることくらいしかできないという気持ちもあって、
そんな風におもうようになったのかもしれないけれど、
だから私は、自分で何かを見つける努力をしていきたいと思うけど、
命拾いのお仕事をするんだという思い付きは
とても大切な思い付きであるきがした。