負けた人たち 恩蔵絢子 2023年4月6日
ことのはじまり
1月4日、母が入院した。誤嚥性肺炎を起こしていたらしく、1月3日に意識混濁をして、目撃していた父によれば、母は居間の絨毯のゴミかなにかを取ろうとしてかがんだ瞬間にそのまま崩れ落ちたのだった。「あや!ママが大変!」と父に一階から二階で仕事をしていた私が呼ばれてかけつけると、真っ青な顔をした母が父に抱きとめられていた。頭は打っていないという。顔色が悪いね、前にトイレで同じようなことがあったよね、絨毯の上で低い位置からの転倒で頭も打っていないなら心配ないかな、前と同じで貧血かもしれないね、とまる一日様子を見てしまった。
4日の夜、急に様子がおかしくなって、母の指で酸素飽和度を測ってみたら80だった。95以下になるなんて大変なことなのに80。救急搬送されてみてわかったのは、誤嚥性肺炎を起こしていたことと、絨毯に崩れ落ちたときに右側の大腿骨頸部を骨折していたことだった。
酸素飽和度は、酸素マスクをして、抗生剤の点滴をして、その日の深夜には安心の値に回復した。肺炎なので二、三週間の入院が必要だが元気になるとのことだった。
骨折の手術は、一日も早いほうが良いらしく、肺炎による発熱がおちついたらすぐにするという。それで1月7日に母は人生初の手術をした。
このときは新型コロナウィルス第八波のピークで、病院は完全に面会を禁止していた。認知症があっても、手術のときも、会いに行くことはできないと言われた。
母の骨折の程度は軽く、折れてはいるけれども全く左右上下にずれたりしていないから、ビスみたいなものを差して留める簡単な手術ですむはずであり、通常の場合、すなわち認知症も肺炎もない元気な人であれば、次の日から立ち上がるリハビリもできるはずと説明を受けた。
「手術中特に何もなく、終わりましたよ」と予定通り7日の午後、医師から電話が来た。「無理はできないけれども、少しずつリハビリをしていきましょう。まずは寝ている姿勢から体を起こして、車椅子に座っていることからはじめましょう。」
リハビリは着実に進んでいくはず、と信じた約二週間後、母は「回復の見込みは残念ながらありません」と電話で言われることになった。
電話を待つだけの日々
病院は面会は禁止だが荷物の受け渡しは許されていた。入院病棟の看護ステーションに行き「こういうものを持ってきたから渡してほしい」とお願いして、しばらく待合室で待っていると担当の看護師が出てきて母に渡してくれる。母には会えないが、看護師から母の毎日の様子が聞ける。
その待合所では携帯電話が使えて、入院している人たちは、そこで家族などに電話をかけているようだった。「今日は〇〇を食べたよ」とか、会社の人への相談事などをしている人たちを見かけた。電話やパソコンの持ち込みは許されていて、面会禁止でも患者がさびしくないように配慮されていた。
しかし、母は電話もパソコンも操作できない。母には認知症があって言語でのコミュニケーションが難しくなっており、そもそも言葉で自分が必要なものを訴えることはできない。「どこが調子悪い、手術はどうだった、どんな部屋だ、どんな人たちがいる、食事はこんなだ、あれを持ってきてほしい」などと言えない。これまでの生活で「あれが必要なんじゃないかな、ママ、これ食べる?これ着る?あそこ行く?」と問いかけて、母のやりたいことを想像してきた父と私にとって、面会禁止は母とつながる手段が途切れることだった。
顔を見られず、電話もできなければ、母に必要なものが全くわからなかった。病院には服を持っていく必要がなく、看護しやすい前開きの服を借り、タオルすら、今はコロナ対策で私物のタオルは使わないということだった。「特に今は必要なものはありません」と病院からはいつも言われてしまった。
それでは母の様子を聞くことができなくなってしまう。私達は音楽が好きな母のためにCDプレイヤーを買い、これまで1年間母に音楽療法をしてきてくれた藤本さんに母が好きな曲を選んでCDを作って送ってもらい、看護師にどうか再生ボタンを押してくださいと頼んだり、家族の写真を飾ってもらうように持っていったり、ぬいぐるみを持っていったり、病院の有料テレビをつけてもらうためのテレビカードを買ったり、とにかく理由をつけては病院に通って様子を聞いた。
大体3日に一回通っていたら、この病院での全部で1ヶ月少しの入院の中で二回、看護師から「今お昼が終わってちょうど車椅子に乗っていらっしゃるところなので、この病棟のドアのガラス越しですが、ここまで来てもらいましょうか」とありがたいご提案をいただいて、面会禁止の最中なのに、母とガラス越しに会うことができた。
手術をして一体どんな姿になっていることかと思ったら、車椅子で連れられてきた母は両手にグローブをつけられていて、戦うボクサーのような姿だった。肺炎の治療に必要な点滴を抜こうとしてしまうからの拘束らしい。先生や看護師の言葉で状態を伝えてもらってはいたけれど、それだけでは知り得なかった「がんばっている」ことが一目瞭然だった。顔を一瞬見られるだけでなんという膨大な理解が得られることだろう。「元気なんだね」「私達のこと覚えてくれているんだね」「本当にママ、一人でよくがんばっているね」
「病院でずっと眠って離れていると認知症が進んでしまう」という恐怖
それ以来病院には誰に会うときよりも念入りに化粧をして行った。
母はまだ体力がないのか最初のときすぐ目を閉じようとしたので、少しでもおしゃれをしたほうが母の目を引けるのではないか、と思ったのと、母に可愛いこの子(当社比)のためにがんばらなくちゃ、と思ってほしかったからだ。そして何より、私の中に強い緊張があったからだ。
ひょっとしてこちらのことがわからなくなってしまうのではないかとどこかで不安だった。よく「入院して認知症が進んじゃう」と聞くことがあったから。
母はガラス越しに会えた二回とも、私達を見ると家族にしか向けないいつもの顔で笑った。ちゃんと認識しているし、会えて嬉しいと思ってくれていることが伝わった。一、二週間離れて入院しても、一人でベッドの上で過ごしていても、私達を忘れなかった。
しかし、再会を喜んで涙を流しているのは私達だけだった。母は会って数分すると、車椅子に座っているのがつらいのか、ガラス越しで距離があり触るなどできないために私達のリアリティが薄いのか、二回目など母は隣りの看護師に「もういいね」と言って部屋に帰ろうとした。
「もういいね」は認知症が「重度」と言われたころからの母の口癖で、どんな素敵なところへ旅に行っても、どんな美味しいものを食べても「もういいね」と言うので、私が一時とても疲弊してしまった言葉である。久しぶりに会えたのに、入院中こんなに離れた後でも「もういいね」なの?と思うと脱力して笑ってしまったが、子供が入院してずっと面会禁止で母親に会えない中やっと母親が来てくれたら泣くだろう。必死で求めるだろう。大人だって、入院してしばらく会えなかったパートナーに会えたら嬉しいだろう。しかし、母はボクサースタイルで、ちゃんと私達のことを認識したけれど、それでも最近知り合ったにすぎない看護師に笑顔を向けて「もういいね」と、一切私達にすがらなかった。
「ここから出してくれ」「なぜあなたたちは私のそばにいてくれないのか」「どうして私は一人で知らない人の中にいるのか」というような、不満や怒りも見せなかった。あまりにもしっかりしていて、母が雲の向こうに行ってしまった気もした。
「回復の見込みはありません」
必死で病院に通い、面会禁止なのにも関わらずご厚意でガラス越しに会わせていただいて、自分なりに母の状態を把握してきたわけだが、入院から二週間後に、「これからのことですが、運動能力、すなわち立ち上がったり、歩いたりということに関して、これからできるようになる可能性は低いと思います」「食事の方も、肺炎を起こして誤嚥の可能性があるのでこれまでペースト食で様子を見てきましたが、嚥下訓練士の見立てでは、ペースト食から固形食へと食事形態を上げていくことは難しいということでした」と電話で言われることになったのは、驚きだった。
家族としてはとても信じられなかった。入院の三日前、1月1日は一緒に歩いて初詣に行っていて、神社の長い階段を上る母を鮮明に覚えている。その前日の12月31日は、私は母が認知症になってからも母のレシピで年越しそばを毎年作ってきたのだが、この日はそのそばを食べている最中に「もっとください」と母が言ってきたのだった。食欲のもともと少ない母がもっと食べたいと自分から言うなんて。母の代わりに私が台所を預かるようになってから、母が私の作る料理を認めてくれたのはそれが初めてだった。
それなのにその二週間後に、歩けるようにも、食べられるようにもならないと言われることになったのだ。しかも手術の次の日からリハビリが開始できる軽い骨折だと言われていたのになんでこんなことに?
「リハビリが開始できないのは、認知症で指示が伝わりにくいからですか? 指示さえ伝わればこれから回復する可能性はないですか? 本当に母は体の力を落としてしまったのでしょうか? もともとは父と毎日90分くらい散歩してきた人で、最近は確かに20分くらいに減りましたが、まだ72歳で、認知症になったあとも体の力があることが支えだったのですが、二週間の間、なぜリハビリができなかったのでしょうか?」
「ちょっとそれは判断できないです。確かに指示が伝わりにくくて、リハビリをやりましょうと言っても怖がってやっていただけないということは一つの理由です。本人が嫌がる中で、リハビリをするには病院としては難しいところがあるものですから。」
「認知症で自分が骨折して手術を受けたことが記憶できず、どうして足が痛いのか何が起こっているのかわからない中で、馴染みのない方に「歩いてみよう」と言われても気持ちが向かないのかもしれません。私としては、コロナがなくて家族が面会できて、「やってみよう」と毎日働きかけられたら違ったのではないかと思ってしまいます。いままでさんざんつきあってきた家族は母への伝え方が少しは得意なところがあると思うのです。「なおさなくては」というやる気も、認知症がある人は馴染みのない人の中では作りにくいところがあると思います。コロナさえなければというのは言っても仕方がないことですし、病院の方々のご尽力には感謝してもしきれませんが、「回復の可能性がない」というのは、家族にとって面会できず途中経過が見られない中で突然としか感じられず、あきらめられません。歩けず、立てず、寝たきりになるということでしたら、一緒に暮らしていく方法がこれからまったく変わってしまいます。そもそも一緒に暮らすことが不可能になってしまうかもしれません。この先のことが全く想像できないので、認知症があるゆえの難しさを改めてご考慮いただいて、一度だけ実際にリハビリに立ちあわせていただくことはできないでしょうか。」
ガラス越しでもなく、家族がリアルで会えたとき
リハビリの立ちあいが許された。この一回、母と直接会えることになった。特例である。迷惑をかけてはならないので自宅でできるコロナウィルス抗原検査キットを買って、父と私は家で唾液で陰性の確認をしてから病院に向かった。
青いビニール製のエプロンをかけて、病棟に入れていただく。その日だけ個室を開けていただいたようだ。その中で会い母の様子を見るという。母はベッドに乗って寝た状態で運ばれてきた。
「ママ!」
声をかけても目を開けなかった。しかし何度か呼びかけると「ん?」「どうしたの?」「なあに?」とこどもに話しかけるやさしい声でこたえ、手をぎゅうっと握ってくれた。しかし目はあけてくれなかった。必死で髪の毛や、顔をなでて、「私達いるよ」と皮膚の感触で、声で伝えた。目を一瞬開けたと思うと上の天井を見て、私達の顔に気づかずそのまま閉じてしまった。私の手があたたかく、父の手はつめたいので、私の手の方をずっと握って離さない。
「ではそろそろはじめましょうか」リハビリ専門士が言い、一度母の体を寝た姿勢から、座る姿勢に起こす。母は座位を維持することはできるようだった。次にリハビリ士が支えながらベッドの端に腰掛けさせ、足を垂らすように座らせる。その時ようやく目が開いた。真正面に私と父がいる。母は「あ!」という顔になり、そのままこっちに来ようとして、立ち上がろうとした。すかさずリハビリ士が母の脇を支える。しっかり立って、母は前方の私達をしっかり見つめて笑っている。「あんたたちそこにいたの」という表情でそのまま当たり前にこっちに歩いてこようとする。リハビリ士が慌てて母を座らせようとする。
「ママ!立てたじゃん!!すごい!!!」
父と私は思い切り拍手をする。同席していた医師や看護師もどよどよしている。
「立てましたね。やはりご家族がいると全然違いますね。立てたのはこれが初めてです。」
母は私達をまだ見つめていて、またすぐによっこらしょと立とうとしたので、もう一度リハビリ士が支える。
「ママ!すごい!!!!」
このままこの場で歩いたり、立ったりを何度もしてみればいいと思ったが、その特別な個室を使える時間の都合や家族がコロナの条件下で合わせてもらえる時間制限があるのか、その瞬間「申し訳ないですが、ここまでとさせていただきます」と言われてしまった。10分くらいだっただろうか。
母はベッドにもとのように寝かされるとまたぎゅっと私の手を掴んで離そうとしなかった。
母は自分の大部屋に戻っていった。食事の時間になったらその様子も見させていただけるという。今度は母は他の人と同室にいるので、廊下の窓越しに見ることになった。母のベッドは廊下のすぐ横だったらしい。母は横を向けば私達がいるのに気が付かない。目をつぶったままの母に、看護師が一口一口、ペースト食を運んでいる。唇にもっていくと嫌だと顔をそむけることが多い。しつこく促すとときどき吸い込む。一口ごとに待ち時間があり、すべて食べるには30分から1時間かかるようだった。ここは急性期の病院である。目も開けない人の、しかもおいしそうに食べない人に対して、忍耐強く接するのは本当に大変だろう、と涙が出てきた。
「ご家族様と会うとやっぱりとても違いますね。あんなにご表情豊かなことははじめてでした。リハビリをやっていただくのもとても難しくて、やはり今日は立てましたが、明日からまた同じようにできるかというとうまくいかないと思います。回復は難しいというしかありません。」
この言葉はそのとおりだと思った。体力はあっても、気持ちが動かなければ、回復の見込みはなくなってしまう。
リハビリ病院への転院
肺炎は落ち着いたから、この病院は急性期の病院だから、そろそろ転所先を考えてほしいということで、このリハビリの立ちあいはなされたのだった。母の様子を見せていただいたあと、医師や看護師、リハビリ士、ソーシャルワーカーのみなさんが同席しての話し合いとなる。
歩けるようにならなくても、車椅子でも、せめて自分で一瞬立つことができたら、着替えなども今までのように立ってできる。トイレにも自分で移れたら、なんとか家でやれるかもしれない。ペースト食も色んな種類が売られているらしい。スロープや手すりを家の中につけることはすぐにできるらしい。とにかく立てる状態にまでリハビリを進められないか、家族が会ったときに立てたのだから、まだその可能性はあるはず、と希望を伝える中で、私は失言をしてしまう。
「リハビリに強い病院に転院することはできないでしょうか。運動機能、嚥下機能のリハビリに加えて、認知症の勉強をよくしているところはないでしょうか」
即座に医師が応える。「うちも勉強をしています。」
本当にそのとおり。この病院の方々はみな親切で熱心である。なにせ私達をこの状況で母に会わせてくれたくらいだ。近所の人や母の友人、私の地元に暮らす人々は、このあたりだったらこの病院が一番良いよ、いいところに入れてよかったね、と口を揃えて言ってくれる。実際みなさんと関わって、本当に人を尊重して、自分の仕事に誇りを持って接してくださる方々だと感じた。認知症についての勉強もしていないわけがない。
医療のプロでも、看護のプロでも、リハビリのプロでも、認知症の知識が高くても、母の気持ちは動かない。認知症の勉強をするということは、どうしたら人の心は動くのだろうという仕組みを知ることなのだろうか。それはきっと世界のどこにも書かれていないことだ。
グループホームに申し込む
入院から一ヶ月と少し。結局母は私の家から歩いて通えるリハビリ病院に転院となった。そちらも評判の高い病院である。同じリハビリ病院でも、脳梗塞のあとなど、治りたいという気持ちが強く、自主的にどんどんリハビリに向かっていく人は回復期病棟に転院できるのだが、母には自主性が見られないので、地域包括ケア病棟での受け入れとなった。どんどんリハビリを進める回復期病棟も、おだやかにリハビリをする地域包括ケア病棟も、どちらも自宅復帰を目的としていて、ずっと入院していることができず、地域包括ケア病棟は法律で二ヶ月以内の退院が定められている。
とにかく「立つ」練習をして、自宅復帰に望みをかける一方で、もしそれが叶わなかった場合について考えておかねばならなかった。
「立って」も「歩いて」もうまく母に伝わらないのは、そもそも母に「なおりたい」という気持ちがあまりないからだと思われた。「立つ」より「歩く」より「気持ちを作る」というのが一番母に必要なリハビリだ、と考えると、家に帰るのが一番いい。しかし私と父にはその状況の想像ができなかった。母が自分では寝ている以外に自分で姿勢を作って座ることもできないのなら、今までの暮らし方ではやっていけない。母と一緒に暮らしたくても、着替えのために起こすのも、私達の力で体を持ち上げなければならないとしたら、私が仕事でいないとき、腰が悪い父が一人でやるのは不可能だろう。トイレは?食事は?寝返りは?一緒に暮らす方法がわからなくて、どうしても受け入れられなかった。
次にいいアイディアとしては、家に戻れないなら、毎日会い行くことだと思うがそれはできない。病院はまだどこも面会を禁止していた。この病院も面会禁止だった。
その次に良いのはなんだろう、と考えていて、病院よりも介護施設のほうが面会制限がゆるいことを知った。やはり医療現場では生命を救うことが最優先になるけれども、介護現場では、もちろん命は大事だが、それと同じくらい気持ちだったり、その人らしい暮らしが重要になることがある。
その病院のすぐ近くに、母の父、すなわち私の祖父が入所していたグループホームがある。祖父がなくなった朝、施設の方が祖父をお風呂に入れてくれて、私は祖父にドライヤーをかけた。その後一緒に祖父の服を選んで、化粧水を塗って、顔を整えた。そして葬儀の日には、その方々が祖父に会いに来てくれた。あまりにも嬉しかったので、その方々とラインでつながって、今日までときどき連絡を取り合っていた。母の認知症もご存知で、ずっと気にかけてくれていたのである。
「あそこだったら」と久しぶりに電話をかけてみた。うちから歩いて毎日通える。仕事のいきかえりでも。そして、知っている方々、信頼している方々がいる。そもそもグループホームは家族のように少ない人数で認知症のある人が過ごすところだ。肺炎などの「治療」が必要なくなった今、母にはベッドで寝ることではなく、落ち着いて過ごせる「生活環境」が必要だと思った。。
グループホームでも面会はまだ窓越しにしかできないらしかった。しかし窓越しになら時々でなく毎日顔が見られるという。さらに5月になってコロナの分類が5類になればもっと緩和していくということだった。今すぐの空きはないが、母のリハビリ病院の退院期限4月9日までには空きがでそうだという。その場で申し込みをした。
二ヶ月入院したリハビリ病院
急性期病院からリハビリ病院へ転院するとき、母はストレッチャーに寝た状態で介護タクシーで移動した。その移動の30分間は横にいてよいとのことだった。30分も一緒にいるのも、病院から外に出たのも久しぶり。母はパチっと目を開けて私の顔を認めると「あら、いたのー」というかのごとく、にこーーっとした。外気に驚いたのか、「いいねえ」「どうしたの?」「そうなの?」「いくの?」次々言葉を発して私に自分から働きかけてきた。
「ちゃんちゃちゃかちゃーん」などと即興で歌を歌って笑わそうともしてきた。顔マネをしてふざけ合いもした。入院前の母とおんなじ関わり方ができたのだった。一ヶ月少しの間で一度しかリアルに会えてなかったのに。母が私を忘れることについてはもう心配しないと決めた。
病院についたらすぐに母は検査室へと運ばれてそれ以来また会えなくなってしまった。
それからの母の状態は良い方に行くばかりではなかった。「新しい環境に移ったリロケーションダメージなのか食事がほとんどとれません」「だから食べ物ではなくメイバランス(高カロリーのドリンク)を飲んでいただいています」「足の方のリハビリはできる状態ではないですね」。
しかし次の週には「食べています」「ご自身で立つのは怖がられてできないですが、一度立ってしまえば、脇を支えて歩く練習をしています」。「えええ、歩けるんですか」「はい、支えていれば少しですけれども」。
良くなったり、悪くなったり、聞くたびに違った。
この病院は、まったくガラス越しなどでもリアルに会うことはできなかったが、その代わりにweb面会を申し込むことができた。二週間に一度くらいZoomを介して、家からつないだ。ここでの約二ヶ月の中で四度ほど画面で会った。
最初は、ガラス越しのときと同じように、画面では母の注意がうまくつかめなかった。目をつぶった母に対して父と私がひたすら呼びかけるだけだった。しかし、徐々に目を開けるようになって、こちらで歌うとそれに合わせて首でリズムを取ったりもできるようになった。最後には、つないでいる15分の間目をつぶることは一切なく、私がふざけると画面の私のおでこをつんつんして「まったく」「ばかね」とからかってくれるまでになった。
姿勢も、最初は病室から寝ながらつないでいたのに、最後は他の人と同じようにロビーにあるコンピュータの前から車椅子に座ってつなげるようになって、介護士によれば「本当に覚醒度が上がって、ロビーでレクリエーションにみなさんと参加もできるようになりましたし、少し音楽を口ずさんでまだ部屋には帰りたくないような素振りも見せられたり、本当によくなられています!」
そして、退院期限が二週間までにせまったとき、申し込んでいたグループホームから「4月9日には必ず入っていただけます」というお知らせも受けた。
突然の知らせ
グループホームの入居の具体的な手続きをすすめる、グループホームの責任者と、リハビリ病院のソーシャルワーカーとの話し合いが行われた。そこで突然最近、痰の吸引をしている、という情報が明かされることになった。
どうも朝方口に痰をためてしまって、ぺっと人前で吐き出せない。だから吸引していると言われた。その時はまた状況の認識が難しいせいだな、と思った。痰の吸引といっても、ほんとうに痰が絡んでしまっても自分でどうにもできないというのではなく、喉に絡んだ痰を自分で吐き出す力はあるけれども、ただ人前で吐き出すのが恥ずかしいだけなのだろうと思われた。やはり気持ちの動かし方の問題で、吸引という看護処置が本当に必要なわけではないのだろう。
それが数日のうちに実は一日のうちに二回、三回吸引しているらしい、と変わった。家族に様子を伝えてくださっているのがソーシャルワーカーで、直接母と関わっている看護師や介護士ではないので、情報にずれが生じてしまうことがあるようだ。丁重に謝られて、直接医師から電話がかかってきた。痰の色は全く問題ないし、肺炎が原因などではなく心配な状態ではないと言われた。
それで安心と思ったら、今度はグループホームの方から、どんな理由であれ痰の吸引は看護処置であり、吸引が必要だと看護師が常駐しているグループホームでないと入居は難しいと伝えられた。このグループホームには常駐の方がいないそうだ。祖父をみてくれてずっと親身に付き合ってくださった施設長が病院と直接話して、母ともzoomで面会して、看護師から話を聞いたら、実は夜間も吸引しているという情報が出て、最終的に今回母が入居するのはできないという判断をした。
私達は病院の介護士から「元気になっています!」という言葉を聞いていたから、「夜間吸引をしています」が、どうしても頭の中でつながらない。再び母の姿がまったくみえなくなりそうだった。
自費でも訪問看護をつけるから、母を引き受けていただくことはできないかと提案もしたけれども、訪問看護師が夜中すぐにかけつけることができない場合もあり、夜間に吸引があるということになると母の命に危険が及ぶ可能性があり、今回は見送り、看護付きの場所を見つけて、痰の吸引さえ必要でなくなったら、いつでも母を引き受けたいと言われた。
最初から、回復の可能性がないと言われてきた。本当にそうだったのかもしれない。じたばたしてしまった。グループホームには入居前なのに、一人の人に対して尽力してもらった。あの施設長の判断だったら仕方ない。私にはこれ以上の努力はできなかった。
退院期限が二週間を切ったときに、まったく新しい施設を探さなければならない状況になったのだった。施設の入居は通常二週間から一ヶ月手続きにかかるらしい。空いているところがあったらラッキーである。このやりとりをずっと見守ってくれていたリハビリ病院のソーシャルワーカーが母や私の気持ちに合うところをと必死で一つ見つけてくださった。そこに行くことにした。
一喜一憂の三ヶ月。浮き沈みしていないのは、母の気持ちだけのように見える。私と父が良い決断をしようと悪い決断をしようと母はすべてを受け入れて、できることをして生きている。さぁ、ママ、桜を観に行こう。