私が小学生の時、駅の近くにあった母親のピアノのレッスン室に、
塾の鞄がおいてあって、小学校の帰り道、そこでランドセルととりかえて、塾に行っていた。
ところが、その日、もっているはずの鍵がなくて、ピアノの部屋のドアの前に立ちつくしていた。
もちろん、本当の家自体の鍵も一緒にセットになっているから、家に帰ったって同じことである。
母親の車が置いてあったので、電車でどこかにでかけていること、そして、
まちがいなく、母親はここに帰ってくることを意味したので、
車のボンネットの上に座ったり、
あんまり同じ箇所にいると不審がられると思って、
車の陰に隠れて座り込んだりしていて、
もうすぐ帰ってくる、もうすぐ帰ってくる、と思っていた。
踏切の音が鳴るたびに、実際に駅まで行って、すれ違う可能性が絶対無いところで待つ
ということを繰り返し初めて、
だんだん、その踏切の音が上り電車なのか下り電車なのかということは区別がつくようになった。
私が母親の行き先を知っていたのか、覚えていないのだけれども、
下り電車の時に母親が来るということを知っていたように思う。
下りの音がすれば必ず走っていった。
夜10時過ぎになって、また、下りだ!と判断して駆けつけて待っていると、母親たちの姿が見えて、
ああ、よかった....と思った。
母親は相当驚いたらしく、
今でもたまにこの話になると、泣いてしまう。
母親は兄の遠足か、修学旅行の準備ということで、兄とその友達の一家と
新宿に買い物に行っていて、
まさか鍵がないなんて思わないから私が塾から帰ってくる時間までは大丈夫と
ごはんをみんなで食べてきて、
そしたら、あんたがいるじゃない、といって
泣いてしまう。
どうして、近くに知っているおじさんもいたし、叔父叔母の家もあるし、いつも行くやおやさんもあったし、
交番に行ってお金を借りて、隣の駅まで行けばおじいちゃんおばあちゃんの家もあるのに、
なんであんたは、ずっとそこにいるの〜、という。
お兄ちゃんは、実際にそういうことをして、苦難を見事乗り切ったことがあるらしい。
こういう風に、機転も利かず、ただただ、
その「絶対」(=母が帰ってくるときに絶対すれ違わない)のルートを繰り返すだけな自分の特性が
今でも全然変わっていないことに気が付く。
CSLにいくとき、これをやらなきゃ!ってことがあればなんなくいけるけど、
何もないとき、自分でなにか動機を作って、ということができなくて、
止まってしまう。
一日中、家にいて、しかも決まった場所にいる。
居間の左の角にコンピュータを置くスペースがあって、
かなりの確率でそこにいるので、
幼なじみが1歳の子供(あおくん)を連れて、うちにあそびにくると、
「あおくん、あれねえ、インテリアじゃなくて、あやちゃんだよ。動くんだよ、ほんとうは。」
とかいっている。
働いている責任も果たさず、
思いつくこともできず、
もうだめだ、とても生きてけない、と思う。
そんな機械君の日々。
今年ははじまってからほぼお隠れになっている。
(*お隠れ=いわゆるひきこもりのこと。)
人生の8割くらい、隠れてるんじゃないかと思う。
Sunday, 1 March 2009
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