Saturday 7 March 2009

気配と存在

ここのところ私史上最強の鬱に襲われていた。
(とはいっても、幸運にもチケットを頂いて、喜んでWBCの中国vs日本を見に行ったりしていた。)
春は大体いつも自分の膜が薄くなったかのように、過敏にあれやこれやと反応しては、
神経をギリギリ巻いては緩め、と、とにかく感じやすい時期のようで、
疲弊していた。
それで、勝手に寂しい気持ちがしていると、
どうも、真実というものと仲良くなりたい気持ちがしてくる。
真実が友達である限りは、寂しい気持ちは取り除かれるからである。

ラーゲルクヴィストの「巫女」で印象に残ったことは、
神が憑依し神の言葉を継げる巫女すらも、神の姿を見ていない、ということと、
そして、その巫女すらも、
自分は本当に神に選ばれたのか、人の都合で選ばれたのにすぎないのか、はたまた、自分の思いこみなのか、と苦悶するところだった。

私はいままで、色々な場所で神の気配を感じてきた。
日本人だったら多くの人が普通に感じるように、
たとえば深い森の中で。
たとえば、その木は、太陽は、神様のようだった。
そして、そのそれぞれは私にとって大事なものになっているのだけれども、
どこかで、神の姿そのものは見たことがない、と思っていた。
「ああ、ここにはおはします」
その気配のみがあって、
私にとっては、神様は、どこかで、知り得ないものでなくてはならないようだ。

それはとても「私」ということに似ていて、
私とは何かという答えととても似ている。
まだ見ぬ何かのことを、真実である、神である、と私は信じていて
「私」というものも、いまだ掴めないまだ見ぬものという側面があった。

だからこそ、徹底的に、志向しなくてはならないものである。

姿が見えないということと、いないということは別のこと。
「私」というものは確かにある、そういう感じだけがしているのだった。
なにか別のことによって自分を定義して、その中に安住することは、
どうしても嫌なことであって、
まだ見ぬものである、と信じたいのだった。
そう信じていられる限りは精神は安定するのだった。
でも容易に信じられなくなるのだった。
何か別の物の中に安住したいと思うときほど、精神は崩れていくのだった。

考えてみればあたりまえのこと。
例えば、誰か好きな人が出来て、その人に自分の根拠の全てを求めてしまったら、
重すぎて重すぎて、きっと、駄目になってしまうだろう。

神様がどうの、などというと、
特に科学者においては失格のように思われるけれども、
私にとっては、真実のことを神と呼ぶのであり、それは自我の問題と直結している。

1 comment:

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