Saturday, 18 April 2015

文章のこと

最近、聞き書きというお仕事をさせていただいている。

「聞き書き」というのは、どういう存在なのかしばらく悩んできた。
話をしてくださるご本人が書かれるのが一番面白いし、誤解も無いし、人にも読みやすい。
ご本人もわざわざ私を通すのは、迂回でしかないだろう。
私を通すのは、どうしてもダウングレードになってしまう。


だけど最近見えたのだ。
もちろんこれは、池田雅延
さんが、小林秀雄の文章は肖像画なのだとおっしゃったり、
自分の心の中にあるものと、文章とが、ぴったりと割り符になるように描けとおっしゃったりしてきたことなどが
積み重なったからなのだけど。


語られた言葉の中で、一番私の心が動いたこと、一番私によく聞こえたところ、
そこだけを、一枚の絵として完成させれば良い。
私の心を動かしたように、人の心を動かせるかどうか、そこを気にして描けば良い。
その言葉のよさが伝わるように、その言葉が最も際立つように、描けば良い。
その言葉の絵を描くのだけれど、キャンバスのはじからはじまで手を入れるのは私。


お話になった言葉を、書き起こしただけだとどうしても言葉は死んでしまう。
語り言葉は文法的にめちゃくちゃなことも多いし、それがために勢いで伝わっているところがある。
それを文章では整えなくてはならないし、てにおはなどのこまかい選択でも、どんどん勢いが落ちてしまう。
語ったことを文章にするだけでは、どうしても血は冷めてしまうのだ。
人は、血の通った言葉でなければ、絶対に読んでくれない。
それが一番大事なことなのではないだろうか。


お話になった言葉の勢いを、復活させるために、わたしは自分の驚きを描かなくてはならない。
自分の意見に変えてしまうこととは違う。
自分の意見を述べれば血は通うのだけれど、私はそれほど面白い意見は持っていない。
それに、仕事として求められているのは、あくまでも「聞き書き」なのである。
お話になった人の言葉でなければならない。
だから、お話になった人と、私のANDをとることが必要で、
私に一番聞こえたところを、一つの文章として完成させる、

私とおんなじように人の心が動くように努力する、というのが一番良いのである。
耳に時間的に入ってきたことの中の一つを、空間的に描く、その努力をすれば良いのだ。


それから、誤解を恐れずに、その人の言ったことはこういうことだと思う、というところを言い切らねばならない。
あくまでも私の心の動きを描かなければ、血は通わないのだから。
私が受け取った物だけを、ちゃんと描く。
それがきっと文章という物なのだろう。


この方法だったなら、主語が「僕」であることも抵抗はないし、
文章に関わる人全員で、真実を目指していくということにもなるのだろう。

Monday, 30 March 2015

祖母の桜

頭の中に、こうなったらいいな、という理想がある。

例えば、去年のちょうどいまごろ、祖母の体調が悪くなって、
医者にもご家族を集めてください、といわれるような状況で、
「ああ、桜が見られなくて残念だ」
と祖母がほろりと言ったこと。

もうろうとするほど体調の悪いとき、
そんな言葉が出てくることに、私は驚いてしまった。
桜は文化的な風流人だけの物でなく、
私のおばあちゃんの物なのだった。
ぬか漬けがおいしくて、お庭の手入れが好きで、
祖父よりも一日でも遅く死にたいと言っていたおばあちゃんの物なのだった。

祖母は奇跡的にその状況から回復し、
それで一年が経った。
元気になってくれてから、
「おばあちゃん、来年は桜を見に行こうね」と
何か不自由が出る度に言ってきた。

買い物に行くのも大変、お料理をするのも大変になった祖母は、
お弁当を食べることが多くなっていて、
ああ、絶対、お花見のときには、私がちらし寿司を作って、
我が家の目の前に一本立って咲いている桜を見に来てもらうんだ。
あれが一番落ち着いて見てもらえると思うんだ。
桜を見ながら庭で食べるのは無理かなあ、
暖かい日に机といすを出して、外で食べたら最高だと思うけど。
できたら、兄夫婦にもその日はうちに帰って来てもらいたい。
だけど、桜がいつ咲くか、天気がいついいか、暖かいかどうか、
あらかじめ決められないことがいっぱいで、
桜が咲いたと聞いてから、
落ち着かない日々を過ごしていた。

昨日も、自宅から喫茶店まで6キロ範囲の桜を歩いて見て回って、
どこがどのくらい咲いているかとチェックして、うんうん、まだまだ、二分くらい、
きっと4月に入った頃で、お天気のいい日を選べば大丈夫、
いまは仕事の締め切りもあるし、4月に入ってからでちょうど大丈夫・・・
と考えて眠ったら、
今朝、母が興奮しながら「あーちゃん、満開よ!!」と私の部屋に突入してきたのだった。

完全に私は寝ぼけていて、そんなことがあるはずがない、私は昨日見たんですから、それに私今日はやらなきゃいけないことがあるんですから、と思いながら、
もしかして今日とても暖かいなら、一気に咲いてしまったこともありうる?しかも今日は日曜日?少なくとも両親そろっていて、祖母の家まで車を出してもらいやすい・・

「そんなに、満開なの・・・・?」
「満開満開、見てみなさい!」

ああ、じゃあ、今日なのか?ちらし寿司作る準備してない、締め切りは?
締め切りよりおばあちゃんの桜だよ、、
よし、、
と勇気を出してむっくり起きて窓を開け、我が一本の桜を眺めたら、
片腕が見事に見事に咲いていた。

うん、確かに、満開。
でもそれは枝の一つに関してだけであって、
どうしてこんなにも偏っているのか、
これは、三分咲きっていうんじゃないのかな、ママ。
これはね、私が見せたい完璧とは違うんだ。

これはちがうと言おうと思ったら、
母はもう祖母に電話をかけていて、色んな事が進んでいた。

更には父まで午後から雨だから、早く行こう、と言い出す始末で
(私的には、午後から雨なら、そうでない日を選べば良いのでは、と思うのに、話はどんどん進むのだった。)
ちらし寿司も作らずに、とにかく祖母の家に行くことになった。

ついてみると、
なんだか祖母はぼーっとしていた。
どうもあまり体調が良くないみたいだった。
瞬時にこれは、うちに来てもらうのは無理だ、と思った。

でも、祖母の方から、体調が良くないながら、今日は桜をどうしてもみたいんだ、
桜は油断しているとすぐに散ってしまうから、
車の中からでいいから見たいから、連れて行ってくれるかい?
と言うのだった。

桜並木を走る車の中で祖母は、
花が咲いているというよりも、枝だがなんだか赤っぽい、という
二分か、三分の桜を見て、
「見頃だよ」
というのだった。
「きれいだよ、ああ、よかったよ」
というのだった。
「お天気が悪いのか、憎らしいねえー」
というのだった。
「いつ散っちゃうかわからないから、見ておかないと。ああ、きれいだよう」
「あそこは変な時期に枝を切ったみたいだね、馬鹿だねえー」
と絶好調で話すのだった。

そしてはっと思い出したように、
あやちゃんにおいしいものをごちそうしてあげたいから
お寿司屋さんに行こう、といった。

耳が悪いから、本当は私がちらし寿司を作りたくてね、ということをわかってもらうのは大変なのでだまっていた。
みんなでお寿司を食べられるのは嬉しい、と思い直して、
祖母が名前を挙げたお寿司屋さんに向かった。

ついてみたらば、日曜日であり、お昼時であり、お花見シーズン。
ものすごく混んでいた。
でも祖母の出してくれたアイディアだし、ちょっと待つくらいいいのではないか、と思って待っていたら、
その待っている間に、祖母は具合が悪くなってしまったみたいだった。

喜んで、ほがらかにお店で食べる、という状況ではなくなってしまって、
食べたくないけど食べないと、、という感じの中、
祖母は、母の頼んだかき揚げの、
その椎茸みたいなのはおいしいそうだ、といって、
それをもらうと、おいしそうに食べてくれるのだった。
それは、タマネギの焦げたのだった。

「あやちゃん、いっぱいたべなさい。おいしいやつをたべなさい。
あやちゃんにごちそうしてあげないといけない。」
祖母はそればっかりいうのだった。

もっと桜も、天気も、体調も、良い日を選べたかもしれないこと、完璧に用意すること、
それを内心悔やんでこだわる私の目の前に、
三分咲きの桜は見頃であり、
タマネギは椎茸に化ける祖母がいた。

私の完璧を実現したところで、祖母が喜ぶかはわからない。
私はぐったりしている祖母の前で、なるべくにっこりお寿司を口に運んだ。

夢見る理想、こうなったらいいと思うこと、
実際にやれること、できないこと、
こう思ってしまうこと、こうだと思ってもらえること。

白いかわいい花の付く前の、赤い枝の桜道。
これだけは、わたしも、確かに、一緒にきれいだね、と言ったのだった。

(以上2015年3月29日の夜の日記です。)






Monday, 16 March 2015

First Northern Lights

**以下は2013年12月26日から4泊6日でアラスカに行ったことを書いた日記です。
大分前に書いていたのですが、少し加筆して、どうしてかいまpublishしようと思いました。

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オーロラの出始めは、空をまたぐ大きな虹のように、半円状にかかる白いもや。
テレビや写真で見たような、空全体に禍々しく広がる緑や赤のカーテンとは全く違った、
普通の、雲と見まごう白いもや。
それが濃く、大きく、高く、なっていけば、
まさしく私たちの知っている「オーロラ」の姿となる。

私がはじめてみたオーロラは、
そういう「オーロラ」ではなかった。

2013年12月26日、アラスカについて一日目、夜の6時くらいから山小屋に向かい、
科学技術の駆使された防寒用のタイツ、スパッツ、
その上にもこもこのズボンに、靴下を二枚はき込んで
さらにスキー用のつなぎのズボンをはいて、
着ぶくれて誰が誰かもわからない姿で、外に立つ。
靴は軍用の、スキー靴よりいかめしいものを借りていた。

空一面に星の輝く夜だった。
オーロラはまだ、出ていないみたいだった。

口をしっかり覆っていないと、
のどにぺたぺた氷が張り付いて、すぐに息苦しくなる。
自分の体液の氷で粘膜が焼け付くなんて事あるのかな。

山小屋の裏の、一面雪の積もった牧場で、
北の空にでるんだよ、といわれて指された方を向けば、
北斗七星があんまり大きくて、手で触れるんじゃないかと思うくらいに近い。
オリオン座は、北斗七星を向いて、右手の山の端に掛かっている。
北斗七星が、反時計回りに高度を高めていくから、
オリオン座は、時間が経てば当然上に移動するんだろうとおもっていたら、
いつまでも上がらないから驚いた。ほぼ同じ高さでうろうろと移っていった。

いくら気合いを入れたって、この寒さでは、いつまでも外にはいられない。
暖を取りにひっきりなしに、山小屋へ入っては出る、
だんだんに、オーロラをみにこの山小屋へやってくる人たちも増えてくる。
そうして午前の一時になった。

今晩は駄目なのかな。
こんなに星の輝く夜でも、でないものなんだ。

でないのも、アラスカの一日。
外に出て1分でひたひたと粘膜にうすい氷がはっていく感触、
マフラーにネックウォーマーにマスクをしていても、
なんだか喉が渇いて息苦しくて、なんどもお湯をもらいに行った。
この、寒さ、この、雪のふかふかさ(雪は0度以下ではとけないから、ずっとふかふかなんだそうだ。つまり、溶けて凍るということがないのだ。)、
この、静けさ、この、星の動き、
ここで出してくれた夕食のサーモンの味、
この、入れ替わり立ち替わりオーロラを見に来る人々と暮らす、山小屋の人達。

山小屋の中は、赤々と燃える大きな暖炉。
オーロラが出ているかどうか、部屋の中からも気がつきやすくするために、
電気はほとんど消えている。
だんだんに、外にわざわざ出て行こうとする人もすくなくなって、
暖炉に向かって、みんな無言で座りこんでいる。
壁に掛かるトナカイの剥製もゆらゆら。
誰かが入ってきたとき、木の床を歩く重そうなスキー靴の足音、
ひそひそ声に、火のぱちんぱちん。
わたしも、なんだか、日本を発って、シアトルで6時間待ちで乗り継いで、フェアバンクスに到着して、
あたり一面真っ白で、ぱちくりしながらバンに乗って、ホテルへ行って、
それから山小屋の人に迎えに来てもらって1時間車に揺られて、、、
と長い長い一日が、火の前でぐるんぐるんまわった。


そういえば、バンの運転手さんのデボーとこんな会話をしたのだった。
(デボーに限らず、アラスカの人達は、オーロラのことを、ノーザン・ライツ、と呼んだ。)

「ずっと聞いてみたかったことを聞いても良いか?
なんで日本人は、そんなにノーザン・ライツが見たいんだ?
この時期に来るのは日本人ばかりだ。こんな寒くて何もないところ。
ヨーロッパ人は来ない。アメリカ人も来ない。」
「ヨーロッパ人はヨーロッパで見られるからかなあ。アメリカ人も来ないの?」
「来ない。でも、こんなにノーザン・ライツに興味を持つのは日本人だけだよ。
まあアメリカ人は、他の何にも興味を持ったりしないのかな。ははは。」
「どうだろう。確かにノーザン・ライツ自体に、日本人は憧れがあるかもしれない。
逆に、興味がないのは何でなの?
デボーにとっては、いつも当たり前にあるからなの?」
「うん。別になんとも思わない。
日本人にとっては、祈る、みたいなことがあるの?宗教?」
「うーん、宗教ではないよ。宗教的感覚ではあるかもしれないけれども、宗教ではない。」
「要するに、spiritualってこと?」
「うーん、なんかそれとも違う気持ちがするんだけど。
例えばね、私たちには、月を拝む習慣がある。
月っていつもそこにあるものでしょう?
でも、私たちの中には、外に出て月に一晩中付き合って、お酒を呑む人もいる。
ただ綺麗だなあ、って思う。
これをやっぱり「文化」っていうんだと思う。何を綺麗と思うかって。
なんでかっていうことを説明することができたらいいんだけど。
何千年も昔から、何億人っていう人が眺めてきたの。
宗教でも、スピリチュアルでもなくって、文化。
そういう習慣がね、ノーザン・ライツのことも見させるんだと思うの。
なんでかっていうことを言えないんだけど。」
「ふう・・・ん。」
「でもさ、それはそれとして、ここは、単純に想像を超えているから。
ノーザン・ライツ、日本では絶対に見られないから、どんな感じか知りたかった。
この-40度っていうのも。ここにいる動物も。森も。
アラスカって、まったく想像できなかったの、私たちにとって。」
デボーはなんだかちょっと納得したような顔をして、一回間をあけてから言った。
「僕もね、一回だけだけど、ノーザン・ライツに驚いたことがあるよ。
子どもの時、家のドアを開けたら、ノーザン・ライツがそこまで降りてきていたんだ。
僕は、ノーザン・ライツの中にいた。
普段はそんな下まで降りてくることは絶対にないんだ。
僕の人生で一回だよ。音がするんだ。ノーザン・ライツのカーテンの音だよ。」
「ええええ?」「それはどういう音・・?」
「なんだろう。うーーん、アルミの板ってわかる?
あれをさ、こう手の中でくしゃって、やった時の音、、、っていうかさ、なんだろう。
なんていったらいいだろう。なんかさ、パチパチって弾けるようなさ・・・」
「アルミ・・・。ノーザン・ライツって、まさに金属のカーテンがしなるっていう感じなのかなあ。
そこにあるものっていうか、触れるものっていうか・・そんな感じなの?
すごいな、私もいつか聞いてみたい。」


なんでかわからないけれど、私の目的は、オーロラを見ること、ではないような気がした。
それはもちろん、見たいし、
こんな着ぶくれた格好をして、はるなちゃんとふたり必死で、もう一度外に出てみるわけだけれども。

そんな風に少し、今日に満足し始めたときだった。
ねばってずうっと外に立っていた、上等のカメラを仕込んでいたおじさんが
「あ!あれ、オーロラだよ!」と声を上げたのだった。

いわれたところに必死で目をこらすと、
山の稜線の一番へこんでいるところに、白いもやがたまっているような感じではあった。
でも、雲なのか、山の向こうにある街の灯りなのか、という感じで、
確かにうっすらあるけどさ・・・と思っていると、
おじさんが、
「あれだよ、あれだよ!ほら、動いているじゃないか!」
というのだった。

そして、そのおじさんの友人達も、
「本当だ、本当だ!」
と騒ぐのだった。

何度見ても、白いもやで、とても動いてはいなかった。

「お父さん、どんだけ目が良いの。。」と奥さんらしき人が言うのでちょっとほっとしたのもつかの間、
その人も
「ああ、ほんとうだ、ほんとうだ、動いているね、あれはオーロラね、見えた見えた!」
と騒ぐのだった。

頭を抱え込みたくなるほど見えなくて、
なんかのまやかしじゃないかと思って、
振り向いて、はるなちゃんの方を見ると、
はるなちゃんも怪訝そうな顔をしていた。
「だよね、みえないよね」といいあわせて、ほっとして、
もう一度空の方に向き直ったら、
急に、もにょもにょと動いて見えたのだった。

一度見えてしまえば、それは、
山の端をくすぐる、神様の白く輝く手のようだった。
もにょもにょもにょと動いていて、その白い手の爪に当たる部分がきらきらと輝いて見えた。
「うわあ」

はるなちゃんにとって、わたしもおじさん達の仲間入りをしてしまった。


はるなちゃんは、怪訝な顔をしつつ、カメラできっちり、その場をおさえてくれた。
(私はー40度でカメラを使うのは不可能だと最初からあきらめてカメラをもっていなかった。)

アラスカにいた4日間、のちのち、
目がちかちかするほどの緑色の絵の具を空に流し込んだようにぐにゃぐにゃと動く、
ダイナミックで美しいオーロラに出会っていく中で、
あれは本当にオーロラだったのかな、という気持ちが、
よぎらないわけではなかったけれども、
一番最初のこの日、見えた!とおもったその時の感動と、
そのもにょもにょと動く指先が、
いまでもはっきりと残っている。
私のはじめてのオーロラ体験は、これである。
あれがなんであったにせよ。

そして、私は人生の中で、確かにそんなアラスカの一日を過ごしたのだった。

****

日本に帰ってきて二週間くらいたったある日、
東京で、夕方4時くらいにぼーーっとタクシーの中から、
ビルの向こうに真っ赤な顔を出し、沈んでいく太陽を眺めていたら、
あれ、ずいぶんと、まだ、高い位置にあるな、という気がした。
12月末のアラスカでは、一番高く昇っても、あそこまで行かなかった、
こんなに赤くまぶしく輝いていなかった、
所狭しと並ぶ東京のビルも、すれ違う車も、太陽を受けて金色に輝いて、
私も、顔を背けたいくらいに、ひりひりとまぶしい。
急に道行く人がやけにのんびり動くように見えた。

****

何かの目的で旅に出る、ということよりも、
毎日の何かが、いつの日かピースとして繋がって、
自分の世界の見え方を変えることがあるんだよなあ、と漠然と思う。

私たちの過ごしたアラスカ4日間も、
今はまだ、何にもならない、たくさんの質感として、私の中で何かを待っている。


シャンダラー牧場にて。4日目。2013年12月29日の深夜。はるなちゃん撮影。


Tuesday, 24 February 2015

印象派は『はつ恋』の味

東京都美術館で開催中の『新印象派展』(3月29日まで)のサイトで、
『モギケン一座、新印象派展を見る』として、
茂木健一郎さん、植田工さんと共に登場させていただいて、
私は文章を担当しています。

Vol.1 なんで点描なんかになったの?
Vol.2 色をパレットで、混ぜないで脳で混ぜる!
に引き続き、
Vol.3(最終回) 印象派は『はつ恋』の味
が本日公開されました。

☆ 最終回のみどころ

今回だけでも、文章を、どうか読んでいただけますように!!

また、新印象派の代表=スーラの点描画ということで、
アニメーターの植田工さんが、毎回点描でモギケン一座を素敵に変身させてくださっています。
(今回は、まさか、まさかのシャーロックになりました!ありがとう、植田君。)





この展覧会で、私が一番感動したのが、
今回のサイトのトップに載っている、モリゾの《プージヴァルの庭》でした。
長く眺めてまったく飽きず、
このまま風にまかれて、どこかへ連れて行かれていいような、恋の狂気を覚えます。

楽しみに、東京都美術館へ足を運んでいただけたら、嬉しいです。




Saturday, 24 January 2015

仏像の右手問題

一昨年の年末くらいからずっと考えていたことを、ここに書いておこうと思う。

私が一昨年くらいから気になっていたのは物語、とか、記憶、というもので、
こんな論文があった。

美術館に行って被験者に作品を見せる。
作品をただ見て帰ってきた人たちと、
作品を同じ時間だけ見て写真に撮って帰ってきた人たち、
後々どちらの人たちの方が作品のことをよく覚えているか。
(Henkel LA. "Point-and-Shoot Memories. The Influence of Taking Photos on Memory for a Museum Tour." Psychological Science, 2013)

その論文の結果としては、
「ただ見て帰ってきた人たちのほうが記憶に残っている。」

それは、例えば、写真にとってしまうと、
頭の中に残しておかなくてよくなって、
いわば写真が脳の外部装置として使える、というような
extended mindの議論とかと整合的で、
色々想像が膨らむ実験だったのだけれども、

私が一番興味を持ったのは、
その「記憶に残る」ということをどうやって調べているか、ということだった。

そこでは、例えば、仏像の右手に何を持っていたか、
盾か、槍か、刀か、何も持っていなかったか、みたいな感じの質問に
正しく答えられたら記憶に残っているとする、
みたいなやり方が使われていたのだけれども、
これは、私の記憶とは全然違う気がするな、と思った。

私が仏像を見て、感動して帰ってくる。
その時、良いもの見たよ、と持ち帰ってきて、人に伝えるとき、
「あの仏像はね、右手に何を持っていてね・・・」
ということではないような気がした。
そうしたら、
自分がその外にある仏像の何を写し取ってきたのか、
心に映る、ということは、もともとの像とはまったく変わってしまうことをいうのではないか、
もしも、本当に違うものに変質してしまっているとするなら、
自分が見たもののことをどうしたら、他者が納得する形で伝えられるのだろう。
その作品のことを、勘違いとしてでなく、本当に見たと言えるのはどんな表現のことなのだろう。

仏像の右手に何を持っていたか、ということを無視して良いわけじゃ無いと思う。
そこに意味が無かったはずは無いし、
作者のことを思えば、もっと細かく全部正確にすみからすみまで覚えておきたいけれど、
たとえ、そうできたとしても、きっと心に映るということは変質するということだと思っている。

いっこうに進まない自分の考えがもどかしい。


Tuesday, 23 December 2014

Pesta Boneka (3)村のお話

今回、色んな面白いことがあった。
奏さんの作品の準備をしているとき、
奏さんが「わたし」といいながら自分の鼻を指さす仕草をした。
それをプトリというインドネシアの女の子がまねをして「わたし」といって自分の鼻を指さしたら、
横にいたリースが急に強い言葉で、
「その仕草は日本人のものである。
インドネシア人は自分が頭にあるとは思っていない。
私たちの心は、胸のところにあるし、さらには指ではなくて手のひら全部で指すのだ。
プトリ、そんな影響はいらない。インドネシア人らしく振る舞いなさい。」
といって
私はすくなからずショックを受けてしまった。

ショックを受けた理由はいくつもある。
まず私自身が、自分たちの出し物は、人形劇という言葉いらずの世界に比べて、
とても言葉的、概念的、頭的かもしれないと思ってしまっていたこと。
それ指摘された気がして、ずきっと痛んでしまった。
そもそも強い言葉に聞こえたのも、自分の思い込みだったのかもしれない。
自分が悩んでいたというだけ。

だけど、私は、どちらかというと欧米の人と出会って、
自分が言葉足らずであること、なにもいえないことにとまどってきたのだった。

言葉だって、言葉いらずの世界を目指している。
きっと言葉によるその世界も可能だと思う。
そういうことができるように、できることから実行する。
かなでさんと西山君と実現できたことが最高に嬉しい。
のびのびとこれからは、また作って行きたい。

そしてKepek村である。
Kepek村での料理大会は、壮絶だった。
村の少女達が、二人ずつ各国のグループに手伝いについてくれた。
私たちについてくれたのは、スチとインタン。
市場へ歩いて行って、通訳をしてもらって、足りない材料を見繕う。

太巻き寿司を作るのに、
西山君がコンロを確保して、あつーい卵焼きを作ってくれる。
手際がものすごく良くて素敵だった。
かなでさんが色んな食材を切って、酢飯の準備。
私は料理の時は使い物にならないので、洗い物とかをしていて、
ぼんやりコンロコーナーの西山君を見に行ったら、
とっくに卵焼きを終えて、村のお母様達に、
テンペ(インドネシアの食材、発酵した大豆食品。)の揚げ方指導を受けていて
油が足りないから取りに行ってこい!
と言われているところだった。
西山君が、じゃあ、恩蔵さんこれ見ていてください、とまかせてくれて、
油を取りに行ってくれた後、
私は村のお母様達をひやひやさせながら、
テンペをひっくり返してはびしゃーっと油を飛ばし、しかめつらされ、笑われ、
最後まで面倒を見てもらって、
「パレ!」というお母様の号令が、「ひっくり返せ!」という言葉だということだけはしっかり覚えたし、
テンペだけはちゃんと揚げられるようになって帰ってきた。
6枚揚げて、かなでさんと西山君のところをどうしてるかなと眺めたら、すごかった。
寿司の威力絶大。お寿司様、という感じ。

奏さんの指導でお母様達子供達が手伝って巻きすで巻いて巻いて、
巻いたそばから、売れていく。
子供の手があちこちからのびて、一瞬も休まることのない大戦場だった。
かなでさんは、超絶きりっとした顔をして、話しかけるのが本気で怖かった。
寿司マスターとして殺伐とした(うそ)見事な仕事ぶり。
台を常に綺麗に保ち、また仕上げていくことに、周りの女性からため息が漏れていた。

そのときだけは、ただ立っている私にもちょうだいちょうだいと声がかかる。

そんな中ひときわ目立つ女の子がいた。
12歳といっていただろうか。
表情が特別だった。
ダンスをやっているというからか、神がかったような特別な目の動きをする。
彼女に誘われるまま村の中を歩いた。

村の中には子供達が描いたいくつもの大きな布絵が立っていた。
これは鬼の話で、彼女はこのあと、このいくつもの布絵の間で行われる劇に、
鬼よりもずっと賢い天狗役で登場するのだという。
インドネシア語と英語を駆使して一生懸命説明してくれる彼女に対して
一生懸命うなずく私。
鬼が村のチキンをすべてさらってしまったとき、落としていった黄金の歯の話。

ものすごく賢いladyとして最後まであきらめずに細かく説明してくれた後、
じゃあ私はうちにいって支度をしてくるからね、といって彼女は手を振った。

何はできなくても、こうして面倒を見てくれる人たちに会えるから素晴らしい。

かなでさんと西山君と合流して、すこしほっとした時間を過ごしたら、
なんだかパフォーマンスが始まった。

わらわらとひとだかりへよっていくと、西洋の音楽集団が笛を吹きバイオリンを弾き、
遠くの方から竹馬に乗った大きな大きな紙の恐竜がやってきた。
子供達の間を軽快にはねる大きな恐竜は、異様で、かっこいい。
ハンガリー人のタマスだった。
タマスはサングラスをかけ、恐竜を背負い、くるくると竹馬の上で踊った。

その後すぐ、例の村中を移動する鬼の人形劇が始まった。
千人くらいいるんじゃないかという観客を引き連れて、大移動。
オーストラリア出身のスーが、ものすごい形相で子供達を引き連れる。
逃げるチキン、歯を落とす鬼。
歯を手に入れて、強大な力を得て家を持ち上げる子供。
歯を盗まれまいとする村人、取り戻そうとする鬼。
演じる人たちも、観客も、押しては引いて。

あの子に会って、you did very well!といったら、ぴょんととびはねI'm beautiful!といって去って行った。

夜が訪れて、
設置された舞台でのパフォーマンスが始まった。
人はどんどん増して、何千人にもなっただろう。
村にござがどんどんひかれて、もうくたくたで、座れる場所があるのがほんとに嬉しかった。
主催者のリアやアニャはもう声がでなくなっているのに、それでも舞台に立っていた。

劇場も芸術も科学もまったく関係なくなった場所。
ただの村。暗闇の中、何千人もの人が集まって、みんな一人のただの人になって、
インドネシア語のお茶の間コメディーみたいなものすごい劇を
ぎゅうぎゅうに座りこんで目撃した。
一切通訳はないけれど、あんなに大きな、土が揺れるような笑い声をわたしは初めて聞いた。
みんな、笑い袋かと思うくらいに笑う。たがをはずして笑う。
私も一切内容がわからないのにおかしくておかしくて笑う。

目の前をいくつもの鬼が通り過ぎていった気がした。
いくつもの鬼が集まっている気がした。
いくつもの鬼を目撃した気がした。

アメリカも、イギリスも、ハンガリーも、インドネシアも、アフリカも、Kepek村も、日本も、
世界中どんな場所も、人類が同じだけの時間を過ごしてたどり着いた一つの場所。
ああ、なんでもなくなった、鬼を見た、そんな恐ろしい一夜だった。




Monday, 22 December 2014

Pesta Boneka (2)リースのこと

マンデラさんの追悼式典でのオバマさんの手話の通訳を担当した人が
偽物だったというニュースはずっと心に残っている。

厳しい審査があったはずで、絶対にミスはありえない、という場所に限って、
そういうことが起こる。

その人の手話は、本当にダンスのようで素晴らしかった。

こういうことがあると、自分が小さな時のことを思い出す。
例えば通訳になりたいな、と思ったことがあったこと。
でも実際は、自分は英語の特別な訓練や、通訳の訓練を全く受けることなく、
科学の分野で英語のトレーニングをして、
その縁で、たまたま翻訳の仕事をさせていただいたこと。
これだってあの手話の人とおんなじと言ったらおんなじだと思う。
(手話の人のダンス自体が素晴らしいというところには私はたどり着けていないのだけど。)

世界にはそういうことが起こりうるということは私にとっては単純に希望なのである。

今回のPesta Bonekaだっておんなじだ。
通常の人形劇団体だったら、Pesta Bonekaへの参加はどのくらい難しかっただろう。
今回は奇跡のような出会いと努力が重なって、なぜか私も人形劇の場所に立たせてもらった。

いつだって、どうして自分がここにいるかわからない、という感じがする。

あんまりにも不安で、前日かなでさんに自分の内容を確認してもらおうと思ったら
彼女も忙しくて喧嘩になった。
でもかなでさんは、多分、全て自分で決めて最後までやるってことを、
私にやって欲しかったんだろうと思う。
許可なんかとらなくていいからやってごらん、っていうことだったんだと思う。
そして実際そうできたことに、私は今とっても感謝している。

ーーーーーーーーーー
私はリースという人に、私のやることを見て欲しかった。
前回インドネシアに行ったとき、かなでさんはアーティストとしてリースの施設で滞在して、
私はかなでさんの友人として一週間ちかくお邪魔した。
そのとき私はただの友人で科学者で、リースにとってはあまり接点のない人物として存在した。
それでもかなでさんと一緒に常にお世話してもらえて本当に感動したのだけれど。
印象的だったのは、かなでさんと一緒にあるアーティストの家を見せてもらいに行った時。
あまりにも素敵な家だったので感動していて、
その家でもやはりアーティストを滞在させているという話になったとき、
「あなたもここに滞在したいなら、まずアーティストになることね」
といわれた。
当たり前の発言なのに、ずきりと傷つく自分がいた。

どうしてアーティストじゃなきゃいけないの?

でも、確かに私はリースに自分のことを話すという努力をしなくて、
話したところでどうしたってリースの描く人とは違うのだろうけど、
なんだか幽霊のような存在として1週間過ごしてしまったことをずっと後悔していた。

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秋に名古屋で授業をやっていたとき、
やっぱりそこでも、私はその大学の教師ではなく、
その授業のためだけにその日やってきた人間なのだけれども、
1時間半まとめて一つの話をしたら、
なんとなく「誰だかわからない」というみんなの間の緊張がとけるんだ、
ということを実感した。

言わなければなんだかわからないのは当然だし、
言って、もう隅から隅までわかる親友、みたいになるわけじゃなくても、
ただまとめて話すだけで、
「あ、なんとなくそーゆーひとね」と
人と人との緊張がとけるということ。

わたしはもう、幽霊のように存在するのはいやだ。
その場になにか作りたい。

自分にそんな変化が起こった秋だった。
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リースは、実際に、私がspoken poetryをやっている間、すっぱいような顔をして、
ずーっとずーっと見ていてくれた(写真を見せてもらったところによると)。
その後やっぱりそのことについて話すということはできなかったけれど、
それは一つとっても嬉しいことだった。