ジョグジャカルタで行ってみたいと思っていたところは大体行ってしまったな、
と思って、
明後日には飛行機に乗らねばならないので、
実質最終日の明日、どんなところだったら行けるだろう、と考えていた。
少し、遠くなるけれども、隣町ソロの郊外に、気になる遺跡があった。
イスラムでも、ヒンドゥーでも、仏教でもなく、
土着の自然信仰が、それらの宗教の影響を受けて15世紀に建てられた遺跡だという。
ガイドブックには、山を登り詰めた場所にあって、マヤ文明のようだとか、書かれていて、
写真を見ると、確かにそれまでに見た遺跡とは雰囲気が全然違っているように感じられた。
奏さんは、その夜の内に、それまでに出会ったタクシーのドライバーにメイルをして、
朝早く家を出られるように手配をしてくれた。
タクシーは12時間貸し切りということで、
どんな場所に行くかによって、いくら、という交渉をすることができたのだった。
たどり着けるかな、、、行けると良いな、、、行けたとしても、どんなところなんだろうな、、、心配になりながら眠った。
いままでのタクシーのおじさんは、都合が悪かったので、別のお兄さんを紹介してくれたようだった。
お兄さんが、朝9時に時間通り、顔を出してくれて、すぐ、心配なことを聞いてみた。
「実は、このCandi Ceto(チュト寺院)というところに行きたいんです。あとできれば、その側にあるという、Candi Sukuh(スクー寺院)にも行けたらいいと思っています。でも、今日中に帰ってこなければならない。可能だろうか。」
「しかも、もしも、可能だったら、夜には、ジャワダンスとか、人形劇をこのジョグジャカルタで見たいと思っているんだけれども・・・・」
「片道3時間半はかかるね。」という返事だった。
そんなに遠くまで行くとは思っていなかったようで、
ちょっと詰め込みすぎだし、何かはあきらめてくれよ、というお兄さんのことを
もっともだと思って、
とにかく、チュトに向かってもらった。
最初は、話がちがう!といらいらした様子だったお兄さんも、
走っている内に、話がまとまってきて、
トイレとか、写真撮りたい所があったら、とまるからいつでも言って。
あれが、何々だよ。
と、なんだか優しいお兄さんになっていった。
隣町のソロまでジョグジャカルタから二時間、
そこから更に一時間半みたいな感じらしかった。
ソロは、なんだか大都会だった。
みたことのある企業の建物がいっぱいあって、
ショッピングモールなんかもおっきいのがどーんとあって、
ジョグジャカルタとは随分ちがうなあ、と思った。
ジョグジャカルタの人達が、すごく自分たちの街を愛している様子を思い出した。
でも、そこから遠ざかって、いくつもの田んぼを通り過ぎて、
いつのまにか雲にとざされ全貌がまったくわからない程の山の近くに来て、
景色は茶畑に変わっていた。
これは、ジャワティーだよ、とお兄さんが教えてくれた。
坂が急で、車に負担がかかるから、クーラーを消していいかい?といって、
窓を開けると、
茶畑からなのか、ものすごく良い匂いがしていた。
保護地域なのかなんなのか、車の通行料が必要な地域に入って行った。
山村、という感じである。
ぶるん、ぶるん、がたがたがた、と苦労しながら、車がのぼっていく。
自分たちの登っている山の、奧に見えているあの山はなんなんだろうな。
もう随分登ったのに、はるかかなただ。
道がどんどん細くなって、斜面はどんどんきつくなるのに、
窓から見えるその急激な斜面には、水田や畑が作られていて、人が作業をしている。
それに、ふっときずけば、車の横を、
大きな大きな籠を担いだおばあさんが歩いて登っていく。
おおお、と前を向き直って、
フロントガラスを下からのぞき込むと、その坂の上り詰めたところに、
尖った山を半分に割ったような、あるいは、
ぎざぎざとしたするどい角のような門が、本当に姿良く聳えていた。
チュトについたのだった。
車を降りて、その坂を登って、階段を一段一段門に向かって上がる。
あと二段、というところで、門の間から、全貌が見えた。
あの、道からずーーっと見えていたあの山は、
日本でいうところの、ご神体だったんだ。
あの山のふもとに、この、遺跡が立っていて、
なんて、無駄のない、簡潔な作りだろう。
私の頭の中から、石や、木という違いがまったく消えていった。
ものすごく、親しい風景が広がっていた。
勇気を出して、門を入ってみる。
足元には土の感触。
草が綺麗に刈り込まれていて、
トンボが舞う。
一歩、一歩がうれしかった。
私が今までに見た中で、最も、美しくて、清らかな、場所だと思った。
小さくて、かわいい、化石のような彫り物が石に彫られて、
土の中に埋まっている。
例えば、蟹。カブトガニ。ナマズ。
それから、大きな亀の石像。
ここはいったい何処なんだろう、と思う。
ここで、インドネシア人の、男の人3人と、若い女の人1人とすれ違って、
挨拶を交わした。
良く見れば、女の人だけ、裸足だった。
また、少しの階段を上って、
山を半分に割ったような門をくぐって、
次の段に向かう。
小さな小屋に、神様の像が、道を挟んで左右に一体ずつおさまっている。
そこで、さっきの女の人が、お線香を持って、お祈りをしていた。
男の人は後ろで見守りつつ、一度、神様の像のお腹に両手で手を当てて目をつむった。
ああ、この人達は、きっと夫婦で、
赤ちゃんができたんだな、と思った。
あっちの人はお父さんで、もう一人の男の人は神主さんみたいな人だろうと思った。
彼らは左右の神様の両方にお祈りをして、
また、その先にある、例の形の門をくぐって静かに静かに上に向かっていった。
私は邪魔にならないように、すこし時間をあけてから、上にのぼっていった。
その上にもやっぱり、左右に一体ずつ神様がいて、
多分彼らは、さっきと同じように両方にお祈りをした後、
右に作られた小屋に入っていったようだった。
戸が開いていて、
彼らが座って祈っているのが見えた。
真ん中には白い布をかけられた像のような物があった。
しばらくすると、神主さんのような人と、おだやかな会話が始まった。
場所がそうさせるのだろうか、
私は全く言葉は分からないけれども、ほんとうに穏やかな、あたたかい会話だと思った。
私は、
お腹に赤ちゃんが出来たら、お母さんは、無事に生まれてきて欲しいと願うだろう、
そういうすごく当たり前の、お祈りがささげられていることに、
なんだかものすごく感動してしまった。
自然信仰って、こういうこと。
誰でも持ってるお祈りの気持ち。
私と奏さんはそれぞれのリズムで随分長い時間この場所を過ごし、
蟹やかぶとがにのレリーフのところで合流すると、
奏さんが言った。
「どうみても海だねえ。」
その通りだな、と思った。